それは、とある日の深夜の事だった。
撮影の近くなった仕事の為に、台本を読み込んでいた龍馬はぐうと腹が鳴る音に視線を伏せる。
別段目で見てわかるほど凹んでいる、というわけはないのだけれども、つい目視で確認してしまう。
なんとなく、へこんだ気のする腹をそろりと掌で撫でて、ノビをしながら立ち上がる。
以蔵はもう寝ている頃だろうか。
自室を出て、共有スペースの居間へと向かう。
何か食べられそうなものをキッチンで漁ろうと思っていたのだけれども、何があるだろうかと考えたところで脳裏に閃いたのはこってりとした味の濃い豚骨醤油ラーメンだったりした。
「――……こらめった」
小声で呻く。
一度閃いてしまったら、その考えをどうにも脳裏から追い出せない。
香ばしい醤油と、こってりとした豚骨の味わいが舌の上に蘇って、どうにもそれを食べないことには収まりがつきそうにない。
幸いなことに、駅前の辺りまで出ればこの時間でもまだ開いている店があるのはわかっている。
ちらりと時計を見る。
時刻は三時を回ろうとしている。
こんな時間にラーメンなんて食べてしまえば、翌朝後悔するのは目に見えている。
肥満にもつながりやすい。
別段脱ぐような仕事がすぐに控えているわけではないが、スタイルの維持は役者にとっては義務だ。
アア、それでも。
「ラーメン食べたい……」
一度火のついた欲望はどうにも消えてくれそうにない。
仕方ない。
節制は明日からにしようと決めて、龍馬は一度自室に戻って上着をひっつかむ。
油断しきった部屋着ではあるが、上からコートを羽織ってしまえばこんな時間に出歩く分には問題ない程度には誤魔化せるだろう。
ごそごそとコートを羽織りながら居間を覗けば、晩酌をしたまま寝入ったのかソファで丸くなる同居人、以蔵の姿を発見した。
「以蔵さん」
肩に手をかけて揺する。
ゆさゆさゆさ。
龍馬と違って寝起きの良い以蔵は、眠たげに目をしょぼつかせながらも、それでもすぐに起きたようだった。
「りょぉま?」
少し舌足らずな、甘えたような声音に名を呼ばれる。
「こんなところで寝てると風邪ひくよ」
「…………、」
のた、のたと瞬いて、眠たげにとろんとした蜜色の焦点が龍馬の上で結ばれる。
「……、どこか、出かけるんか」
くわあ、とあくびまじりに問われるのに、龍馬は少し視線を彷徨わせる。
こんな時間からラーメンを食べに外に出かけるなんて大層罪深い行為だ。
悪いことだ。
法で規制されてもおかしくないような悪事だ。
が、嘘をついて後でバレた方が大事である。
間違いなく、わしをおいていきゆうがかとややこしい拗ね方をされる。
「ええとね、その」
「おん」
「ラーメン、食べたくなっちゃって」
「………………」
「………………」
じい、と龍馬を見る双眸から目をそらす。
以蔵は目先の慾に弱いという弱点を持っているものの、意外なところで潔癖で真っ当だ。
だらしなく部屋を散らかしがちなのは龍馬の方だし、料理の類いを引き受けて同居生活の基盤を担っているのは以蔵である。
なのでこれは怒られるやつか、と龍馬はでかい図体を縮こめるようにして沙汰を待つ。
「龍馬」
「はい」
「わしも行く」
「え」
「今上着取ってくるき、先玄関出ちょき」
「う、うん」
ばたばたと以蔵が上着を取りに部屋へと戻る。
なるほど。
深夜のラーメンの誘惑には以蔵であっても抗えないとみた。
以蔵が上着を取りに行っている間に軽く戸締まりを確認し、部屋の鍵を上着のポケットに突っ込んで、突っかけに足を突っ込む。
どうせこんな時間だ。
知っている人間に出逢うこともあるまい。
先に玄関先に出て、はあ、と息を吐く。
まだ息が白くなるほどではないが、秋から冬へと季節の変わる頃、夜は随分と冷える。
足音が近くなってくるのが聞こえるのにあわせて、玄関を開けてやる。
スウェットの上から、スカジャンを羽織った以蔵はその雰囲気と相まってまるでその辺のチンピラだ。
「以蔵さん、ガラ悪くないかい」
「おまんも似たようなもんじゃろうが」
「確かに違いない」
ふはは、と緩んだ笑いを零す。
部屋着の上からコートだけをひっかけて、なんだか学生時代にでも戻ったような心地がする。
もう大人であるし、こんな時間に外に出たところで誰に咎められるわけでもないのに、なんだか悪いことをしているような気がして気がはしゃいでしまうのはどうしてだろう。
「以蔵さん、何にする?」
「駅前の店じゃろ。なら豚骨醤油一択じゃ」
「餃子は?」
「つけん気か?」
視線を交わし合ってにんまり笑う。
「以蔵さんはわりことしやにゃあ」
「おまんもじゃ」
ほいたら今日は二人でわるいことしよか、と言えば。
にししと笑いながら、わざとらしいそぶりでどんと肩をぶつけられて、これまた龍馬もわざとらしくよろけて、わざとらしくやり返したりなんかして。
肩をぶつけては勢いで離れ、また寄り添っては肩をぶつけて反動ではじかれ離れ、揺れて、ゆらりぐらり、夜気に冷える両手はポケットに無造作に突っ込んだまま、二人は仲良く歩いていく。
目指すは駅前のラーメンだ。
