プール掃除

 むんわりとなんとも言いがたい生臭い匂いが立ちこめている。
 厭になるほどカンカンと照る太陽の下、以蔵はげんなりとため息をついた。
 日頃の行いがそれほど良くないことが祟ってか、帰りがけに体育教師に捕まり、プール掃除を言い渡されたのだ。
 プール掃除に従事することにより、前回マラソンをサボったことをチャラにしてくれるとのことらしいのだが。
 反省文よりはマシかと思って受け入れたものの、目の前の惨状に多少早まったのではないかという気がしてくる。
 何せ、目の前に待ち受けているのはほぼほぼまる一年放置されたプールだ。
 おおよそ水を抜かれ、現在の水位は以蔵のくるぶしが濡れる程度。
 が、その水は泥水と呼ぶのもおこがましいほどにどろりと緑色に濁っている。
 一年かけて繁殖した藻やら何やらが凝縮されている。
 燦々と降り注ぐ日の下、生き物のにおい、と言えば響きは良いものの、沼のような、生きた生き物のいる澱んだ土のような匂いが足下から立ち上ってくる。
 それを、なんとかするのが今回の以蔵の仕事である。
 周囲には同じような交換条件を持ちかけられた生徒たちが他にも何人かいる。
 皆厭そうに顔をしかめ、どろどろと汚れたプールを眺めるばかりで、なかなかそこに足を踏み入れようとはしていなかった。

「――――」

 以蔵は小さくため息をつくと、まず靴を靴下ごと脱ぎ、それから制服のズボンの裾を折って、先陣を切ってそのヘドロのようなぬかるみの中へと飛び込んだ。
 びちゃん、と粘着質な音が跳ねて、濃い緑の飛沫が跳ねる。
 ひええ、と背後から聞こえたのは誰の声だったのか。
 以蔵はぬるぬるとしたぬかるみを素足で踏みしめる。
 指の間からにゅるにゅるとへどろが逃げる感触は最初こそ顔をしためたくなるものの、慣れればなんとなく面白いような気もしてくる。
 びちゃりびちゃりとヘドロを踏み踏み、以蔵は背後を振り返り、未だプールサイドに佇む連中を振り返った。

「おまんらも覚悟決めてしゃんしゃん降りてきぃ、さっさと終わらせんと日ィくれるぞ!」

 以蔵の声に、顔を見合わせて。
 ようやく彼らも、のたのたと靴を脱ぎ始めた。

   ■□■

「以蔵さん、精が出るのう」

そんな声が頭上から降ってきて、以蔵はしばらく丸めがちだった背をしばらくぶりに伸ばしてそちらへと目をやった。

「龍馬。何じゃ、おまんもプール掃除か」
「や、僕は先生に以蔵さんたちがちゃんと掃除してるかどうか見てこいって頼まれただけ」
「スパイか」
「やめてよ、人聞きの悪い」

 以蔵は龍馬の立つプールサイドへと歩みを寄せ、その壁に背を預けるようにして一息つく。
 まだまだプールの底はヘドロに覆われているものの、先ほどからデッキブラシでこすりたおしているだけあり、大分汚れは浮いたはずだ。
 もうしばらくしたらホースで水を流し込み、ヘドロを洗い流す最終段階に入っても大丈夫だろう。

「おまんも手伝え」
「ええ、なんで僕が」
「どうせ暇しゆうが」
「暇じゃないよ、受験生だからね、僕」
「頭のおよろしい生徒会長様じゃき、余裕じゃろ」
「またまたそんなこと言って」

 プールサイドで緩やかに笑って以蔵を見下ろす男は、そんな風に言葉でこそ否定してみるもののその表情にこの時期の受験生にありがちな焦りの色はない。
 ゆったりと自然体で、余裕に満ちている。

「りょぉま」
「おん?」

 以蔵は、ゆるりと龍馬に向かって手を伸ばした。
 それだけで、龍馬には以蔵の求めていることがわかってくれたものらしい。
 腰を折った龍馬の手が、伸ばされた以蔵の手首のあたりを捕らえて――――そのままぐいとプールサイドへと引き上げる。
 その揚力に合わせて以蔵もびちゃりと濡れた音を立ててプールの底を蹴って、とん、とプールサイドへと華麗な着地を決めた。
 周囲から驚嘆の息がほう、と漏れるのが響く。

「にゃあ、龍馬」

 呼びかけながら、以蔵は足下に転がっていたデッキブラシの柄を足の指で挟んで、蹴り上げるようにして龍馬の方へと放った。
 なぁに、と言葉を返しつつも龍馬がそれを受け止める。

「わしと勝負せんか」
「以蔵さんが勝ったら?」
「プール掃除に付き合え」
「僕が勝ったら?」
「アイス奢っちゃる」
「乗った」
「よう言った」

 視線を交わして二人、にんまりと笑い合う。
 以蔵は片手に持っていたデッキブラシの先をゆらりと持ち上げ龍馬へと向ける。
 少し、背後に距離を取りながら龍馬もまた、受け取ったデッキブラシの先を以蔵に向ける。
 二人の、視線が重なる。
 口元に互い、不敵な笑みが浮かぶ。

「僕ね、アイス、ダッツがいいな」
「ほたえなや」

 かん、と軽く違いのデッキブラシを打ち付けあって。
 それが、開始の合図となった。

   ■□■

 かん、かん、かん、かん、と木製のデッキブラシの柄を打ち付けあう乾いた音が連続してプールサイドに響き渡る。
 もはや、真面目にプール掃除を続けている者などいない。
 皆、突如プールサイドで始まった決闘騒ぎに釘付けだ。
 あの、多少ガラが悪いように見える一年生が何故だか校内でも品行方正と名高く、人気も高い生徒会長と親しくしているのは皆知っていた。
 だが、こんなのは知らない。こんなのは、知らない。

「さすがやねえ、以蔵さん!」
「おまんの方こそ腕は鈍っちょらんみたいじゃのお!」

 まるで、手加減など知らぬというようにガツガツと打ち合う音は高く澄んで響く。
 相手が受けるのをわかっているからこその遠慮のない打ち込み、とでも言うべきなのか。
 左右に振って、フェイントを混ぜこみ、相手を打ち倒すために振るわれるはずなのに、受けられると確信しているからこそ容赦がないという矛盾。
 龍馬の以蔵の足下を狙って掬うように振るわれる軌跡を、以蔵は軽々と跳ねて回避し、トン、とプールの飛び込み台に着地してはそこから踏み込んで高い位置から龍馬の脳天を狙ってデッキブラシを振り下ろす。
 それを龍馬はよけもせずに正面から受け止めた。
 以蔵の体重の乗った一撃であるはずなのに、両手とはいえそれに対して腕の力のみでがっちりと均衡をとってみせるのだから一見優男のように見える龍馬の腕力が伺い知れるというものだ。
 ぎちぎちと木の柄を擦り合わせるように、互いの額が触れるよな鍔迫り合いの果てに以蔵がひらりと背後へと跳んだ。
 足下には、踏み込みの後が黒々と残される。
 きれいな足跡だ。
 テン、と乾いたコンクリートに残されたそれに龍馬はすいと目を細める。
 白と黒の対比が、いっそ芸術的にすら思える。

「龍馬ァ!」

 以蔵が、吠える。
 勝負を仕掛ける気なのだとわかって、龍馬の口角もにまりと持ち上がる。

「来ィやァ!」

 応じるように吠えて。
 互い踏み込み、振るったデッキブラシの柄をがっぷりと組みあわせ――――ペキィンッ、と高い破裂音が重なって響いたのと、打ち付け合ったところを支点にデッキブラシの先端が折れるのは同時だった。

「あっ」
「あっ」

 二人の声が重なる。
 ひゅんひゅんひゅん、と回転しながら飛んでいったデッキブラシの先端は。

「どうだあ、お前たち頑張ってるかあ!」

 そんなことを言いながらプールに入ってきた体育教師の脳天に、二本そろって突き立った。

「せ、せんせえええええええ!!!!?」
「ウワアアアアアア!?!?!?」

 ばたりと声もなく倒れた体育教師を前に、二人の悲鳴が仲良く響いた。

 当然。
 二人そろって職員室に呼び出されたし。
 二人そろってお小言を喰らったし。
 二人そろってプール掃除をさせられたので。
 二人でパピコを半分こして帰ることになったのは言うまでもない。

 

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