それは、偶然だった。
ふと坂本探偵事務所とは関係ない筋からの頼まれごとで出かけた先にて、以蔵は自らの雇い主剣が雇い主兼愛人以上恋人未満たる男がデレデレと女を口説いている現場に出くわしてぱちりとヒトツ瞬いた。
「ほお」
思わず低い声音が零れ落ちる。
浮気に対して腹を立てているわけではない。
そもそも浮気なんて概念が成立するほど貞淑な関係ではないのだ。
だからいっそ浮気であってくれたのならば、その方が面白がっていられたような気がする。以蔵の推測があっているのならば、おそらく男が口説いている対象は『仕事の相手』だ。何か引き出したい情報、もしくは欲しいものがあり、それを手に入れる手段としてその懐にするりと潜り込もうと試みているのだ。
あの男は誠実そうな面持ちで、そういった手練手管にとことん長けている。
以蔵ですら時折絆されそうになるのだから、筋金入りだ。
ただ、以蔵はそんな仕事があるという話を聞いていなかった。
それが問題だ。
あの男には以蔵に対して妙に過保護だという困った悪癖がある。
以蔵から遠ざけておきたいような物事が絡んだ依頼に関しては、所長自らひっそり引き受けてひっそり解決しようと試みるのだ。
それで上手くいくこともあれば、二進も三進もいかなくなった最悪な状況に突如巻き込まれるようなこともあるわけで、突如雇い主兼愛人以上恋人未満の男が死にかけているような有様に方込まれる以蔵の気持ちをもう少しあの男は配慮すべきである。
前回の誘拐事件については本当許していない。
いや本当。
というわけで、以蔵が知らされていない依頼についてこの男が勝手に一人で動いている、という状況が以蔵にとっては猛烈に気にくわないのである。
邪魔をしてやろう、と思ったのは極々自然な流れだった。
つかつかと二人の元へと歩み寄る。
先に気づいたのは男の方だった。
甘たるい色を浮かべて見せていた双黒の眼にわずかに動揺の色が浮かぶ。
まるで悪戯を見つかった子どものような、そんな一瞬のひらめき。
以蔵はくつ、と喉で笑うと、するりとそんな男の肩へと自らの腕を回した。
するすると指先で男の、シャツの上からは細身に見える、けれど存外にしっかりと鍛えられた肩の盛り上がりを辿り、擽るように。
「酷いじゃないですか」
意図的に掠れさせた声音に熱を込めて甘く囁く。
男がびく、と小さく肩を跳ねさせたのは以蔵の口から出た普段とは異なる流暢な標準語に驚いたからなのか、それともその声音にこめられた甘やかな熱にか。
「今日は一日中一緒にいてくれる、って昨日あんなにベッドで言ってくれましたのに」
ちらりと、男の隣にいる女へと視線を流す。
突如現れた以蔵の言動についていけていないのか、女は呆然と瞬いている。
たいしたことのない女だ。
この男が相手をするほどの価値なんてない女だ。
「こんな女なんかより」
気づいたら、するりと続きが口をついて出ていた。
これはいかんちや、と以蔵はちょっと思う。
言うつもりのなかった言葉が出てきそうだ。
ただ勝手に一人で仕事を受けて、勝手に以蔵を危険から遠ざけようとする男に対してのささやかな意趣返し程度だったはずなのに。
なんだか、自分でも想定外の言葉が、ぽろりと。
「ぼくの方が、好きでしょう?」
返事は、がたんッ、と男が席を立つ荒々しい物音だった。
そのまま逃がしてたまるかとでも言うように、男の長い腕が以蔵の腰を攫い、引き寄せ、それだけでは飽き足らぬというように小脇に抱え上げた。
悔しいが、正解である。
自分でも思ってもみなかった言葉を吐いてしまった以蔵は、今すぐにでも身を翻して逃げだそうとしていたのだから。
「――すみません。ちょっと、所用を思い出しました」
それでも一声女に言葉をかけたのは崩れかけた紳士の建前の最後のひとかけだった。
人々の注目を大いに集めながら、男はずんずんと大股に店を後にする。
「おい、龍馬」
「なに」
「えいんか」
「えいよ」
返事は短い。
その短い言葉の中に諸々の感情が煮詰まっているかのようだ。
以蔵には見えないが、きっと以蔵を小脇に抱えて突き進む男はその黒の眼に獣のような熱と慾を滲ませているのだろう。
「以蔵さん」
「なんじゃ」
「明日は事務所休みにするね」
抱き潰す、という宣告以外の何ものでもない休業通知に、以蔵は呆れたようにしつつ。
男には見えない角度で、ひそやかに満足げな笑みを浮かべた。
