明けぬ夜の先

 そのひとが家を出るのはいつだって夜だった。
 幼い妹が寝付くまでは傍にいてやり、彼女がすややかに寝入った頃に静かに身支度を整えてローマを呼びに来る。

「わしは帰れんかもしれんきに」

 それが彼の口癖だった。
 かつての故郷の闇に沈む装束に身を包み、こんな姿は妹には見せられんのうと少しだけ眉尻を下げてぼやいて、それからするすると鮮やかな緋色の髪だけをけぶるように靡かせ夜闇に見えなくなる。
 そんな姿を、ローマは幾度となく見送った。
 同じ軍属とはいえ、軍医であるローマと、軍属の暗殺者であるダイゾーとでは任務の内容も、その活動時間も大幅に異なる。
 闇夜に紛れて敵を討つ任務の多いダイゾーが夜間家を空ける際、何かとローマが呼びつけられるのが当たり前になったのはいつからだっただろう。
 元より幼馴染で気心が知れていた。
 入隊時期もほぼ同じで、互いの仕事への理解もあった。
 否。
 きっとダイゾーにはローマしかいなかった。
 唯一残された肉親である妹を任せても良いと思える相手が、きっとローマしか。
 明け方妹が目を覚ます前にと、鉄錆の匂いを色濃く香らせて戻る男にそんな仕事はやめてくれと喉元まで込み上げた言葉をいくつ呑みこんできただろう。
 家族を養うために、少しでもこの国を良くするためにと入った軍の仕事を続けるうちに、逆にこの国はもう長くないと気づいてしまってからもずっと、ローマはそんな言葉を呑みこみ続けてきた。
 口に出してしまえば、このぎりぎりで保たれてきた均衡が崩れてしまうとわかっていたからだ。
 わかっていても、ローマは仮初めの安寧を捨てることができなかった。
 朝焼けとともに戻った男が身体を清めた後に、起き出してきた妹に向かって兄貴風を吹かせたやわい笑みを浮かべる様も、そのままどうせならおまんも飯を食うていきぃ、と視線をそらしたままそっけなく言う声も、ローマにとっては喪いがたい日常だったのだ。
 だから、決断を先延ばしにした。
 目を反らし続けてさえいれば、この日常がいつまでも続くのだと信じていたかった。
 けれど、反乱軍の起こす事件は日々騒がしく人々の口に上るようになるばかりだった。
 そして、まるで鏡合わせのように反乱軍の動きが活発になればなるほど、政府の仕業だと思われる暗殺事件もまた暗く人々の生活に影を落とした。
 それが国による粛正だという証拠はなかった。
 証拠は何一つ残されていない。
 ただ、反乱軍の主要人物だと思われる者が、一人また一人と、無残な斬殺死体となって明け方に発見されるという事件が続いた。
 ローマも、軍の人間としていくつか検死に携わったことがある。
 いわゆる、後始末だ。
 万が一にでも何か、国に繋がる証拠が残っていたのなら、検死にかこつけてそれを回収し、始末し、国に――その刺客たるダイゾーに詮索者が辿りつかないように処理を行うのだ。
 国に飼われる暗殺者はダイゾーの他にもいるようだったが、その中でもダイゾーの仕事ぶりは徹底していたし、ローマの出番はほとんどないと言っても良かった。
 後始末にかり出された後家に戻り、いつものよう夜に迎えにきたダイゾーになんとなくそのことを匂わせたことがあった。
 そのとき、ダイゾーの口元に浮かんだ笑みの艶やかさをなんと表現したものか。
 そのとき、ダイゾーの目に宿った澱んだ色の昏さを何に例えたものか。

「―――見事なものやったろう」

 ふひひ、と小さく零された笑いは上手くいった悪戯を自慢するかのように無垢だった。
 決して妹には見せない顔だ。
 己のしていることが決して褒められるようなものではないとわかっているからこそ誰に誇ることもなく密やかにやり遂げてきた任務を、それに気付いたローマにだけ、こそりと秘密を打ち明けるように得意げな顔を見せた。
 心をゆるした誰かにしか見せない、あどけない子どものような顔だ。
 例えそれがどんなに酷いことであったとしても、命じられるままにそれをやり遂げた技術を、ダイゾーは子どものように誇るのだ。
 その一方で根の部分に腐り切らぬ善きものを抱える男は、その澄んだ金の瞳にどろりとした濁りを自ら沈め続けてもいた。
 その不安定さが、剣の道に生き、その腕を頼りに妹を養いながらも、自らの剣の腕を誇りながらも真っ当な価値観を捨てきることも出来ずに自らを所詮は人殺しだと貶める清らかさが痛ましかった。
 その日も、いつもと変わらないはずだった。
 ダイゾーはローマを呼び出し、夜の留守を任せた。
 ただ一つ異なっていたのは。

「ローマ」
「なんだい、ダイゾーさん」
「……世話に」
「ン?」
「…………世話に、なるの」

 別れ際、戸口の向こうでそんな風にダイゾーが小さく呟いたことだった。
 蜜色の双眸を柔らかに細めて、そっけなく呟かれた言葉に、ローマはぞくりと背筋が冷えるような心地がした。
 途中挟まった少々の間が、まるで「世話になったな」と過去形にしかけたのを、取り繕ったようにしか聞こえなかったからだ。
 それではまるで、今生の別れのようではないか。

「ダイゾーさん」
「なんじゃ」
「今日は、いつもよりも仕事、難しそうなの」
「なんちゃあない、わしは天才やきの」
「それなら」

 どうして、そんなことを。
 口に出して聞きたかったけれど、やはり口にしてしまえばそれが真実になってしまうような気がして、結局ローマの口から出たのは、「……遅くならないうちにちゃんと帰ってくるんだよ」なんてありふれた言葉だけだった。
 その言葉におう、とうなずいて、ダイゾーはかるくその手を上げて見せた。
 ひらひらと揺れる掌はしっし、とさっさと家に戻れとローマを促すそれだ。
 いつもと変わらない仕草だ。
 自ら夜闇に紛れ、国にとって都合の悪い人間を消して回るような仕事をしているくせに、否、だからこそダイゾーは口酸っぱく、夜も遅くに通りになんぞ出るもんやない、しっかり戸締りして家の中におれ、とローマや妹のカオルに言い聞かせるのだ。
 得体のしれない不安に胸を締め付けられるようだった。
 夜が、いつもよりも長く感じられる。
 朝がくれば、自分は自分で仕事があるとわかっているのに、ダイゾーの無事な姿を見届けるまでは眠れる気がしなかった。
 勝手知ったる他人の家だ。
 暖かなお茶を入れ、まんじりともせずに持ち込んだ書物のページを繰って時間を潰す。
 それでも、手元に広げた書物の中身はちっとも頭には入ってこなかった。
 何度も、何度も、頭の中によみがえるのは見送った際のダイゾーの様子だ。
 いつもと変わらないように身支度を整え、いつもと変わらないように家を出たのに、最後の最後でふと零れ落ちたように柔らかな心のうちを見せたようだった。
 繊細な男であるからこそ、ダイゾーは日ごろ木の実が柔い種を固い殻の内に隠すようにして素直な心のうちを人に見せるようなことをしない。
 ローマは幼馴染であり、気心が知れているから多少は垣間見せてもらえることはあるが、それでも多少という程度だ。
 だから、すごく厭な予感がしたのだ。
 ローマの知らぬところで何かが起きているような気がした。
 そして、そんな予感が現実のものになったのは草木も眠る丑三つ時を過ぎたあたりのことだった。
 街のいたるところで火の手が上がったのだ。
 夜闇に紛れて革命軍は動きだし、それを鎮圧すべく軍もまた動いた。
 当然のようにローマの元にも召集命令は届いた。
 直属の上司であるミゲル・アンヘル・コルテス副将軍からの呼び出しともなれば、無視をするわけにもいかない。
 何せ、国家の一大事だ。
 だからローマは眠る幼いカオルをそっと揺り起こした。
 眠いとぐずる小さな子どもを着替えさせ、手早く荷物をまとめようとして――…すでに小さくまとめられた可愛らしいバックパックが用意されていることに気づいて、「ああ」と小さく声が零れ落ちた。
 ダイゾーはきっと、わかっていた。
 今夜何が起きるのかを、知っていたのだ。
 知っていて、何も言わずに家を出た。
 どうして何も言ってくれなかったのか、この後どうするつもりなのか、いろんな疑問や焦燥が苛立ちにも似た棘となって心がささくれ立つ。
 それでも、腕に抱いた小さな子どもにだけは負担をかけまいと、「眠っていて良いからね、大丈夫だ」と穏やかに囁いて背中を撫でてやる。
 ローマの腕に抱かれて再びうつらうつらと船をこぎ始めた小さなこどもの額に祈るように唇を寄せて、ローマは机の上に書置きを残す。

『カオルちゃんは避難所に預けるよ。僕も手が空き次第そちらに向かう。戻ったらそちらで合流しよう』

 それから戸締りをして、家を後にした。
 きっともうこの家に戻ることはないのだろうという厭な予感を胸に抱きながら、それでもダイゾーの帰る場所だからと念入りに戸締りをした。
 カオルを抱いて避難所へと向かう道すがら見た街はまるで地獄絵図のようだった。
 いたるところに人が倒れている。
 もはや王国軍は、革命軍と一般人の区別をつけていないようだった。
 炎に照らされた街の中、動くものを片っ端から粛清してまわっているのだろう。
 仕方のない話ではある。
 国に仕える軍人たちは皆わかりやすく軍服を着ているものの、革命軍に所属するものたちにそんなものはない。
 ただの主婦のように見えた女が突如銃を抜いて攻撃してくることもあれば、いかつい大男がただの農夫だったりするのだ。
 見分けがつかないなら、皆殺してしまえば良い。
 殺される前に、殺してしまわなければいけない。
 そんな理屈で、王国軍は無慈悲な虐殺を開始したらしかった。
 それでも、まだ避難所に逃げ込んだ市民を攻撃するほど理性は失っていないだろう。
 そう信じて、ローマはカオルを最寄りの避難所に預けた。

「いいかい、カオルちゃん。すぐに、お兄さんか僕が迎えにくるからね。それまで、良い子で待っていてくれるかい?」

 不安そうに瞳を揺らしながらも、それでもこっくりとうなずいた子どもに「良い子だね」と返して、ローマは避難所を出てすぐに自宅に向かう。
 私服でいて革命軍と間違われて同士討ちなんていうのは洒落にならないからだ。
 軍属の医師であることがわかるように制服を着こみ、診察鞄をひっつかんですぐにまた外へと飛び出した。
 そしてたどり着いた王宮にて、ローマはナダイ・ナーダ王国の終幕を聞かされたのだ。
 ミゲル・アンヘル・コルテスはすでに革命軍と話をつけていた。
 革命を支援する代わりに、次の国のトップに、共和制へと生まれ変わるナダイ・ナーダ王国の初代大統領につくという取り決めが成されていた。
 長い間王による悪政のもとに疲弊したナダイ・ナーダという国にはもうそれしかないのだということはローマにもわかっていた。
 この夜に流される血は、失われる命は、国の再生のためには必要な痛みなのだ。
 そう割り切ることを求められていた。
 実際、ローマの目の前に立つミゲル・アンヘル・コルテスという男はその割り切りを受け入れていた。
 その夜初めて、ローマはこの男を恐ろしいと思った。
 頭の切れる男だとは思っていた。
 だがそれだけでなく、人を思いやる優しい心を、真っ当な価値観を持つ人間だとも思っていたのだ。
 だからこそ、長いこと上司として仰いできたのだ。
 その男は真っ当な価値観と、人を思いやる優しい心を持ち合わせた上で、最終的にはこれがナダイ・ナーダ国を、しいてはその国に住む民を救う道だと確信したかこそ、この夜に多くの無辜の民の命を必要な犠牲として支払うことを決めたのだ。

「ローマくん」
「……はい」
「キミは、どうするつもりかね」

 ゆったりと椅子に腰かけたまま、机越しに今日のランチはどうしようかと問うような声音でもって投げかけられた問の軽さとは裏腹に、ミゲルという男の眼差しだけは冷徹にローマの挙動を見据えていた。
 ここで迷いを見せれば、信用を勝ち得なければ、ミゲルはローマもまたこの夜に支払うべき痛みのうちに計上することだろう。
 思わず後退りそうになる足を叱咤して、ローマはしっかりとミゲルを見つめ返す。

「僕は医者ですから。医者としてのなすべきことをやるだけです」
「あっはっは、この期に及んで医者であることをとるか。そういうのは嫌いじゃあない。いいヨ、行きたまえ」

 しっし、と追い払うように手を振る仕草に一礼して、ローマはミゲルの元を後にする。
 それが、ローマとミゲルのいっそあっけないほどの決別だった。
 ローマはミゲルの部下としての立場よりも「医者である」ことを取ったのだ。
 ミゲルの下についていたならば、きっと革命後の政治の世界にも強く食い込むことができただろう。
 そんな輝かしい未来を、この夜ローマは擲ったのだ。
 そのことに後悔はなかった。

「ダイゾーさんを、探さないと」

 この夜のどこかに、ダイゾーがいる。
 軍属の暗殺者として、今も革命軍と切り結んでいるのかもしれない。
 もしくはとうに負傷して、どこかで動けなくなっているのかもしれない。
 どうか無事であってくれと祈りながら、ローマは走る。
 途中、多くの怪我人を助けた。
 助けられなかったものも多かった。
 そして、そのどちらにもダイゾーの姿はなかった。
 その夜を境に、ダイゾーは完全にローマの目の前から忽然と消えてしまったのだ。
 生きているのか、死んでしまったのかすらわからない。
 そして、カオルもまたローマの手から零れ落ちるようにして消息を絶った。
 王国軍を指揮していたタン将軍が倒れ、革命軍の勝利が濃厚になった明け方、ローマは疲弊した街を抜けて、避難所にカオルを迎えに行ったのだ。
 もしかしたらそこにダイゾーもいるかもしれないとも思った。
 けれど、すでに避難所にカオルの姿はなかった。
 聞けばまだ戦闘の激しいうちに、カオルの元に迎えがやってきたのだという。
 その人物は、カオルの身内を名乗った。
 それが嘘だということがローマにはすぐにわかった。
 ダイゾーにもカオルにも、この国に他に身よりはいない。
 だからこそダイゾーは夜の留守をローマに託したのだ。
 他にカオルを預けられる相手がいないからこそ、ダイゾーはローマを頼った。
 それなのに、このタイミングで身内が現れるはずなどない。
 誰かが、何等かの目的をもってカオルを連れ去ったのだ。
 では、その目的に何が考えられるだろう。
 一番ローマにとってそうであってほしいと思えるパターンはこれだ。
 ダイゾーが生きていて、カオルを迎えにきたという人物がダイゾーの使いである、というものだ。
 ダイゾーは長らく軍属の暗殺者として活動を続けていた。
 多くの革命派の人間の命を奪ってきている。
 そんなダイゾーにとって、革命後のこの国は決して住みやすいものではないだろう。
 下手をすれば、戦犯として裁判にかけられる可能性すら出てくる。
 だから、国王軍の不利を見てとったダイゾーは、人をやってカオルを連れ出し、姿を消した。
 筋は、通っている。
 あり得そうな線、ではある。
 けれど。
 ああ、けれど。

「……ダイゾーさんらしく、ない」

 そう。
 ダイゾーらしくないのだ。
 そうであってくれとその仮説を信じたいのに、ダイゾーの人となりをよく知るローマだからこそその筋だけは通っている仮説がきっとそうはならなかったのだろうということがわかってしまった。
 ダイゾーは仕事には真面目な男だ。
 どれだけ不利な戦況に追い込まれようと、自らの雇い主をそう簡単に見捨てたりはしないだろう。
 だから、この線はない。
 最後まで抵抗を続けるダイゾーをおとなしくさせるために、カオルが使われた。
 カオルを人質にされてしまえば、ダイゾーはおとなしく投降するだろう。
 だが、ローマがどれだけ探りをいれても国王軍側の暗殺者があの夜以降に捕まっただの、殺されたというような話は聞かないのだ。
 ふっつりと、あの夜以降ダイゾーとカオルの消息は掴めなくなってしまった。
 もしかして、との希望を捨てきれずに訪ねたダイゾーの家は、あの混乱の中ですっかり焼け落ちてしまっていた。
 ローマがダイゾーを送り出した玄関も。
 三人で朝食を囲んだリビングも。
 何もかもが燃え尽きて、思い出の品も何もかもが全て灰になった。
 ダイゾーとカオルがこの世界に存在していたという痕跡の何もかもが消えた。
 残されたのはローマだけだ。
 二人のことを覚えているローマだけが、ただ一人共和国となったナダイ・ナーダに残された。
 それからは、町医者として働きながら二人の行方を捜す日々が続いた。
 あの夜に発生した行方不明者を捜すための会にはことごとく参加して情報を求めたし、軍属だった頃のツテを頼って王城に残された記録にすらアクセスした。
 それでも、ダイゾーとカオルの行方はわからなかった。

「―――…生きているのか、死んでいるのかだけでも」

 せめて、生死が知りたかった。
 そうでなくては、ローマの夜が終わらない。
 いつまでもただ一人あの夜に取り残されている。
 そうして諦めきれないまま探し続けて――…いつの間にか十年の月日が流れた。
 ナダイ・ナーダは十年の月日を経てすっかり生まれ変わっていた。
 あの夜に焼け落ちた都市は豊かな復活を遂げ、充足感に満ちた表情を浮かべた人々が楽しげに往来を行き来する。
 ラジオからは華やかな歌姫の歌声が流れ、かつての国王による悪政に苦しめられたことも、その果てに起きたあの夜の革命劇も、全てが少しずつ人々の記憶からは薄れていったようだった。
 そんなある日のことだ。
 ミゲル・アンヘル・コルテスの死去のニュースがナダイ・ナーダを揺るがした。
 かつての国王政の元で副将軍を務めながらも、悪政に心を痛め、革命軍に力を貸した立て役者であり、革命後は初代大統領としてナダイ・ナーダの国力回復の為にその人生を費やした偉大なる統治者。
 そう謳われるミゲル・アンヘル・コルテスが、死んだ。
 そのニュースを聞いた時、ローマの胸を占めたのは薄暗い安堵と諦念だった。
 あの恐ろしい男がついに死んでくれたのだという安堵。
 それと、あの男が死んだことにより、また一つダイゾーとカオルの消息に纏わる真実が遠のいてしまったのだという諦念。
 こんなことになるのなら、あの男が死ぬ前に会いに行くべきだったとの後悔もあった。
 軍医とはいえ、ローマもかつては軍属だったものだ。
 革命が起きる前には、ミゲルの手足となってダイゾーによる暗殺を誤魔化すような任務にもついていた。
 それを追求されれば、折角手に入れた平和な町医者としての生活を失うことになっただろうし、そうなればこれ以上ダイゾーとカオルの行方を捜すこともままならなかっただろうから、会いに行かなかったのはきっと正解だった。
 それでも、もう二度と追求の機会がないのだと思えばその判断が自らの生活を守るための我欲に塗れたそれだったのではないかという疑念は胸のうちに蟠るようにして残った。
 ミゲルに会えば、何かがわかっていたのだろうか。
 ダイゾーの行方を。
 カオルの行方を。
 長いことあの夜に立ち尽くしているローマを解放してくれるだけの答えを、あの男は果たして残してくれたのだろうか。
 そんなことを考えているうちに、一通の招待状がローマの元へと届いた。
 ミゲルの葬儀への招待状だった。
 送り主の名は、ガブリエラ。
 ミゲルの妻であった女性からのものだった。
 ミゲル亡き今、本人の口からあの夜に起きたことを聞き出すことは出来ない。
 だが、ミゲルの屋敷にはきっと今も、生前ミゲルが収集していた様々なものが残っているはずだ。
 その中にはもしかしたらローマが長いこと探し続けてきたことへの答えもあるかもしれない。
 そう思い立ち、ローマはミゲルの葬儀に参加することを決め――あの夜の答えを、得た。

「此度はお忙しい中、夫、ミゲル・アンヘル・コルテスの葬儀に参列くださり――」

 そうた嫋やかな声音で挨拶を行った年若き喪主の娘には、ローマやダイゾーと同じ日系の血が流れているようだった。
 ミゲルの妻というよりも、娘といった方が年齢的には近いだろう。
 夫を亡くしてからは心を寄せる先さえなくしてしまったのか、不安げに伏せがちの双眸や、血の気が失せた、それでも白人種とはまた違ったきめ細やかな白い肌の色合いには随分と見覚えがあった。
 嗚呼、と息を吐く。
 ようやく得た答えに対する歓喜と、その答えの持つ意味への理解が齎す絶望が溶け合ったような声がローマの唇からは零れ落ちた。
 彼女は、カオルだ。
 あの夜に消息を断ったダイゾーの妹だ。
 そのカオルが、今ガブリエラとして、ミゲル・アンヘル・コルテスの妻としてローマの前に立っている。

「―――、この度は、大変ご愁傷様でした」

 そう、取り繕って挨拶を口に出来たのは奇跡のようなものだった。
 ガブリエラの方は、ローマが誰なのかに気付く様子はなかった。
 もしかすると、覚えてすらいないのかもしれない。
 最後に別れた時、カオルはまだほんの幼い子どもであったし、あれからもう十年が経っている。
 わからなくとも無理はない。
 ガブリエラは、神父に助けられながら粛々と葬儀を執り行った。
 彼女は、あの夜に家族を失い、孤児となったところをミゲルに保護され、育てられ、そのまま妻にと迎えられたのだと言う。
 ご家族は、とのローマの問いに、美しく育った幼馴染みの妹は、はて、と困ったように小首を傾げて見せた。

「兄が……いたのですけれども、あの夜以来逢えていないのです」

 その言葉が、決定的な答えだった。
 ダイゾ-は、きっと死んでいる。
 ただ死んだだけではない。
 何かと引き換えに、カオルをミゲルに託したのだ。
 革命の後の混乱の中で、カオルがきちんと生きていけるようにとダイゾーはミゲルと何か取引をしたのだ。
 そしてその果てにダイゾーは命を落とし、カオルはガブリエラとなった。
 どうして、と叫び出したい気持ちになった。
 ダイゾーには、カオルには、ローマがいたではないか。
 それなのに何故ダイゾーはローマではなく、ミゲルにカオルを託したのか。
 いつもの夜のように、ローマにカオルを託しさえしたのならば、ダイゾーは命を落とさずに済んだのではないのか。
 何故。
 どうして。

「どうしてだ、ダイゾーさん」

 低く、掠れた絞り出すようなうめき声に、答える声はなかった。

 

 

□■□

 

 
 せめて、あの夜を終わらせる為にもダイゾーが死んだのだという証拠が欲しかった。
 ここまできたのならば、いっそトドメを刺されたかった。
 もしかしたらどこか遠くで、ダイゾーも生きているのかもしれないという微かな、理性においてはそんなことがあるはずがないと否定できる可能性すら、すっかりねじ伏せてしまえるだけの証拠を見つけて、彼の死を受け入れたかった。
 そうでなければ、ローマはきっとこの後もずっとダイゾーを捜し続けてしまう。
 いないとわかっている人を、捜し続けてしまう。
 そのためには多少の無茶も必要か、と画策している折にガブリエラが倒れた。
 酷く蒼褪めた顔色をしていたから、きっと相当な心労が溜まっていたのだろう。
 その場に医師が自分一人しかいないことを良いことに、ローマは嘘を一つ、吐いた。
 ガブリエラは毒を飲まされたのだと、偽った。
 そして、解毒薬を飲ませるふりで睡眠薬を盛った。
 副作用もない安全な薬だ。
 もとより酷く疲労が溜まっていたがために倒れたようなものなのだから、意識を取り戻せばすぐに喪主としての振るまいに戻るであろう女性を安静にさせる為には、きっとそう悪い手でもなかったはずだ。
 そう自分にも言い聞かせて、犯人を捜し出すという名目でローマは館の探索を続け―――そして、ついに、決定的な証拠を見つけた。

「……やっぱり、君は」

 震える声で、小さく、呟く。
 それは、ダイゾーの死亡を報告する書類だった。
 ダイゾーはあの夜、タン将軍と相打ちで斃れたのだとその報告書には記載されていた。
 皮肉な話だ。
 タン将軍が斃れたことにより、革命軍の勝利が色濃くなったのだ。
 それを齎したのが革命軍の天敵であるはずのダイゾーだったというのだから、世の中はわからない。
 おそらくダイゾーは、タン将軍の暗殺と引き換えにミゲルにカオルを託したのだ。
 そして、格上の剣士でもあるタン将軍に挑み、自らの命すら燃やし尽くして相打ちに持ち込み、ミゲルとの取引を成立させた。
 ぐつりと、ローマの裡で何かが煮えるような心地がした。
 ダイゾーは天才剣士ではあったが、それでもタン将軍には及ばないのはミゲルにもわかっていたはずだ。
 その足りない部分を補うために、ミゲルはカオルの保護を餌にしたのだ。
 死に物狂いのダイゾーが相打ち覚悟でタン将軍を仕留めにいくことを期待して、その餌をダイゾーの鼻先にぶら下げて見せたのに違いない。
 そしてその目論見通りにダイゾーはタン将軍と相打って斃れ、ミゲルのしたことを知るものは誰も残らなかった。
 軍に属し、革命軍の人間を殺し続けた伝説の暗殺者も、最期まで国王への忠義を胸に革命軍と戦い続けた将軍も消えた。
 ミゲルにとって都合の悪い二人は、こうしてあの夜に消えたのだ。
 ローマの大事な幼馴染みは、ミゲルに利用されて命を落とした。
 その事実に、ふつふつと胸を焼かれるような心地がした。
 だから、第二の事件が起きた際にローマの胸を満たしたのは喜びにも似た感情だった。
 今ここでバルガスを消す必要がある人間は誰か。
 バルガスを殺すことで利益を得る人間を考えていけば答えは自ずと出た。
 思えば、ローマ自身この葬儀に呼ばれたことがおかしいのだ。
 十年前に袂を分かった部下でしかないローマを、何故ガブリエラはミゲルの葬儀に呼んだのか。
 ガブリエラにカオルとしての記憶があるのならまだわかる。
 だが、ガブリエラにはローマが誰なのかはわかってはいなかった。
 それならば、誰が。
 誰が、何のために、ローマをここに呼び寄せたのか。
 その答えは、簡単だ。
 葬儀の主役、死んだはずの男、ミゲル・アンヘル・コルテスだ。
 ミゲル本人にしか、ローマをこの場に呼び出すことは出来ない。
 おそらくミゲルは表舞台からは退き、より身軽になって悠々と暗躍を続けるつもりだったのだろう。
 その為に邪魔になりそうな者、使えそうな者を選別して自らの葬儀に招いたのだ。
 果たしてローマ自身はそのどちらに分類されていたものなのか。
 ダイゾーの死を嗅ぎ回るローマのことを邪魔に思い、消すために呼び寄せたのか。
 それとも、かつての部下に新たな使い道を見いだしたのか。
 今となってはわからない。
 だが、そんなミゲルが邪魔者を消すために用意した刺客こそが、第二の事件においてバルガスと相打つ形で命を落としたサラザールなのだ。
 またしても、相打ちだ。
 サラザールには何を餌にぶら下げてバルガス暗殺を承知させたのか。
 きっと、ダイゾーも同様にコマのように使われ、命を落としたのだ。
 誰もいない静かな部屋の中、昏々と眠るうつくしい女の寝顔を見つめながら、ローマは小さく、本当に小さく呟いた。

「カオルちゃん」

 囁くような呼びかけに、カオルは目を覚まさない。

「ガブリエラ」

 呼び名を変えても、反応は同じだった。
 女はただひたすらに、昏々と眠り続けている。

「あのね」

 構わずに、ローマは穏やかな言葉で続ける。

「僕は、あの男を殺そうと思う」 

 それは、ちょっとした小さな賭けだった。
 もしもこのタイミングでガブリエラが目を覚まし、そんなことはやめてくれとでも言ったのならば復讐を諦めようとも思った。
 カオルの存在はダイゾーを焚きつけるための餌にしかすぎなかったはずだが、それでもミゲルはカオルにガブリエラという新しい名を与え、養女として保護を与え、立派に育てあげた。
 あの夜にダイゾーは死んでいるのだから、約束を果たさずにカオルを革命後の混乱の中に投げ込んだところで、誰も騒ぎはしなかったろうに、あのミゲル・アンヘル・コルテスという男は律儀に約束を守った。
 その点だけは、評価してやっても良いと思ったのだ。
 だから、カオルがやめてくれと言うのなら全てを呑み込んで身を退くことも考えた。
 ダイゾーの死に纏わる真実を知ったことで、ローマの夜は終わろうとしている。

「君は、どうしてほしい」
「――――――」

 返事はなかった。
 すぅ、すぅ、と穏やかな寝息だけが部屋に響く。

「……そう」

 小さく、頷く。
 ガブリエラはローマを止めなかった。
 ローマの語る殺意を聞きつけ、止めようとするものはついぞ現れなかった。
 だから、殺そうと決めた。
 自らの死を偽装したミゲル・アンヘル・コルテスという男を本当に殺してやるのだ。
 もとより死んだ人間だ。
 死んだとされている人間だ。
 人は二度も死んだりはしない。
 死を偽って館に潜む男が今度は本当に死んだとして、多少死期にずれが生じる程度の些細な問題だ。
 ローマは穏やかに笑って、そっと優しくカオルの髪を撫でてやった。
 バルガスの仇を討たんと復讐に燃えるガルシアに声をかける、ほんの数刻前の話だ。

 
 ■□■

 
 人の命を奪うという行為は、思っていたよりも随分とあっさりとしていた。
 これまで医者として人の命を救い続けてきたローマにとり、ミゲルが己の意志でもってその命を奪った初めての男となった。
 よく回る舌が甘言を繰り出し、己を操ろうとするよりも先に一歩踏み出して一刀のもとに斬り伏せた。
 同じ手でダイゾーを絡め取ったのかと思えば、振るう刀も冴え渡るというものだ。
 ミゲルにとってローマは軍医でしかなかったのかもしれないが、幼い頃はダイゾーとともに剣の稽古に明け暮れたこともある。
 タン将軍やダイゾーの域にまでは届かずとも、ローマとてなかなかの使い手ではあるのだ。
 本人の気性さえ許したならば、きっと軍人としても名前を馳せたことだろう。
 ひたひたと地下室の床を濡らす鮮血を注意深く踏まぬように気をつけて、脈をとる。
 弱々しい脈動が次第に緩慢になり、やがてひたりと止まるのを待ってから、ローマはほうと小さく息を吐いた。
 ミゲル・アンヘル・コルテスは死んだ。
 今度こそ本当に、死んだ。
 だが、その事実を知るのはローマとガルシアだけだ。
 ガルシアは、決してこの事実を誰かに伝えたりはしないだろう。
 共犯者の眼差しを交わしあって、地下室を後にした。
 誰も知らぬ隠し部屋の主は、誰に知られることもなく静かにその場で朽ちていく。
 おそらくは遠い未来、いつか、この館が取り壊されるようなことがあれば、見つかることもあるのかもしれない。
 けれど、それまでは。
 どうか、かの男の魂が永遠の孤独に捕らわれ苦しみ続けるように、と。
 そんな風に思って、ローマは静かに口の端に笑みを浮かべた。
 今ようやく、長かった夜が終わってローマはあの夜の出口に立っている。
 夜明けはもうすぐだ。

 
 ■□■

 
 カルデアの一室。
 何か難しい顔で、眉間に恐ろしい深度でもって皺を刻んだ以蔵が、ゆっくりと手元に広げた薄い本のページを繰っていく。
 それをなんだか処刑へのカウントダウンのような心地で、龍馬は眺めていた。
 鳴鳳荘での事件が解決してからしばらく。
 龍馬の考えたシナリオは結局採用されることなく、あの特別な特異点は瓦解した。
 だから、先にクランクアップしていた以蔵に龍馬のやらかした数々のことは知られずにすむ、と胸を撫で下ろしていたのだが――そうは問屋が卸さなかった。
 鳴鳳荘での事件が初夏の出来事だとしたならば、その後の夏に待つのはルルハワだ。
 英霊たちが集い、自分たちの作った創作物を売り買いするお祭り騒ぎ。
 そこでなんと今回はジャンヌ・オルタが鳴鳳荘で採用されなかったいくつかの豊かな想像を元に、物語を作り上げてしまったのだ。

「アンタがモデルなんでしょう? モデル料代わりに一冊献本してあげます」

 そう言って、かつての特異点では才能豊かな歌姫を演じていたオルレアンの魔女――の夏の霊基――に一冊の本を渡されたのはつい先ほどのことだ。
 嫌な予感がして見れば、以蔵もまた同じ本を渡されているところだった。
 いやいやでも以蔵さん、書物の類いはあんまり得意じゃないし……、きっと部屋に持って帰っても読みもせずに放り出して終わるはずだよね……、なんて思っていたはずなのだが、そんな龍馬の予想に反して以蔵は真剣な面持ちで現状その本を読み耽っている。
 しかも何故か、龍馬の部屋でだ。
 なんとなく手持ち無沙汰で、龍馬もまたジャンヌ・オルタ(夏)から貰った薄い本のページを捲ってみたのだが……、居たたまれなさが天元突破するような心地に襲われ、すぐにぱたりとその本を閉じてしまった。 
 そんなわけで、龍馬は現在どんな顔をしたら良いのかもわからないままに、以蔵が己の豊かな想像力を元に書かれた本を読み終えるのをそわそわと待つことになっている。
 深々と以蔵の眉間に寄った皺からして、きっとロクなことにはならないだろう。
 斬られるかなあ、斬ったら許してくれるかなあ……、などと考え始めたところで、ようやく読み終えたらしい以蔵がぱさりと本を閉じる音がした。

「…………」

 むっつりと黙り込んだ以蔵の口元はへの字だ。

「い、以蔵さん……?」

 そっと、呼んでみる。
 沈黙に耐えられなかったとも言う。

「…………………………」

 たっぷりの沈黙を挟んで、以蔵が口を開く。

「解釈違いちや」
「解釈違い」

 思わず龍馬は復唱する。
 それはつまり、龍馬のローマとしての推理があまりにも目に余る、ということなのか。
 そのあたりはまあ、ほら何せ役者としての振るまいが初めてだったのだから、しかも初めてであのような即興劇に巻き込まれたのだから、少しぐらい大目に見てほしい、なんて。
 言い訳にも似た言葉を口にするより先に、拗ねたように唇を尖らせた以蔵が言葉を続ける方が先だった。
 
「龍馬はあがなことせん」
「え」

 ぱちりと、瞬く。

「おまんは、復讐なんぞせん男じゃ」
「え、ええー……」

 それがなんだか、そんなことをしようとも思わない薄情者だと言われたような気がしてしまって、龍馬はへにゃりと眉尻を下げる。
 そんな表情に気付いていないのか、それとも全く気にしていないのか、以蔵はどこかぷんすことした面持ちで語り続ける。

「おまんは感情に流されたりせん。ミゲルち言いよったか? あん男を殺してもわしは生き返りもせんきにな。そいたら、わしの復讐なんぞのためにあん男を殺すよりも、おまんならもっとえいようにするろう」
「それ、は」

 どう、だろう。
 龍馬は、以蔵の仇のために誰かを殺すことが出来るだろうか。
 戦場であったなら答えは是だ。
 命を奪い合う戦場で以蔵の仇に出逢ったのならば、龍馬は躊躇いなく刀を振るい、銃を抜くだろう。
 だが、ローマと同じ状況で以蔵の仇に再会したのなら。
 龍馬なら、どうするだろう。
 ローマを演じる上で、龍馬は常に自分ならどうするかと考えながら動いていた。
 それが、紫式部にも望まれたことだ。
 あの台本は役者経験のないものたちによる演技を成立させるために、役者自身にキャラを寄せて書くアテ書きが多く含まれていた。 
 龍馬がダイゾーという役柄に以蔵を重ねて見ていたように、龍馬はローマという男に自分自身を投影していたように思う。
 だから、ローマがあの場においてしたことは、同じシチュエーションにおいての龍馬自身の行動といっても良い……、と思っていたのだ、が。
 以蔵は、違うという。
 以蔵が、違うという。

「以蔵さんは、どう思うの」
「わしが知るかよ」

 返事はそっけなかった。

「知らんの」
「知らん」

 力強く、以蔵が言う。
 正解は知らないが、それでもこのローマは龍馬らしくないと。
 その言葉に、あまり認めたくはなかった事実が浮き彫りになってしまって、まるで言い訳のように龍馬はごにょごにょと呟いた。

「でもね、以蔵さん、ぼくは、そうしたかったんだ」

 そうだ。
 龍馬らしいとか、龍馬らしくないとか、そういう話ではなかった。
 龍馬が、以蔵の仇を討ってやりたかったのだ。
 だから、ローマはミゲルを斬った。
 大事な幼馴染みを死に追い込んだ男を、龍馬は自らの手で斬る道を選んだ。
 以蔵が言うように、きっとそれは龍馬らしくない思慮に欠ける振る舞いだったのかもしれない。
 それでも、龍馬は復讐を望んだのだ。
 仮初めの世界で、ローマという自分に良く似た誰かを演じる世界で。 

「ぼくは、そうしたかった」

 そうしたかったんだよ、と繰り返す。
 物語の世界のように、虚構の世界のようにもしも世界がもっとシンプルだったのなら、龍馬だってきっと以蔵の為の復讐を望んだだろう。
 それなのに、以蔵はハンと子どもの駄々のように小声で繰り返された龍馬の言葉を鼻で笑い飛ばした。

「おまんは、せん」

 きっぱりとした言葉だった。
 恨みもつらみものらぬ、ただそうだからそうと言う、といったようなはっきりとした響きだけがその言葉には載っていた。

「どいて」

 恨めしげに龍馬は問う。
 虚構でぐらい、復讐を許してくれたって良いじゃないかという拗ねた気持ちですんすんと哀れぽく鼻を鳴らす。
 以蔵はそんな龍馬にちらりと視線を流して、やっぱりフンと笑った。

「おまんは堪えられる男じゃ。腹ァ立つことばああっても、我慢ができゆう。やき、おまんは殺さん。ミゲルを生かしたまま、えいことに役立てるんがおまんじゃ。そも、おまんならあがな男にえいように利用されたりもせんろ」
「――――」

 まるでこの世界における道理を説いて聞かせるような以蔵の声音に、ぽっぽと龍馬の目元に熱が滲んだ。
 以蔵自身は、きっとそんな風には思っていないのだろうけれど。
 その言葉を口にするには、一体どれだけの信用と信頼が必要なのかと思えばじりじりと腹の底からくすぐったいような熱が込み上げてきてしまう。

「いぞうさん」
「何じゃ」
「すき」

 衝動のままに、腕を大きく広げて以蔵をがばちょと強く抱きしめる。
 離せ馬鹿力、ごりら、しね、などという罵詈雑言がすぐに耳元で炸裂したものの、気にならなかった。
 ひとしきり揉みあって、やがて諦めたのかされるがままに大人しくなった以蔵の耳元に囁く。

「あのね、以蔵さん」
「……なんじゃ」
「僕は、以蔵さんのための復讐を、出来なかった」

 龍馬は、以蔵が首を落とされて死んだことがとても悲しかった。
 どうしてそんなことが、と大いに嘆き哀しみもした。
 けれど、復讐はしなかった。
 そもそも、復讐の相手となるようなものもいなかった。
 龍馬は、ただ悲しんだだけだ。

「だから、きっと、復讐がしてみたかった」

 物語の中だけでも、勧善懲悪であれと願った。
 親友を殺した悪い男に、復讐を果たしたいと思った。

 「……………………」

 腕のうちから、呆れたような深いため息が響いた。

「おまんは、げにまっことべこじゃのお」
「べこって」
「おまんは、立派に復讐を果たしたろう」
「ぼくが?」
「おん」
「……何もした覚えが、ないんだけど」

 何も、していない。
 龍馬はただ、以蔵の死を嘆いただけだ。
 悲しんだだけだ。

「おまんは」
「うん」
「わしが死んだあとの日の本を変えたろう」
「――――」

 変えた。
 変えたかった。
 身分制度に縛られ、貧しいものが富めるものに虐げられるのが当然であるような世を変えたかった。
 以蔵が泣いた分、以蔵が苦しめられた分、もう誰も泣かなくて良い、苦しまなくて良い世界になるように、龍馬はあの時代を駆け抜けた。
 それを、以蔵は復讐だと言う。
 自分たちを苦しめた時代への、復讐だと。

「…………以蔵さん」
「なんじゃ」
「すきい…………」

 もう、それしか言えなかった。
 例え今ここにあるのが仮初めの命に過ぎないとしても、こうして共にあることができる喜びや、幸福に連なる万感を込めて、龍馬はむずかる子どものようにぐりぐりと以蔵の肩口に額を寄せてもう一度「すき」と呟いた。

 

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