岡田以蔵が生きていた時代には、誕生日という概念はなかった。
年が明ければ皆当たり前のように一つ年をとり、生きている限り皆平等に年をとる。 よほど信心深くなければ日々昇る日にいちいち感謝するものがいないように、それは以蔵たちにとってはあんまりにも当たり前のことだった。
だから。
「以蔵さん、誕生日おめでとうございます」
そんな風にマスターである少年に言われたとき、どう返したらいいのかわからなくて困ってしまった。
おめでとう、と言われたって、以蔵はもうとっくに死んでいる。
今ここにいる以蔵は生きてはいない。
この世に生まれ落ちてから年を一つ一つ重ねてここまできたわけでなく、この身は所詮人理に焼き付いた影法師に過ぎないのだから。
今から百と何十年か前かに生きた岡田以蔵そのものであるかどうかすら怪しい。
だから、おめでとう、と言われても以蔵にはその実感はないし、かけられた祝福の意味すらわからずにただただ困惑して口元の襟巻にふかりと口を埋めることしかできない。
以蔵がもっと賢い人間であれば、こういう時に返す正しい言葉がわかるのだろうか。
マスターに、困ったような顔をさせずに済んだのだろうか。
以蔵のことを必要としてくれて、以蔵のことを大事に使ってくれるマスターに、あんな申し訳なさそうな顔をさせずとも。
「………………」
はあ、と深々と息を吐く。
考えたって、仮定したって仕方のないことだ。
以蔵はこの形で固定されてしまった。
これが岡田以蔵という男だ。
愚かで、人を傷つけ殺めることしか出来ないモノだ。
その腕だって確かかどうか今となっては怪しい。
なんていったって、マスターの傍にはいくらだって強いものがいる。
以蔵よりも強いものがいくらだって控えている。
そうともなれば以蔵なんてただのナマクラだ。
マスターにとっては数ある道具の中でも、特に使えるわけでもない刀の一振り、という程度にすぎない。
それなのに、マスターは以蔵のことを気にかけてくれる。
以蔵本人ですら覚えてもいないような以蔵の生まれた日を覚えていてくれて、わざわざ以蔵に声をかけてくれた。
おめでとう、と言ってくれた。
それなのに、以蔵はその気持ちに対する正しい返答がわからない。
何を言っていいのかがわからなくて、ただ黙って襟巻に口元を埋めることしか出来なくて、マスターを困らせてしまった。
「わしはほんに阿呆じゃのう……」
喜んで見せればよかった。
ありがとうにゃあ、と笑ってやればよかった。
そしたらきっとマスターは笑ってくれた。
そして何事もない、数いるサーヴァントの一人の誕生日の一つとして、特にマスターに蟠りを残すこともなく終わることが出来た。
吐き出した息が、以蔵の憂鬱をそのまま形にしたように白くもわもわと虚空に広がっていく。
そう。
今日が以蔵の誕生日だということはすでにカルデアの中では周知の事実となってしまっていた。
バレンタインと重なってしまったのも良くなかったのだろう。
お祭り気分で華やいだ気持ちの延長でカルデアに集う古今東西の英霊たちは皆以蔵を祝おうとしてくれるのだ。
「おお、小僧か。手合わせでもどうだ、相手をしてやるぞ」
そう言って呵々と笑ったのは年老いた李書文だ。
普段であれば以蔵の方から挑発、もとい誘いをかけて仕方ないな、という態で手合わせに応じることの多い男がわざわざそうして声をかけてきたのもやはり、今日が以蔵の誕生日、だからなのだろう。
「なあイゾー、今日はアンタの誕生日なんだろう? おめでとさん、なあなあ、今夜は久しぶりに飲みでもどうだい? いい酒仕入れておいたんだよ!」
そういってからからと笑ったのは燕青だ。
「なんだ、君たち、今夜は宴会でも開くのか? ああ、そうか。岡田くんは今日が誕生日だったな。なら腕によりをかけてつまみを作ろう」
なんて言い出したのはカルデアのキッチンを預かる紅い弓兵だった。
誕生日を祝うのが当たり前のような皆の優しい言葉にこそ、じわじわと追い詰められていくような心地がしてしまって、気づいたら以蔵はカルデアの外に彷徨い出てしまっていた。
そこは、一面の白だ。
人であれば、それなりの防寒具を身に着けなければきっとすぐに肺から凍てついてしまいそうな、そんな極寒の白い世界がカルデアの外には広がっている。
そんな真白の中にぽつねんと佇んでいると、自身の身すらそのうち白く染まって、その場に溶け込んでしまえるような気がした。
それでも、魔力を編んで緋色の和傘をこしらえたのは、体温でゆるりと解けた雪が頸筋からすべりこんでくるのに閉口したからだった。
さ、さ、さ、と微かに傘の音に雪が積もる音が聞こえる。
ぼんやりと、どれくらい佇んでいただろう。
ぴ、ぴ、と聞きなれない電子音が小さく耳元で響いた。
『いぞう、さん?』
小さく、そっと名を呼ばれる。
「マスター、か?」
声を返すと、繋がった先で少年が安堵の息を小さく零す気配が伝わった。
確か、先日ダヴィンチが開発した小型の通信機だ。
マスターとサーヴァントの間にある魔力の繋がりをラインに見立て、通信を可能にしているとかなんとか言っていた。
今はまだカルデアの敷地内でしか使うことが出来ないのだが、そのうちレイシフト先でも使えるようにしたいからまずは試作品を試してほしいと持たされていたのだ。
『あの……』
「…………」
『すみません、なんだか、戸惑わせてしまったみたいで。その。以蔵さんたちの時代には誕生日を祝う習慣がなかった、って聞いて。いきなりお祝いしちゃって、びっくりさせちゃいましたよね』
「……………………」
耳元で響くすまなさそうな子どもの声に、以蔵はくたくたと膝を折ってその場にしゃがみ込む。埋まりたい。いっそ雪の底にでも沈んでしまいたい気持ちだった。
マスターの優しい気持ちをうまく受け取れなかったどころか、こんなにも気を遣わせてしまうなんて。
すみません、なんて謝らせてしまった。
「謝らんとおせ。マスターはなぁんも悪ぅない」
『……でも』
「………………」
謝ってほしかったわけじゃない。
けれど、では何が欲しかったのかと言えばそれもまた自分でも把握できていない。
ただ以蔵にはマスターを筆頭に差し出されたたくさんの厚意をどう受け止めて良いのかがわからなくて、すっかり困ってしまっているのだ。
それは本当に自分が受け取って良いものなのか。
由来もわからず、正しく己に向けられたものなのかもわからない。
そんな何もわからない愚かな己が、優しい人々の差し出すものを受け取ってしまってよいのだろうか。
せめて、何がわからないのか、何に戸惑っているのかを言葉にして説明できたのなら。
以蔵の幼馴染でもある男であれば、きっとうまく解決できるだろうに、以蔵はその男ではないから、ただ黙りこくっていることしかできない。
いや、もしかすると以蔵は恐れているのかもしれない。
わからないということを打ち明けて、こんなこともわからないのかと見放されてしまうのが怖いのかもしれない。
以蔵に優しい厚意を向けてくれた人々に、そんな価値もない男だということが露呈してしまうことを恐れているのかもしれない。
『……あのね、以蔵さん』
ぽつり、と耳元で声がする。
『こんなこと、言ったら以蔵さんを傷つけてしまうかもしれないんだけど』
お前はもう用なしだと。
そんな風に言われてしまうのかもしれないと冷えた手をぎゅうと握りしめる。
『俺は、以蔵さんと会えたことが嬉しいんです』
「……へあ?」
思わず、以蔵の口から間の抜けた声が零れ落ちた。
『なんだろな。生きてる人相手に言うお誕生日おめでとう、って、すっごくシンプルなんですよ。生まれてきてくれてありがとう、ってことだから。ここまで生きてこられて良かったね、みたいな。あ、でもなんかこれよくぞここまで生き抜いたな、みたいな悪役のセリフみたいですね。いや、そういう意味はないんですよ。ただ単純に、今年も無事に誕生日を迎えられたことがめでたいな、っていうような意味で』
「…………おん」
そういう意味なら、少しわかるような気がした。
今日まで無事に生きてこられたことがめでたい。
その意味合いなら、以蔵にもわかる。
正月がめでたいのと同じだ。
去った年一年を無事に乗り越え、新しい年を無事に迎えることが出来たのだからめでたいのだ。
『……だから俺、そのノリで以蔵さんにもおめでとう、って言っちゃったんですけど』
「…………おん」
『なんだか、以蔵さんにとってはあんまり嬉しくないことだったのかな、とも思って。俺、反省したんです』
「…………???」
急に、マスターの言っていることがわからなくなった。
何故、それが以蔵にとってはあんまり嬉しくないこと、になったのだろう。
「マスター」
『はい』
「……なんじゃ、その」
少し、口ごもる。
わからないことをわからないと言うことは以蔵にとっては勇気が要る。
けれど、それでも口にしてみようと思ったのは、耳元で響くマスターの声が以蔵に対して真心を伝えようと真摯な誠意に満ちていたからだろう。
もしくは、声だけ、だからこそ比較的冷静に話をする気になれたのかもしれなかった。
「……わしは、頭が悪いき。どいてマスターがわしに悪いち思うたのかがいまいちピンと来ん」
『ええと。その。…………、生きている人に対しての誕生日なら、誕生日おめでとうっていうのは、これまでその人が生きてきてくれたことへの感謝だったり、今年も誕生日も迎えられたことへの喜びだったりが籠ってるわけなんですけど。その。……、以蔵さんたちは、その』
「ああ、わしらはもう死んでるきの」
言いにくそうにしたマスターに対して、以蔵はすっぱりと口にする。
『……そうなんです。以蔵さんは過去に生きて、もう、亡くなった人で』
「だから、祝うのが悪いち思うたんか?」
『それも、あります』
「それも?」
『………………』
しばらくの間、以蔵の耳にはマスターの言葉に迷うような息遣いだけが幽かに響く。
まるでそれは、つい先ほどまでの以蔵自身の沈黙によく似ている。
素直に言葉を告げたいと思いつつも、それが相手を傷つけはしないかと恐れるような。
優しさと臆病さによる静かな沈黙だ。
けれど、マスターは以蔵とは違った。
勇気と誠実さだけを携え、以蔵やその他のサーヴァントたちのように敵を倒す術すら持たないままに幾度となく特異点を巡り、乗り越えてきた少年はきっと今回もまた己の持ちうる勇気を振り絞り、その気持ちを以蔵に伝えようと言葉を尽くす。
『……部外者である俺が、こんなことをいうのは本当に、失礼だとも、思うんだけど』
「おん」
『以蔵さんの人生って、以蔵さんにとってはあまり良い終わり方をしなかったんじゃないかな、って、思ってしまって』
「まあ、そうじゃな」
望んで迎えた最期ではなかった。
あんなふうに河原で首を落とされて終わる最期など、誰だって望むまい。
だからこそ以蔵はその原因の一端を自らの幼馴染に見出して、その男を裏切り者と呼び、隙あらば斬り殺そうとしていたのだから。
『だから……、なんだか、以蔵さんの誕生日を俺が祝うのって、……こう、ほら。やっぱり以蔵さんが今ここにいてくれることへの感謝であって、こうして今一緒にいられることを喜んでるわけなんだけれど、以蔵さんがこうして英霊になるためには前提として以蔵さんの人生があるわけで……、いっぱい苦しい思いをして、今に至った道筋を、そんな簡単におめでとう、って言ってしまってもいいのかな、って』
「―――」
は、と思わず小さく、呼気が以蔵の唇から零れ落ちた。
マスターの言葉が、しんしんと降り積もる雪のように以蔵の心に柔らかに落ちる。
肌のぬくもりに溶けて肌にとける雪のように、優しい言葉が不器用故にかたくなになりがちな以蔵の心にしみいる。
「そうか」
ぽつり、と小さくつぶやく。
以蔵の人生は、儘ならないものだった。
以蔵が望んだことは何一つ叶わなかった。
幼馴染は以蔵をおいて遠くへいった。
師と仰いだ人には疎まれた。
揚げ句に迎えたのがあの最期だ。
以蔵の一生は、決して幸福なものではなかった。
けれど。
ああ、それでも。
「……にゃあ、マスター」
『なあに』
「マスターは、わしにあえて良かったと思うてくれるんか」
『もちろんだよ』
返事は即答だった。
その言葉には迷いも嘘もなかった。
だから、なんだか以蔵は。
――すっかり、嬉しくなってしまった。
「マスター」
『うん』
「わしをここによんだのがおまんで、しょうまっこと良かったちや。マスターが言うよう、わしの人生は決してえいもんじゃあなかったかもしれん。でも、それがな、繋がって、今になるなら。わしは。…………悪くないにゃあ、て思うがよ」
『以蔵さん……』
「誕生日を祝う、なんてようわからんと思って戸惑ってしもうたんけんど……、その。ありがとにゃあ、マスター」
ほろりと零れるように告げた言葉に、繋がった向こうでマスターがぱあと口元を綻ばせて笑うのが気配として伝わってくる。
『それじゃあ以蔵さん、改めてお祝いさせてもらっても良い?』
「もちろんじゃ、えい酒をこじゃんと用意してもらわんとにゃあ」
ふひひ、と以蔵は緩んだ笑いを浮かべる。
屈託のない、素直な笑いだった。
差し出される厚意の理由がわからなくて、どう受け止めたら良いのかがわからなくて、そもそもそれを自分が受け取っても良いのかがわからなくて以蔵は途方にくれた。
けれどそれが、以蔵が今ここにいてくれることを言祝ぐためのものであるのなら。
以蔵が今ここにいることを幸いとし、祝福するためのものであるのなら。
思うように居場所を得られず、かつて終わりを迎えてしまった以蔵にとってはなんと幸福な日であることか。
『あのね、以蔵さん』
「おん?」
さて、カルデアに戻るかと真白の雪の中立ち上がった以蔵の耳元に声がする。
てっきり話の続きはカルデアに戻って顔を合わせてから、と思っていた以蔵は首を傾げてマスターの言葉の続きを待ち。
『先ほど、お迎えを派遣したので』
「へあ?」
お迎え。
その言葉の意味を理解するよりも先に、さくさくと雪を踏む足音が近づいてくる。
なんじゃ、とそちらへと視線を向けて、以蔵は思わずへ、と笑いを浮かべた。
「なんじゃ、迎えっちゅうのはおまんか」
「そう、僕」
真っ白な雪の中に溶け込んでしまいそうな白服に身を包んだ長躯が、緩く手をあげて以蔵へと手を振る。
さくさくと雪を踏んで、以蔵からもその男の元へと距離を削った。
「どいておまんじゃ」
「そりゃあ、僕が以蔵さんの古馴染みだからじゃあないかい?」
「腐れ縁じゃ」
「腐れ縁でも古い付き合いなのは間違いないでしょ」
さく。
さくさく。
そんな言葉を交わしながら、二人カルデアへの道のりを歩き始める。
かつて、以蔵が裏切者と憎んだ男だった。
いつか、以蔵が裏切者と罵って斬り捨てたことすらある男だった。
それでも、なんやかんや結局は互いをよく知る古馴染みには変わらなくて、結局今はこうして共に歩き、酒を酌み交わすような仲に落ち着いた。
「にゃあ、以蔵さん」
「なんじゃ」
「わしも傘に入れとおせ」
「…………」
えいじゃろ、とねだるように言葉を重ねられる。
以蔵は口をへの字にして見せつつも、わざわざこんな極寒の雪の中まで迎えに出向いた男に対してねぎらってやろうという気持ちはあったので鷹揚にうなずく。
少しぐらいなら、傘に入れてやってもいい。
何せ、この男は寒がりなのだ。
サーヴァントとなった今となってはこれぐらいの外気温で体調を崩すなどの影響は受けないが、なんせ以蔵にはこの男に関する生前の記憶が濃い。
へにゃりと目元を緩めた男がいそいそと以蔵のさした傘の下に僅かに身をかがめて潜り込んだ。
「にゃあ、以蔵さん、知ちゅうか?」
「何をじゃ」
「こういうの、相合傘ち言うんじゃて」
「あいあいがさ」
復唱する。
「でな」
「おん」
「背の高い方が傘を持つんじゃって」
そんなことを言いながら、男の大きな掌が傘の軸を持つ以蔵の手の上に重なる。
「…………」
「…………」
「高いちゆうてもたかだかほんのちっくとの差じゃろうが」
「そのちくっとの差が存外大きいんじゃって」
「うっさいわ、ほたくりだすぞ」
「えー」
不満そうに唇を尖らせながらも、男が笑う。
その手は、以蔵の手の上に重なったままだ。
冷え切って、こわばった指先に白い手套の布地を1枚挟んだ男の体温が柔らかに伝わってくる。
ああ、温かい。
「にゃあ、以蔵さん」
「なんじゃ、傘は譲らんき」
のう、と最後まで言うより先に、隣の男は鮮やかに笑った。
白に彩られ、緋色の傘を背後に、いつかの子どものようにあどけなく笑った。
「誕生日、おめでとう」
その声に込められた万感の想いに。
今ここにいる以蔵のすべてを肯定し、揺らぐことのないようにと錨を下すような響きに。
「……………………フン」
以蔵は、ふかりと口元を襟巻に埋めて。
隣を歩く男の肩に、ごいんと自らの肩をぶつけておいた。
