失恋

「にゃあ」
「おん?」

 それは暑い夏の日のことだった。
 放課後の教室、窓辺では日に焼けて白んだカーテンが風に吹かれてひらひらと泳ぐように揺れていた。
 本を読みつつ、課題をこなす幼馴染みを待っていた龍馬はかけられた声に視線を擡げる。
 課題に取り組んでいたはずの幼馴染みは、机の上に広げられたテキストから顔をあげて龍馬を見ていた。

「どういたがか、以蔵さん」

 さては課題が厭になったのかな、と思う。
 課題を手伝いとおせ、だとか。
 もういっそ放り出して帰りたい、だとか。
 そんな泣き言を言い出すのかと、龍馬は堪え性のない幼馴染みを宥める心の準備をする。
 この二つ年下の幼馴染みは、勉強をあまり得意とはしていない。
 今取り組んでいる課題も、中間試験で赤点を取ってしまったからこその補習だ。
 この課題をこなさない限り、以蔵が何よりも情熱を注ぐ部活への参加は認められないということになっている。
 もうちょっとだから頑張ろうね、だとか。
 どこかわからないところでもあった? だとか。
 そんなことを言うつもりで次の言葉を待っていたら、以蔵は本当になんでもないことのようにさらりと言葉を続けた。

「わしな」
「おん」
「おまんのことが好きやき」
「お、…………ん?」

 相づちを打ち損ねて、龍馬はぽかんと眼を丸くする。
 なんだか、妙なものを口の中につっこまれて、それを咀嚼しそこねたまま丸呑みしてしまったかのような心地がする。

「好き、って」
「そのまんまじゃ」
「え、そのまんま、て言われても」

 すき、にも種類がある。
 友情。
 親愛。
 敬愛。
 そして、恋愛。
 以蔵の言う「すき」はいったいどちらのことなのか。
 ――なんて。
 本当は、考えなくともわかっている。
 わざわざこうして口にして、告げたぐらいだ。
 きっと、それは恋情を伴った「すき」なのだろう。

「以蔵さん、僕は」
「わぁっとる。すまんの。言うておきたかっただけじゃ」

 龍馬の言葉を最後まで待たず、以蔵はにかりと笑って見せた。
 傷ついた風もなく。
 まるでそうなることが最初からわかっていた、とでも言うように。
 龍馬にとって、以蔵は大切な幼馴染みだ。
 好きだし、大事にしたいとは思っている。
 けれどその気持ちは決して恋情によるものではない。
 龍馬はこの年頃の男としては当たり前のようにふかふかと柔らかな女性の身体に興味を持っている。
 自分と同じごつごつと骨張り、肉の硬い男の身体はそういった対象にはなり得ない。

「以蔵さん」
「謝るなや、謝ったら殴っちゃるきの」
「うん」

 さらっと告げられた言葉は、まるでいつもの軽口と変わらなかった。
 以蔵は龍馬から興味を失ったかのように、再び手元に広げたテキストへと視線を戻す。
 緩く癖のついた前髪が、下がる。
 かりかり、とシャーペンの動く音。
 窓の外からセミの声がする。
 わあわあと遠くから聞こえるのは部活に精を出す生徒たちの声だろうか。
 この教室の中だけがひどく静かだ。
 柔らかに伏せられた以蔵の眼が見たいな、となんとなく思った。
 今、どんな顔をしているのだろう。

「ねえ」
「何じゃ」

 視線をあげずに、声だけが応える。
 こっちを見てほしいのに、以蔵は視線すらくれない。

「僕の、どこが好きなの?」

 ようやく、以蔵が顔を上げた。
 蜜の色をした眼が、龍馬の黒と交わる。
 残酷なことを聞いた自覚はあった。
 もしかしたら、龍馬は以蔵の傷ついた顔が見たかったのかもしれない。
 あんまりにも以蔵があっさりと失恋を受け入れたように見えたから、もう少し、もう少しだけでもその恋の終わりを悼んでほしいなんて、ロクでもない我が儘を抱いてしまったのかもしれない。
 フン、と以蔵は鼻で笑った。

「もうおまんには関係のない話やき」
「――――」

 もう。
 そうだ。
 龍馬が、その恋を終わらせた。
 だから、以蔵がどんな想いを抱えていようがそれは以蔵だけのもので、龍馬にはもはや関係のない話だ。
 以蔵は好意を告げ、龍馬はそれを受け入れられなかった。
 ただそれだけの話で、撥ねのけられた以蔵の気持ちは、今となっては以蔵だけのものだ。
 撥ねのけた龍馬には知り得ぬものだ。
 サリサリと、シャーペンが紙をひっかく音が響く。
 龍馬は手元に広げていた本も忘れて、ぼんやりとただただ以蔵を眺めていた。
 己の知らぬ何かよくわからない感情を胸に秘めながらも、それをきっと今後一生龍馬にだけは教えてくれる気のないであろう男を、ただ見つめていた。

   ■□■
 
 その日の夜。
 龍馬は以蔵を抱く夢を見た。
 同性の筋張った硬い身体を愛でることに抵抗は驚くほどになかった。
 甘い蜜色の瞳が熱に蕩ける様にひどく興奮したし、なんなら夢精までした。
 翌朝眼が覚めて、しばらく呆然とした。
 家族にバレぬよう、一人浴室で下着を洗う切なさをかみしめると同時、それが見知らぬ豊満な女体に対する欲情ではなかったこと戸惑った。
 いつものように迎えにきた以蔵の顔をがまとも見られず、妙にドギマギしながら並んでいつもの通学路を歩く。
 以蔵はいつも通りだ。
 昨日失恋したとは思えないほどに普通で、まるで龍馬一人が白昼夢でも見たような気がしてしまう。

「以蔵さん」
「何じゃ?」

 以蔵は躊躇いも戸惑いも見せずに龍馬を見る。
 今までと変わらない、ただの幼馴染みの距離感で、龍馬を見る。
 やわこい蜜の双眸はひどく静かで、嗚呼もう恋心は死んでしまったのだなと思った。
 あの昼の教室、ゆらゆらとカーテンの泳ぐ二人きりの教室で龍馬は以蔵の恋心を殺し、そして何か得体の知れない執着をその裡に湧かしてしまったのだ。
 その執着の名を、

 

 

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