蝉時雨

 じいわ、じいわと蝉が啼いている。
 うだるような暑さの中を、以蔵はてくてくと歩いていた。
 人ならぬ身とはいえ、生前の記憶を反映しているのはどうにも熱気が身に染みて額からはふつふつと汗が浮く。
 それでも身に纏う装束を変えなかったのは、それが気の迷いであることを知っているからだ。所詮この身は仮初のもので、完全に人として受肉しているわけではないのだ。
 あくまで人のふりをしているだけで。
 人だった頃の記憶に引きずられているだけで。
 だからいくら汗をかいたところで以蔵が脱水で命を落とすことはない。
 必要のないことで霊力を消費してまで身に纏う装束を変えるのは馬鹿らしかったし、もしかしたら以蔵はそうやって生前の記憶を反復することを心のどこかでは望んでいたのかもしれない。
 生きている人間のふりをして、このどこだかわからない街の片隅で以蔵は日々を過ごしている。
 
 この地はどこなのか、何なのかは誰も知らない。
 
 ただこの地に召ばれたことだけは覚えている。
 そしてこの地には以蔵の他にも呼ばれたものたちが何人もいた。
 マスターがいるわけでなく、何か理由があるわけでもなく。
 特に戦う理由もないのなら、と現在のこの地では平和協定のようなものが結ばれていて、街中で偶然すれ違う程度ではそろそろ驚くこともなくなってきた。
 ビルの隙間をぐねりぐねりと這うように揺れる坂道を登った先が以蔵の目的地だ。
 坂を上り終えた後には今度は古びた雑居ビルの二階に続く階段が待ち構えている。
 別段これぐらい、英霊となった身には何でもないことなのだが、なんとなく面倒な気持ちになるのはやはりこれも生前の記憶に引きずられてのことだろう。
 階段を一歩一歩踏みしめて二階に上がる。
 突き当りのガラス戸には「坂本探偵事務所」なんて名前が白字で描かれている。
 そう。
 この地に召ばれた英霊の中には、以蔵にとって因縁深い男、坂本龍馬も含まれていた。
 龍馬は得体のしれない状況に巻き込まれていると把握するや否や、こうしてこの街における活動の拠点としてかつて帝都に設けられていたのと同じ「坂本探偵事務所」を設立した。

「こうしておけば妙な噂も入りやすくなるだろうし、この地の人々に怪しまれる心配も少しはなくなるからね」

 そう言って眉尻を下げて笑ってみせた男に、以蔵はなんと答えたのだったか。
 以蔵さんも探偵事務所の人間ということにしておいた方がよくないかい、とおずおずと問うた男に、なんと。
 結局以蔵は今もふらふらと根無し草を続けている。
 それがきっと曖昧な記憶の答えだ。
 以蔵は男の傘下につくことを良しとはしなかった。
 誰かの下につく、ということに対して嫌気がさしていたのかもしれないし、それがいろいろと思うところのある幼馴染が相手ともなればなおさらだと思ったのかもしれなかった。
 それでもこうして時折思い出したようにその男を訪ねてしまうあたり、以蔵の中にあるこの男に対する想いもなかなか儘ならない。
 いっそ嫌いになれてしまったのなら、楽なのだろうとは思う。
 過去の思い出も何もかも捨ててしまって、あの男への憎しみだけを胸に生きていけたのなら。
 そんなことを考えている間に階段は上りきってしまった。
 からん、と小さく来客を知らせるベルを鳴らして事務所へと足を踏み入れる。
 クーラーが稼働しているのか、外に比べると室内は涼やかだ。
 少しばかり呼吸が楽になったような気がする。

「お邪魔しまァす」

 小さく声をかけるが、返事はない。
 いつもなら戸をくぐると正面にある執務机にこの事務所の所長たる男が腰を掛けているものなのだが。
 留守なら留守でまあいいか、と踵を返しかける。
 別に、何かこれといった用事があったわけではないのだ。
 来た道を戻りかけたところで、ふと男の呻く声が以蔵の耳を打った。

「―――」

 足音を殺して、一歩前に出る。
 声は、本来なら来客のために用意されたソファから響いてくる。
 以蔵の位置からは、今はまだ何も見えない。
 静かに距離をつめて覗きこんだ先、そこには以蔵が探していた男がごろりと横たわっていた。

「――、許し……、わしが……」

 苦し気な言葉がぽつり、ぽつりとその唇から零れ落ちる。
 眠っている癖に眉間には皺が寄り、まさに煩悶の態といったところだ。
 男は魘されて、何度も何度も、過去を悔いる言葉を繰り返す。
 二度と取り返しのつかない過去への謝罪を繰り返す。

「以蔵、さ……」

 じいわ、じいわ、と蝉が鳴く。
 締め切られた窓は熱気こそシャットアウトしてくれるものの、蝉の声までは遮れないようだった。
 
「しょうまっこと、五月蠅い蝉じゃのう……」
 
 嗚呼、こんな日だった、と以蔵は思う。
 以蔵が河原に引き出され、首を落とされた日も、蝉はうるさく鳴いていた。
 きっとこの男が以蔵の訃報を知らされた日も、こんな風に蝉が煩く鳴いていたのだろう。
 
 英霊となった以蔵には、文献として残る己の死後のことが知識としてある。
 この男は以蔵の死を知って、わんわんと啼いたのだと言われている。
 おんおんと声をあげて、子どものように哭いたのだと。

「まだ泣き足りんがか、こン泣きみそ」

 ゆっくりと手を伸ばして、うっすらと男の目元に浮かぶ涙を指先でそろりとぬぐってやる。乾いた指先に感じる熱いしずくに、何を思えば良いのだろう。
 頭がそれほど良くないと自覚のある以蔵には、胸の内に湧く感情に対する正しい名づけは難しい。
 ただわかるのは、この男の泣き顔には昔から弱い、ということぐらいだ。
 慰めて、あやして、泣き止ませてやらなければなんて言う風に思ってしまう。
 三つ子の魂百まで、なんて言葉は本当なのかもしれない。

「安心せえ」

 ぽつり、と小さく呟きを落とす。

「わしはおまんを恨んじゃいやーせん」
 
 本当はわかっていた。
 道が分かたれたのは彼が悪いわけではないのだと。
 ただあまりにも苦しくて、悲しくて、彼一人が大きな夢を追って駆け抜けてしまったものだから、取り残された以蔵はどうしていいのかわからなかったのだ。
 駆け抜ける彼の背中を見送ることしかできなかったから。
 自分のたどった道も、その最中で得た苦しみも、痛みも、全部彼にぶつけてしまった。
 彼にとって己は背後に置き去りに出来るほど軽やかなものだと思ったならば、せめて恨み言の一つでもその身に負って欲しかった。
 だが、この男は以蔵が思う以上に以蔵の死を引きずり続けている。
 蝉の声が煩い季節になると、こうして魘される。
 首を落とされ、死んだ本人である以蔵以上に、その死に拘り続けている。
 何か出来たのではないか。
 あんな終わりは避けられたのではないかと。
 そして、何もできなかった過去の己を責めて、届かぬ謝罪を魘され続けるのだ。
 いじめられた子どものようにでかい図体を丸めて涙を零す男の目元を優しく指先でぬぐってやる。

「もう、泣きなや」

 言い聞かすような囁きを落としていれば、少しずつ男の眉間から皺が溶けていく。
 苦し気に呟かれていた謝罪の言葉が、許しを乞う声が小さくなり、次第に静かになっていく。
 その様子に以蔵は小さく息を吐いて、ゆるりと手を引き――そこで、ふと眠っていたはずの男の瞼がわずかに震えた。

「……ん、……以蔵、さん?」

 ぼんやりと持ち上がった瞼の下、双黒の焦点が以蔵に重なる。
 それに対して、以蔵はなんでもないように明るく笑って見せた。
 
「なんじゃ、起きたんか。その顔に落書きしちゃろうと思っちょったのに」
「らくがき?」
「まあえい。おまんが起きたならそれはまた次の楽しみじゃな。わしはいぬるぞ」
「えっ、ちょ、待ってよ以蔵さん!」

 追いすがる男の声は聞こえないふりをして、以蔵はさっさと踵を返す。
 もう、以蔵の用は済んだ。
 もう、この男は泣いていない。
 じいわじいわと静謐を犯す蝉の声音はもう遠い。
 だからもう良いのに。
 すたすたと玄関に向かいかけた以蔵の手を、がしりと男の手が捕まえる。
 大きな手だ。
 土佐にいた頃、待ってよ以蔵さんと以蔵を追いかけていた小さな子どものものとは思えない、大きく成長した大人の男の無骨な手指だ。

「なんか僕に用があるんじゃ……ッ」
「そがなもん無い!!」
「いやいや用もなくここに来たりなんかしないでしょ、何か困ったことに巻き込まれてるんじゃないの? それとも魔力が足りなくなった? 先週もほら、ポメ」
「じゃかあしい!」

 以蔵は男の言葉を遮るように吠える。
 現界するための魔力が枯渇した結果、なんの因果か人の形を保てず小型犬の姿にまでなってしまったのはつい先週のことだ。
 魔力供給の名目でこの男相手にされたことを思うと今でも気が遠くなる。
 犬を相手に何を考えているのか。

「以蔵さん!」

 低く、縋るような声で名を呼ばれる。
 まるで、またこの男の知らぬところで以蔵に何かあるのではないかと恐れる声だ。
 あんまりにも必死な声と、己の手首をつかんで離さぬ男の馬鹿力っぷりに以蔵ははあとため息をついて振り返る。

「なんちゃあない。蝉がようけ鳴いちょるき、ここなら静かかと思っただけじゃ。クーラーもついちょるしな」
「なんだ、涼みにきたの?」
「おん。やき、おまんが間抜け面晒して寝ちょったんで帰るとこじゃった」
「ごめんね、最近ちょっと忙しくて」

 はは、と男が小さく苦笑する。
 チャンスだと思った。
 よし今の隙に逃げようと腕を引きかけたところで、ぐいと逆に強く引きよせられた。

「こ、こン馬鹿力が!」

 バランスを崩して蹈鞴を踏んだ以蔵の身体を易々と引き寄せて、男はそのままひょいと抱き上げると先ほどまで男自身が寝ていたソファの上に下ろす。
 ご丁寧なことに、以蔵の頭の下には男の硬い腿がある。
 膝枕だ。

「僕は十分休んだから。以蔵さんも、寝ていくといいよ」
「おまん……人の話を聞いちょるがか。わしは帰るち」
「いいからいいから、ね?」

 聞き分けのない子どもをあやすような、甘やかすような声音で囁きながら、男の手指が乱れた以蔵の髪を撫で梳く。

「お願いだから。外は暑いきにね。熱中症になってしまうよ」
「なるか、わしはサーヴァントじゃ」
「それでも」

 お願いだよ、と柔らかな声音で縋るように言われるのに、以蔵はどうにも弱い。
 渋々と抵抗をやめて、こうなったら口にした建前通りゆっくり涼しい事務所で休んでいってやろうと思ってくったりと身体から力を抜く。
 もすりと襟巻に顔を埋めるようにして。

「寝る」
「おん」

 男の長い手指が、するすると以蔵の髪を梳く。
 それが思いのほか心地良くて、以蔵の意識はゆるゆると午睡に溶けていった。
 
 
■□■

 

 龍馬は、癖のある柔らかな以蔵の髪を指先に梳きながら窓の外から響く蝉の声に耳を傾ける。
 
 じいわ、じいわ。
 
 いつかの夏を思い出させる声だ。
 過去の後悔を呼び起こす声だ。
 いつか迎えにいくつもりで、それでも背後に置いていってしまったものが永遠に喪われてしまったことを突き付けられた日以来、耳の奥で龍馬を責めるように哭き続けている。

「――以蔵さん」

 柔く、その名を呼ぶ。
 龍馬の膝に頭を乗せて、すよすよと気持ちよさそうに寝息をたてる男は答えない。
 けれど、その吐息こそが彼の生きている証だった。
 そっと身を屈めて、眠る彼の額に唇を寄せる。
 夏の、蝉時雨に溺れそうな日のことだ。
 

 

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