それは、重苦しい曇り空の日のことだった。
雲がある分過ごしやすいかとも思ったのだが――…そんなささやかな期待は見事に裏切られ、じっとりとした蒸し暑さが空気を火照らせている。
着ているシャツが素肌にまとわりつくような不快感に、龍馬は眉を寄せる。
曇り空は果たして気圧のせいなのか。
龍馬はどんよりと鈍痛を抱えて重い頭に手を添えて小さく息を吐く。
「なんじゃあ。おまん、そがにのうが悪いがか」
隣からかかった声に、うん、と力なく頷く。
軟弱じゃのう、と笑った幼馴染は、それでも少しばかりは心配してくれたのか、龍馬が手にしていた買い物袋を無造作に引き受けた。
「わしが持つ。おまんは鍵でも開けとうせ」
「うん」
頷いて、龍馬はポケットから自宅のカギを引っ張り出す。
同郷の幼馴染と都会で同居を始めて、数年が過ぎた。
最初のうちは小さなトラブルもぽつぽつあったものの、もともとが幼馴染ということもあり、今ではすっかり上手くやることができている。
今日も、そろそろ食材やら日用品のストックがなくなるから買い出しに行くぞと、幼馴染の岡田以蔵が提案してくれたのだ。
龍馬は、気の利く男だ。
たいていのことなら人並み以上にこなすことができる。
だが、どうしてだが龍馬には基本的な生活能力、というのが欠けていた。
一方龍馬の幼馴染である岡田以蔵という男は、誘惑に弱く、流されやすいというトラブルメーカーでありながら、そういった生活能力及び家事能力に関してはすこぶる有能だった。
今回も、龍馬は以蔵に言われなければ日用品のストックがきれかけていることだったり、冷蔵庫の中身がほぼほぼ空になりつつあることにも気付かなかったはずだ。
がちゃり、とカギを開ける。
ドアをあけると、朝出たばかりのはずなのに、妙に湿った匂いが鼻をついた。
長いこと空気の流れが滞っていたかのような。
まるで久方ぶりに扉を開かれた空き家であるかのようだ。
天気のせいだろう。
いつもであれば日中であれば明かりが要らない程度に光の差し込む家であるのだが、今日はそもそもその外の明かりが分厚い雲に遮られて乏しい状態だ。
室内の暗さと、空気中のじっとりとした湿気が龍馬にそんな不思議な錯覚をさせるのだ。
「こっちはわしがやっちゃるき、おまんはおとなしゅう休んどき」
「ありがとう、ごめんね、以蔵さん」
「なんちゃあない」
大荷物を抱えて、以蔵はさっさとキッチンへと移動する。
買い込んできた生鮮食品の類を冷蔵庫にしまうのだろう。
せめて、日用品の整理ぐらいは手伝いたいな、と思いながらも頭の重さに負けて龍馬はリビングのソファにぐったりと腰を下ろす。
最近、仕事を詰めすぎただろうか。
少し休んで、それでも良くならなかったら頭痛薬に頼るか、なんて算段をつけつつぼんやりと薄暗い天井を眺める。
背後からは、扉を開く音や、袋をあさるガサガサとした音が聞こえている。
きっと、以蔵が忙しくキッチンで動きまわっているのだろう。
と。
そこで、ピンポーンと玄関のチャイムが鳴る音がした。
ちらりとキッチンの様子をうかがう。
相変わらず、がさがさ、ごとんごとん、ばたん、と忙し気な物音が響いている。
もしかしたら以蔵は玄関のチャイムが鳴ったことにすら気付いていないのかもしれない。龍馬はのったりとした動きで立ち上がると、のそのそと玄関へと向かう。
なんの約束もしていなければ、なんの予定もない。
おそらく何かの集金か、訪問販売の類だろう。
訪問販売であったなら、丁重にお断りしてさっさと帰ってもらおう。
そんなことを思いつつ、玄関の扉を押し開ける。
「なんじゃ、おまん。まだのうが悪そうじゃのう」
「……えっ」
小さく、声が零れる。
「暑いんじゃ、さっさと入れとぉせ」
「あ、うん」
玄関口をふさぐように立ち尽くす龍馬を押しのけるようにして、大荷物を抱えた以蔵がのしのしと家の中に入ってくる。
龍馬の頭の中にはたくさんのクエスチョンマークが飛び交っている。
以蔵なら、キッチンにいたはずだ。
それがどうして、今玄関から入ってくるのか。
「ええと、その、以蔵さん?」
「何じゃ」
振り返った以蔵が、月色の眼で龍馬を見る。
そうやって正面から待たれてしまうと、何を言ったらいいのかがわからなくなって、龍馬は喉の奥で弱りきった呻きをあげた。
今キッチンにいなかった?
今一緒に買い物行ってなかった?
なんで外から帰ってくるの?
そんな疑問をぶつけてみたいが、それらが正気の沙汰ではないのは龍馬自身がよくわかっている。龍馬がどう思っていようと、以蔵が今大荷物を抱えて外から帰ってきた、ということは事実なのだ。
だから、
「買い物、いってたの?」
なんて、当たり障りのないことを聞くだけにとどめた。
「おん。本当ならおまんにも手伝わせてやろう思うちょったんじゃけんど、のうが悪いんじゃしゃーなしじゃ」
「そっか、ごめんね、以蔵さん」
「なんちゃあない」
以蔵は、大荷物を抱えたままキッチンへと引っ込んでいく。
なんとなく、ついていく。
キッチンはがらんと暗く、静かだった。
きっと、先に以蔵と一緒に買い物にいった、というのは家で休んでいた龍馬が見た夢のようなものだったのだろう。
その証拠に、キッチンには先に買ってきた――と龍馬が思っているような食品や日用品の袋はどこにも置かれていない。
ああ、ただ一つだけ。
キッチンテーブルの中央に、一抱えほどの茶色い紙袋だけが置かれていた。
「以蔵さん、それ」
「なんじゃ、またおまん変なもん買うて来たんか」
「僕じゃあ」
ない、と最後まで言うより先に、以蔵はしっし、と犬猫でも追い払うような所作で龍馬をキッチンから追い出す。
「おまんは休んどき」
「うん、ありがとう」
がぽん。
がさごそご、ごと、ごと。
冷蔵庫をあけて、荷物を取り出して、中に納めて。
そんな忙しく以蔵が動き回る音だけが聞こえてくる。
それに耳を傾けながら、龍馬はぐったりとソファに座り込む。
長い脚を投げ出して、ほとんどソファに身体を沈みこませるような自堕落な体勢だ。
ずきずきとした鈍痛は、ますます酷くなっているような気がする。
やはり、薬を飲むべきだろうか。
身体まで、ずっしりと重く感じる。
どれくらいぼんやりしていただろう。
ピンポーン、とチャイムが鳴る音で龍馬の意識が浮上する。
背後からは、未だ忙し気な物音が聞こえているので、龍馬がぼんやりしていたはそれほど長い時間ではなさそうだ。
以蔵は忙しそうにしている。
龍馬は重い身体を引きずるようにして立ち上がり、玄関へと向かう。
そうしてドアに手をかけて、ふと、同じことが少し前にあったことを思い出した。
「―――あ」
耳を、澄ます。
背後、キッチンのあたりからは今もがさごそと以蔵が荷物を整理する音が響いている。
がぽん。
冷蔵庫をあけて。
がさごそ。
荷物を取り出して。
ごと、ごと。
並べる音。
では、今、玄関先にいるのは?
「―――」
喉がカラカラに乾く。
ずきずきと頭が痛む。
ドアノブにかけた手を静かに引く変わりに、龍馬はゆっくりとドアへと身を寄せた。
覗き穴から、外を見る。
ドアの外には、岡田以蔵が立っていた。
大荷物を片手にまとめてぶら下げて、空いた片手でTシャツの胸元を引っ張り風を入れようとたりなんかしつつ、龍馬が玄関の扉を開けるのを待っている。
もう少し待たせれば、きっといつものように「龍馬ァ、おらんのか!」なんて呼びかけ始めるだろう。
「なんで」
呆然とつぶやく。
以蔵なら、台所にいるはずだ。
だって台所からは、
「――え」
しぃんと。
背後から聞こえてくる音が途絶えていた。
何も聞こえない。
龍馬以外の人がいるとはとても思えない静けさだけが、この空間を満たしている。
「嘘だ、以蔵さん、なんで」
よたよたともつれる足で、龍馬はキッチンへと向かう。
その背に向けて、玄関の外から「龍馬ァ!」と呼ぶ声が聞こえたような気がしたが、今はそちらを気に掛ける余裕がない。
台所は、静かだった。
明かりの落ちた台所にはじっとりとした蒸し暑い空気と、どんよりとした薄暗さのみが漂っていた。
キッチンテーブルの上には、先ほど龍馬と以蔵が買い込んできたはずの荷物も、以蔵が買い込んできた荷物のどちらも乗ってはいなかった。
慌てて確認した冷蔵庫の中も、変わらずに空っぽのままだ。
ただ、先ほどと同じように。
茶色い一抱えほどの紙袋だけが、キッチンテーブルの真ん中にぽつんと置かれていた。
メロンや、スイカが入っていそうな袋だ。
何か、丸いものが。
そろりと、紙袋へと手を伸ばす。
痛いぐらいに、こめかみでガンガンと心音が木霊する。
その紙袋を開けてはいけないと本能が訴える。
でもこのわけのわからない状況を打破するためには、その紙袋の中を確かめなければいけないのだということが龍馬にはわかっていた。
そして、指先がかさりと紙袋に触れた瞬間。
「なんじゃ、龍馬。おまんおったんか。ドア開けてくれてもえいが」
そんな声が、した。
立ち尽くす龍馬の隣をすり抜けて、以蔵が台所へと足を踏み入れる。
そして、真っ白な顔色をした龍馬を見て、気遣わしげに眉を寄せた。
「のうが悪そうじゃき、休んどき」
龍馬は、ふらふらと台所を出た。
ソファに、どすりと腰を下ろす。
わけが、わからない。
何が起きているのかが、わからない。
けれどきっと、もうすぐまた玄関のチャイムが鳴るのだろうということだけは確かだった。
ピィン、ポーン。
チャイムの音がした。
■□■
「っていう酷い夢を見てさ」
参った、と小声で漏らした龍馬に向かって、薄情な幼馴染はゲラゲラと笑った。
カルデアにおける、龍馬の自室でのことだ。
龍馬が朝からあまりにもひどい顔色をしていたからだろう。
珍しく以蔵の方から、酒でも飲むか、と誘ってきてくれたのだ。
二人、床に座り、ベッドに背をもたせかけるようにして酒を飲む。
「おまんもお人よしじゃのう」
「そう?」
「そがな怪異、斬り捨てちゃればえい」
「やだよ」
物騒な解決案を口にする以蔵に、龍馬は眉尻を下げる。
例え得たいの知れない怪異だとしても、この幼馴染と同じ顔をした怪異を斬り捨てる、というのは龍馬にとってはあまりしたいことではなかった。
「第一、夢の中の僕は普通の人だったしね。帯刀もしてなかったよ」
「ほうか。そりゃあ厄介じゃのう」
刀がなけりゃあ敵は斬れん、と不満そうに唇を尖らせて以蔵は手にしていた杯の中身を干す。
と、そこでコンコン、とドアが鳴った。
「誰ぞ来る用でもあったがか」
「や、ないと思うけど。マスターかな」
よいせ、と立ち上がって龍馬は扉へと向かう。
カルデアの中であるし、特に用心など必要ないとわかっていても、扉の外にいる人間を確かめてしまったのは今朝がた見た夢のせいだろうか。
そして、龍馬はぽかんと眼を丸くした。
「え?」
理解が、間に合わない。
扉の外には、以蔵がいた。
右手にはぶらりと無造作に酒瓶をぶら下げ、もう片手には何かつまみめいた包み」を携えて。
龍馬の背後は静かだ。
くらくらと頭が痛んだ。
