幸福の朝

 坂本龍馬の朝は、トントントントン、と気持ちの良いリズムで始まる。
 ふわりと鼻先を掠める出汁の香りにふすんと小さく鼻を鳴らして、満ち足りた気持ちでまた布団の中に鼻先を埋める。
 この二度寝をキメる瞬間が、龍馬にとっては最高に幸福な瞬間だ。
 もうすぐ起きないとな、というのはわかっていてもこの幸福から抜け出すのには相当の覚悟と気合いが必要なのである。
 ギリギリまでこの幸福に微睡んでいたいという気持ちをわかっていただきたい。
 まあ、わかってもらえたことはないのだけれども。

「リョーマ、そろそろ起きないと遅刻だぞ」
「あと、ごふん…………」
「お竜さんは寝かしてやってもいいが、そうなるとリョーマ、ナメクジのやつに朝餉を抜かれることになるぞ」
「それは困る」

 寝ぼけてふにゃふにゃしていたはずの龍馬の声が突然はっきりと覚醒したものになった。なかなかに現金な男である。
 むくりと勢いよく上体を起こす。
 寝坊をすると、以蔵は容赦なく龍馬から朝食を取り上げるのだ。
 飯を食ってる時間があったらしゃんしゃん支度しぃ、と叱り飛ばし、それでも龍馬があわあわと支度を調えている間に握り飯ぐらいは用意してくれる。
 が、美味しそうなおかずの数々を横目に塩だけで握られたシンプルなおにぎりだけを持たされて玄関から追い出されるのはとても悲しい。
 何度かやったが、毎回泣きそうになる。
 もちろん、以蔵が作るのなら塩おにぎりだってとても美味しいのだ。
 たまに以蔵の作る塩おにぎりが無性に食べたくなって強請ることもあるぐらいだ。
 だけれども、以蔵の作った朝ご飯を食べられない、というのはそれとは別の問題としてともとてもつらいのである。
 もっさりと癖がついて膨らんだ龍馬の長い髪を、横合いから伸びてきた白い手がくしゃくしゃと指で撫で梳いてくれた。

「顔洗ってこい。今朝もイゾーの朝餉は美味そうだったぞ」
「そりゃあ楽しみだ」

 のんびり笑って、龍馬は伸びをヒトツ。
 坂本龍馬には、前世の記憶がある。
 さらに言うなら、前世どころか一度命を落としたあとに英霊として世界を救うための戦いに身を投じた記憶すら、ある。
 別段そのことによってものすごく生きづらいほどのものではないけれど。
 やはり周囲にいる人間との差異は常に感じ続けていた。
 だから。
 同じように記憶をもち、なおかつ前世からの付き合いであるお竜と以蔵と出会えたときにはこの二人を手放してはいけないと強く思った。
 その結果、三人は現在共に暮らしているのである。
 顔を洗って、あくびをしながらダイニングに顔を出す。
 そこでは案の定忙しそうにこまこまと動き回りながら、朝食の支度をする以蔵の姿がある。洗いざらしのジーンズに、上は黒のタンクトップというラフの格好の上から、割烹着を羽織っている。
 大きく開いた割烹着の背から、すらりとした項から肩甲骨のあたりまでが零れるように見えているのがなんとも目の毒だ。

「おはよう、以蔵さん」
「なんじゃ、やっと起きたんか。ほれ、朝飯ならもう出来ちょる」
「ありがとうね」
「おん」

 テーブルの上には、ご飯と味噌汁と、大きな卵焼きが乗っている。
 そばにはおしんこと、昨夜の残りの煮物が少し。
 箸を手に取り、いただきます、と呟いて卵焼きへと手をつける。
 表面はしっかりと焼き固められているように見えたものの、箸を差し入れて割るととろりと半熟の中身が溢れ出した。
 おそらく、冷蔵庫の中にあった残り物を刻んで混ぜ込んでいるのだろう。
 雰囲気としては家庭的なスパニッシュオムレツというところだ。
 もっと気取らぬ素朴な味だし、龍馬はそこに味ぽんを少し垂らして食べるのが好きだ。
 爽やかな酸味が、卵と、細かく刻まれた野菜にしみこんで大変美味しいのだ。
 ご飯にもよくあう。
 具材を切って混ぜて焼くだけ、というシンプルさが良いのか、龍馬たちの朝の食卓にはよく上がる定番メニューの一つである。
 ほくほくと頬を緩めて、龍馬はとろっと崩れそうな卵の黄色と具材を箸で挟んで口に運ぶ。卵の素朴な味わいに野菜の甘みや、少し塩っ気があるのは細かく刻まれたソーセージだろうか。そんな肉の味わいをきゅっと味ぽんの爽やかな味わいがまとめあげている。
 美味しい。
 とろんとしあわせそうに龍馬の目元が笑み崩れる。
 箸で大きく白米を掬って口に運び、もっもっも、と咀嚼して飲み込む。
 次は、昨夜の残りの煮物を一口。
 一晩たって、昨夜よりも味が染みていて美味だ。
 ご飯がよく進む。
 本当なら一晩寝かした煮物こそが美味しいのは龍馬だってよくわかっているのだが、以蔵の作る煮物はとても美味しくて、つい食べ過ぎてそれほど残すことが出来ない。
 あっというまに茶碗一杯分の白米が消えて、龍馬は満足げに息を吐いて味噌汁を手にとる。しっかりと鰹節から出汁をとった味噌汁は、顔を寄せると大変良い香りがする。
 口をつけると、柔らかな味噌と出汁の味わいが口の中に広がった。
 具はわかめと豆腐だ。
 このシンプルさが、たまらない。
 ゆっくりと味わって、龍馬はほうと息を吐いて器をテーブルに置いた。

「龍馬、お竜はどいた」
「お竜さんならもうすぐ降りてくると思うよ」
「ほうか」

 お竜の方が龍馬より家を出るのが遅い分、朝食もゆっくりだ。
 ちょうど龍馬が立ち上がるタイミングで、お竜がダイニングへとやってきた。

「ごちそうさま、以蔵さん。今日も美味しかった」
「お粗末さんでした」

 素っ気ないように響いて、そういうときの以蔵がまんざらでもなさそうな顔をしていることを龍馬はよく知っている。

「じゃあ、僕は先に出るね」
「おう。気を付けていけよ、リョーマ」
「うん」

 すれ違いざまに、お竜の唇が柔く掠めるように龍馬の頬に触れていく。
 その親愛の所作が齎すくすぐったい感触に小さく笑って。
 坂本龍馬のしあわせな一日は今日も始まるのだ。

 

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