岡田以蔵には、記憶がある。
それは今生に生まれるより前の、いわゆる前世、と呼ばれるような類いの記憶だ。
ただそれが少しだけ巷で見かける類いの「前世」と異なるのは、今回が「三度目」に当たるということだ。
一度目の岡田以蔵は、幕末に暗躍した人斬りだった。
土佐に生まれ、京で暴れ、やがて土佐に送り返された後故郷の河原で首を落とされた。
それが岡田以蔵の一度目の記憶だ。
二度目の記憶は、カルデアなる真白の機関に英霊などという立場で召喚されてからの日々の思い出だ。
人理を守り、この世界を救うために時空すら飛び越えて縦横無尽に戦った。
思えば随分と荒唐無稽なものであるので、きっとそれは以蔵が子どもの頃より己の内で育ててしまった妄想の類いではあるのだろう。
建前上、以蔵はそういうことにしている。
いかに一続きの「岡田以蔵」としての記憶を持いようと、他に説明がつかない以上そういうことなのだと思うしかない。
そんな記憶の中に、ひとり、特別な男がいた。
その男の名を、坂本龍馬という。
薩長同盟の立て役者であり、高知の英雄として有名な偉人ではあるのだが、以蔵にとってその名前はそれ以上の意味を伴っていた。
以蔵のその不可思議な記憶の中では、坂本龍馬は岡田以蔵の特別だった。
生前は友としてあり、やがて道を違え、そして死後にまたカルデアで再会し、再びの友情を交わした。
イマジナリーフレンドにしては随分と設定が凝っているし、イマジナリーフレンドと呼ぶには以蔵の中にあるその男への感情はいろいろと屈折している。
同郷の親友と呼びたい気持ちと、同郷の誉れと尊び、またその反面嫉む気持ちと、友であったのに助けにはきてくれなかった、自分を捨てた憎い男だと思う気持ちと。
そんな感情がぐちゃぐちゃと以蔵の中では交ざりあっている。
だが、それはあくまで以蔵の中では「過去にあったかもしれないこと」であり、「自分にとっては酷く現実感が強いがあくまで妄想に過ぎない荒唐無稽な過去の夢のようなもの」でしかなかった。
そう。
あの日、道の真ん中でランドセルをひっくり返してわんわん泣いている子どもに遭遇するまでは。
黒々とした双眸をとろとろと涙で濡らして、身も世もないというようにしとしとと泣きじゃくる子どもは、以蔵の記憶の中にある坂本龍馬にあまりにもそっくりだった。
以蔵の記憶の中にいる坂本龍馬も、そういった泣き方をする子どもだったのだ。
全てに絶望したような顔で、しくしくほとほとと悲しげに頬を涙で濡らす。
そんな風に泣かれるとどうにも以蔵は弱くて、その子どもを泣き止ませる為ならばなんだってしてやろうという気持ちにさせられたものだ。
長じてからはすらりとした長躯の美丈夫なんて言葉は似合いの男になったものの、以蔵にとっての坂本龍馬像の根源は泣きみそのままだ。
そんな男が、まるで以蔵の記憶からそのまま抜け出してきたかのような姿で、道の真ん中でめそめそと啜り泣いていたのだ。
聞けばその子どもの名前は、確かに坂本龍馬、なのだという。
長年抱えていた疑問が、するりと腑に落ちていくのを感じた。
あれはきっと、いつかどこかで本当にあったことなのだ。
もしかしたらここではない世界での話なのかもしれない。
どこか違う、いわゆるパラレルワールドと呼ばれるような世界で起きた物事なのかもしれない。
だけれども確かに岡田以蔵にはその記憶があって、今こうして坂本龍馬にも出会ってしまったのだから、ここまできたのならばもうその事実を受け入れるしかないな、と覚悟が決まってしまった。
そうして以蔵が不思議な前世のようなものの記憶を改めて受け入れた傍ら、その子どもには以蔵と同じ類いの記憶はないようだった。
少しだけ、さびしかった。
以蔵は、龍馬の存在でもって幼い内から抱えていた不思議と、秘密を、ようやく呑み込むことが出来たのだ。
その秘密を分かち合う相手が出来たのではないかとの期待が裏切られるのは、仕方の無いことだとわかってはいてもやはりどうしようもない寂寥感を伴った。
ただそれでも、友情を交わすには随分と年の差に開きがあったはずなのに、以蔵のことを何も覚えていないはずのその子どもは、それでもなお身内でも何でもない以蔵に対して周囲が驚くほどよくよく懐いた。
以蔵の部屋を訪ねたがり、同年代の友人らと遊び回るよりも以蔵の傍にいたがった。
記憶にあるのと代わらないふにゃふにゃとした笑顔で「いぞうさん」と呼ばれて全身で親愛を示されるのは以蔵にとっても決して悪くはなかった。
お前は本当ならば自分よりも二ツ年上なのだぞ、と言ってやりたい気持ちにもなったし、もしいつかこの子どもに以蔵と同じ記憶が宿るようなことがあったのなら、あの以蔵の記憶の中にいる甘えたの末っ子でありながら以蔵に対して肝心なところでは庇護慾のようなものを明け透けに見せることも多かった男がどんな顔をするのかが楽しみでもあった。
両親が仕事で多忙にしており、家を空けることも多いこともあって、龍馬はよくよく以蔵の部屋に泊まりにきた。
見知らぬ若い男の部屋に子ども預けるなんて両親はきっと気が気ではないだろうと以蔵は慮っていたのだが、その辺龍馬はやはりあの以蔵の記憶の中にある坂本龍馬同様に大変賢い子どもであったので、まずは日々の帰り道に以蔵の家に立ち寄ることから始め、いかに以蔵が自分によくしてくれるのかを親に話し、龍馬がどうせ家に誰もいないのならば以蔵さんちにお泊まりしたい、と言い出す頃には、以蔵はすっかり坂本家の大人たちの信頼を勝ち得てしまっていた。
岡田さんのご迷惑でなければ、との申し出に、別に構いませんき、と返事をして以来、龍馬は月に一度か二度は週末になると以蔵の部屋に泊まるようになった。
2人で他愛もない話をしながら部屋でだらだらと過ごしたり、龍馬が宿題に励む傍らで以蔵が競馬新聞に目を通していたりと、特に特別なことをしてやっていたわけではない。だがそれでも龍馬は以蔵の部屋に泊まりたがったし、以蔵の慎ましい単身者向けアパートの部屋で過ごす日々を以蔵以上に慈しんでいるようだった。
特に特別だったのはきっと風呂だろう。
夕食が済んで、窓から吹き込む風が涼しくなってきた頃合い、以蔵は龍馬を風呂に向かわせる。ユニットバスなので、シャワーだ。龍馬が風呂を済ませてパジャマに着替えたら、今度は以蔵がシャワーを浴びに行く。
大体そういう流れだ。
だが、たまに。
本当にたまに、龍馬はどこか思い詰めた表情で、くい、と小さく以蔵の裾を引くことがある。
「…………あんにゃあ、以蔵さん、お願いやき、今日は一緒に風呂に入ってくれんか」
「…………………………」
うつむき、以蔵の顔をみないまま、ただただぎゅうと縋るように以蔵の服の裾を握る子どもの頭を一つぽんと撫でて、それから以蔵は「おん」とだけ小さく頷いて、黙ってバスタブに湯を溜めてやる。
それは二人の儀式だった。
龍馬が何か言いにくい秘密を抱えていて、一人で苦しんでいるとき、最初に一緒に風呂に入るかと誘ったのは以蔵だった。
バスタブに湯を並々と溜めて、二人で向かい合わせに肩まで浸かる。
そうしてたぷたぷと湯につかり、シャワーカーテンを閉め切ったバスタブの中にいるとまるで世界から完全に隔離されてしまったような気になってくる。
外の物音は遠く、ただ時折水がぽたりと落ちる音だけが響く。
ほかほかと温かな湯気とお湯とが身体を温めると、頑なだった心が柔らかに解けて、大事に隠していた秘密がぽろりと零れ落ちるのだ。
「……今日な、学校の先生に怒られた」
「珍しいこともあるもんじゃな。おまんはえいこやろうに」
以蔵の言葉に、ぽたり、ぽたりと子どもの黒々とした双眸から涙が落ちる。
「ぼく、なんもわるいことなんかしちょらんに、せんせい、話も聞いちゃくれんかった」
「ほうか」
「ぼくじゃ、ないのに」
「ほうか」
それは些細な行き違いだった。
腕白坊主がぶつかって、花瓶を落としたものの気付かずに走りさり、ガシャン、と花瓶が床で割れる音が響いたとき、たまたまその近くにいたのが龍馬だったのだ。
だからその音に廊下に出てきた先生は、それを龍馬の仕業だと思い込んだ。
「きちんと前を見て歩きなさい!」
そう叱りつけて、割れた花瓶の始末を手伝わせた。
ぼくじゃないです、との言葉にはぴしゃりと、「言い訳なんかするんじゃりません!」なんて返されてしまって、それきり龍馬は何も言えなくなってしまったのだという。
ぼくじゃないのに、と繰り返しながらぽたりぽたりと悔しそうに泣く姿はあまりにもいとけなくて、そしてそんな姿を、誰にも言えないでいる心の内をそうして以蔵にだけ打ち明けているのだという事実が以蔵の胸の内を酷く柔らかく擽っていく。
あのいつだって大勢の人に囲まれ、慕われ、物事の中心にいた男が。
以蔵の部屋のちっぽけなバスタブの中で膝を抱え、溺れそうなほどに湯に沈んで、ぼたぼたと悔しげに涙を落としているのだ。
手足は未だ棒きれのように細く、背丈だって以蔵の半分ほどしかない。
きっといつかはかつての英雄に相応しい男に成長するであろう子どもが、今はただただ無力な子どもとして悔し涙にくれている。
そんな子どもの泣き場所であれることが、以蔵には少しだけ誇らしかった。
「……おまんは、えいこじゃ」
ぐずりと鼻を啜る音がする。
「えいこじゃな、りょうま」
「うん、うん」
ぐずぐずと鼻を啜りながら、龍馬は目を真っ赤にして静かに泣く。
以蔵は、龍馬が泣き止むまで待って、それからたっぷりと涙の溶けた湯をそのつらい気持ちごとざぶざぶと抜いてしまってから髪を洗ってやる。
子どもの髪は細く柔らかで、よく汗をかくからか一度では泡立たない。
指の腹で丁寧に頭皮を揉み混むようにして洗ってやって、それから華奢な薄い背中も洗ってやる。たまにわざと力をいれて、「痛いよお!」と可愛らしい悲鳴をあげさせるのも以蔵の楽しみの一つだ。
毎回そんな意地悪をされるのに、それでもその子どもは以蔵が「お背中流しちゃりましょうかあ」なんて言うと、嬉しそうに「お願いします!」とくるりと背を向けてくる。
以蔵が悪い大人であったのなら、どうとでもしてやれるというのに、子どもやその家族から向けられるひたむきな信頼があまりにも心地良くて、何の躊躇いもなく差し出される柔らかな子どもらしい肉付きの華奢な背中がその象徴めいていて、以蔵はどうにもたまらない気持ちになる。
わしはな、おまんのことを一度斬ったこともあるがぞ、と教えてやりたくなる。
それを知ったならば、果たしてこの子どもはこうも素直に以蔵に背を向けるだろうか。
カルデアの龍馬は、どうだっただろう。
「………………」
以蔵の怒りを昇華するために、自ら受け入れて以蔵に斬られた男だ。
きっと、躊躇いなく背を向けたのだろうなあ、と思うとなんだか少し面白くない気持ちがした。
だからといって警戒を露わにされたりなどしても、以蔵はきっと傷つくのだろうが。
ちょっとした悪戯は、そんな複雑な気持ちの発露なのかもしれなかった。
意地悪せんでえ、というふにゃふにゃとした声を出す子どもに、先ほどまでの泣きべその名残が見当たらないことに内心密かに安堵しながら、以蔵はほどよい力で小さな背中を擦ってやり、湯を流してやるのだ。
風呂上がりには、甘いスイカが冷蔵庫で冷えている。
■□■
「あのね、以蔵さん」
そう、ぽっぽと目元を朱色に染めながら龍馬が口を開いたのは以蔵が食後のビールを冷蔵庫から取り出そうとしたタイミングでのことだった。
「んあ?」
思わず動きを止めて、言葉の続きを待つ。
そんな以蔵に対して、龍馬はてれてれと耳までうっすらと赤くしながら言った。
「一緒にね、お風呂、入らない?」
「狭いから厭じゃ」
即答だった。
指先に引っかけるようにして冷えたビールを取り出し、ばたむと冷蔵庫の扉を閉じる。
そんな以蔵に向かって大股に素早く距離を削った男は、そう言わずに、なんて言いながらひょいと以蔵の手の中にあったビールの缶を取り上げてしまった
何のつもりだと思わず半眼で睨みつければ、えへへ、と眉尻を下げた邪気のない笑みが返ってくる。
以蔵からビールを取り上げた男の手は、いささか以蔵よりも大きい。
横幅や厚みであれば以蔵の方がまだ少し勝っているような気もするのだけれども、手指の長さでは確実に負けている。
そう。
いつかの泣きみその子どもは、両親だけでなく以蔵の愛情まで受けて育ったからなのかいささか育ちすぎた。
すらりと伸びて以蔵を抜いてしまった背丈だとか、がっしりとした肩幅や、その胸板の厚みなどは同じ男として以蔵が思わず苦い顔をしてしまう程度には完璧だ。
そしてそんな完璧な男が、以蔵の恋人なのである。
どうしてそうなった。
ほんの子どもの時分に出会い、慈しみ、育ててきた男に押し倒されるなどと飼い犬に手を噛まれるよりも酷い事態である。
だが、まあしょうがない。
相手は坂本龍馬なのだ。
男が、龍馬がいつかの記憶を取り戻したのは進路に思い悩む学生の頃のことだった。
ちょうどその頃、以蔵は自分が傍にいることで可愛がっていた子どもがどんどん以蔵の記憶の中にいる『坂本龍馬』に似ていくことがなんだか恐ろしくて、少しばかり龍馬のことを避けていた。
自分の存在が、子どものあり方を歪めているのでは、という不安がどうにも拭いきれなかったのだ。
そんな以蔵に対して子どもは子どもらしい癇癪で、「わしは以蔵さんが大好きじゃ、やき、以蔵さんの好きなひとの真似して何が悪いんじゃ、そんひとのこと、わしはなんも知らんけんど、わしがそんひとに似てるち言うなら、きっとそれはわしもそんひとも以蔵さんに好かれたいからじゃ、わしより先に生まれて、わしより先に以蔵さんに出会ってただけのわしに似たひとがおるからって、そがなこと言うんはへこいちや、へこい……、わしはそんひとの真似しちょるわけやないんに、へこいいい」とわんわんぐずぐずと盛大に泣きながらの抗議活動に出た。
泣かれてしまえば以蔵は折れるしかなくて、わかったわかったもう避けたりはせん、と約束した後に、今まで誰にも話したことがなかった不思議な記憶を隣で何一つ疑うことなく、興味深げに聞く子どもへと話してやった。
思えば、龍馬の記憶が戻ったのはそれが刺激となったからだろう。
逃がしてやるつもりで、以蔵はとんだ虎の尾を踏んでしまった。
龍馬が記憶を取り戻してからは、依然と変わらぬ関係が続いた。
昔馴染みで、古馴染みで、過去の二世の記憶をわかちあう仲だ。
そんな関係は、龍馬が成人を迎え、二人で初めて酒を呑んだ夜に変わった。
否、この男が変えたのだ。
前の二世とは違うものが欲しいのだと駄々をこねて、男は以蔵の恋人の座に収まった。
まあこの男になら抱かれても、そういう関係になってみても良いかと思ってしまった時点できっともう以蔵は充分に絆されていたのだろう。
そして、現在である。
「……………………」
半眼で無言でビールを取り返そうとする以蔵から、スッと男は卒なくビールを遠ざける。手足の長さを見せつけるようにして少し離れたテーブルの上にビールの缶を置いてから、男は以蔵に何かおねだりする時の甘えた声で囁いた。
「にゃあ、えいろ、以蔵さん。わし、以蔵さんに髪洗うてもらうの、好きなんじゃ」
とろとろと蜜を煮詰めたような甘く低い、厭になるほど良い声だ。
その声で強請られるのに以蔵が知っての狼藉か。狼藉だ。
「……別に、ここじゃなくてもえいろ……」
子どもが大人になるほどの時が流れた今も、以蔵は同じ部屋で暮らしていた。
相変わらずの単身者向けアパートだ。
ユニットバスは悲しくなるぐらいに手狭で、どう考えても大の男が二人で浸かるようなスペースは確保出来るはずもない。
一緒に風呂が入りたいというのならば、その可愛らしい恋人のリクエストに応じてやっても良いとは以蔵だって思う。だがそれならせめて場所は選びたい。例えばホテルだとか、例えば男の部屋だとか。
どちらも以蔵の部屋の風呂よりも広く、立派だ。
脚を苦労して折りたたんでみちりと湯船に浸かることになるよりは間違いなくマシだ。
だというのに、男はわざとらしく眉尻を垂らして、ここがいいんだよ、なんて駄々をこねる。
「こん部屋でな、以蔵さんはいっぱいわしんこつ甘やかしてくれたろう?」
「……まあにゃあ、おまん、子どもやったき」
「そう、それだよ」
どれだ。
「記憶が戻る前の子どもの僕はさ、以蔵さんと一緒にここでお風呂に入ったことがあるのに、わし、ここで風呂使わせてもらったことはあるけんど、以蔵さんと一緒に入ったことないんやもん」
当たり前だ。
この男が記憶を取り戻したのは高校生の頃で、その頃にはもう以蔵と大して体格が変わらないほどには育っていたのだ。
何度でもいうが、以蔵の部屋の風呂は単身者向けのユニットバスだ。
「……にゃあ、以蔵さん」
いけん……? と上目遣いにじっと黒々とした双眸に見詰められて強請られるともう駄目だった。
特に、その随分と育った大きな手指がそっと手繰るように以蔵の服の裾を握っているのに気付いてしまったものだから、ますます余計に駄目になった。
以蔵はふいと龍馬から目をそらして、ぽそりと言う。
「後で後悔するんはおまんやぞ」
それぐらいしか言えなかった。
■□■
ちゃぷん、と湯の揺れる音がする。
トイレとセットになっているユニットバスではよその風呂のようにざぶざぶと湯を溢れさせるわけにもいかないので、二人分の体積が増えることを見越して最初から湯は少なめに張った。半身浴がやっというような、水遊び程度の湯に二人で向かい合わせに浸かる。
ぐんと水位を増した湯はそれでも二人の胸元ぐらいまではあって、以蔵はずりりと壁に背を預けるようにして頭の位置を下げて肩まで湯に浸かった。
予想通り、龍馬は嫌味なほどに長い脚を窮屈そうに折り曲げて、浴槽の縁に添わせており、以蔵は逆に無作法に脚を持ち上げてバスタブのへりに引っかけるようにして湯の外に出してしまっている。
「思ってたより狭いもんだねえ」
「やき後悔するぞ、ちわしは言うたんじゃ」
「はは、でも、うん…………嬉しいよ」
もに、と唇を本当に嬉しそうに、幸せそうに、いつかの子どものように緩めて言うもので、以蔵はなんだかすっかり不満を言う気も削がれてしまって、やる気なくほうか、とだけ相づちを打った。
「………………」
「………………」
ふわふわと湯気がたゆたい、ぴちゃん、ぴちゃん、と湯の落ちる音だけが響く。
シャワーカーテンの外は静かで、世界にまるで二人だけで取り残されてしまったかのようにすら感じられる。
「……にゃあ」
沈黙を破ったのは以蔵の方だった。
「なあに」
なんでもないような顔で男が応える。
でも、以蔵は知っている。
男がこうするときは、いつだって本当は泣きたい時なのだ。
するりと以蔵は半ば湯に沈めた両の手を組んで、ぴゅ、と水鉄砲を男の顔に向けて飛ばしてやった。びしゃりと命中して、けほりと男が小さく咳き込む。
「い、以蔵さん、なにするの」
「いじめじゃ」
「え」
「おまんをいじめとる」
「なんで」
「泣かしちゃろうと思うて」
はつりと男は不意を打たれたように瞬いた。
それから、以蔵に見透かされていることに気付いたのか眉尻がへにゃりと下がり、口元がぐっと堪えるようなへの字になる。
生意気にも堪えようとしているらしい。
「りょうま」
「………………」
「えいぞ」
「………………」
「……わししか聞いちょらんきな。我が侭でも、泣き言でも、言えばえい」
どんな泣き言だって、これまで以蔵はここで聞いてきた。
親に怒られた話、理不尽な目にあったけれども誰にも言えずに呑み込んだ話、本当は厭だった話、そういった男が一人で耐えると決めて、それでも溢れる気持ちをこれまで以蔵はこの場所で一つ一つくみ取って、聞いてやってきたのだ。
柔らかな沈黙の後、やがて龍馬のへの字に強張っていた口元がゆるゆると緩んで泣き笑いめいたため息がほろりと零れ落ちた。
「…………以蔵さんには、敵わないなあ」
「わしを誤魔化そうなんぞ百年早いわ」
「うん、……うん」
しみじみと何度か頷いて、それから男は子どもの頃から変わらぬ癖で、窮屈そうに身体を折り畳みつつもぶくぶくと口元ギリギリまで湯に沈む。
「…………ぼくね」
「おん」
「この部屋がね、すごくすきだった」
「…………おん」
そうだった。
いつだって、以蔵以上に龍馬はこの部屋を好いていた。
狭く、小さなありふれた単身者向けのアパートだというのに、そこで過ごす一時を得難い宝であるかのように、いつも幸福そうに笑っていた。
「なにも、悪いことなんておきてないのに、それでもやっぱり、ちょっとさびしくてね」
「おん」
俯いた頬を伝って、ほとりと涙が落ちる。
湯に落ちた涙はすぐにわからなくなる。
家主以上に部屋を惜しむ男がどこにいる、と笑い飛ばしてやりたい気もするが、その代わりに以蔵は自分でも存外に思うほど優しい声でその男の名前を呼んでやった。
「りょうま」
呼ぶ声に応えるように、おずおずと視線が持ち上がる。
以蔵は浴槽のヘリから脚をざぶりと降ろし、かわりぐっと前のめりに身を乗り出してもうほとんど湯に沈みかけている男の唇にちゅ、とキスを一つ送ってやった。
これは、子どもの頃から続く儀式にはこれまでなかったことだ。
「―――――」
涙に濡れていた黒々とした双眸が何をされたのか分からないというようにぱちりぱちりと瞬いて、それからやがてじわじわと目元が赤らんでいった。
「い、いぞう、さん」
「なきなや、なぁんも変わらんきに」
何も、変わったりはしない。
以蔵は以蔵で、龍馬は龍馬だ。
何も失われたりはしない。
ただただ二人で、前に進むだけだ。
環境は多少変わっても、それはそれだけのことだ。
「髪、洗っちゃろうか」
「……うん」
ざぶりと波を作って立ち上がり、ごぽりと湯を抜いていく。
それからどうぞというように差し出された頭にくつくつと笑いながら、以蔵は昔からそうしてやっていたように丁寧にシャンプーを泡立ててその髪を頭皮からしっかりと揉みこむようにして洗ってやった。
細く柔らかだった子どもの髪は、男が成長するにつれ太く硬くなっていった。
時の流れの中で、いつまでも同じものなどないのだ。
「おまんやって」
ぽつりと呟く。
「ん、なぁに」
「あん頃はこんまくて可愛かったんににゃあ」
もう、以蔵の懐に隠れるように潜り込んで眠る小さな子どもはいない。
それを寂しいか寂しくないかと問われれば確かに寂しくないわけではない。
だけども、以蔵はそれが喪失とは違うことをよく知っている。
なくしたわけではないのだ。
ただ、変わっただけだ。
そして、変わった今だって、決して悪くはない。
わざとらしく残念そうに呟いた以蔵の言葉に、頭を泡だらけにされながら男が小さく笑う。
「大きくなったぼくも、すきでしょ」
「……まあ、悪うはない」
ふっふっふ、と楽しそうに笑う声と一緒に頭が揺れる。
おとなしくせえと頭を軽く小突いて、またわしゃわしゃと洗う。
「ねえ、以蔵さん」
「なんじゃ」
「すきだよ、だいすき」
「………………しっちゅう」
そっけなく応えて、それから以蔵は泡でもこもこにした頭にシャワーを容赦なくざばざばとひっかけて流していった。
だばだばと滴る水が黒い絹のように男の髪を長く伸ばす。
持ち主ににて頑固なところのある癖ッ毛は、以蔵ほどではないものの乾くとピンピンと跳ねがちなのでこうも艶々と垂れる様はきっと以蔵しか知らぬ姿だ。
「水も滴る良い男じゃ」
「ふふふ」
嬉しげに笑って、大きな掌で顔に垂れる髪を前髪ごとまとめてぐいと背後に撫でつける仕草は随分と様になっていた。
普段は前髪に隠れがちの秀でた額が露わになる様子は以蔵がからかうつもりでいった「水も滴る良い男」なんて言葉があんまりによく似合ってる。
うっかり見惚れてしまいそうになって、以蔵はぐうと唸った。
ぶんと小さく頭を左右にして煩悩を振り払い、いつもの儀式を続ける。
「お背中流しちゃりましょうかあ」
「お願いします……、て言いたいところだけど」
「んあ」
これは、いつもと違う。
昔からの習慣がなくなってしまうのではないかと惜しんで泣いた男が、いつもと異なることを言い出す様に今度は以蔵がきょとりと双眸を丸くする。
男の腕が、するりと以蔵の腰を抱く。
それから、ふふりと楽しそうに笑みを含んだどこか艶のある声が囁いた。
「ぼくに、やらせて」
それは、以蔵が長いこと住み続けていたアパートを引き払い、恋人たる男とともに二人で決めた新居へと越す前日の夜のことだ。
二人きりの世界の外では、すっかり温くなったビールが汗をかいている。
