お竜は、いつも龍馬の肩口にぷぅかりと浮いている。
ふよふよと漂い、顔の位置を揃えて、たまに甘えるように龍馬の肩に頭を乗せる。
そんな時、龍馬は軽く手を上げて、長く垂れる艶やかな黒髪を撫でてくれたりもするのだけれども。
「リョーマ」
「うん? なあに?」
「リョーマ」
「なあに、どうかしたかい?」
「リョーマ」
「お竜さん?」
訝し気な、それでいて気づかわし気な声がお竜の名前を呼ぶ。
お竜はそんな龍馬の声が好きだ。
大好きだ。
低くて、優しくて、穏やかで。
ちゃぷりちゃぷりと寄せては返す波の音にどこか似ている。
「リョーマ」
「何かあったのかい?」
「…………」
「お竜さん」
すっと伸びた大きな掌が、お竜の頬に添えられる。
優しい所作で、それでも引き寄せられて視線が重なる。
「どうしたの」
子どもに問うような声音に、ああ好きだと何百回、何千回とこれまでに覚えてきたのと変わらない愛着と安堵を覚える。
「お竜さんな」
「うん」
「リョーマの声も好きだぞ」
「えっ、急にどうしたの」
「リョーマに声が聞きたくなっただけだ」
それだけ言って、くるりとお竜は身をひるがえす。
美しい魚のひれのように黒いプリーツのスカートの裾がなびき、さきほどまでお竜が顔を寄せていた龍馬の肩口にはちょんと鮮やかなピンクのつま先が触れている。
そこからそうと屈んで、お竜は龍馬の首裏に顔を寄せた。
ふす、と吐息がかすめたのかくすぐったいよと笑う声がして、龍馬の白手套に包まれた手の甲がうなじを隠してしまう。
「リョーマはケチだな」
「何が!?」
ふん、と息を吐いて、お竜はまたぷうかりと龍馬の頭上に浮かぶ。
鼻先をかすめたのは整髪料の香と、ほのかな汗のにおい。
体温の高い首筋からは、龍馬自身の匂いがする。
なあ、リョーマ。
声には出さずに、お竜は小さく心の中でつぶやく。
ニンゲンが、ないていたんだ。
大好きな人の、大好きだったはずの人の声が思い出せない、と言って。
ニンゲンが、教えてくれたんだ。
人は誰かを忘れるときに、その声から忘れていくのだと。
忘れたくないなあ、と悔しそうにあのニンゲンはないていた。
なあ、リョーマ。
お竜さんはリョーマが死んだ後、ずっと海の底で眠っていた。
寂しくはなかったぞ。
ずっと、リョーマの声がしてたからな。
どうどうと低く柔く響く波の音がリョーマの声のように聞こえたんだ。
でもきっと、あれはリョーマの声じゃなかったんだな。
お竜さんもきっと、忘れていたんだ。
本当のリョーマの声を。
「リョーマ」
「はいはい、なんだい?」
リョーマの声だ。
お竜さんの大好きな、リョーマの声だ。
これが、リョーマの声だ。
「あのな、お竜さんな」
「うん?」
「忘れないからな」
「何を!?」
リョーマの声も。
リョーマの匂いも。
リョーマという男の駆け抜けた一生を。
人はだれか忘れるときに、その声から忘れていくのだという。
そして、最後まで記憶に残るのはその香なのだと。
すん、と鼻先を首裏に寄せて、いつかと変わらぬ香に泣きだしそうに小さく眉根を寄せて、それでもまつろわぬ神は、「リョーマ」と愛しい人の子の名を呼ぶ。
