ざざん、ざざん、と波の音がする。
ざざん、ざざん、と打ち寄せて、さぁああああっと引いていく波の奔流に弄ばれて小さな貝が細かく砕けた砂が擦り合う音が微かに響く。
龍馬は、ぼんやりとそんな音を聞きながら海を眺めていた。
酷く澄んだ海だった。
龍馬の知る故郷の海よりも鮮やかに蒼く、碧がかり、透明な水の下にうつくしい生き物のきらきらとしら色合いを多分に含んでいる。
少しばかり赤く色づいて見えるのは珊瑚だろう。
宝石と並んで扱われることもある美しいいきものをじっくりと観察する良い機会だというのに、どうしてだかそんな気力がわいてこなかった。
これだけ豊かで、美しい海だ。
少し浜辺を散策するだけで、きっと珍しいものがいろいろと見られるだろう。
お竜に渡してやれるような、綺麗な貝殻の一つや二つも見つかるかもしれない。
カエル以外にはさほど興味を持たないようなお竜であるが、龍馬の見繕ったそういった雑多な土産ものや贈り物を、あの優しいかみさまは存外に気に入って、大事に保管してくれているのだ。
これまたどこかで見つけた、ちょっと可愛らしいクッキーの空き缶にそういったこまごまとしたものを収めておいて、暇なときにたまに取り出し、ひとつひとつ大事そうに磨いているのを龍馬は知っている。
だから、いつもの龍馬であったならばお竜の喜びそうなものを探して浜辺を散策するところだ。
そうしないのは、きっと少しだけ、そう。
ほんの少しだけ疲れてしまっているからなのだろう。
たす、たす、と波の音に交じって柔らかな砂を踏む足音がした。
「おい」
げし、と背中に衝撃。
小突くような軽やかさで、蹴られたのだ。
眉尻をへにゃりと下げて振り仰げば、そこには心底不機嫌です、と顔に書いてあるような顰め面で龍馬を睥睨する古馴染みの姿があった。
以蔵だ。
先ほどまでは鮮やかな第三再臨の姿でもって朱色の袖をなびかせ刀を振るっていたものの、今は古ぼけた黒のインバネスコートを羽織った第一再臨の姿に戻っている。
何か用かな、と問うよりも先に、どんな気まぐれが働いたのか以蔵はどっかりと龍馬の隣へと腰を下ろした。
「………………」
開きかけた口を、閉じる。
何か用か、なんて問いは平常心を装うための誤魔化しのようなものだ。
どうして以蔵がやってきたのか、心当たりがないようなそぶりをするためのものだ。
だが、こうして以蔵が隣に座ってしまったのならそんなフリなど無用だ。
以蔵は、龍馬を気遣っている。
龍馬を気にかけているからこそ、こうして隣にやってきた。
そんな以蔵の、泣いている子どもを放っておくことのできない長男気質というか、面倒見の良い優しい心遣いがわかってしまったら、それを無碍にすることなど龍馬にはとてもできなくなってしまうのだ。
平気なふりが、痛くないふりが、出来なくなる。
否、やろうと思えば出来るだろう。
いくらだって、龍馬は己の感情を偽ることが出来る。
大人らしい理性的な振舞いを為すことが、出来る。
だから、正確には以蔵を前にするとそんな自制をしようという気概が萎れるというべきなのだろう。
甘えて、しまう。
以蔵の見せる優しさに、甘やかされてしまいたくなる。
「にゃあ」
「うん?」
ぽつりと口を開いたのは、以蔵だった。
「こん海は、わしが知っちゅう海と同じ海か」
唐突に投げかけられた疑問に、龍馬はぱちりと瞬く。
質問の意味がよく、わからなかった。
今二人の目の前にあるのは、『海』ではあるのだろう。
だが、二人が知る『海』と完全に同じ定義のものである、とは名言しがたい。
何せここは特異点だ。
もう少し質問の補足が欲しくて眼差しで促せば、以蔵は襟巻に口元を埋めるようにしてぽしょぽしょと再び口を開いた。
「……わしの知っちゅう海とは、色が違うき」
「ああ、そうだねえ」
二人の知る海は、もう少し色が濃かった。
こんなにも目に痛いほどに鮮やかに明るい色はしていなかった。
深みのある濃い青をしていて、空よりもなお青く、藍に近い色味だった。
「ここは特異点だからね、多少魔力による変質もあるのかもしれないけど――…、海、というのはね、以蔵さん。透明なんだよ。ほら、手に掬った海水に色はついてないだろう?」
「……おん」
「光の具合なんだそうだよ。海というのは、空を映しているからこその青なんだ。で、空を映す水の透明度だったり、水の深さによってどういう色味に見えるのかが変わってくるんだ」
「ほお」
自分から聞いた癖に、以蔵の相槌からは気が抜けていた。
もう、自分から聞いた癖に、と苦笑しようとしたところで、ぼんやりと海の遠くに視線を彷徨わせながら、以蔵はやっぱり何でもないように呟く。
「おまんの青じゃな」
「――――」
小さく、息をのむ。
以蔵は、ちらりとも龍馬に視線をやらぬまま言葉を続ける。
「おまんの青は、海の青じゃ」
「…………どういう、」
「空を映しとるき、場所によって人によって違うように見えゆう」
けんど、と以蔵は続けた。
ようやく、海の向こうをぼんやりと眺めていた琥珀が龍馬を見る。
まっすぐに、龍馬を、見る。
他の何物でもなく、坂本龍馬という男をまっすぐに見る。
「海には違いない」
ああ、と小さく龍馬の呼気が、震えた。
そうだね、と頷く。
そうだと良いと思った。
「……あのね、以蔵さん」
「おん」
「…………ぼくは、ほんとうに、たすけたかったんだ」
「知っちゅうわボケ」
この特異点で、エネミーである魔獣に襲われている子どもを見つけたのは偶然だった。
襲われている子どもを助けるのは、当然のことだった。
少なくともカルデアの一行の中においては、常識だった。
だから、龍馬も助けに入ったのだ。
魔獣と切り結び、この隙に早く逃げて、と振り返った先で子どもは心底怯えた目で龍馬を見た。
どうして、なんで、なにも返せない、いやだ、たすけて、と子どもは繰り返した。
その子どもにとって、親切は当たり前ではなかったのだ。
純粋に子どもを助けるために魔獣と戦う、なんていうことはその子どもの中にはない発想だった。
だから、子どもは怯えた。
魔獣よりも何よりも、助けに入った龍馬にこそ一体どんな意図があってそんなことをするのか、その見返りに一体何を求められるのかと怯えたように身体を震わせ、庇おうとした龍馬の腕から逃れるように駆けた先で別の魔獣の爪にかかった。
龍馬は、ただ助けたかっただけなのに。
ただ、親切にしたかった。
優しくしたかった。
けれど、そのまごころは伝わらなかった。
「………………いぞうさん」
「なんじゃ」
「…………以蔵さんには」
どんな風に、見える。
そう問う声は音にはならなかった。
龍馬は、かつて以蔵を助けられなかった。
以蔵の窮地に駆け付けることができなかった。
以蔵を、置いていった。
そんな龍馬だ。
どんな風に見えるのかなんて、聞くまでもないだろう。
阿呆なことを言ってごめんね、と言いかけたところで。
にゅ、と伸びてきた腕が、ぐしゃぐしゃと乱暴に龍馬の頭をなでた。
子どもの頃、龍馬が泣いているとよく以蔵がしてくれたのと変わらぬ仕草だ。
「…………」
以蔵が立ち上がる。
見上げる龍馬を、以蔵の蜜の色が見下ろす。
「以蔵さ、」
「わしの」
くるりと以蔵が踵を返す。
襟巻の端がひらりと舞う。
「一等好きな、故郷の海の色をしゆう」
それを、どんな顔で、言ってくれたのか。
「以蔵さん!」
龍馬は慌てて立ち上がると、ばたばたと砂を蹴って以蔵を追いかけた。
真っ白な砂浜に、ぽろりと零れた白の中折れ帽が一つ、転がっている。
