この世の春

「あ~……」
「おっさんみたいな声出しなや」
「しょうがないよ、僕もうおっさんだもの……」
「……………………」

 隣から向けられる「うへえ」とでも言いたげな眼差しには気づかぬふりで、龍馬はざぶざぶと両手に掬った温泉の湯で顔を洗う。
 肉体的にはまだ若い姿で現界しているものの、享年は30を過ぎていたし、それから英霊として歩んできた長い年月を思えばおっさんを名乗っても許されるだけの働きはしてきたはずだ。
 冷え切ったまだ冬の気配の色濃い外気に冷えた肌に、湯の温かさが染みわたるようだ。
 閻魔亭での、部屋付きの露天風呂での一幕である。
 去年の活躍もあってか、今年もカルデアには閻魔亭よりの招待状が届き、こうしてのんびりとつかの間の休息を過ごすことが出来ているのだ。
 去年は様々な不幸な行き違いにより以蔵を置いてけぼりにしてしまった龍馬だが、今年はしっかりと以蔵と共に来ることが出来た。
 大浴場の方に行っても良かったのだが、のんびりするなら部屋付きの露天風呂の方がいろいろと気兼ねをせずにすむ。
 ぷうかりと湯に浮かべた盥の中には、銚子が三本ばかりたぷたぷと注がれた源泉に浸かっている。温めの燗といったところだろうか。
 すでに隣の以蔵はくいくいと手酌で銚子の中身を盃に注いでは飲み干しているので、あまりのんびりしていると全部飲まれてしまいかねない。

「ぼくの分、残しておいてくれよ」
「しゃんしゃん呑まんとなくなるぞ。とろこいおまんが悪い」

 意地の悪い言葉に、ひどいなあ、とぼやく声もひたすらに平和だ。
 露天風呂のへりに頭を乗せて、湯の中でくたくたと力を抜く。
 湯に浸かる気持ち良さに弱いのは日本人なら皆そうだろうが、すっかり骨まで抜かれてしまったような心地だ。
 あまりにも気持ちが良くて、酒に手を伸ばす気すらふやかされてしまう。
 温かな湯の中で飲む酒はきっととんでもなく美味いのだろうが、もう少し、この何もしない、という状態を楽しんでいたい。
 ぽやー……と身体から力を抜いて湯の中に揺蕩う心地を楽しんでいたところで。

「おい」

 ぎゅむ、と鼻先をつままれて龍馬はぱちり、と瞬いた。
 そうして視界が明るくなって初めて、ああ目を閉じていたのか、と気づくような有様だ。

「温泉で溺死する気かえ」

 呆れたような声音とともに、鼻をつまんだ手にそのまま吊り上げられて、龍馬はイテテテと呻きながら体を起こす。
 気づけば鼻の下までが湯に濡れているようなので、以蔵に声をかけられなければどぼんと一度は湯に沈んでいたところだったのかもしれない。
 半受肉状態とはいえ、一応は英霊の身だ。
 さすがに温泉で溺死してカルデアに強制送還、なんていうことにはならないだろうが、あまり情けないところばかり晒してしまうのも格好がつかない。
 龍馬はゆるりと腕を伸ばして、盥の中でほかほかと温まっていた銚子を一本取り上げた。

「以蔵さん、」
「おん」

 龍馬の意図を組んで、以蔵が盃をずいと差し出す。
 朱塗りの盃に透明な酒をとととと、と注いでやれば、以蔵は飲みっぷりも鮮やかに一息でそれをくいと空けた。

「温泉で飲むと、周りが速いっていうけれど以蔵さん、そんなに飲んで大丈夫かい?」
「はあ~~??? わしは土佐の男やぞ、こんぐらいで酔ってたまるかよ」
「うん……、それ、フラグにしか聞こえないのはなんでだろうねえ……」

 なんて小声でつぶやいたところで、ン、と隣の以蔵が腕を突き出してくる。
 一瞬意図が読めずにぱちくりと瞬けば、おまんも飲めや、なんて言葉が返ってきた。
 どうやら、返杯してくれる気になったらしい。
 カルデアで再会した折には、龍馬のことを裏切者と呼び、刀を抜きかけた以蔵が、今ではこうして温泉にともに浸かり、酒を酌み交わせるようになったのだから、カルデアで共に過ごした時間の濃密さが窺い知れるというものだ。
 思えば、たくさんのことがあった。
 以蔵がたっぷりと注いでくれた盃に唇を寄せ、くぅ、と一息に飲み干す。
 ぬるく暖かな酒からは豊潤な香りが立ち上がり、より甘く感じられる酒精がするすると喉を滑り落ちていく。

「あ~~……、たまらんちや~~……」
「ほんにおっさんみたいな声だしなや……」

 幸せだ。
 この世の春とは、きっとこういうことを言うのだろう。

「にゃあ、以蔵さん」
「なんじゃ」
「来年も、また来ようねえ」
「…………まあ、つきあってやってもえい」
「うん」

 幸せだ。
 ぐう、と湯の中で全身を伸ばして、またゆるゆると脱力する。
 そろそろ、女子風呂につれていかれたお竜も部屋に戻ったころだろうか。
 その頃合いにはきっと、贅を尽くした料理の数々が部屋に並べられてもいることだろう。

「幸せやにゃあ……」

 しみじみと、うっとりと、龍馬はつぶやく。
 このひと時の幸福が、他愛のない次の約束が、龍馬の背を押して、また歩き出すことが出来るのだ。

 

 

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