坂本探偵事務所奇譚

 それは夏休みに入る少し前のこと。
 小学校に上がって四回目の夏を迎える音無勇樹は、いつものようにランドセルを背負って通学路を歩いていた。
 あといくつか数えれば夏休み、というこの時期、自然と周囲の空気はそわそわと浮ついたものになる。
 そんな中、何故だか勇樹の気持ちは塞いでいた。
 理由はわからない。
 なんだかどんよりと重い石の塊でも呑み込んでしまったかのようだ。
 つい昨日までは、勇樹だって夏休みに入ったら何をしようかだとか、楽しく考えを巡らせ、そわそわと浮ついた空気を漂わせるこどもの一人だったはずなのに。
 今朝は目覚めた時からなんだか気持ちが浮かなかった。
 何か大切なことを忘れているような気がした。
 何かしなくてはいけないことがあったような気がした。
 今日はあてられる日だっけ、宿題は済ませたっけ、と朝からばたばたとランドセルをひっくり返した勇樹に母親は訝し気な顔をしただけだった。
 日ごろは何かと口うるさい母親も、勇樹に「~~しなさい」とも「~~を忘れてるわよ」とも言ってはくれなかった。
 だからきっと、何もないはずなのだ。
 勇樹が不安に思ったり、焦るようなことは何もないはずなのに。
 それなのに、得体のしれない不安と焦燥だけがぐるぐると勇樹のおなかの中で重い石のように凝っている。

「おい、勇樹!」
「あ、尊。おは、」

 背後からかけられた声に、勇樹は「おはよう」と応じようとして、一拍遅れてとんでもない違和感に襲われてギクリと身体を強張らせた。

「勇樹?」
「……………」
「おい勇樹、お前顔色わりーぞ。大丈夫か?」
「……う、うん」

 心配そうに勇樹の顔を覗きこむのは、幼馴染の廿楽尊だ。
 勇樹よりも少しばかり背が高く、また体つきもしっかりとしている。
 外で遊ぶよりも部屋の中で本を読んでいることを好むような勇樹に対して多少の意地悪もするが、その一方で何かと勇樹の手を引いてくれる頼れる存在でもある。
 家が近所なこともあり、こうして通学路で出会うのは別段珍しいことではない。
 そのはずなのに、今のやりとりの中に見逃してはいけない決定的な違和感があったような気がして、勇樹の心臓はバクバクと弾む。

「ねえ、尊、僕、何か大事なこと忘れてないかな」
「はあ?」
「何か、忘れてる気がするんだ」
「さあ、俺は知らねえけど。宿題は?」
「やってる」
「今日あてられるとか?」
「一昨日あてられたばっかりだからないと思う」
「じゃあ気のせいなんじゃねえの? あ、俺は宿題やってないから後で写させてくれ」
「また?」
「いいじゃん、減るもんじゃないし」

 そう言ってからからと笑う尊を見ていると、全ては気のせいで、何も忘れていないし、しなければならないことなど何もなかったのだというような気がしてきて、勇樹は微かな安堵ともにほうと小さく息を吐く。

「ほら、さっさと行くぞ」
「うん!」

 促されるままに、勇樹は先をいく尊を追ってぱたぱたと通学路を駆けた。

■□■

 尊と出会ったことで一度は薄れた違和感だったはずなのに、それは学校につき、授業が始まるとより強くなっていった。

「じゃあ次の問題を出席番号14番」
「はい」
「……あれ? 間宮、お前、14番だったか?」
「え? 私が14番ですけど……あれ? おかしいな。あれ? 私15番だった?」
「えー15番は私……だよね?」
「あれえ?」

 出席番号を巡ってざわざわとざわめくクラスメートたち。
 クラスの半数ほどの女子が、自分の出席番号に違和感を覚えているようだった。
 そのうち誰かがふと気づいたように口を開く。

「このクラスって何人いたっけ」
「女子17人、男子18人の35人だろ?」
「あれ? そうだっけ?」
「他のクラスは男女18人の36人だからなあ」
「なんでこのクラスだけ35人なんだろうね」

 そんなざわざわとしたおしゃべりを聞きながら、勇樹は血の気の引くような感覚を味わっていた。
 朝から感じている違和感の正体に気付いてしまったからだ。
 一人、足りない。
 皆が気づいていて、皆が気づいていない。
 何かがおかしいと皆思っているのに、どうしてだかその答えには至らないようだった。
 当たり前だ。
 昨日までいたクラスメイトが突如姿を消した上に、誰もそのことを覚えてないなんて馬鹿な話を誰がまとも信じるだろう。
 でも確かに、ぐるりと周囲を見渡してみれば誰も座っていない空いた机がぽつんと不自然に教室の片隅に置かれているのだ。
 もしも最初からこの教室に35人の生徒しかいないのであれば、とっくに片づけられてなくなっているはずの机が。
 ずきずき、と頭が痛み始める。
 座っているのに自分の身体の重心がどこにあるのかわからなくなるような、目眩にも似た不快感に目の前がチラつく。
 そして。

「おい勇樹、お前、顔色悪いけど大丈夫か?」

 そう、幼馴染みである尊に気遣わしげに声をかけられた瞬間。
 ふつ、とそのよくわからない違和感と具合の悪さとが限界を超えて、気づけば勇樹はガタリと大きく椅子を鳴らして立ち上がってしまっていた。

「違う、勇樹じゃない……!」
「……は? おい、勇樹、」
「僕は、勇樹じゃない。尊は僕のこと、そんな風には呼ばなかった!」

 一息にそう口にして、それから一拍遅れて勇樹は自分が何を口にしたのかを自覚してハッと息を呑んだ。
 そうだ。
 そうなのだ。
 この幼馴染みは。
 尊は勇樹のことを「勇樹」とは呼ばなかった。
 何故なら他にもう一人、「ゆうき」がいたからだ。

 ―――広瀬由貴。

 それが彼女の名前だ。
 勇樹と、由貴と、尊。
 本来はこの三人が幼馴染みだ。
 紅一点ながら由貴は三人の中で一番すらりと背が高く、腕っ節も強かった。
 身体を動かすことが苦手な勇樹が尊に意地悪されていると、いつだって由貴が庇ってくれたものだ。
 だから尊は、由貴の方を「ユーキ」と呼び、勇樹の方を「ゆきちゃん」と呼んでいた。
 勇樹はそれがもどかしくて、悔しくて、尊にちゃんと「勇樹」と呼ばれたかった。
 自分だって男で、自分こそが「勇樹」なのだと認められたかった。
 だから。
 ああ、そうだ。
 だから、勇樹は。

「どう、しよう」

 思わず、細い悲鳴のような声がぽつりと漏れた。
 周囲のクラスメイトたちが一体何事かという目を勇樹に向けているが、今はそれを気にする余裕はない。
 どうしよう、どうしようと呟き続ける勇樹の手を尊が取る。

「先生、こいつなんか具合悪そうなんで保健室連れて行っていいですか!」
「あ、ああ。大丈夫か、音無。先生がついていこうか?」
「大丈夫です、俺が連れて行くんで」
「何かあったら連絡しろよ」
「はい」

 そのままぐいぐいと尊が勇樹の手を引っ張って教室から連れ出してくれる。
 勇樹の身体はどこもかしこもギクシャクと強張って、歩き方すら忘れてしまったかのようだ。
 廊下に連れ出されて、教室から少し離れたところで尊は足を止めた。

「大丈夫か、勇樹」
「……違う」
「え?」
「ゆきちゃん」
「は?」
「ゆきちゃんだよ、ゆきちゃん! 尊は僕のことそう呼んでただろ!」
「はあ……?」
「それで由貴ちゃんのことを、ユーキ、って呼んでた! 僕よりずっと勇気がああって男らしいからって。由貴の方がよっぽどユーキだ、っていって!」
「まてまて落ち着けって、お前がゆきちゃんでゆきちゃんがゆうき?? お前の言ってること全然わかんないぞ!?」
「だから僕は勇樹だけど、女々しくておとなしいからお前はゆきちゃんだって! 尊がそう言ったんだ、なんで忘れてるんだよ! なんで誰も由貴ちゃんのこと覚えてないんだよ!!」
「わかるように話せよ馬鹿! あと声でけえよ、先生たち来ちゃうだろ!」

 ぐいっと乱暴に手を引かれて、勇樹は物陰へと引っ張り込まれる。
 確かに今は授業中で、廊下で大声を出していれば何事かと先生たちが様子を見に出てきてしまうだろう。
 勇樹は叫び出したい気持ちをなんとか抑えて、興奮にふぅふぅと荒くなった呼吸を落ち着けようと深呼吸を繰り返す。
 そんな勇樹の肩に手を乗せて、尊がまっすぐに勇樹の顔を覗きこんだ。
 乱暴なところがあって、勇樹に意地悪をすることも多いが、なんだかんだ尊は頼りになる幼馴染みだ。

「俺にもわかるように話せって」
「……っ、う、うん」

 ゆっくりと、勇樹は口を開く。
 勇樹としても、未だ完全に記憶に整理がついたわけではないのだ。
 ただそれでも、勇樹は思い出した。
 広瀬由貴という幼馴染みの少女の存在を、思い出した。
 そして、彼女に何があったのかも、漠然と。

「尊、お化けの話、覚えてる?」
「お化け……、って、あの女の話か? 誰もいない学校に出るっていう」
「うん」

 勇樹たちの通う学校にて、つい最近になってから囁かれるようになった怪談だ。
 何でも、放課後の人気の少なくなった頃、もしくは誰もいなくなった夜の学校の廊下に、異形の女が現れるというのだ。
 その女は天井から逆さに垂れ下がっている、だとか、三階の窓に外側から張り付いて中を覗きこんでいる、だとかまことしやかに語られている。

「僕、由貴ちゃんとその噂を確かめにいったんだ」
「……お前が?」
「うん」

 勇気のあるところを見せたかったのだ。
 勇樹の両親は勇樹に「勇気のある強い男の子に育ってほしい」という願いを込めて「ゆうき」の音を名前に込めたのだという。
 それなのに実際の勇樹は臆病で運動も苦手で、幼馴染みの尊にも「ゆきちゃん」なんて呼ばれる始末だ。
 だから、「ゆきちゃん」ではなく「ゆうき」なのだと認められたくて、勇気があるのだと証明したかったのだ。
 そのために昼のうちに夜の学校に忍び込むための侵入口を用意しているところを由貴に見つかり、勇樹の度胸試しに由貴がついてくることになってしまった。
 本当は、一人でやりたかったし一人でやるつもりだった。
 由貴がついてきてしまえば、「やっぱり一人じゃ怖かったんだろ。由貴がいないと何にもできないんだなお前」なんて小馬鹿にされるのは目に見えていたからだ。
 けれど、一緒につれていってくれないなら大人に言いつける、なんて言われてしまえば由貴を連れていかないわけにもいかなくて、結局勇樹は由貴と一緒に夜の学校に侵入することになった。

「最初は、何もおきなかったんだ」
「おう」
「僕と由貴ちゃんとで校舎をぐるりと一周して、何も起きなかったけど夜の学校に行ったことを証明するために写真を撮ろうとしたんだ」

 声が、震える。
 由貴がスマホを取り出して、勇樹は胸を張ってピースをして見せた。
 明日この写真を見せたら、きっと尊も自分を見直すだろうと思ったのだ。
 けれど、そんな勇樹のドヤ顔はすぐに引き攣ることになった。
 笑いながらスマホを構える由貴の背後に、だらりと垂れ下がる女の腕があった。
 「由貴ちゃん!」と思わず叫んだ勇樹に、何事かと由貴が振り返るのと、その腕が由貴の頭をつかんで空中に持ち上げるのはほぼ同時だった。
 青白い女の腕に絡めとられて虚空に攫われながら、由貴が最後に叫んだのは「逃げて勇樹!!!」という勇樹を気遣う言葉だった。
 そのまま由貴の姿は見えなくなって、ぽとりと由貴の履いていた靴の片方だけが廊下に落ちていた。

「……僕、逃げちゃったんだ。由貴ちゃんのことを見捨てて、逃げた」

 ぎゅ、と噛みしめた唇の間から呻くように勇樹は漏らす。
 それからどうやって自宅に戻ったのかを勇樹は覚えていない。
 気づいたら布団の中にいて、全部が悪い夢だったような気がして、それでも怖くて怖くて仕方がなくて、布団の中でガタガタ震えていた。
 そしてそのうちいつの間にかうとうとと微睡み、次の日の朝目覚めた時にはもう勇樹は由貴のことを覚えてはいなかった。
 勇樹だけではない。
 皆が、由貴のことを忘れていた。
 由貴を含めて36人いたはずのクラスの人数は女子が一人減って35人ということになってしまっていたし、皆わずかな違和感こそ覚えていたようだったが、それでも誰も由貴について触れようとはしなかった。
 まるで最初から存在しなかったかのように、きれいに由貴のことだけを忘れしまっていた。
「ねえ、尊、本当に由貴ちゃんのことを覚えてないの?」
 勇樹に縋るような目を向けられて、尊はうううんと喉の奥で唸る。
 正直な話、勇樹の話にピンと来るようなところはなかった。
 自分たちに幼馴染みがもう一人いる、なんて言われてもそんな人物が本当に存在するのか、尊にはわからない。
 いるのだと言われればいたような気もするし、勇樹がそう思い込んでいるだけだと言われればそれでも納得することが出来る。

「尊……」

 泣き出しそうな声で名前を呼ばれたのを、尊はへ、と笑い飛ばしてやった。

「俺には、わかんねえ。でも、お前がそこまで言うならそんなんだろ。俺はお前を信じるよ」
「ッ、ありがとう、尊!」

 ようやく理解者を得た、というように勇樹の顔に嬉し気な笑みが浮かぶ。
 けれどそれはすぐに悲壮な覚悟によって曇った。
 眉尻を下げて、今にも泣き出しそうな顔をしながらそれでも勇樹はきゅっと口元をへの字に引き結ぶ。
 
「僕、由貴ちゃんを助けにいくよ。僕が、助けなきゃ」

 それはまるで自分自身に言い聞かせるような声だった。
 尊は確かに、勇樹が言うような由貴というもう一人の幼馴染のことを覚えてはいない。
 けれど、今目の前にいる自分より幾分と小柄な幼馴染が怖がりなのは知っている。
 だから、その肩をぽんと叩いてやった。

「……それなら俺もついていってやるよ。お前じゃ頼りにならねえもんな、ゆきちゃん」

 意地悪く。
 勇樹が己はそう呼んでいた、という名前で幼馴染みのことを呼ぶ。
 なるほど。
 その響きは確かにしっくりと尊の舌先に馴染んで、勇樹の言うことはやはり本当のことなのかもしれないと改めて思わせられるのに十分だった。
 
 

■□■
 

 夜になって、二人は校舎の裏門の前で待ち合わせた。
 持ち物は懐中電灯と、何か武器になりそうなもの、だ。
 勇樹には心当たりがなくて、結局手ぶらになった。
 尊の方はといえば、背に竹刀を背負っている。
 閉ざされた鉄の門扉は素直に乗り越え、校舎へとは昼のうちにこっそり開けたままにしておいた窓から侵入する。
 すぐにでも懐中電灯をつけてしまいたくなるが、外から見える廊下側ではまずい。
 なので二人してしばらく暗闇に目が慣れるのを待って、それからそろそろと移動を開始した。

「なあ、その女が出たっていうのはどの辺なんだ?」
「南校舎の階段の下あたりだよ」
「こっから近いな」
「うん」

 そのつもりでこの場所を選んだんだもん、と言う勇樹の言葉を聞きながら、尊は背中に背負っていた竹刀を手にとる。
 小学校に入ってから始めた剣道も今年で四年目だ。
 高学年の部に上がって少し練習量はきつくなったし、そのお陰で随分と強くなることができた、と尊は自負している。
 実際、最近では格上の年長者からも一本を取ることが出来るようになってきている。
 勇樹の言うようなバケモノ相手にどこまでやれるかどうかは不安しかないが、それでもないよりはマシだ。
 ぎゅ、と強く竹刀の持ち手を握りしめて、尊は勇樹の言う南校舎の階段を目指して歩き始める。

「僕たちはこの辺りで写真を撮ろうとしたんだ。あの窓から帰る前に」
「ああ、そっか」

 夜の学校を二人で探索して。
 その帰り、出口の近くできっと少しばかり気も緩んで。
 証拠写真をとって、さあ家に帰ろうというタイミングで、そのバケモノは現れたのだ。
 今回もその場所にソレはいるのだろうか。
 竹刀の柄を握る手にじっとりと汗をかきながら、お守りに縋るように握りしめる。

「行くぞ」
「うん」

 そんな言葉を短く交わして、問題の場所へと続く角を曲がって――
 どん、と。
 そんな衝撃が先頭を歩いていた尊の下腹のあたりを襲った。

「うわ!?」

 思わず驚きの声が上がる。
 不意打ちの衝撃にバランスを崩して尻餅をつきながら、咄嗟にその衝撃の正体を抱えるように腕を回したのは尊が小さな子どもの取り扱いにある程度慣れていたからだ。
 休みの日に尊がたまに顔を出す剣道の市民サークルには、まだ小学校にも上がらぬような幼児もちらほらいる。
 この衝撃は、下手をすると視界に入らぬほど小柄な子どもに体当たりを食らったときのものによく似ていた。

「尊!?」
「大丈夫だ!」
「なんじゃあ!」

 三者三様の声が上がる。
 とりあえず逃がさないようにとその声の主の布地を竹刀を握るのとは逆の手でしっかりと手繰って、それから尊は上身を起こして己の腹の上に乗るものを見た。
 それは、低学年か、もしくは小学校に入る手前の幼児ほどの子どもだった。
 黒くもっふりとした癖のある髪を高い位置で結い、何故か見慣れぬ和装をしっかりと着込んでいる。
 とはいえ七五三や何かの行事で着るようなきらきらとした美しい着物ではなく、その子どもが着ているのは裾のほつれた、日頃から着ているのがわかる生活感の滲んだものだ。

「お前いったい、」

 なんなんだ、と聞くより先にキッとその子どもの月の色をしたまろい眸の眦がキツくつり上がって、声変わりもまだな可愛らしい声がキャンキャンと吠えた。

「おまんらこがあな時間に何しちゅう! 童が出歩く時間じゃながぞ!」

 どこの訛りだろうか。
 尊や勇樹の使う標準語とは異なるリズムでもって放たれる言葉は、随分と二人の耳には新鮮に響いた。
 が、問題は内容だ。
 二人の聞き取りが確かなら、この子どもはまるで大人がするかのように二人がこの時間に校舎に忍び込んだことに対して怒って見せている。
 自分はどうなのだ、というツッコミは当然だ。

「お前だって子どもだろ! ってか俺たちより年下の癖に!」
「誰が童じゃあ!? わしを馬鹿にしゆうがか!」
「まってまって落ち着いて!」

 ぎゃあぎゃあと喧嘩になり始めた尊と子どもの間に、勇樹は慌てて身を割り込ませる。
 こんなに大騒ぎをしていては人に見つかりかねない。
 由貴を助けにきたのに、その前に大人に見つかってしまっては大問題だ。
 きっともう校舎には忍び込めないようにされてしまう。
 そうなったら、もう由貴を助け出すことはできない。
 なんていったって、もう由貴のことを覚えているのは勇樹しかいないのだ。

「そんな大声で騒いでたら、大人に見つかっちゃうよ!」
「ぐ」

 大人に見つかってまずいのはその子どもも同じだったようで、唇をぐっとへの字にしつつも口を噤んでくれた。
 それから渋々といったように息を吐いて、改めてその子どもは尊と勇樹に向かって口を開いた。

「……おまんら、こがあな場所で何しゆう」
「……僕、たちは」

 勇樹はぽつぽつと語る。
 昨夜由貴という名前の幼馴染の少女と一緒に肝試しで訪れたこと。
 由貴がバケモノに攫われてしまったこと。
 そして、誰も由貴のことを覚えていないこと。
 だから由貴を助けたくてやってきたのだといえば、子どもはほんの少し気の毒そうな色をその眼に浮かべた。

「事情はよぉわかった。やき、ここが危ないのはおまんらもわかっちょるろう。すっと去ね。後はわしが何とかしちゃるき」

 声音は幼く、見目も確かに二人よりも幼い子どものものでありながら、その口調はまるで年嵩の兄が幼子に言い聞かせるような響きを伴っていた。
 この子どもなら何とかしてくれるのでは、と。
 そう思わせてくれるような空気をその子どもは確かにもっていた。
 けれど、例えそうであっても、勇樹はここで引き下がるわけにはいかない。
 勇樹は一度、由貴を見捨ててしまった。
 自分がバケモノの腕に攫われながらも勇樹を気遣い、逃げて、と叫んだ由貴を置き去りにしてしまった。
 あんなことを繰り返すのはもう御免だ。
 今度こそ勇樹は勇気を見せなければならない。
 両親のつけてくれた「ゆうき」の名に恥じない男にならなければいけないのだ。

「由貴ちゃんのことは、僕が助けないといけないんだ。僕が、置いていってしまったから」
「そうは言いゆうけんど……」
「第一、お前、どうやって由貴を助けるつもりなんだよ。俺たちだって、お前みたいな子ども一人おいて帰るわけにはいかねえからな」
「誰が子どもじゃ! わしは……ッ」

 尊の言葉に条件反射のように吠えかかった子どもだったが、途中ではッと何かに気づいたように項垂れる。
 それはまるでなんだか、自分が子どもであることを忘れていた、というような風にも見えて、尊と勇樹は顔を見合わせた。
 この子どもはこの子どもで、なんだか事情がありそうだ。

「……わしがこがぁな目にあうのも全部龍馬のせいじゃ……あンのべこのかあ……」

 ぐずぐずと呻く声音は幼くて、への字になった口元がふくふくと柔らかで、やっぱりこんな幼い子どもを一人置いていくわけにはいかない、という気になるものの。
 顔をあげて「えいか」と言葉を続けた子どもはやはりどこか年長者のように大人びていた。

「こがあなナリじゃ信用できやせんのもわかるけんど、わしがなんとかしちゃる。やき、帰っとうせ。おかあも心配するきに」

 「のう、聞き分けとおせ」、と言い聞かせるように響く言葉はその聞きなれない訛りすら含めて酷く優しい。
 その純粋に尊と勇樹を慮っているが故に紡がれたことがわかる言葉に、思わず二人が頷いてしまいそうになったところで―――かさりと聞きなれぬ音がした。
 音の発生源を探して、反射的に尊と勇樹の視線が上を向く。
 何か音がしたから、顔を上げる。
 その行為にはなんの覚悟も伴ってはいなかった。
 ただただ日常の延長のように、反射的にしただけの行動だった。
 だから。
 見上げた先にぶらりと逆さにぶら下がる異形の女がいたのには、二人ともヒィと小さな悲鳴を喉に詰まらせた。
 なまっちろい女だった。
 白く透けるような肌、ではない。
 不健康な濁った白さだ。
 尊と勇樹にそういったものを見た経験があったのなら「死体のような」と評したことだろう。生きた人間のものとは思えぬ濁った肌を露わにした女は、焦点の合わぬ胡乱なくろぐろとした目で三人を見ていた。
 否、見えているのかどうかも怪しい。
 ただその黒目に、三人の姿を映している。
 そしてその腰から下は、もさもさとした毛に覆われた蜘蛛の身体へと繋がっていた。
 一目で毒があるのだろうとわかってしまうような黄色と黒の派手な縞模様をした八つの足が、かさりこそりと天井を這っている。

「あ……あっ」
「……っ」

 勇樹と尊が必死に悲鳴を堪える傍で、子どもはなぜかにんまりと笑ったようだった。
 好戦的な笑みがその柔らかな唇に乗る。

「おんしが怪異か! おとなしゅうわしに喰われえ!」

 そのままたんと踏み込み、天井からぶら下がる女の形をしたバケモノへと跳びかかろうとする。
 その足音、もしくは動くイキモノの気配に反応したのか、ぎゅるりと女の顔が割れた。
 どこを見ているのかわからない双眸の上下に計三対の穴が新たに生じる。
 それが複眼なのだと認識するより先に、勇樹は声をあげていた。

「尊!」
「おう!!」

 悲鳴じみた声だった。
 それでも、尊は勇樹の意図をくみ取り、今にもバケモノに跳びかかっていこうとしていた子どもの腹のあたりに腕を回して抱え込む。

「んぐ!?」

 勢いを殺された子どもが呻く声が聞こえるが、今は気にしてはいられない。

「こっち!」

 先導するように勇樹は駆けだす。
 果たしてあのバケモノに物理法則が通じるのかどうかはわからないが、あれだけ大きな図体をしているのだ。
 細い廊下に飛び込んでしまえば追ってはこれないのではないだろうか。
 少なくとも、多少の時間稼ぎにはなる。
 勇樹は階段脇を抜けて、隣校舎へと続く細い渡り廊下を駆け抜ける。

「ええい離さんかッ、あがな奴、わしが叩ッ斬っちゃる!」
「食われるぞお前!!」
「食われるかばあたれ!」
「二人とも黙って!!」

 せっかく逃げ出せたのに、ぎゃあぎゃあと大声を出していれば自ら居場所を知らせるようなものだ。
 渡り廊下を抜けて、角を曲がってすぐにある理科室の後ろの引き戸をがらりと開けて三人は縺れあうようにして飛び込む。
 べしゃりと背後からやってきた二人の下敷きになるように一度は床に倒れた勇樹だが、すぐに二人を押しのけるように身体を起こしてぴしゃりと引き戸を閉める。

「二人とも、ここ!」

 ほとんど四足で駆けるようにして、理科室の大きな机の足の下に潜り込む。
 理科室の四人がけの机は他の教室よりも広く大きく、椅子をしまうスペースを確保するために中央に太い足が一本設置されているという横から見るとアルファベットのTの形によく似た形状をしている。
 その下に潜り込んでしまえば、廊下側からは三人の姿は見えなくなる。
 そんな子ども騙しのかくれんぼがあのバケモノに通用するのかどうかはわからない。
 それでも暗く狭く、背中を守られた空間に逃げ込めたのだと思えば安堵の息が漏れる。
 は、は、と荒く弾む息を整えているあたりで、かさりこそりと厭らしい音がした。
 天井に張り付いた女が廊下を這いまわる音だ。
 八本の足を蠢かせて、三人の姿を求めて彷徨っている。
 廊下側の窓から月明りに照らされて、三人の隠れる理科室まで伸びる異形の影が、かさりこそりとゆっくりと三人の上を通り過ぎていく。

「ッ……」

 ひくりと喉を鳴らすような音がして、勇樹は隣に目をやった。
 そして、小さく息を呑む。
 いつもなら強気に生意気そうな表情を浮かべている幼馴染が心底怯えていた。
 眉尻は情けなく垂れ下がり、ぎゅ、と食いしばった唇が小さく震えている。
 目元に滲んでいるのは涙だろうか。
 視線を下ろせば、床に力なく付かれた手もかたかたと震えているようだった。
 きっと、勇樹も似たような状態なのだと思う。
 廊下を蠢くバケモノの影がぬらぬらと揺れる度に、今にも叫びだしたいような衝動に駆られる。
 わあわあと叫びながら駆けだして、逃げ出してしまいたくなる。
 けれど、幼馴染の弱った姿を見てしまったからなのか、急に勇樹の気持ちはストンと落ち着いてしまった。
 僕が守らなきゃ、なんて柄にもないことを思ってしまった。
 廊下を過ぎる逆さ女の気配が遠ざかるのを待って、それから勇樹はそろりと机の下から這い出た。

「おい、」
「あのね」

 呼び止めようとする尊に向かって、小さく笑って見せる。
 大丈夫だよ、と安心させるように。

「僕がオトリになるから、二人は逃げて」
「ハァ!? お前、何言ってんだよ!」

 一瞬、恐怖も忘れたように尊の語尾が強くなる。
 いつもならそうやって大きな声で怒鳴られたら勇樹は身を竦ませてしまっていた。
 ごめんね、と尊に謝っていた。
 けれど、今日は違う。
 今日だけは、違う。

「僕が、巻き込んだから。尊は、その子と一緒に逃げて。僕は、由貴ちゃんを助けに行く。助けられなくても、見捨てたりはできないから」
「お前一人で何ができるって言うんだよ、弱虫ゆきちゃんの癖に!」
「うん。でも、ここで逃げたら僕、本当に駄目になっちゃうから」

 弱虫でも。
 由貴を助けることが出来なくても。
 自分がオトリになることで、巻き込んでしまった尊を助けることができたのならまだ上出来だと思ったのだ。
 ぐずりと一度鼻を啜って、勇樹はふにゃりと笑った。

「ついてきてくれてありがとう、尊。巻き込んでごめんね」

 それが勇樹の最後の言葉だった。
 それだけ言うと、ひらりと身を翻して理科室を出ていってしまう。
 残された尊は、呆然と瞬くばかりだ。
 幼馴染の勇樹という奴は、臆病な奴だった。
 何かちょっと大人の言いつけを破ってみようという時にも、怖気づいて「そんなのはよくないよ」なんて言って周囲の空気を悪くするような奴だった。
 怖がりで、運動が苦手で、とろくさい奴だった。
 だから尊はずっと、そんな勇樹のことは自分が守ってやらなければ、なんて思っていたのだ。
 そりゃあ多少の意地悪はした。
 それでも、自分以外の奴が度の過ぎた意地悪を勇樹に仕掛けようものなら、そんな連中はこれまで尊が追い払ってきてやったのだ。
 それなのにそんな勇樹は、今、尊を逃がすためにあんなバケモノを相手にオトリになるといって駆けだしていってしまった。
 絶対敵うわけなんてないのに。

「あんの馬鹿……ッ!」

 腹の底から沸き起こるもやもやをどうしていいのかわからなくて、尊はだん、と足を踏み鳴らす。
 それを見上げて、未だ尊の抱きかかえられたままだった子どもがぽつりと吐き捨てるように呟いた。

「……ああいうやつが一等怖いんじゃ」
「え?」
「なんでもないき、気にするなや。で、おまんはどうするんじゃ。逃げるならおまん一人で逃げえ。わしはあのバケモンに用があるきにの」
「お前……」

 この子どもは、あのバケモノを叩き斬ると言っていた。
 あんなバケモノにわしが負けるかと散々がなりたてた。
 果たしてそれは、本当なのだろうか。
 尊は、この子どもを信じてもいいのだろうか。

「……本当にあのバケモノをやっつけられるのか?」
「なんじゃ、今更わしを信じる気になったんか」
「まだ、信じられない」
「ならおとなしゅう逃げえ」
「でも、勇樹を置いていけるわけないだろ!」

 覚悟を決めてきっと睨みつけるようにして言えば、子どもはヘ、と小さく笑ったようだった。

「よぉ吠えた。ほいたら連れていっちゃる。わしの邪魔はしな」
「わかってる!」

 子どもはするりと尊の腕の中から抜け出すと、振り返って手を差し出した。
 何を求められているのかわからずに尊がぱちりと瞬けば、子どもは焦れたように手をぶんぶんと揺らした。

「ないよりはマシじゃ、その竹刀を貸しとおせ」
「お前、振れんのか?」
「ほたえなや、わしは剣の天才じゃき」

 尊の体格に合わせた長さの竹刀は、子どもの手には余るだろうと思っていたのに、渡してみれば子どもはあっさりとそれを見事な手つきで振ってみせた。
 尊の知っている型とは違うものの、何度か振って具合を確かめる様子は随分と様になっている。

「行くぜよ」

 子どもはニィ、と幼い顔つきに不似合いな好戦的な笑みを浮かべて見せた。
 
 

■□■

 理科室を出て、逆さ女が向かった方へと勇樹はあえて向かっていった。
 足下が震えるほどに、怖い。
 自分があんなバケモノに勝てるわけがないということを勇樹はよくわかっている。
 今度見つかったなら、きっと逃げ切れないだろうということだって、勇樹はちゃんとわかっている。
 けれど、それでも、これは勇樹のやらねばならないことだった。
 昨日の夜、勇樹は幼馴染みである由貴を見捨ててしまった。
 異形の女に捕まり、悲鳴をあげた由貴を置き去りにしてきてしまった。
 もう、そんなことを繰り返すわけにはいかない。
 自分一人では由貴を助け出すことは出来なくても、少なくとも尊は守ることが出来る。
 尊と、あの不思議な子どもは逃がすことが出来る。
 だから、勇樹は今暗い廊下を、バケモノが待ち構えるであろう先に向かって走ることが出来た。

「――ッ」

 いた。
 廊下の先、だらりと天井から女がぶら下がっている。
 長い黒髪は今にも床に届きそうだ。
 勇樹の足音を聞きつけたのか、天井を這う八本の脚がかさこそと蠢いて女が身体ごと勇樹を振り返る。

「僕はここだ! 捕まえてみろ!」

 そう一言叫んでから、勇樹は再び脱兎の勢いで走り出した。
 どこに逃げれば助かるか、なんていうのは考えていない。
 理科室から引き離さすことだけを考えている。
 あの、出入り口となっている窓から遠ざけることだけを、勇樹は考えている。
 ぜいぜいと息をきらして、勇樹は懸命に駆ける。
 だが、残念なことに勇樹はもとより身体を動かすのが得意ではないのだ。
 緊張もあっていともたやすくもつれた足は、遠くまで逃げてなるべく時間稼ぎをしなければという勇樹の思惑をいともあっさりと裏切った。
 何もないはずの廊下で、勇樹は自分自身の足につま先をひっかけて派手に転倒してしまう。

「あっ!」

 勢いがついていた分、打ち付けた膝が酷く痛んで勇樹の動きが止まる。
 痛みに耐えるようにぎゅうと目をつぶり、膝を抱えて息を吐いたそのほんの一時が命取りだった。
 次に目を開けた時には、もうずろろ、と女の青白い腕が勇樹の眼前に迫っていた。

「ひ、」

 小さく絶望の吐息が零れる。
 ぎょろぎょろと蠢く四対の目玉がじぃと勇樹を見ている。

「……っ」

 喉奥で悲鳴が潰れる。
 もう、叫び声すら出てこなかった。
 奥の歯が震えてカチカチと鳴る。
 廊下にへたり込んだまま、勇樹は少しでも逃げようと尻でいざる。
 それを見る逆さ女の顔には表情らしい表情は浮かんでいない。
 獲物を追い詰めた喜びも、勇樹の無駄な抵抗を嘲るような色もない。
 ただただ無表情で、まるでその女の形はただのよく出来たデコイでしかなく、その精神性は人の形とはほど遠い何かであるのだと主張しているかのようだ。
 ぬらぁりと伸びた女の腕が勇樹の頬に触れようとしたところで――

「チェストォオオオオ!!」

 耳をつんざくような高い声と同時に、素早く勇樹と女の間に飛び込んできた小さな影がバキリと鈍い音をたてて竹刀でその女の顔面を打ち据えた。
 女の頭が後方にねじれるように跳ね上がる。
 その隙に誰かが勇樹の腕を強く掴んでずるりと引きずるようにしてその場から少しでも離れさせようとする。
 誰かなど、今更問う必要などなかった。
 腕が抜けそうなほどに痛むものの、その痛みが助かったことを実感させてくれて、ぼろぼろと勇樹の目元から涙が零れ落ちていく。

「たけるううう!」
「この馬鹿、無茶してんじゃねえよ馬鹿!」

 そう怒鳴りつける尊もその顔は涙でぐしゃぐしゃだ。
 お互いに怖くて、怖くてたまらないのにギリギリで踏ん張ってここにいる。

「ごめん、でもだってぼく、ぼく!」
「いいから早く逃げるぞばか!」

 この短い間に幾度となく馬鹿と罵られたはずなのに、不思議とそれが嬉しくて、勇樹は目元をぐいとぬぐって自分の足で立ち上がる。
 そうして自分を助けてくれた子どもも呼び寄せようと口を開きかけて、思わずぱちりと瞬いた。
 刺突めいて繰り出される八本の蜘蛛の足をするする身軽に躱し、元は尊のものであろう竹刀でばちりばちりと蜘蛛女をぶん殴る子どもの姿には当然驚いた。
 わしが斬っちゃる、という言葉はあながち嘘ではなかったのだと思う一方で、それ以上に気になるもの勇樹にはあった。
 おうおうぽっと出の雑魚風情がァ、と高く愛らしい子どもの声音でガラ悪く吠える子どもの頭には、見慣れぬ▲がひょこひょこと揺れていた。
 その腰からもっさりと伸びるのは尾だろうか。
 そう。
 蜘蛛女を相手に立ち回りを演じる子どもには、いつの間には犬科の動物を彷彿とさせる黒の▲耳とふさふさとした尾が生じていたのである。
 なるほど、あの子どももまた「人ではないもの」であるのならばこんな時間にこんな場所にいるのも納得がいるし、幼い子どもの姿でやたら年長者めいたふるまいや言動が板についていたのにも納得ができる。
 蜘蛛と睨みあい、一度少し距離を置いた子どもの金色の双眸がちらりと勇樹らを振り返った。

「しゃんしゃん逃げえ、振り返るんじゃなかぞ」
「で、でも!」
「えいから走りィ!」

 それを最後に、また子どもは竹刀を片手に女の形をした蜘蛛へと突っ込んでいく。
 その姿に、勇樹の胸にじとりと厭な予感が沸いた。
 もしもあの子どもが自分自身で言っていたようにあんなバケモノを簡単に斬り捨ててしまえるのならば、今ここで勇樹らを追い払おうとする必要はないのではないだろうか。
 もしかしたら、単に足手まといになる勇樹たちをこの場から追い払ってしまいたいだけ、なのかもしれないが。
 でも、もしかしたら。
 それはあの子どもが窮地から勇樹らを追い払うための方便なのではないのか。

「おい、勇樹!」

 ぐいと腕を引かれて勇樹はたたらを踏む。
 本当にこの場を離れても良いのか、迷いに足が重くなる。
 そして、そんな勇樹の視界の端で。

「ッぐぅ!」

 蜘蛛の足が、ついに子どもの背を捕らえた。
 しなる太い木の幹のような足が強かに子どもの背を打ち据え、ぽぉんと嘘のように軽やかに子どもの身体が勇樹らがいるのとは逆の方向へと吹っ飛ばされていく。
 ああそうか、と勇樹は思う。
 あの子どもがああも見事なまでに蜘蛛女の攻撃を避け続けていたのは、当たればこうなることがわかっていたからだ。
 あまりにも体格差がありすぎる。
 あまりにも、力に差がありすぎる。
 かよわい子どもの腕では、あの巨大な蜘蛛の攻撃を捌ききれないのだ。
 蜘蛛の形をした暴力に薙ぎ払われた子どもの身体はそのまま硬い床に向かって頭から落ちかけて――

「以蔵さん!」

 低く艶のある男の声が、今は焦りを多大に含んで夜の校舎に響いたのはそのタイミングでのことだった。
 そして男は迷わずに駆けつける勢いそのままに、だんと革靴で床を蹴る音を響かせ、子どもの落下地点へと身を捩じ込むように滑り込む。
 それはまさに今その子どもに向かって追撃をかけようとしている異形の女の眼前に身を投げ出す行為に等しいわけなのだが、男の行動には躊躇いらしい躊躇いは一切なかった。
 腕内に逆さに飛び込んできた子どもの身体をしっかりと抱き留めつつ、滑り込んだ勢いでそのまま上身を起こして膝を立て、身軽に横に跳ぶ。
 蜘蛛の足が男のいた場所をずだんと踏み抜くのとそれはほぼ同時だった。

「お竜さん!」
『任された!』

 応じる女の声は一体どこから響いたのか。
 呆然と目を瞠る勇樹と尊の目の前でずるりと男の影が蠢く。
 窓から差し込む月明りに照らされ、床に落ちていた男の影がずぞぞぞぞと蠢き、平面から立体へと鎌首を擡げて現実を侵食する。
 それはぬらりと美しい鱗を持つ巨大な黒蛇であるかのようだった。
 逆さの子どもを抱いたままの男を守るように蛇身をくねらせ一度男の周囲を泳ぐと、その柘榴色の複眼で蜘蛛女へと一瞥をくれた。

『リョーマ、食べていいか?』
「うん、構わないよ」
「駄目じゃあ!」

 男の声にかぶせるようにして逆さまに抱えられたままの子どもが悲鳴のような声をあげる。

「それはわしんじゃ!」
『気が向いたらクソ雑魚ナメクジの分も残しといてやる。まぁ、リョーマが良いって言ったらだけどな』

 うつくしい黒蛇がフン、と笑うような声を残して身を躍らせる。
 向かう先には蜘蛛がいる。
 優雅に、獰猛に、黒蛇が獲物へと襲い掛かる。
 それはまるで映画やテレビで見るような怪物の戦いだった。
 勇樹や尊に出来ることは何もない。
 ただただ呆然と、二人身を寄せ合って人の知恵の及ばぬものの間で行われる戦闘を見守ることしかできない。

「嫌じゃ嫌じゃ、あれはわしんじゃ!」

 駄々をこねる子どもの上下をようやく戻してやりつつ、男は困ったように息を吐く。

「あのね、以蔵さん。僕だって怒ってるんだよ。またそうやって僕の知らないところで無茶をして。元気になるまではおとなしくしといてくれってあんなにお願いしたじゃないか」
「おとなしくしちょるなんて性に合わんのじゃ!」
「だからってそんな身体で怪異に挑むことあるかい。まだ、本調子じゃないだろうに」
「あれを喰えば元に戻れるちや」
「……以蔵さんが喰われるの間違いじゃろ」

 子どもの訛りにつられたように、男の言葉にも柔らかな訛りが宿る。
 男にしては長い髪を背中で一つにまとめ、中折れ帽子を頭に乗せた伊達男だ。
 着ているのも深い蒼のパリっとしたシャツに、白のスーツだ。
 艶やかに磨かれた革靴からしても、こんな夜の校舎で出会うよりも、テレビや雑誌の紙面を飾っていた方がよっぽど似合っている。
 そんな立派な身なりの男が、腕に抱いた子どもをさん付けで呼び、翻弄されている図に勇樹と尊は顔を見あわせる。

「そもそもおまんがさっさと力を寄越さんのが悪いがじゃ」
「それはね、以蔵さんが無茶ばかりするからだよ。見てよ、そんなに縮んじゃって。僕が力を与えなかったら、以蔵さん、もしかしたら消えちゃってたかもしれないんだよ?」

 ふすん、と拗ねたように子どもが鼻を鳴らす。
 黒の癖ッ毛にうずもれるような▲の耳がぴょこぴょこと揺れる。
 まろい金の瞳を得意げに瞬かせて、にんまりと柔らかな唇が笑みを描く。

「おまんはわしを見捨てられんろう」
「…………」

 呆れたように、男が息を吐く。
 参った、というように、どこか降参を認めるようなその吐息には柔らかな諦念と結局はその子どもに対する甘さが溶け合っている。

「しゃんしゃん離しぃ、アレはわしの獲物じゃ」
「だから、このままじゃ食べられるのは以蔵さんの方なんだってば」
「ほいたら喰われんよう、すッとおまんの力を寄越せばえいんじゃ」

 子どもの小さな手が、男のシャツの胸元を無造作に手繰って握って、ゆさゆさと揺すった。まるでカツアゲである。
 ぐぬう、とへの字になる男の唇。
 一方その間にもうつくしい黒蛇と蜘蛛女の闘いは激化しており、パシャンパシャンパシャンと喧しい音をたてて廊下の窓ガラスが割れていく。
 どうやら助かったらしいと思ったら今度は二次災害の度合いが気になってしまう勇樹と尊である。この調子では校舎が無事では済まない。
 その派手な音はさすがに無視しきれなかったのか、男は困ったように眉尻を下げて戦う黒蛇に向けて声をかけた。

「お竜さん、一応なるべく学校は壊さないようにね!」
『善処はするがここは狭いぞリョーマ!』

 まあ、狭いだろうな、と勇樹はしみじみ思う。
 蜘蛛女だけでも廊下を塞ぐような巨体なのだ。
 だというのに、そこに同サイズの黒蛇まで現れたのだ。
 それはもう、狭い。
 蜘蛛と蛇がそれぞれを狙って身を動かす度に床が抉れ、壁に穴が開き、やたら澄んだ音をたててパリンパリンと窓ガラスが割れていく。
 もう随分とこの廊下の風通しは良くなってしまった。
 その様子に、ようやく男は諦めたように息を吐いた。

「以蔵さん、大きくなるとますます手に負えないから嫌なんだけどなあ」

 ぼやく。
 小さい方が可愛いよ、だとか。
 抱っこできるサイズの方がよくない? だとか。
 いろいろ説得らしきものを試みてはいるようなのだが、それに対して子どもは焦れたように喉奥で唸るばかりだ。
 小型犬が噛み付く寸前、といったような具合に、また男は嘆息する。

「はいはいわかりましたよ」

 そう言って、男は自らの長い髪を片側に寄せると、子どもに向かってその頸筋を差し出した。

「最初っから素直にそうしとけばえいんじゃ」

 まるで悪役みたいなことをのたまいながら、子どもはその頸筋へと顔を寄せる。
 まずはふんすふんすと匂いを嗅ぎ、一等美味しい場所を嗅ぎ当てるように鼻先を押し付け、唇で触れて太い血脈を探す。

「っ、……くすぐったいよ、以蔵さん」
「おとなしゅうしとき」

 もぞ、と身じろいだ男を小さな身体が抑えつけるよいうに腕を回して。
 ぁ、と大口を開けた子どもの咥内にきらりときらめく鋭い犬歯が見えた。
 それから、がぶりと思い切りその頸筋に小さな顎が喰らいつく。
 やはりそれなりの痛みは伴うのか、男の眉根が寄る。
 どかんばこんと破壊音が響き渡る廊下の片隅でぴちゃぴちゃじゅるじゅると鮮血を啜る水音が響いて、なんだかそれが見てはいけない光景な気がして勇樹と尊はどぎまぎと目を伏せる。
 変化は、その一瞬の間のことだった。
 次に二人が顔をあげた時、そこにはもう子どもはいなかった。
 白いスーツの男とまるで対になるような黒スーツの男がその身に寄り添うように、勇樹と尊に背を向けるように立っている。
 子どもの背をあやすように抱いていた男の手は、今は黒いスーツの男の腰を抱いている。

「さぁて、お礼参りと行くぜよ」

 ゆるりと振り返った黒衣の男が太く、強い声音で言う。
 その声は先ほどまでの子どものものとは似てもにつかぬ大人の男のものだったが、その発言を彩る訛りだけは子どもと同じものだ。
 黒の癖ッ毛を緩やかに肩に流し、灰のシャツの袖を無造作にまくり上げ、ジャケットの代わりにベストを着こんだ男の腰には二本の刀が差されている。
 先ほどまでの姿がどこかころころとした仔犬を思わせるものだとしたならば、今勇樹らの目の前にいる男の印象はまさしく狼だ。
 ピンと逆立った黒の▲がその印象をより強いものにする。
 うつくしく獰猛で、危険な獣。
 振り返った男の爛と燃える双眸はあの子どもと同じ金の色をしていた。
 ずらりと刀を引き抜きながら、男が声を張り上げる。

「お竜ッ、交代じゃ!」
『いいのか、リョーマ』

 黒い男を越えて、うつくしい黒蛇が白い男へと問う。
 まだ血のにじむ頸筋を片手で抑えた白い男が困ったように笑いながらも頷けば、黒蛇はゆるりと空を泳いで蜘蛛女との戦域を離脱した。

「そこで見物しちょき。わしが」

 そこで一度言葉をきって、黒衣の男はちらりと勇樹と尊を見る。
 にんまりとどこか悪戯っぽい、それでいて獲物を目の前にした肉食獣めいた好戦的な笑みがその顔に浮かんで、男は言葉を続けた。

「約束どおり、叩ッ斬っちゃるきのう」

 ■□■

 そこからの男の暴れっぷりときたら、それはもう見事なものだった。
 素早い身のこなしは子どもの姿をしていた時と比べても見劣りせず、むしろそれ以上に勢いを増して白刃を容赦なく振るう。
 うつくしい黒蛇の手加減のできない暴威とは異なり、男の振るう刀に込められた殺意は明確に絞られている。それなりに長さのある得物であるはずなのに、その刀が壁や床を傷つけることはなく、蠢く毛むくじゃらの蜘蛛の足だけをばすりばすりといとも容易く斬り捨てていくのだ。
 もはや男に防戦の色はなく、残された足が悪あがきめいて振るわれてもそれすら刀で受けてそのまま斬り飛ばす。

「すごい」
「すげえ」

 勇樹と尊はぽかんと口を開けてそんな男の活躍に見惚れる。
 と、背後にふと人の気配を感じて顔を上げた。
 そこにいたのは白いスーツの男だ。
 黒衣の男が蜘蛛女や尊や勇樹の気を惹いている間に、二人の元までやってきていたらしかった。二人の肩を抱くようにして、「怪我はないかい?」なんて柔い声が問う。
 二人がぶんぶんと首を横に振れば、白スーツの男は安心したようにほうと息を吐いた。

「怪我人が出なくて何よりだ。ごめんね、助けるのが遅くなってしまって」

 そう言って人が好さそうに垂れた目元を笑みの形に細める所作はとても優しくて、その格好も相まってテレビで見る俳優のような、いかにも洗練された大人の男といった風だ。

「あの」
「うん? なんだい?」
「あなたたちは何なんですか……?」

 誰ですか、というよりも『何』と聞いてしまったのは目の前で起きていることがあまりにも現実離れしているからだ。
 黒衣の男は今も鮮やかに白刃を振るってあれほどまでに二人を追い詰めたバケモノをばっさばっさと切り刻んでいる。
 時折二人の元まで斬りおとされた足が飛んでくる勢いだ。
 そろそろ少なく見積もっても八本以上の足を斬り落としているはずなので、おそらく蜘蛛が再生しているのだろう。
 増える蜘蛛の足をずぱんずぱんと斬り飛ばす男はとんでもなく愉しそうだ。
 なんかもう背後からは高笑いまで響いている。
 「わしは! 剣の! 天才じゃあ!」とかなんとか。
 一方、二人の見上げた先では白スーツの男は困ったように眉尻を下げて額を掻いた。

「あー……僕は坂本。坂本龍馬。このあたりで探偵をやっていてね。普段はちゃんと探偵らしい仕事をしているんだけど……たまに、ああいう悪いものも退治する仕事をしていてね。ああ、あっちは以蔵さん。僕の古馴染みでね。すごく強くて頼りにはしているんだけど、たまにやりすぎちゃって。困ったものだよねえ……いやもうこういうときの以蔵さんはすごく生き生きしてるんだけど」

 坂本龍馬と名乗った男が、つらつらと語って柔らかな苦笑を浮かべる。
 なんだかんだ言いたいことはありつつも、その『以蔵さん』をとても大事に思っているのだということが伝わってくるような口ぶりだった。
 獣のような耳や尾をもつ、人では当然太刀打ちできないようなバケモノを易々と斬り伏せる男の正体については何一つわからなかったわけだが、なんだかそれ以上聞くのも無粋なような気がして勇樹と尊はちらりと視線を交わし合うだけで終わった。

「ああ、そろそろ終わるね」

 龍馬の言葉につられるようにして、二人もまた以蔵へと視線を戻す。
 すでに蜘蛛は足のほとんどを失い、女の生える胴体だけがぐしゃりと床に落ちているような状態だった。
 それに片足をかけて踏みつけながら、以蔵はにィと口角を釣り上げて嘲るように笑う。

「これで終いかスベタァ」

 それを見上げる女の顔にはやはり表情はない。
 八つの複眼が並ぶ顔は白々と以蔵を見上げるだけだ。
 あくまで人の形を模しただけのバケモノの顔には、これほどまで追い詰められたというのに焦りの色も恐れの色もない。

「つまらんのう」

 そう漏らして、以蔵は醒めた眼で最後にその剣を一閃した。
 ぞぶッ、と水分を多分に含んだ音が跳ねて女の頸が飛ぶ。
 あまりにも勢いよく飛んだもので、女の頸はゴンと天井にぶつかったほどだ。
 その首がぼとりと床に転がるまでを見届けずに以蔵がこちらを振り返る。
 そして。
 その背後で。
 後は地面に落ちるだけだと思われた女の頭が。
 初めて、嗤った。
 否、嗤ったのではない。
 がぱりと耳元までその口角が裂け、鋭い牙を剥き出しにしたのが笑ったように見えただけだ。女の頭は背後から以蔵の頸に喰らいつこうとして――
 子どもたちが悲鳴をあげるより先に動いたのは、龍馬だった。

「以蔵さん!」

 穏やかに二人の子どもの肩を抱いて笑っていた男の顔に今はもう笑みはない。
 目元の垂れた黒の双眸に浮かぶのは真摯な殺意だ。
 長い脚が身を寄せ合っていた二人の子どもを割るように前へ前へと踏み込んであッというまに以蔵への距離を削る。
 そんな男の手の中にはいつしか一振りの日本刀が生じていた。
 以蔵が手にいしているのとよく似たものだ。
 しゅるるるるる、と蛇の鱗が擦れるような音を響かせながら鞘から白刃が滑り出る。
 そのまま龍馬は、ずどん、と。
 振り返りかけた以蔵の鼻先を掠めるように、その背後に迫っていた女の眉間に鋭い切っ先を見事に突き立てていた。
 獲物に喰らいつこうと裂けた口から力が抜けてだらりと顎が落ちる。
 そして、そのまま女の頭はぶしゅぶしゅと黒い靄になって消えていった。
 以蔵に比べれば優男然としていた龍馬の見せた殺気と、その行いの両方に尊はぼんやりと瞬くと同時に「ああいうのが一等怖い」と漏らした以蔵の言葉を思い出していた。
 あれはもしかしなくとも、龍馬のことを言っていたのではないだろうか。
 尊の幼馴染が、追い詰められた土壇場で尊を守るためにとんでもないことをやってのけたように。
 本当に怖いやつというのは、日ごろはそんなことを全く周囲に気取らせずににこにこ笑っているような奴なのかもしれない。
 そんな学びを得ている尊の目の前では、男二人がぎゃあぎゃあと怒鳴りあっている。

「以蔵さん、怪我はないがか!」
「しちょらんッ、余計な手出しすなや!」
「以蔵さんは詰めが甘いんじゃ!」
「ほたえんなや!!」

 その背後で、胴だけ残された蜘蛛の身体がぶるぶると震え。
 それが目障りだったのか、言い争っていた二人が振り返るのは同時だった。

「これで!」
「終いじゃ!」

 えらい勢いで言い争っていた癖に、怒鳴る声は意気もぴったりに重なって響いた。
 同時に振りぬかれた刀がずぶりと柔らかな胴に突き立てられる。
 それが、正真正銘蜘蛛のバケモノの最期だった。
 ぶわッと突き立てられた二本の刀を中心に、そこから裂けるように表皮がめくれあがって内側からぶわりと黒い靄があふれ、二人の刀へと吸い込まれていく。
 それに満足そうに「まあまあじゃの」なんて以蔵が嘯いてぺろりと自らの唇を舐めた。
 そうして黒の靄が晴れた後には、先ほどまで蜘蛛の胴が転がっていた場所には勇樹と尊のよく見知った少女がくたりと横たわっていた。

「由貴ちゃん!」
「ユーキ!」

 二人はそれぞれ叫んで、慌てて倒れる由貴の元へと駆け寄る。

「おい、ユーキ!」
「由貴ちゃん!」

 ゆさゆさと身体を揺さぶるものの、由貴に目覚める気配はない。
 ただ、「ン」と小さく唸るような声が響いたものだから、死んではいないのだ、失ったわけではないのだとの安堵が込み上げて勇樹と尊はぼろぼろと涙を零してまた泣いた。
 二人の男がバケモノを退治してくれたからだろうか。
 今はもう尊も由貴が誰なのかをしっかり思い出している。
 大事な幼馴染だ。
 いつも一緒に遊んでいた広瀬由貴だ。
 ぽろぽろと涙を零す二人の傍らに龍馬が屈みこみ、手際よく少女の首に手で触れたりとまるで医者のような仕草で一通り触診を済ませてくれる。
 どぎまぎとその言葉を待つ二人に向かって、龍馬はふ、と口元を笑ませる。

「大丈夫だよ。ちょっと生気を吸われちゃってるから、回復まで少しかかるだろうけど。程度でいったら、悪い風邪をひいた、ぐらいかな。数日安静にしてたらすぐに元気になるからね」
「良かった……!」
「あの、由貴ちゃんのこと、もう皆は……」
「ああうん、そっちも大丈夫。ああいう怪異、お化けはね。基本的には人の眼には見えないものなんだよ。僕たち人間が暮らすのとは少しズレたところに居るものなんだ。なんだけれども、たまに波長があってしまうと、こちら側に出てきてしまう。でも、もともとこちらのモノではないからね。それだけだと長くは居られない。だから、怪異は人を襲い、人の存在を喰らうんだよ」
「人の、存在を?」
「うーん、難しいんだけど。その子はこの世界に存在して、皆もその子のことを知っていただろう?」
「うん」
「周囲の人間のその子にまつわる記憶ごと喰うことでね、こういった怪異は自分の居場所を作ろうとするんだ。その子がいたはずの場所に成り替わる形でね」
「ッ、じゃああのバケモノ」
「うん。間に合わなかったら、成り替わられちゃっていたかも」

 さらっと言われた内容に二人は背を震わせる。
 もしも勇樹が違和感に気づかなければ、目の前で由貴が襲われて攫われたことを思い出せずにいたのなら、あの人の形をしていながら、人らしい感情を最期まで宿さなかった女が由貴の形をとって二人の幼馴染として表れていたのだろうか。
 それはとんでもなくおぞましい想像だった。

「じゃあもう遅いし、二人とも僕たちが送っていこうか」

 そう言って、龍馬は床に横たわる由貴へ手を伸ばしかける。
 が、それを止めた尊だった。
 龍馬の手を遮るように腕を伸ばして、龍馬や以蔵に比べれば華奢な腕で横たわる少女の身体を抱き起す。

「ええと」
「由貴は、俺たちの幼馴染だから。おい、勇樹、手伝え」
「う、うん!」

 尊の言葉に弾かれたように勇樹も動き出す。
 二人がかりでくったりと意識のない由貴の身体を尊の背に乗せ、負ぶう。
 ああ、そうか、と心の中で龍馬は一つ頷く。
 大事な幼馴染のために出来ることは自分たちでやってやりたいのか。
 そんな納得とともに龍馬の口元は柔らかな笑みに綻ぶばかりだ。
 そればらば彼女のことはこの二人の勇ましい子どもたちに任せてしまっても大丈夫だろう。

「そっか。それじゃあ気を付けて帰ってね。後は僕たちがなんとかしておくから」

 ひらり、手を振って見送る。
 ゆらゆらと危うげに揺れながらも、支え合って歩み去る姿はなんだかどこか懐かしいような気がした。

「以蔵さん」
「何じゃ」
「わしらも昔はあんな風だったんじゃろか」

 龍馬の言葉に、以蔵は答えなかった。
 ただ、隣でへ、と小さく笑う気配が何よりもその答えじみていた。

「ところで、以蔵さん、話は変わるんだけど」
「おん?」

 龍馬はへにゃりと眉尻を下げて周囲を見渡した。
 窓枠は歪み、ガラスは割れ、床や天井には数々の傷や凹みが残されている。

「これさ」
「おん」
「夜の間にガス管が爆発したってことで誤魔化せると思う?」
「知らん。わしは頭が悪いきに。そういう悪だくみはおまんの仕事ちや」
「ええー……」

 とりあえず爆発させとけばいいかな……とか思い切りの良いことをぶつぶつ呟きながら事後処理の算段をつける龍馬の傍らで、以蔵はくわあと欠伸をする。
 面倒なことは全部この幼馴染に押し付ける気満々だった。

「龍馬」
「なあに、以蔵さん」
「おまん、あの子らに口止めせざったろ」
「まあね。こんな話、誰も信じないでしょ」
「…………」

 それだけじゃないだろうと言いたげな月色の眼差しに、龍馬はくつりと喉を鳴らして笑った。

「また、何か縁がありそうだったから」

 一度怪異と縁を結んでしまった人間には、怪異が寄り付きやすくなる。
 あの勇敢な子どもたちとは、なんとなく、なんとなく。
 またどこかで出会いそうな気がしている龍馬なのだった。
 

■□■

 一方こちらは穏やかな声に見送られて、学校を後にした勇樹と尊だ。
 二人で協力しあって、正体なく静かな寝息をたてる由貴をそろそろと運んでやりながらふと、尊が口を開いた。

「なあ、勇樹」
「うん?」
「皆がさ」
「うん」
「由貴のこと思い出したっていうなら今頃由貴の家、大騒ぎになってんじゃないか……?」
「あっ」

 今日一日の空白は、バケモノによって由貴の存在が奪われていたからだ。
 だから誰も由貴がいないことを気に留めていなかった。
 おそらくそれは由貴の家族であってもそうだろう。

「……うわあ、どうしよう尊」
「そこはお前が何か考えろよ、大人相手にするの得意だろ」
「えええ……」

 尊の隣で、勇樹はぶつぶつと言い訳を考え始める。
 かくれんぼで由貴だけが取り残されて閉じ込められてしまったから二人で助けにいった、だとか。そういう類の、まだ大人たちに信じてもらえそうな話をだ。
 そんな勇樹は果たして気付いているのだろうか。
 先ほどから、尊は勇樹のことを「勇樹」と名前で呼んでいるということに。
 誰に話しても信じてもらえないような、夏の夜の冒険譚のおまけは、少しだけ形の変わった勇樹と尊の関係だった。
 
 
 これは。
 龍馬と以蔵、勇樹と尊。
 二組の幼馴染の縁が偶然にも交わったある夏の夜の冒険譚。
 これから始まる腐れ縁の幕開けの物語だ。

 

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