夏の夜

 はたり、と扇が揺れる。
 窓の外には今も白く吹雪が荒れているはずなのに、その男の周囲だけが夏の夜の空気を香らせていた。
 水浅葱の着流しを粋に着こなし、帯には紺鉄と海松藍とが半々に熔けている。
 表面に白々と波立つような青海波が涼しげだ。
 きっと、眼の色に合わせたのだろう。
 日頃どちらかというと見てくれには気にかけず、野趣に溢れた格好ばかりしているが、この男は意外と洒落者でもあるのだ。
 右の足はだらりと下ろし、左は胡座でも組むよう中途半端におられている。
 乱れた着流しの裾が若干目の毒だ。
 癖のある黒髪も今はいつもより高い位置でまぁるく結われ、見慣れぬ着流し姿と合わせてどこかしどけない印象を受ける。

「夕涼みかい、以蔵さん」

 声をかけると、海松藍とも蜜ともつかぬ月色の双眸が持ち上がって龍馬を見た。
 ゆるりと口の端に笑みが乗る。

「おん。暦の上じゃあ、夏じゃき」
「そうなあ」

 ここは一年中こうなのだという。
 白い吹雪に閉ざされ、空を見ることすら叶わない。
 窓の外に見える景色からは、季節の移ろいなど何も感じることは出来ない。
 かつりと革靴を慣らして歩み寄っても、彼の人は特に嫌がるそぶりは見せなかった。
 それを招かれている、ととるのはさすがに図々しすぎるだろうか。

「僕も、ご相伴に預かってもいいかな」

 一人夏を愉しむ男の傍らには、なみなみと冷酒の注がれた枡がある。
 その隣には、きっとキリリと冷えているのであろう澄んだ硝子の徳利がヒトツ。
 男はふすん、と小さく鼻を鳴らす。

「厭じゃ」

 やわらかな声音だった。
 何もかも受け止めてくれそうなほどにくたくたと柔らかな布のような風情で、男ははっきりと拒絶を口にする。
 駄目か、と肩を落としかけたところで、また声が飛ぶ。

「その格好、なんとかしぃ」
「なんとか、て」
「夏らしいの、なんかあるじゃろ」

 言われて、は、と瞬く。
 口の端に、笑みが浮かぶ。
 そうだ。
 そうだった。
 せっかくの夏なのだ。
 こんな、いつもと変わらぬ海軍服など、無粋だろう。

「そうだね、以蔵さん」
「おん」

 はたりと、扇が揺れる。
 真白の扇が、ゆぅらりと揺れて風を送る。
 完全に気温をコントロールされた室内において、そんなわけはないとわかっているのに 送られる風からは、夏の夜にしか咲かぬ花が甘く香るような気がして、酒の前にその香に酔ってしまいそうだった。

「ちっくと待ちとおせ」
「はよせんと、わし一人で飲んじゃるぞ」
「すっと戻るきに」

 早足に一度その場を後にする。
 龍馬ら英霊の身につける衣服というのは純粋な布地によるものでなく、あくまで己の魔力で編まれた一種の霊衣だ。
 なので、本当ならば着替えに戻る必要などない。
 それでも、一度以蔵の前を下がったのは――あの場の空気を壊したくなかったからだ。
 あの場であっさり魔力の再編にて身に纏う服を変えてしまうのは、あまりに情緒に欠ける。だから、龍馬はもどかしくても一度部屋に戻る手間を惜しまなかったのだ。

「ああでもついでに、」

 とっておきの酒でも持っていこう。
 気持ちの良い夜に、彼と酒でも酌み交わせればととっておいた逸品があるのだ。
 こんな夜こそ、秘蔵の酒を出すのに相応しい。
 腹の底からこみ上げる幸福感に、口元をむにむにと緩めながら龍馬は自室へと続く廊下を早足に進むのだった。
 
□■□

 何を着ようか迷って、迷った。
 龍馬はわりと着道楽でもあって、生前は箪笥の中に様々な着物を集めていたものだ。
 それを一枚一枚頭の中に呼び起こして、どれにしようかと思案を巡らせ、あまり遅くなっては以蔵が拗ねるだろうし、龍馬自身も早くあの場に戻りたい気持ちが焦れて、結局葡萄色の着流しを一枚するりと羽織ることにした。
 この色なら、以蔵の着る紺鉄にも良く映える。
 帯は、さりげなく揃いの海松藍にした。
 洋装を着込むようになって長いが、やはり和装の方がしっくりとは来る。
 緩く素肌の上を滑る涼やかな布の感触が心地よい。
 足下は下駄にして、片手にとっておきの酒瓶を携えからころと彼の元へと急ぐ。

「以蔵さん」
「おお、やっと戻ったがか」

 窓辺に佇む夏の夜を纏った男が、龍馬を振り返る。
 まじまじと眺められると、なんだか急に気恥ずかしくなった。
 思わず片手が泳いで首もとまで持ち上がるものの、今は顔を隠す中折れ帽はない。

「あんまり見ないでよ」
「おまんのそがな格好を見るのは随分と久しぶりじゃ」
「どっか変かな」
「よく似合いゆう」
「良かった」

 と、言いつつ。
 似合う、なんて言われてもやっぱり照れてしまって、きっと龍馬の目元は酒の入る前からほんのり赤く染まってしまっている。

「以蔵さん、わしもとっておきの酒、持ってきたきに。呑んどうせ」
「そりゃあえい」

 くう、と枡の中身を一息に空けて、ぷはりと酒精の蕩けた息を吐いた以蔵が龍馬に向けてついと空の枡を差し出す。
 とっとっっと、と手にした酒瓶よりまけまけいっぱい注いでやれば、嬉しそうにその月の色をした瞳が細くなった。

「えい夜じゃ」
「おん」
「おまんも呑めや」

 ひとくち、ちびりと舐めるように酒を啜った以蔵が枡を龍馬へと差し出す。
 怖いほど澄んだ酒精がひたりと枡の中で揺れる。
 受け取って口元に運べば、すっきりとした酒と、ほのかに甘い木の香りが混ざってなんとも言いがたく美味だった。

「……おいし」
「じゃろう。ほいたら次はわしじゃ」
「おんおん」

 ヒトツきりの枡が違いの間を行き来して、するすると酒精を干してはうっすらと赤く染まった目元を交えてわらいあう。
 極寒の真白に染まるカルデアで、今ここだけは確かに夏の夜に満ち満ちていた。

「げにまっこと、」
「えい夜じゃ」

 

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