それは、ある日の午後のことだった。
その日は週に何度か設けられているマスターのための休息日で、そういった日はよほどの緊急の案件が舞い込まない限りはレイシフトは行われない。
よって、カルデア全体にどことなくまったりとした間延びした空気が流れがちだ。
レイシフトがない、というだけでカルデアとしての活動がストップしているわけではないはずなのだが、やはりそれでもスタッフの間に流れる空気はどこか柔らかで、和やかだ。己の肩にひとりの子どもと、人類の存亡がかかっている、などという緊迫感からその時だけは逃れて、皆どこかいつもよりも呼吸がしやすそうな面持ちをしている。
そんな空気の中ではサーヴァントたちもあまり真面目に鍛錬やら何やらに取り込むといった風ではなく、大抵そんな日はサーヴァントたちも日頃よりはのんびりと趣味に時間を費やしていることが多い。
カルデアキッチン組が、パイのような焼き菓子を昼下がりに焼くのも、大抵はそういった日だ。
以蔵は、そういった日であっても、一応日課程度には剣を振る。
少し遅めに起きて、朝食をとって、それからシミュレーションルームに向かい、型を踏み、影練を行い、大体それで昼になる。対戦は行わない。対戦までいってしまうと、一日中シミュレーションルームに籠もることになってしまう。それではいつもと変わらない。
昼飯をのんびり食べて、茶を飲み、それからその時次第だ。
燕青らに誘われて賭け事に興じて日も高い内から酒に手を伸ばすこともあれば、書庫に赴き、紫式部に見繕ってもらった書をぱらぱらとめくりながら過ごすこともある。以蔵には高尚ぶりよって、としか思えなかった茶の湯などというものの席に招かれ、丁寧に教えられながら古兵たちとゆるゆると過ごすのも最近ではまあそれなりに愉しみ方というものがわかってもきた。
そんな休息日に、食堂で食後の茶を啜っているところで同く遅めの昼食を食べに出てきたマスターと遭遇したのは偶然だった。
「以蔵さん、席、座ってもいい?」
「えいぞ」
「ありがとう」
そう言って、マスターは茶を飲む以蔵の向かいへとぽすりと腰を下ろした。
「……なんか食わんのか」
「うん……、もうちょっとしたら何かもらいにいこうかなあ」
なんて言いながら、マスターはぼへーっとした顔で以蔵がいれてやった茶ばかりを啜っている。これは放っておいては埒があかぬと、以蔵は一度席を立つとキッチンへと向かった。
「エミヤ、おるがか」
「どうかしたかね、小腹でも?」
「わしやない、マスターじゃ。飯を食いに出てきたとこまではえいが、あそこで力尽きちゅう」
「ああ、なるほど。すぐに何か用意しよう。君はどうかね」
「付き合う程度にちっくとよそってくれるか」
「わかった」
そんな会話を交わして、以蔵は再びマスターの元へと戻る。
日頃はきりりと気を引き締めた表情をしていることが多い子どもが、この休息日に限ってはゆるゆると腑抜けた顔をしている。
普段であれば多くのサーヴァントに囲まれている子どもだが、周りにサーヴァントがいてはなかなか「マスターではないただの子ども」に戻ることも出来ないだろうという気遣いから、こういった日に限ってはあまり構い過ぎないようにしようという暗黙の了解がこのカルデアにはいつの間にか出来ていた。
マスターが「誰か」と呼びさえすればいつでも出て行ける距離感で、それでも日頃マスターとして必死に皆を率いて戦うものであろうと気を張り続けている子どもが、ただの子どもでいられるようにと皆、あえて少しだけ距離を置いているのだ。
が、この場合マスターの方から相席を求めてきたわけなので、以蔵がこうしてマスターの傍らにいられるのはちょっとした幸運だ。
しばらくすると、赤衣の弓兵が、熱々の湯気を漂わせるオムライスを二人の前に置く。
以蔵の前に置かれたのは、小さなおにぎりサイズのオムライスだ。
それでもしっかりと厚めのとろりとした卵に包まれている。
きょとりと目を丸くした子どもに、以蔵は一言「食え」と言ってやる。
そうして以蔵が見本を見せるようにして匙を手に取れば、ようやく子どもはご飯の食べ方を思い出したかのような瞬きを一度挟んで、銀色の大きなスプーンへと手を伸ばす。
匙で卵を深めに掬う。
とろりと厚い卵の下からは、赤く色づいたケチャップライスが顔を出した。
トマトの酸味が、まろやかな卵の味わいと相性が良い。
食べ物を胃に入れたところで、ようやくマスターは少しだけエンジンが掛かり始めたようだった。もしかしたら、朝食を抜いていたのかもしれない。
しばらく無言で、がつがつと子どもはオムライスを平らげていく。
もっも、と膨らむ頬や、ごくりと動く喉の動きなどを見るともなく眺めているところで、ふとマスターが何か思い出した、とでも言うように口を開いた。
「あのさあ、以蔵さん」
「なんじゃ」
「聞きたいことがあるんだけど」
「言うてみい」
「以蔵さんは、なんで坂本さんのことを好きにならないの?」
「ごっふ!」
飲み込みかけた米粒が、何か入ってはいけないところに入ったような気がした。
盛大に噎せて、そのまま以蔵はけんけんと咳き込む。
だいじょうぶ? とゆるりと柔らかな声音が以蔵を気遣う。
気道に米粒が入ったことに充分苦しんでから、以蔵は涙目でマスターを睨み付けた。
「おまん、気でも狂ったか」
「狂ってませんー、正気ですう」
ぱくりとスプーンを口に含んで、マスターはぴこぴこと無作法にそのスプーンの柄を揺らして見せる。
そんな常にない子どもっぽい仕草に、以蔵は呆れたような半眼で息を吐く。
「なんじゃ、おまんもあの男のえい面に騙されゆうクチか」
ふん、と以蔵は鼻で笑い飛ばす。
昔から、そういう人々をたくさん見てきたのだ。
顔の良さや、人の良さ、振る舞いのソツのなさで、あの男はいつだってたくさんの人間を魅了してきた。
あげくの果てに今では人ではないものまでその虜にして、相棒に据えている。
以蔵に言わせればそんなものは上っ面だ。
あの男はどうしようもない甘えたで、泣きみその、末っ子根性の抜けぬ情けない男だ。
それを知りもしないで、ええ格好しいの外面に騙されて、好きだのなんだの言い出す連中をいっそ騙されよって可哀想な連中だ、とすら以蔵は思う。
人を見る目のある、と思っていたマスターまでが、そんな連中の仲間入りになってしまったのかと面白くなさそうに唇をへの字にする以蔵に、マスターは違う違う、と首を横に振ってから言葉を続けた。
「うーん……、そうじゃなくてさ。以蔵さんが言うのもわかるよ。坂本さんってすごく親切だし、頭もキレるし、格好良いし、すごく頼りになる人だから。そういう意味で坂本さんのこと好きになっちゃう人も多かったんだろうな、っていうのも、めっちゃよくわかる。でもさ」
ちろ、とマスターの双眸が以蔵を見る。
きらきらと光を多く含んだ清らかな目だ。
希望を失わぬ、星を閉じ込めたような目だ。
「以蔵さんは、違うでしょ」
「…………違うって、何がじゃ」
「坂本さん、以蔵さんには違う顔見せるじゃないか。ほら、故郷の言葉使うのも以蔵さんに対してだけだし、以蔵さんに対してはちょっとガードが甘い」
「…………ガードが、甘い」
「甘いよ、坂本さん。普段はさ、あのひと、自分の見せたい姿しか人に見せないでしょう。計算高いって言ったらいうのかな。あ、でもそれなんかちょっと悪口っぽいな。うーん。うまく言えないんだけど。こういう風に見られたい、という風に振る舞うというか。相手が自分に何を望んでいるのかを察して、それに合わせた振る舞いが出来る、というか」
マスターの言葉は、以蔵の心にもすとんと落ちる。
あれはそういう男だ。
そういう振る舞いをする男だ。
人に合わせて、その人がどんな『男』を望んでいるかにあわせて振る舞いを変える。
それは、その人を喜ばせたいという純粋な善意からでもあるだろうし、その人の望む人格を演じることでその相手を思い通りに動かそうという思惑によるものでもあるのだろう。
優しさと、計算が入り交じった強かさだ。
さすがは商家の息子だ。
「でも」
「ンあ?」
「以蔵さんに対しては、あのひと、そういうことしないでしょう」
「………………ほうか?」
「ほうだよ」
もぐりと大きく一口でオムライスを頬張りながら、ほうほう、とマスターがなおも頷きを重ねる。
「坂本さん、以蔵さんの前ではすごく、素の顔を見せているなあ、って俺なんかは思うんだけど」
「…………どう、やろうにゃあ」
思わず、ぽしょりと酷く素直な言葉が以蔵の口から転がり落ちた。
湯飲みを手に取り、ひとくち、茶を啜る。
坂本龍馬、という男のことをそこまでよくわかっているマスター相手にだからこそ、零れた素直な言葉だったのかもしれない。
続きを待つような沈黙に、以蔵は柔く双眸を伏せたままとつとつと静かに言葉を続ける。
「マスターから見たら、そう見えるかもしれんが。それやって、わしが望む坂本龍馬として、あいたあが振る舞っちょるだけかもしれんろ」
「ない。それだけはない」
否定は即答だった。
思わず以蔵は、ぱちくりと双眸を瞬かせる。
「あのね、以蔵さん。それはない。本当、それだけはない」
「ど、どういて」
「だって、坂本さん、以蔵さんを怒らせてばっかりじゃないか」
言われてみれば、確かにそんな気もした。
「……けんど」
「なに」
「それやって、わしがあいたあにとっちゃ役にたたんき、機嫌を取る必要もないっちゅうことなんじゃ」
「それもない。ない。ないよ」
やっぱり即答だった。
「坂本さん、以蔵さんを怒らせてはすっごく謝ってるじゃないか。あと、結構機嫌とろうと必死になってる。あんなの、そんな風に思ってたら出来ないよ」
「………………おん」
これまた、確かにそうだな、と思った。
以蔵を怒らせると、あの男はいつも情けなく眉尻を垂らして、ごめんね、ごめんね以蔵さん、と必死の謝罪を繰り返す。
大体、あの男に悪意はない。
うっかりだったり、善意が空回りするのだ。
そうして以蔵を怒らせては、あわあわとうろたえて、どうやって機嫌をとろうかと困り切った風に眉尻を垂らす。
あれが計算だとは、さすがの以蔵も思えなかった。
思わず黙り込んだ以蔵の前で、再びオムライスを食べ始めたマスターが再びゆるゆると話し始める。
声音は穏やかで、どこか静かな祈りにも似ているような気がした。
「だからね、坂本さんにとって、以蔵さんはすごく、すごく、特別なんだなあ、って思ったんだ。素顔を見せて、怒らせても構わない相手……っていうとまたネガティブに受け取られちゃいそうだけど、それが坂本さんの甘えであり油断であり、というか。でもその一方で、坂本さんは素顔のまま以蔵さんのことをとても大切にしてる。いつでも以蔵さんのことに気を配ってるし、何かあると以蔵さんのことを自慢するし、以蔵さんと一緒にいるときはとても楽しそうにしているし。俺だったら、」
マスターがのんびりと視線を持ち上げてる。
何故だか視線をそらせずにいる以蔵に向かって、にこりと笑って。
「俺なら、好きになっちゃうな、そんなトクベツ」
■□■
俺なら、好きになっちゃう。
そんなマスターの言葉が、頭から離れなくなって数日。
以蔵は、「いやいやそがあなトクベツ扱いされちょらんわ」なんてそのときはマスターに返して、「そうかなあ」と首を傾げるマスター相手に、さっさと飯を食べてしまえ、などと言ってその話を終わらせたわけだったのだが。
なるほど。
確かに、意識して見るとそうなのではないかと思うことが日常の中に多くあった。
例えばそれは昨夜の酒宴だ。
信長の気まぐれで主催された宴会にて、龍馬は何かとても口に合う肴を見つけたようだった。一口頬張って、ぱあ、と表情を輝かせ、誰かを探すように視線を酒宴の混乱の中に巡らせ、以蔵を見つけるとはしゃいだ声で、「以蔵さん!これ!美味しい!」と、報告したのだ。その後はわざわざ小皿にその肴をいくらか確保し、これ絶対以蔵さんの口にも合うと思うんだよ、とにこにこしながら以蔵の元までやってきた。
以蔵が飲み過ぎて潰れかけていれば、人の輪の中からそっと連れ出して、「少し休んだ方がえいよ」と宴会の片隅にて、静かに膝を貸してもくれた。
以蔵がお竜とわあわあ喧嘩をしていても、それが肉体言語によるぶつかり合いになるまではにこにこと楽しそうに見守っている癖に、お竜との口喧嘩に気を取られ、以蔵が誰かにぶつかりそうになったりなどするとするりと以蔵の腕を引いてさりげなく庇ったりなどもする。
その一方で、レイシフトに出れば以蔵に手強いエネミーにあてがうことを躊躇うこともなかった。どうしてもボス格のエネミーの人手を裂けない状況に追い込まれた中、以蔵さん一人では、と難しい顔をしたマスター相手に、「以蔵さんなら出来るよ。ねえ、以蔵さん」などと言って、格上のエネミー相手に以蔵をぶつけることもした。マスターの危惧した通り以蔵はボロボロに怪我を負ったが、それでも一人でそのエネミーを見事に倒しきってやった。「無茶をさせてごめんね」と謝りながらも、その男はまるで我がことのように誇らしげで、「やっぱり以蔵さんは強いにゃあ」と嬉しそうに笑っていた。そのくせ、レイシフトの打ち上げが終わった後は酔い潰れた以蔵を部屋まで連れて帰り、着替えさせ、布団に寝かせ、昼の戦闘で負った怪我がきちんと癒えているのかを確かめるようにそろりそろりと肌を撫で、安堵の息を零した。
「…………………………………………めった」
ぽそりと、以蔵は呟く。
思い返してみれば、これらは充分に特別扱いだ。
マスターに言われた通り、確かにあの男は、以蔵を特別枠に入れている。
「……う」
なんで好きにならないの、なんて無邪気なマスターの問いが脳裏に蘇る。
じりじりじわじわと、頬が火照り、耳まで熱くなる。
こんなの。
こんなの。
「……す、好きになってまう…………」
ぼそりと呟いて、以蔵はおーの、と顔を覆った。
■□■
「素直に好きになればいいのに」
と、呟いたのはマスターだ。
「好きになってくれたら良いのに」
そう呟いたのは、己の膝を借りて酔い潰れてすよすよと気持ち良さそうな寝息をたてる以蔵の髪を一筋指先に掬い、祈るように願うようにくちびるを寄せた誰かさんだ。
