7 以蔵さんと龍馬さんが互いのトラウマを抉りあいつつ大暴れする話

 それは気持ちの良い晴れた日のことだった。
 マスター率いるカルデア一行は、つかの間の休息を満喫していた。
 本日のレイシフトの目的は特異点を解決することでも、エネミーの形となって凝った魔力を砕いて素材を回収することでもない。

 ずばり、食料調達だ。
 
 万年雪に閉ざされたカルデアでは、施設内の設備だけでは増え行くサーヴァントたちに対応できるだけの食料を用意することが出来ないのだ。
 もちろん、英霊であるサーヴァントたちに人間のような食事は本来ならば必要がない。
 身体を構成し、満たすための魔力さえあれば彼らは現界し続けることができる。
 とはいえ、かれらもかつては人として生きたものたちだ。
 いや、中には正真正銘の神霊の類も多くいたりするわけなのだが。
 共に戦い、共に人理を守るための闘いの最前線に立つ仲間たちと同じ釜の飯を食べたい、というのはマスターにとってはごくごく自然な発想だった。
 特に、カルデアの職員に代わってカルデアのキッチンを仕切るのもいつの間にか料理を得意とするサーヴァントたちが担当してくれるようになったというものも大きい。
 自分たちの口に入るわけではない料理をサーヴァントたちの厚意に甘えて用意させる、というのはなんともマスターにとっては居心地の悪いものだったのだ。
 
 その結果、マスターは食料がないなら調達すればいいじゃない、という結論に至った。

 例え人理が漂白され、真っ白になってしまったとしても。
 レイシフト先には豊かな自然環境が残された場所も多くある。
 
 当然、人が口にするには危険なものもあるので、そこの吟味は大事だ。
 だがその一方で、レイシフト先で緊急事態に巻き込まれた際にはその特異点に存在するものを食べて命を繋ぐ必要が、その義務が、マスターにはある。
 大体の毒物が効かないという特殊体質ながら、いざという際には躊躇わずにかつての常識からいえばゲテモノに類する類のものを口に入れることができるように。
 少しでも、命を長らえる可能性を高めるために。
 カルデアではレイシフト先での食料の調達が推奨されている。
 まあ、マスター本人に言わせれば、ある程度美味しくしてくれるならゲテモノだろうがなんだろうかありがたくいただくよ、とのことなのだが。
 流石はタコやイカといった海外諸国ではゲテモノの類に分類される軟体生物を喜んで刺身でいただく民である。
 そんなマスターであっても、否、そんなマスターだからこそ、某所で食すことになったゲイザーの素焼きにはかなしい顔をせざるを得なかったわけなのだが。
 
 美味しければ素材がなんであれ文句は言わないが、美味しくなければそりゃあ悲しくもなるというものだ。

 そんなわけで、本日も食料調達である。
 場所は、オケアノス付近の海だ。
 燦燦と降り注ぐ温かな日差しに、白々と輝く砂浜。
 打ち寄せる波も穏やかで、海はどこまでも青く澄み渡っている。
 この辺りでは海産品はもちろん、南国の果物の類も獲れる。
 かつて特異点だった場所には変わりがないため、多少のエネミーも出現するが比較的他と比べても安定している。
 そのため、ここでの食料調達任務はちょっとした息抜きもかねている、というのが実情だ。
 そして今日も。

「以蔵さん、何か釣れた?」
「釣れることには釣れちょるが……これはほんに喰える魚がか……?」

 ひょいと背後から顔をだしたマスターの声に、以蔵は手元でびちびちと跳ねる海と同じような鮮やかなブルーをした魚を片手に訝しそうに呟いた。
 ひとしきり砂浜をうろつくエネミーを掃討した後は、先ほどから磯釣りに勤しんでいる以蔵である。
 いつもの着こんだ和装ではなく、今日は以蔵も海水浴にふさわしい軽装だ。
 黒の膝丈の海パンの上から絣も涼し気な紺の着流しを一枚羽織り、その裾をからげて脛から下の素肌を晒している。
 以蔵の生きていた時代で考えるのならば別段褌でも構わなかったのだが、マスターが一緒だということで一応気を使ったのだ。
 以蔵のもとへとやってきたマスターも以蔵と同じく海パン姿だ。
 ただし、羽織っているのは白のパーカーだ。
 
 釣りは嫌いではないし、当たりも決して悪くはない。
 次々と竿の先に手ごたえを感じては、ぐうっとそれなりの大物を釣り上げるのは愉しいが、そうして釣り上げた魚の色合いは未だかつて以蔵の見知った魚とは異なる色をしている。
 
 鮮やかなグリーンにイエローのラインの走るもの。
 海と同じ色合いにきらきらと鱗を輝かせ、喉元に赤の反転を浮かせるもの。
 
 魚といえば灰褐色をしたもの、というイメージの強い以蔵にとってはとても食べられるものの色だとは思えないものが多い。
 そんな以蔵の示した魚に、マスターは感心したように相好を崩した。

「わあ、すごいね以蔵さん。これ、塩焼きにすると美味しいんだよ。エミヤに頼んで、以蔵さんに一番大きいのが当たるようにしてもらおうね」
「……おん」

 しんみょうな顔で、以蔵は頷く。
 マスターの心遣いは嬉しいが、以蔵にはどうにも素直に喜べない。

 かつて、以蔵は生前毒殺の憂き目にあったことがある。

 聖杯によって、本来なら己が知りえないはずのことを知った今ならば、その計画が実行されなかった、ということもわかっている。
 けれど、以蔵は、あの暗く、狭く、痛みと苦痛に満ちた地下の土牢で、お前の仲間はお前を口封じする気だぞ、毒殺する気だぞ、いいのかその水には毒が入っているかもしれないぞ、いやその饅頭かもしれないぞ、いやいやその飯かもしれないぞ、とさんざん意地の悪い牢番に脅されて過ごした日々を忘れられないのだ。
 死ぬほどに喉が渇いて声も出ないのに、毒が入っているのかもしれないと思うと恐ろしくて水が飲めなかった。
 少しでも精をつけろと差し入れられた饅頭が嬉しいのに、それでも口に入れることが出来なかった。
 喰わず呑まず苦痛だけを押し付けられて、以蔵は折れてしまった。
 何もかも、喋ってしまった。
 
 だから以蔵は、今も得体のしれない食べ物が苦手だ。
 何が入っているのかわからない食べ物が苦手だ。
 匂いのきつい、味わいを鈍らせる香草の類が苦手だ。
 
「以蔵さん?」
「……なんちゃあない」

 苦い思いを振り切るように頭を横に振る。
 このマスターは、以蔵のことを重用してくれる。
 以蔵の人斬りとしての戦力だけでなく、以蔵という人柄をこみで大事に使ってくれる。
 だからこのマスターが差し出すものならば、見たことのない色をした魚だろうが食べてやろうと思った。
 なんせ、一番大きいのを、なんて言ってくれるのだ。
 かつては身分故に残飯でも上等な野良犬風情とも嗤われたこともある以蔵に。
 は、と口の端に笑みが乗る。

「楽しみにしちょる」
「うん!」

 ふふ、と楽し気に無邪気な子どものように笑ったマスターは、ジャングル組はどうかな、なんて呟きながらふらふらと以蔵のもとを後にしていく。
 どうやらちょうど密林の探索に赴いていたものたちが戻ってきたところだったらしい。
 鬱蒼と茂る暗い深緑の中に鮮やかな青が見える。
 以蔵の幼馴染の男だ。
 いつもよりラフに気崩した蒼のシャツに、下は白の海パンだ。
 へらりと懐こい笑みを浮かべ、油断しきった態の長躯は、その腕の中に大量の色とりどりの果実を抱えている。
 いつもの白の中折れ帽はその頭には乗っておらず、まるでその代わりとでも言いたげに耳元に真っ赤な花を挿しているのはなんの冗談なのか。
 笑ってやりたいような、何を馬鹿なことをしているのかと小言を言いたいような気持の間で以蔵は唇をむにむにとする。

「―――」

 そんな以蔵の視線に気づいたのか、馴染みの男は視線を持ち上げると、以蔵に向かって笑いかけながらひょいと片手を持ち上げて振って見せた。
 ひらり、と振られる長い手に、思わず口元が緩みかけて以蔵は慌てて引き結ぶ。
 別に、慣れあうつもりはないのだ。
 別に。
 別に。
 生きていた頃に、すれ違ったままに死に別れた古馴染みと今更やり直そうだなんて。

「あ」

 間の抜けた声が上がるのに、うろりと彷徨わせていた視線を戻す。
 どうやら以蔵に手を振った拍子に抱えていた果実がころりと転がり落ちて、それを拾おうと屈んだことでさらにバランスが崩れてごろんごろんと果実が次々と転がり落ちていってしまったものらしい。
 わあ、とマスターの慌てるような声がする。
 だからだ。
 マスターが困っているからだ。
 そんな風に理由をつけて。

「龍馬ァ、おまん、しゃんとせんか!」

 なんて大声で言いつつ、以蔵は転がる果物を集めるのを手伝うべくそちらに向かって歩を進めるのだった。
 まったくしまらん男じゃ、なんてぼやく唇に、やわく、甘く、本人は意識しない笑みをのっけて。

 
 
 
 
 
 
 
 
 ■□■

 今回の食料調達に駆り出されたサーヴァントは全部で四騎。
 安定したレイシフトの基本的な限界人数は六騎だ。
 とはいえ、一度に転移できるのが六人、というだけなので、回数を重ねればもっと大勢の英霊を送り込むことも不可能ではない。
 ただ、それができるほどカルデアの電力事情は潤沢ではない。
 レイシフトには大量の魔力とそれに変換される電力が必要になるのだ。
 所属するサーヴァントたちの現界の維持に多くの電力を回しているカルデアにおいて、大人数でのレイシフトというのはあまり推奨されてはいない。
 なので、基本的には六騎以下の英霊とマスターが組んで動のが常だ。
 
 そんなわけで、今回の食料調達チームの内訳はマスター、エミヤ、以蔵、龍馬、そして酒呑の四騎である。
 
 砂浜に出没するライダー属性の大ヤドカリを駆除する担当として以蔵と酒呑が。
 食料の調達担当としてエミヤと龍馬が選ばれたのだ。

 食料の調達であればキッチン担当のエミヤはともかく、残りの一人は別段龍馬でなくとも良かったはずなのだが、あえて龍馬を指名してきたあたりはマスターの幼馴染組への気遣いだ。
 
 何せ、この食料調達任務というのは息抜きも兼ねている。
 いくらカルデアが長期任務に耐えうるように設計された施設とはいえ、長らく雪に閉ざされた星見台と戦場を行き来するだけの生活では心が摩耗してしまいかねない。
 だから、せめて息抜きぐらいは気の合うもの同士で過ごしてほしいと思ったのだ。
 まあ、そんなことを聞かされたならば以蔵あたりは心底嫌そうに眉を寄せ、別に気なんぞ合うちゃおらんと不満を漏らすのだろうけれども。

 ふ、と唇に笑みを浮かべてマスターは青と白のコントラストの美しい砂浜を眺める。
 
 以蔵は相変わらず磯釣りに精を出しているし、その隣には龍馬が陣取っている。
 以蔵と同様釣り竿を握ってはいるものの、その釣果はあまり良くはなさそうだ。
 だというのにいつにもまして上機嫌に眉尻を柔らかに下げて笑っているのは、なんだかんだ以蔵が構ってくれているからだろう。
 時折龍馬の方に身を傾け、顔を寄せてはアドバイスらしきことをしている以蔵に、龍馬は嬉しそうに相好を崩して頭をかいて見せたりなどしている。
 きっと子どもの頃もこんな風だったのだろうな、と思わせる光景にマスターの口元も緩みがちだ。
 
 一方龍馬の宝具でもあるお竜は、釣りなどというまどろっこしい手段は合わないらしく、直接素潜りで獲物を捕まえに赴いて行ってしまった。
 せっかくの海なのだからと、美しいパレオのついたビキニに着替えていたのだが、そのパレオは龍馬の足元にふんわりと畳まれている。
 時々波間にぽっかりと長い黒髪を水面に漂わせた美しい女が顔を出しては、獲ったどーと何か得体のしれない大きな生き物を振り上げて見せるのが微笑ましい。
 誇らし気にその獲物を思い切り振りかぶり、以蔵に向けてブン投げたりしているもので、時折「なんじゃああ!?」と悲鳴が上がったりもしているが。
 たぶん、それぐらいは微笑ましい、の範囲内だろう。
 
 視線を砂浜の木陰に向ければ、そこでは、エミヤが何か早速簡単な料理を作ってくれている。

 基本はバーベキューだ。
 密林で果物の採取ついでに狩ってきたイノシシがメインで、その傍ではお竜が獲ってきてくれた貝が丸ごと網に乗せられてくつくつと自らの貝の中で煮えている。
 ふわりと鼻先を掠めるのは、醤油にバターの蕩けた芳醇な香りだ。
 食欲を誘われて仕方がない。
 その傍らでは、以蔵が釣り上げたばかりの新鮮な魚を使った刺身を肴に、一仕事終えた酒呑がゆったりとこれまたエミヤが用意したのであろうビーチチェアに横になり、酒を啜っている。
 
 平和だ。
 のんびりとした昼下がりだ。
 これぞ正しい海水浴だ。
 さて、食事の前に少し海に入ってみようか、なんて考えてマスターはきらきらと光をはじく波打ち際へと目を向ける。
 磯釣りに勤しむ以蔵や龍馬たちから少し離れた場所を選べば釣りの邪魔をすることにもならないだろう。

「エミヤ、ちょっと海に入ってくるね」
「あまり遠くにはいかないよう」
「うん、わかってるよ」

 思えば。
 ここで、単独行動を咎めなかったあたり、エミヤも油断していたのだ。
 いくらここしばらく安定を見せていたといっても、ここはかつて特異点だった場所であり、その成立にあたって膨大な魔力が凝っていた場所であり、油断などするべきではない場所だったのに。

 最初に異変に気付いたのは海の中にいたお竜だった。
 生ぬるい海水ごしに伝わった強力な魔力の波動と、殺意にぞわりと肌を泡立たせて水中から一息に飛び出す。
 最初に気に掛けるのは己の相棒だ。

「リョーマ! 何か来るぞ!」
「ッ!」
「!」

 龍馬と以蔵はすぐに立ち上がると釣り竿を放り出し、すぐさま魔力でもってそれぞれの武装を練り上げる。
 お竜の鋭い警戒の声に、木陰にいたエミヤも手にしていた箸を下ろす。
 ゆるりとしどけなく横たわっていた鬼が身体を起こす。
 そしてそれぞれがマスターは、と視線を彷徨わせた先で。

「わあ、水、思ったより冷たいね!」

 なんてはしゃいだ声を上げて砂浜を振り返ったマスターの背後で、その肩越しにちかりと不穏な白い光が瞬いた。

「伏せろ、マスター!!」

 エミヤの声に、マスターがヒュ、と息を呑む。
 それでも条件反射めいてすぐさまその指示に従ってほとんど砂浜に向けて身を投げるように伏せたのは上出来といって良かった。
 ただ、それはほんの少しだけ、それでも遅かった。
 本来ならその心臓を射抜いていたはずの軌道こそズレたものの、遥か彼方、水平線のあたりから放たれた一撃はどつりと鈍い音をたてて青年の肩口を射抜く。

「ぁぐ!」

 押し殺した苦鳴の声が響く。
 背後から肩を射抜かれた勢いで子どもの身体が空中でぐらりと捻じれ、撃ち抜かれた肩からどしゃりと砂浜に落ちる。
 その背後で、二射目が光る。

「させるか……!」

 砂を蹴って飛び出すのはエミヤだ。
 遥か彼方、水平線近くから撃ち込まれるのを視界の端に捕らえながら、砂に顔を埋めて呻く子どもの身体を抱き起し、迫りくる白光に向けて手を翳す。
 間に合うか。
 否。
 間に合わせる。
 魔力を練り上げ、術式の一切を省略して、名を呼ぶだけで己の内よりその美しき天蓋を引き出す。

「熾天覆う七つの円環……!!」

 翳された手を中心に薄桃の光に包まれた花弁がほろりほろりと咲きこぼれ、その花弁にぶち当たった白光はびしゃりと弾けて落ちた。
 するすると花弁を伝い落ちるものに、エミヤそれに眉を寄せる。
 それはどうやら液体であるようだった。
 円環の表面を覆う魔力に灼かれ、白く筋として残る乾いた結晶は塩だろうか。

「そうか、海水か」

 呻くように呟く。
 それは良い知らせでもあり、悪い知らせでもあった。
 敵が撃ちこんできているのが圧縮された海水であるのならば、マスターの体内に弾が残されている可能性については考えなくても済む。
 もちろんカルデアに戻った後には念入りな検査が必要になるが、十分な道具や環境の整っていない今この場において傷口を裂いて中に残った弾を探すなんてことはしなくて済むというのは十分に朗報だった。
 だがその一方で、海水を弾に仕立てあげているということは現状敵の弾数は無限だ。
 それはあまり喜ばしい話ではない。

「――とはいえ、この程度ならばどうということはない」

 自らに言い聞かせるように、呟く。
 敵の手を離れた武器であるのならばその全てを防ぐ、という『熾天覆う七つの円環』の逸話は伊達ではない。
 かつて一度はケルトの英雄、クー・フーリンの放つゲイ・ボルグですら防いだことがあるのだ。まあ、その時はエミヤ自身も無事では済まなかったわけだが。
 本来ならば即死級の宝具を撃ちこまれ、死なずに済んだのだから『熾天覆う七つの円環』の持つ防御力は折り紙付きだといえるだろう。
 いかに敵が無限の弾数を誇ろうと、円環を突破するのは不可能だ。
 マスターをこれ以上傷つける危険はない。
 後は、他のサーヴァントが敵を仕留めるのを待って、マスターを連れてカルデアに戻るだけだ。
 マスターに怪我を負わせてしまったというのは大変な失態ではあるが、まだ十分リカバリーは可能だ。
 
「お竜さん!」
「任された!」

 遠くで、龍馬の声がする。
 おそらく、彼の有する自律型の美しい宝具に射手の始末を命じたのだろう。
 水面を滑るように、本来の姿を解放した黒い蛇体が舞う。

「マスター、大丈夫か」
「……ッ、エミ、ヤ……?」

 抱き起した青年が、エミヤの呼びかけに反応したようにうっすらと瞼を持ち上げる。
 ぐ、とすぐに顔をひきつらせたのは撃ち抜かれた肩口の傷が痛んだからだろう。
 もしかしたら、鎖骨も折れているのかもしれない。
 首から肩にかけては太い血管もある。
 下手に動かす前に、まずは怪我の程度を確認しようとエミヤは『熾天覆う七つの円環』を展開したままマスターの肩口へと顔を寄せようとして。

「――ますたぁ」

 ぞっとするほど甘たるい声が背後から重なって響いた。
 ぶわりと全身の毛が逆立つような悪寒。
 振り返るのと、その眼前に向かってぎらりと凶悪な光を弾く長刀が振り下ろされるのはほぼ同時だった。
 避けようのないタイミングだった。
 そもそも、避けるわけにもいかなかった。
 エミヤがその一打を避ければ振り下ろされた刀は力なく砂地に横たわった子どもの頸を刎ねることになる。

「いいさ、私の命はくれてやる」

 にいと口角を釣り上げてエミヤは笑って見せた。

「君の刀の錆のされるなら誉というものだ」

 皮肉気な物言いもあながち嘘ではない。
 一目で業物だとわかる長刀を振るうその影には厭になるほど見覚えがあった。

 ―――源頼光。

 マスターの母を自称する源氏の大将だ。
 いや、正確にはその影だ。
 かつてこの地を訪れたのであろう彼女の姿をかたどっただけの魔力の塊。
 疑似的にその姿と性能を再現して見せただけの影だ。
 だが、影といえどその能力は馬鹿にしたものではない。
 だから、エミヤは自らの身を盾にする覚悟を即座のうちに決めた。
 マスターを失うわけにはいかない。
 こんなところで、人理修復の旅路を終わらせるわけにはいかないのだ。
 遠方からの射撃はお竜のおかげで途絶えがちになったとはいえ、完璧に止んだわけではない。つまり、『熾天覆う七つの円環』をしまうわけにはいかない。
 疑似宝具をすでに展開してしまっている以上、エミヤに近接攻撃に対しての迎撃の用意はない。
 もはや残されているのは、使えるのは己の肉体ただ一つだ。
 それを使うことに躊躇いはなかった。
 振り下ろされる刀を真っ直ぐに見据え、軽く頭を傾ける。
 流石に脳天を割られてはすぐに絶命してしまう。
 そうなればマスターの護りである『熾天覆う七つの円環』が失せる。
 もはや肉壁になることぐらいしかできないとはいえ、可能な限りの時間稼ぎには付き合わせるつもりでエミヤは口角釣り上げて不敵に笑って見せて―――その肩口にずぶりと煌めく刃紋が吸い込まれる直前、その間に滑り込むように差し込まれるものがあった。
 鋼の刃の背がエミヤの肩口にぐっ、と喰い込む。
 だがそれだけだ。
 源氏の大将が振るう美しい刃は身を挺して己が主を護ろうとする弓兵を斬り捨てることはなかった。
 ぎぃんッ、と鈍い金属音がエミヤの耳元で響く。
 それに続いたのは、場違いなほどに艶やかな声だ。

「なぁに、うちのこと忘れて二人で愉しもうなんていけずだわあ」

 酒呑だ。
 遅れて駆けつけた小鬼が頼光の斬撃を受けたのだ。
 多少力負けして押されたとはいえ、その力量は源氏の棟梁に見劣りするものではない。
 童女が拗ねて見せるような声音とは裏腹に、酒呑の双眸には剣呑な殺意が浮かんでいる。それは目の前でマスターが傷つけられたからなのか。それとも、因縁の相手と同じ姿をしたものが敵だからなのか。
 淡く紅のひかれたこどものような唇を舐める舌だけが赤く、赤く。

「いね、牛女」

 一転して温度のない声音が侮蔑の言葉を吐き捨てて、払い飛ばすように刀を振るった酒呑に、別段弾かれたわけではないのだろうが、頼光の姿をした影がひらりと後方に跳び退る。
 体勢を立て直しながら、ああ、と陶然とした声音がとろりとその唇から零れ落ちた。
 愛しくて愛しくてたまらない相手をやっと見つけたとでも言うような声音だ。
 きっと、影とはいえその仮初の魂にも宿敵の存在は刻まれているのかもしれなかった。
 それからまるで鏡映しのように、その顔から表情らしいものがストンと抜け落ちる。
 どろどろと愛憎の熱を秘めた黒檀の双眸が細くなる。

「汚らわしい虫め」

 急速に冷えた声音に漲るのは寒々とした殺気だ。
 ぼこりぼこりとその足元の砂が歪に盛り上がる。
 ずるりと腐り落ちた肉を引きずる屍鬼たちが砂の下から這い出してくる。
 源氏の棟梁の姿を模した影は、屍鬼を引き連れて蕩けるように双眸を細めて見せる。
 陽の燦燦と降り注ぐ長閑なビーチに、確かに地獄が顕現した瞬間だった。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
■□■

「退けェ、こン雑魚どもがァ!」

 殺気と、気迫に充ちた咆吼が周囲に響く。
 ビリビリと空気を震わせる声と同時に振るわれた以蔵の太刀筋は、狙い違わず目の前に立ち塞がった屍鬼の首を見事に跳ね飛ばした。
 元々腕は確かな男だ。
 この程度のエネミーに遅れを取ることはない。
 ないのだが、多少周囲を見る余裕が失われているのが龍馬には気がかりだった。
 今もまた、マスターのもとへと急ぐあまりに突出して敵に突っ込み、追いすがる屍人の群れに囲まれて以蔵の背が見えなくなりかけるのに龍馬はチィと一つ舌打ちをする。
 いくら以蔵の腕が立つとはいえ、囲まれれば多勢に無勢だ。
 日頃から天才を名乗る以蔵とはいえ、普段ならここまで向こう見ずな真似はしない。
 口癖のように頭が悪いと嘯くが、あれでなかなか地頭は良い男なのだ。
 ただ少し、目先の欲に流されやすいという欠点を抱えているだけで。
 理屈をつけるのは不得手でも、以蔵という男は人並み外れたセンスによって戦術の何たるかをよおく心得ている。
 だから、そんな以蔵がこんな無謀な真似をしているのは、それだけ以蔵が平静ではないという証左なのだろう。

「以蔵さんッ、前に出すぎじゃ!」

 龍馬の声に、以蔵の背がかろうじて引き留められたように小さく揺れる。
 良かった。
 多少冷静さを欠いているとはいえ、まだ龍馬の声は届いている。
 一度足を止め、囲まれる前にと周囲の雑魚を間引き始めた以蔵の傍らに、龍馬もまた以蔵を囲もうとする敵を薙ぎ払いながら追いつく。

「以蔵さん、」
「……わかっちゅう」

 自らを落ち着かせるように、は、と一度呼吸を逃して、以蔵が視線を持ち上げる。
 ふうふうと荒げられていた息が、何度かの呼吸で整っていく。
 その辺りの切り替えは流石だ。
 戦場では心を乱したものから死んでいく。
 その定石を、以蔵や龍馬は身体で知っている。
 龍馬もまた、弾む呼気を整えるように深く息を吐く。
 そうして、青空に咲き誇る美しい薄桃の燐光を纏う大輪の花へと一瞥を投げかけた。
 砂浜の向こう、青々とうねる波間に向けて咲き誇る花だ。
 美しく優雅な花だが、今まさにその花弁の下にて、龍馬と以蔵の両名がマスターと慕う青年が死地に追い込まれているのだと思えば暢気に花見を決め込むわけにもいかない。

「……、急ぐぜよ龍馬」
「わかっちゅうよ」

 先ほどの以蔵と同じ言葉を、彼が口にしたのよりはまだいくらか落ち着いた声音で返して龍馬はぎり、と刀の柄を強く握りしめる。
 それから、一歩踏み出すタイミングはまるで計ったかのようにぴたりと重なった。
 右に、左に、それぞれ斬撃を浴びせかけて道を斬り開く。
 煌々と輝く花はもう、すぐそこに見えている。
 なんとしてでも、辿り着かねばならない。
 辿り着き、護らねばならない。
 かの青年の命の消失は世界の終わりを意味している。
 それに、

「――……」

 ちらりと、龍馬は隣で刀を振るう古馴染みの男へと視線を向ける。
 この男もまた、失われてしまう。
 以蔵は、カルデアのマスターたる青年によって召喚された英霊だ。
 マスターを失えば、今ここにいる以蔵もまた座に還ることになるだろう。
 そうなればもしも、別のマスターが現れたとしても、もう二度ととこの以蔵に逢うことは出来ない。
 龍馬とともにカルデアで笑い、酒を呑み、時には戦場で暴れた幼馴染みは座にて無機質な記録に成り果ててしまう。
 かつて取りこぼしてしまった夢の欠片にも等しい古い友を、今一度失うことになるなんてことはもう二度と御免だった。
 すべてが終わって、それが晴れやかな別れであるのならばまだ良い。まだ我慢できる。いやできないかもしれないが。それはともかくとして。
 こんな形で終わるのは、絶対に厭だ。
 
「邪魔じゃあ!」

 以蔵が吠える。
 その背を護るように龍馬もまた刀を振るい、少しずつ少しずつ、美しく咲き誇る花の根元へと距離を削り――…そこでふと龍馬は異変に気付いた。
 遠くから撃ち込まれる敵の攻撃に白い花弁がふるりと儚げに揺れて、はつり、と天空に咲く花の花弁が一つ、堕ちる。

「なッ、」

 思わず龍馬は息を呑む。
 あれは、投擲武器や遠距離攻撃の類に対しては絶対の防御力を誇る盾だ。
 かの盾を撃ち抜くためにはそれこそ神話レベルの逸話を誇る宝具でも用いなければならないはずだ。
 だが、そんなものが行使された気配はなかった。
 だとするなら次に考えられるのは術者であるエミヤが盾を展開できなくなるほどのダメージを受けたという状況だが、遠目に見てもそんな風には見えない。
 
「龍馬ァッ、きさん、何を呆けとるがじゃ!」

 呆然と立ち尽くしていた龍馬に迫る敵をその腕ごと斬り飛ばした以蔵が怒鳴る。
 当然だ。
 わらわらと無限に沸くような屍人に囲まれた状況で、すでに囲まれた孤立無援の仲間を助けに行かねばならないという状況で、共に戦う連れが突如戦意を失ったかのように立ち尽くしたのだからこれはもう蹴り飛ばされたって文句は言えない。
 だが、それだけの異常が起きているのだ。

「以蔵さん、ちょっとまって」
「アア!?」
「何か、おかしい」
「何がじゃ!」

 そのやり取りの合間にも、真白の花弁がほろりほろりと毀れ落ちていく。
 知性などない屍人にもそれが好機であるということはわかったのか、ますます敵は活気づいて花の根元へとわらわらと群がりだす。
 一枚、また一枚と零れ落ちる花びらは終幕までのカウントダウンのようにも見えて――

「――あ」

 そうだ。
 これはまさしく、カウントダウンだ。
 ハッと周囲を見渡して、それから今一度空に咲く花を見上げる。
 残る花弁は一枚。
 屍人たちが歓喜の声を上げて中心地に向けて群がっていくのを横目に、龍馬は正解に気づくや否や腕を伸ばして以蔵の襟首を引っ掴まえた。
 正直条件反射で斬られるかとも思ったのだが、それでももはやエミヤの意図を口に出して伝えるだけの時間はないと判断したのだ。
 だから、言葉よりも雄弁に肉体言語で訴える。
 引っ掴んだ襟首を力任せに引き寄せ、腕内に囲いこみながら身を伏せる。

「なんじゃあ!?」
「いいから以蔵さん、」

 目を閉じて、と最後まで言う時間は案の定なかった。
 以蔵の後頭部を鷲掴むような乱暴さで、己の胸元に顔を伏せさせる。
 そして、龍馬自身も固く目を閉じるのとほぼ同時に、背を向けた先で真白の閃光が炸裂した。光と風の暴威に、なすすべもなく上身を喪った屍人たちがばたりばたりと白い砂浜にどす黒い血潮をぶちまけながら倒れていく。
 身を伏せ、目を閉じたからこそほぼほぼ無事で済んだが、あのまま立ったままでいれば英霊である龍馬と以蔵であっても五体満足とはいかなかっただろう。

 ――『壊れた幻想』。
 
 数多の宝具を写し取り、再現して己のものとして戦う弓兵の戦法の一つだ。
 多大な魔力を秘めた宝具を矢として敵に撃ち込み、その先で魔力を開放し、爆発させることでより凄まじい破壊力を得るというものである。
 それをエミヤは、『熾天覆う七つの円環』でもやって見せたのだ。
 あえて花弁を落としたのは、破壊力を調整するためだろう。
 七枚の花弁がフルで装填された状態で魔力を解放してしまえば、その真下にいるマスターはもちろん、エミヤや酒呑といえど無事ではすまない。
 それに、エミヤらの元に向かっている龍馬と以蔵に作戦を伝えるための手でもあった。
 落ちぬはずのものが落ちる異常に、龍馬ならば気づくと踏んで賭けたのだろう。
 危険な賭けだ。
 気付かなければ、龍馬と以蔵も上半身を吹っ飛ばされていたところだ。
 ゆっくりと身を起こす。

「以蔵さん、」
「平気じゃ」
「そうか」

 大丈夫か、と問うより先に帰ってくる返事に息を吐く。
 そうして立ち上がって、周囲を見渡しかけたところで以蔵が物言いたげな目を向けてくるのに気づいた。

「以蔵さん?」
「…………おまんは」
「え?」
「おまんは平気か」

 わしを庇ったろう、と居心地の悪そうな小声が早口で問う。
 その拗ねた子どものような口ぶりに、思わず龍馬の口元に柔い笑みが乗った。

「ああ、うん。大丈夫だよ」

 無事をアピールするように、ひらひらと手を振って見せる。
 多少背中に灼きつくような魔力の奔流を感じはしたものの、それだけだ。
 実際の負傷と呼べるほどのダメージは負っていない。

「それより以蔵さん」
「おん。マスターは」

 二人、視線を巡らせる。
 こうして敵を一掃することができたのだ。
 後は負傷したマスターを抱えてカルデアに戻るだけだ。
 そう、思っていたのだけれども。

「あらら」
「ぐう」

 二人のそれぞれの声音が重なった。
 どす黒い血に染まった砂浜を、よたよたと彷徨う影があったからだ。

「どこ、です……? ますたぁ、母は……母は、ここにいますよ。マスター、返事を……返事をするのです……ますたあ」

 よたりよたりとそれこそ悪鬼のような佇まいで、己の得物をずるずると引きずりながら徘徊するモノがそこにはいた。
 長い黒髪も、おっとりと優し気にも見える美貌も、そのすべてをべったりと血で汚し、その上身は肩口から裂けて片方の腕はずるずると砂浜を引き摺られている。
 それでもその女は、我が子を探し続けていた。
 正確には我が子だと思い込んだ存在を、だが。
 自ら母を自称していることと言い、豊かに実った肉付きの良い身体付きといい、母親としての印象の強い源頼光だが、そうして砂浜を彷徨う姿はどこかわが子を探し求める母親というよりも、縋る先を求めてお気に入りのぬいぐるみを探すいとけない子どものようにも見える。

「ますたあ、どこにいるのです……返事を、返事をしなさい!!」

 返らぬ返事に逆上したように突然声音がヒステリックに跳ね上がる。
 当然返事はないわけだが、まるでその声に呼応するように砂浜に広がっていた血の海がごぽごぽと沸き上がった。

「ッ」
「こいたぁまずいちや!」
「以蔵さん、こっちだ!」

 ずるぅ、と血の海から這い出る新たな屍鬼たちの腕が見えた時点で龍馬と以蔵はその場から動き出す。
 見える位置にエミヤや酒呑、マスターの姿がないということはおそらく一旦どこかに身を隠したのだ。
 その場所に、龍馬には心当たりがあった。
 以蔵の腕を掴み、未だ完全に姿を現してはいないエネミーたちに気づかれる前に砂を蹴ってその岩陰へと飛び込む。
 海に面したその岩は崖の真下にどんと鎮座しており、もしもこの地にも潮の満ち引きがあったのならばさながら小さな離れ小島となっただろうと思わせるような佇まいをしていた。そしてその裏手には崖が波に削られて出来たようなちょっとした窪みがあるのだ。
 正面からでは崖と岩が一体化して見えるため、砂浜を彷徨う連中から隠れるにはもってこいだ。
 
 龍馬の思った通り、岩陰にはエミヤと酒呑、そしてぐったりと砂浜の上に寝かされたマスターの姿があった。

「マスター!」

 思わずといったように声をあげて以蔵がその傍らに膝をつく。
 自然、龍馬の眉間にも皺が寄った。
 これはどう見ても良い状況ではない。

「マスターの具合は?」
「今のところ命に別状はないが時間がたてば危うい、といったところだ。なんせ、血を流しすぎた」
「そうか」

 見下ろす青年のパーカーはべったりと血に汚れ、今となっては元の色を思い出すことすら難しい。
 あの多勢に無勢の状況でマスターを護りぬいたことを称賛こそすれ、止血が間に合わなかったことを責める気にはなれなかった。

「カルデアとの連絡は?」
「途切れている。戻るにはゲートをくぐるしかないだろうな」

 エミヤの声にますます龍馬の眉間の皺が深くなる。
 マスターさえ無事でいたならば、カルデアと通信をとり、強制的にレイシフトを中断してカルデアに戻ることも出来る。
 だが、それはマスターが無事であれば、という条件つきだ。
 何せ、カルデアとの通信はマスターの声紋でなければ承認されない。
 何を不便なとこの状況ではつい思ってしまうが、仕方のないことなのだ。
 おそらく、今砂浜を彷徨う源頼光の影だって、声だけで比べたならばカルデアの源頼光と全く同一であるはずなのだから。
 英霊という存在が座に登録された本人の姿と記憶、人格を写しとった仮初のものである以上、一人の英霊がカルデアと、その敵対する相手陣営に同時に複数存在する、なんて事態も全くありえないとは言い切れない。
 実際、カルデアには特異点側についた馴染みのある英霊の姿が多く残されている。
 マスターの身柄が敵陣営に落ちた際に、その手がカルデアにまで及ばないようにという防衛機構の一つでもある。
 それが、今は龍馬らの速やかな帰還を阻んでいる。
 負傷したマスターを抱え、影とはいえ源頼光率いるエネミーの大群の中を突っ切り、ゲートに向かわなければカルデアに戻ることはできない。
 こちらは英霊が四騎。
 屍人程度なら易々と突破できるメンバーではあるが、源頼光までいるともなるとそうは言っていられない。何せ相手のクラスはどのクラスに対しても有利を取れるバーサーカーだ。その分こちらの攻撃もダメージが通りやすいとはいえ、相手は特異点の魔力を貯め込んで英霊の姿を模したモノであり、一体どれだけの魔力をその身に秘めているのかがあまりにも不明瞭だ。
 少なくとも、先ほどの『壊れた幻想』の一撃を受けても消えないだけの魔力は貯め込んでいる。

「――……」

 顎先を白手套に包まれた指先で撫でながら、龍馬は思案を巡らせる。
 どうしたら、マスターを無事に還すことができるだろう。
 どうしたら、この難局を乗り越えることができるだろう。

「エミヤくん、酒呑さん、状態はどんなものかな」
「あまりアテにはしないでくれたまえ、すでにだいぶ魔力を消費してしまった」
「うちもや。あの牛女、うちみたいな可憐なこども捕まえて手加減もせえへんのやもの」
「……そうか」

 頼光率いるエネミーの集団に囲まれる中で、負傷したマスターを抱えて守り抜いたのだ。魔力の消耗が激しいのも頷ける。
 特にエミヤは宝具クラスの『熾天覆う七つの円環』を長時間展開し続けたのだ。
 酒呑の方も、一見無事なようにも見えるがそれはおそらく回復に魔力を回し続けているからなのだろう。
 たった一人で背中にエミヤとマスターを庇い、頼光の相手をし続けていたのだ。
 宝具こそ使っていないとはいえ、その疲労は伺い知れる。
 龍馬はちらりとマスターの元に屈みこんだままの以蔵へと視線を向ける。
 ここからの戦力のメインは龍馬と以蔵となると考えるのが当然だろう。
 以蔵と龍馬で、どれだけ戦えるかにここから先の全てがかかっている。
 黒の双眸をやわりと伏せて、龍馬は思考を走らせる。
 何か考えなければ。
 起死回生の策を。
 何を犠牲にしてでも、マスターを助ける方法を。
 
 ああ、そうだ。
 
 何を犠牲に、してでも。
 どんな犠牲を、払ってでも。

「――――」

 のたり、と緩く、龍馬は瞬いた。
 こころが冷え冷えとしていくのがわかる。
 きっと以蔵を見る龍馬の眼はどろりと淀み、暗く静かだ。
 それは己の良心を犠牲にすることへの絶望であり。
 得難い夢の欠片とすら思っていたはずの古馴染みの男を生贄にするしかないとわかってしまったからこその色だった。

「以蔵さん」

 乾いた声音で、友の名を呼ぶ。

「何じゃ」

 その声の異質さに、マスターからようやく視線を引き剥がされて以蔵が龍馬を見る。
 警戒心の強い獣のような色をした双眸が龍馬を見る。
 きっともうこの眼が龍馬を映して笑うことはないだろう。
 もう二度と、隣に立つことを許してもらうことはないだろう。
 共に笑い合うことも。
 共に酒を酌み交わす夜はもう二度と廻らない。
 けれど、それでも、龍馬はマスターを生かす道を選ぶ。
 もう二度と置いていくものかと思った幼馴染を犠牲にしてでも、最善を取る。
 それが、坂本龍馬という男だった。
 そうでしか在れないのが、坂本龍馬という男だった。
 へにゃりと眉尻を下げる。
 マスターを死なせてしまえば、すべてが終わる。
 けれど、マスターさえ生かすことができたのなら。
 永遠の拒絶の果てに、いつか。
 もう二度と来るとは思えないほど遠い先に、また笑いあえる日が来るかもしれないと、自分でもありえないとわかっている夢を見て、龍馬はゆるりと長い睫毛をそよがせてわらった。

「囮になっちゃくれないか」

 以蔵が、はくりと息を呑んだ。

■□■

「以蔵さん」

 酷く、感情の乗らぬ乾いた声が以蔵の名を呼んだ。
 その声の孕む危うさに引き寄せられるようにして、以蔵は視線を持ち上げる。
 そして、見上げた先の古馴染みの男の顔に怯んだように息を呑みかけた。
 なんという顔をしているのか。
 いつもは優し気な色を浮かべた黒曜の双眸に今は光はなく。
 ただただのっぺりと闇を凝らせたような黒が無感情に以蔵を見ている。

「……何じゃ」

 なんでもないことのように、男は笑う。
 いつものように、へらりとした食えない優男の笑みをその顔に貼り付ける。
 ただ、その眼だけが絶望に浸ったようにただただ昏かった。
 底の見えぬ沼のような眼だ。
 人のして良い目ではない。
 りょうま、と名前を呼ぶより先に、男は言葉を続ける。

「囮になっちゃくれないか」

 軽薄な笑みと一緒に、何でもないことのように言う。
 ちょっとそこまで一緒に出かけないかと誘うような声音と、顔で。

「囮、じゃと?」
「ああ。マスターをゲートまで運ぶ間、以蔵さんに敵を引きつけていて欲しいんだ」
「それは別にかまん」

 陽動作戦なんていうのは戦術における基本の中の基本だ。
 だから、囮になれというのならそれを引き受けるのは別段構わなかった。
 けれど、それだけでこの男がそんな顔をするだろうか。
 それだけであったのなら、この男はいつもと変わらぬ顔で、ちょっとしたおねだりをして見せる時のように眉尻を下げて手を合わせ、「以蔵さん、頼むよ」なんて以蔵がうっかり気持ち良く頷いてしまえるような言葉をつらつらと重ねて見せたはずだ。
 龍馬も、以蔵も、カルデアに所属するサーヴァントだ。
 マスターのために戦うのは当然であり、それだけのことであったならこの男がこんなにも厭な顔をしなくても良いはずなのだ。
 了承した以蔵に、龍馬は良かった、とわらって見せる。
 やはり、その双眸だけはのっぺりと黒かった。

「ただね、普通にしてたんじゃあの頼光さんは食いつかないと思うんだ。彼女、マスターだけを狙っているみたいだからね」
「おん」
「だから」

 龍馬は、緩く首を傾げて。
 言葉を、続けた。

「酒呑さんの酒をね、飲んで欲しいんだ」
「―――」

 息を呑む。
 それは、側で聞いていたエミヤや酒呑も同様だ。

「正気か、坂本龍馬」
「本気やの、それ」
「酷いな、僕は正気だし、本気だよ。酒呑さんの酒を呑めば、一時的にとはいえ英霊としての能力を封じることができるだろう? それなら、あの頼光さんも、以蔵さんをマスターだと……ただの人間だと勘違いしてくれるんじゃないかと思って」
「………………」

 酒呑が宝具として振舞うのは相手を骨の髄まで蕩かしてしまういわゆる毒酒だ。
 かつて、酒呑自身が首を落とされた原因でもある。
 それを、この坂本龍馬という男は日ごろ幼馴染だと慕って憚らない以蔵に飲ませようとしているのである。
 それだけではない。
 そうしてただびとのレベルまで霊威を落とした上で、敵を惹きつける囮になれと言っている。
 戦うだけの力を奪った上で、囮になれと。

「……どいて、わしじゃ」
「この中で一番マスターに体格が近いのは以蔵さんだからね」
「ほうか」

 以蔵は砂地に横たわるこどもへと視線を落とす。
 確かに、背丈や体格という面でだけで見たならば、この中で一番マスターに背恰好が似ているのは以蔵だろう。
 龍馬やエミヤでは、上背や肉付きが良すぎる。
 わしだって別段マスターほど幼い身体はしとらんぞ、と内心不満に思いつつもその言葉が的を射ていることだけは認めざるを得ない以蔵だ。
 以蔵の身体は鍛えられ、要らぬ肉の削ぎ落とされた細身だ。
 対してマスターの体つきというのは未だこどもと男の間にあるような、どこか頼りない少年の風味を残した細身だ。
 脱がせてみればその差は一目瞭然だが、確かに背恰好という意味合いだけで見たならば似ているだろう。

「詳しく聞かせえ」
「以蔵さんなら、そう言ってくれると思ってたよ」

 はは、と龍馬がわらう。
 温度のない乾いた笑いだ。
 屍がかつての坂本龍馬という男を再現して見せているというような不愉快さに以蔵はひそりと眉根を寄せる。

「まずは僕が囮として頼光さんに仕掛ける」
「囮はわしなんじゃないんか」
「頼光さんには以蔵さんを本物のマスターだと思ってもらわないといけないからね。僕はまあ、囮の囮、だ。以蔵さん扮するマスターを逃がすために囮になったとでも思ってくれたら御の字だ」
「続けえ」
「僕が十分に頼光さんを惹きつけたと思ったら、以蔵さんの出番だ。ゲートとは逆の方向に逃げてほしい。頼光さんは、きっと以蔵さんに喰いつく」
「おん」
「で、僕と以蔵さんが頼光さんを惹きつけている間に、酒呑さんはマスターを連れてゲートを目指してほしい」
「おや、私は出番なしなのか?」
「エミヤくんには遠くから援護をしてもらおうかと思ってるよ」
「なるほど」

 龍馬の立てた作戦は筋が通っている。
 この窮地を斬りぬけるためにはそれしかないだろうと思わせられる程度には論理だち、説得力がある。

「だが」

 口を開いたのはエミヤだった。
 眉間に浅く皺を寄せ、あまり感情のにじまない顔で真っ直ぐに龍馬を見る。
 表情は乏しくとも、その鋼の色をした双眸に浮かぶのは憐みにも似た色だった。

「君は、それで良いのか」

 短い問にこめられた意味を龍馬はきっと正確に察したのだろう。
 生きた時代こそ違えど、エミヤという男と坂本龍馬は英霊としての成り立ちの根源を同じくしている。
 どちらも人類の幸いこそを望み、願い、世界と契約を交わしたものだ。
 最善のために犠牲を払う痛みをその身に刻まれたものだ。
 へにゃりと龍馬の眉尻が下がる。
 痛みに耐えながら、泣くのを堪えているかのような顔だ。
 そのくろぐろとした不気味な双眸は決して涙をたたえたりはしていなかったが。
 そんな顔は、少しだけ人間らしくてマシだな、と以蔵は思う。

「……いいんだ。他に、方法があれば別だけど」
「……そうか」

 苦々しく頷いて、エミヤは今度は以蔵へと視線を向ける。
 龍馬に向けたのとは異なり、今度はその双眸には優しい気遣いの色といたわりのぬくもりが宿っている。
 どこか、子どもに向けるのと似た眼差しだ。

「君は、大丈夫なのか?」
「……おん。わしは、平気じゃ」
「……、」

 何か言いたげにして、結局何も言えずにエミヤは口を噤む。
 優しい男じゃ、と以蔵は内心呟いた。
 エミヤは、以蔵が何を恐れるのかを知っている。
 カルデアでキッチンを預かる男に、以蔵は己の抱える食への不信を打ち明けたことがあるのだ。
 理由もわからず食事を残されるのは良い気持ちがしないだろうと思ってのことだ。
 以蔵が慣れぬ食べ物を口にしないのは以蔵の問題であり、料理の質に問題があるからではないということを伝えておきたかったのだ。
 それ以来エミヤは以蔵の食べられそうなのを常に用意してくれるようになった。
 焼き魚と、簡単なお浸しや煮物といったようなシンプルなものだが、そのシンプルさこそが以蔵にとってはありがたかった。
 だからエミヤは知っている。
 以蔵という英霊にとって「毒」がどれほどの脅威になりうるのかを、知っている。
 そして、その幼馴染である坂本龍馬もまた以蔵の恐れるものを知っているということを知っている。

 知っていて坂本龍馬は岡田以蔵に毒酒を飲ませる道を選んだ。

 だからこその、「それで良いのか」という問いなのだろう。
 そして龍馬もまた、エミヤがすべて知った上で問うていることを知っていて、その道を選ぶことを受け入れた。
 だから、これは仕方のないことなのだ。
 他に道はない。
 龍馬がそれを呑んだということは、いよいよ本当に他の道などないのだ。
 以蔵は、坂本龍馬という男に対する恨みをその在り方の根に抱えている。
 けれど、それと坂本龍馬という男への信頼は決して両立しないものではない。
 遠い未来を真っ直ぐに見据え、前へ前へと駆け抜けて以蔵を置き去りにした恨めしい男ではあるが、その人となりを以蔵はよく知っている。
 泣き虫で、度が過ぎるほどのお人よしで。
 そんな男がこんな作戦を持ち出すのだ。
 本当に、それしかないのだ。
 そして誰よりもそんなことしか言えない自分自身に絶望しているのは坂本龍馬自身だ。
 それがわかるだけに、以蔵は余計に苦々しく唇をへの字にする。
 
 どいて、そんな顔をする。
 わしのことなぞなんとも思わず捨てていったんじゃなかったんか。

 以蔵にだって、理屈はわかっている。
 互いにそれぞれ別の道を選び、その果てに以蔵は刑死し、龍馬は暗殺された。
 それぞれの選択が互いの生きる道を分かった。
 それで龍馬を恨むのは本来ならば筋違いだということも以蔵にはよくわかっている。
 けれどそれでも、以蔵の心は頑是ない子どものように駄々をこね続けている。
 あの時龍馬が土佐を出なければ。
 一緒にいてくれたならば。
 あの土牢に助けにきてくれたならば。
 以蔵はあんな終わりを迎えずに済んだし。
 そして、口に出してやるつもりはないが。
 龍馬だって、あんな最期は迎えずに済んだのではないのか。
 以蔵が生きていたなら、あの男をあんな風にむざむざ殺させたりはしなかった。
 そんな共に生きる道を得られなかったのは、龍馬が以蔵を置いていったからだと思いたかった。
 互いにそれぞれの選択の果てに、道を違え、その結果かの幼馴染を殺されたのだとは思いたくなかったのだ。
 どちらも間違っていなかったなんて。
 それぞれがそれぞれの正解を選んだ結果があんな結末だったなんて。
 だから、以蔵は龍馬を恨む。
 龍馬のせいだと自分に言い聞かせる。
 それが間違ってるということもわかっているから、聖杯を暴走させてしまった際のあれこれで自分の本心に気づいてしまったから、今はもう龍馬を斬ろうとまでは思わないけれど。

 それなのに、こんな顔をされたら困ってしまう。
 この男がかつて己を訃報を聞いた際の悼みようを目の前で再現されているような気がして、どうにも尻の座りが悪くなる。
 泥のような眼をした男に何かを言わなければいけないような気がするのに、何を言うべきなのかがわからない。
 考えて、心の内から言葉をくみ上げるなんていうのは以蔵には難しすぎる。
 だから、結局以蔵は何も言わずにエミヤへと手を出した。

「エミヤ、ちっくとおまんの得物を貸してくれんか」
「構わないが何を」

 するつもりだ、と聞かれるよりも先に、差し出されたその短剣を手にして以蔵はむんずと己の結い髪を掴み、その根元からざばりと斬り落とした。
 頭がわずかながらに軽くなり、癖のある髪が散る。
 ひゅ、と小さく龍馬が息を呑む音がした。
 その口元は今も意地のよう、いつもの薄い笑みを貼り付けている癖に、顔色だけは蒼白だ。

「……なんじゃ、なんぞ思い出したか」
「ッ、」

 わかりやすく動揺の色を浮かべた黒がうろりと彷徨って、震える声が「なんでもないよ」と紡ぐ。
 フンと意地の悪い気持ちで以蔵は小さく鼻を鳴らした。
 以蔵や龍馬が生きていた時代、武士というのは髪を結うものだった。
 以蔵のような浪人であっても髪は結っていた。
 それを切るのは俗世と別れを告げる時だ。
 迫りくる死への覚悟として髷を落とすのだ。
 まあ、以蔵にはそんな贅沢な覚悟を決める時間は与えられなかったが。
 だから、以蔵の晒された首は結いこそ長い土牢暮らしで乱れていただろうが、髪だけはそのまま結えるだけの長さを残していたはずだ。
 この男は、それを知らない。
 以蔵の晒された首を、見てはいない。
 それでも、かつて己が迎えた死を想起させるには十分だったらしい。

「マスター、ちっくと動かすき我慢しとおせ」

 柔らかな声音で、ぐったりと横たわるこどもに声をかけながら、以蔵はその血にべったりと汚れたパーカーを脱がしていく。
 腕を引き抜くと、射抜かれた肩が痛むのか苦し気な呻きがその唇から零れ、眉間の皺が深くなる。
 その様子にやはり迷う時間などないのだということがわかって、以蔵は静かに息を吐いて覚悟を決めた。
 血濡れの重いパーカーを羽織り、手にしていた刀を魔力へと解いてしまって、それから以蔵は酒呑へと手を差し出す。

「お姫さん、一杯馳走してくれんか」
「あんたはんは、本当にええの」
「えい。マスターを護るためじゃき」

 すっぱりと言い切って、以蔵はにんまりと口角を持ち上げて笑って見せる。

「お姫さんの酒じゃき、こじゃんち美味いんじゃろう?」

 それが毒の酒だということは知っている。
 きっと呑めば胃の腑から蕩かされるような苦痛を味わうことになるのだということはわかっている。
 それでも、そう言って笑ったのは意地のようなものだった。
 それがわかったからか、酒呑も赤い唇を釣り上げてたおやかに笑った。

「当然や、うちがうつつを抜かしてこの首、」

 白く小さな手刀がそのほっそりとした首をトンと叩いて軽やかに言葉を続ける。

「ずっぱり落とされたぐらいや。首落ちるほど美味い酒、しぃかり味わっておくれやす」
 
 視線を交わして、笑い合う。
 手渡されたのは黒塗りの小さな杯だ。
 その内側だけが鮮やかな赤に満ちている。
 とくとくと注がれる酒からは艶やかな香りがふわりと立ち上がった。
 けれど、それは毒酒だ。
 一口煽れば死の苦しみを齎すものだ。
 かつて以蔵があれほどに恐れたものだ。
 盃をつまむ指先が微かに震えて、澄んだ水面がゆらりと揺れた。
 しっかりせえ、と内心呟いて、以蔵は杯を真っ直ぐに見据える。
 あの時以蔵が恐れたのはなんだったのだろう。
 苦痛か。
 死か。
 それとも、信じていた仲間にすら見捨てられることか。
 ならば、これは恐れる必要などない。
 今以蔵の目の前にあるのは純然たるただの苦痛だ。
 それを以蔵は、仲間のために、大事な信じるマスターのために受け入れようとしているだけに過ぎない。
 この苦痛は以蔵に孤独を思い知らせない。
 むしろその逆だ。
 だから。

「げにまっこと美味そうな酒じゃ」

 意地で口角を持ち上げて、以蔵はぐいと杯に唇を寄せて一息に飲み干した。
 口当たりはまろやかだ。
 水のようにさらさらと涼やかに喉を滑りおち、咥内には香しい酒の香が満ちる。
 けれど、すぐに腹の底がカッと熱くなった。

「っ、……」

 ぐう、と零れかけた呻き声をかみ殺したのはやはり意地だった。
 ここで以蔵が苦しめば、目の前の女童のよう鬼が気に病むのではないかと思ったのだ。
 そんな以蔵の意地などお見通しだと言いたげに、酒呑は小さく眉尻を下げると柔らかな小さな手を以蔵の頬へと伸ばした。

「ええよ、うちの酒でたぁんと苦しんで。うちは鬼やもの。イケメンの苦痛の歪んだ顔なんて、大好物や」
「は、」

 火照った頬に白い手が涼やかで、以蔵はすいと蜜色の双眸を細める。
 喉奥から込み上げる鉄錆の香りと苦みをぐっと嚥下して、その唇にふてぶてしい笑みを浮かべて見せる。。
 ぜい、と喉を苦鳴に鳴らしながらも、それでも以蔵は笑った。

「……、ご馳走さん」
「――…男の子ってどうしてみんなこんな意地っ張りやの。可愛げがないわあ」

 不満そうに唇を尖らせながらも、酒呑の双眸には慈愛にも似た色が浮いている。
 以蔵は、この女童のような姿をした鬼のそんな目が割合気に入っていた。
 人を弄び、非道を為しながらもその根にはまるで慈母のような人という種に対する愛情が秘められている。
 ぐらりと傾いだ背を岩壁に預け、以蔵は呼吸を整える。
 身体は嘘のように重い。
 大気がもったりと質量を持って手足に絡みついているかのようだ。
 感覚も随分と鈍い。
 霊威をただの人のレベルにまで落とすために酒呑の酒を飲む必要があると龍馬は言っていたが、これでは人間以下だ。
 以蔵が人間であった頃であっても、ここまで鈍らではなかったはずだ。

「……えっずいのう」

 ぼそりと呻くように呟いてから、以蔵は覚悟を決めて背を岩壁から浮かした。
 これより、以蔵は囮となって砂浜を駆け回る。
 おそらく生きてカルデアに戻ることはできないだろう。
 いわゆる死に戻りだ。
 だが、結末は一つでもそこに至る道は以蔵次第だ。
 せいぜい敵を惹きつけ、時間を稼ぎ、マスターを逃がしてやらねばならない。

「龍馬」
「うん」
「準備はえいぞ」
「それじゃあ」
「……おい」
「うん?」
「おまん、あンスベタはどうした」
「ああ」

 龍馬は眉尻を少しだけ下げて見せた。

「お竜さんならもう僕のところに戻ってるよ。ただ、随分と大暴れしたみたいで。今は外に出てこられないけれど」

 ああでも安心してね、と龍馬が言葉を続ける。
 おかげでもう遥か彼方水平線から長距離射撃を喰らう心配はなくなったから、と口端には笑みすら浮かべて見せる。
 そうじゃない。
 そうじゃないのだ。
 坂本龍馬という英霊は、お竜というまつろわぬ神を含めて一となるものだ。

「お竜抜きで、やれるんか」
「はは、酷いなあ」

 軽やかに笑って、龍馬は指先で額をかいて見せる。
 
「以蔵さんにあんなことをお願いしたんだ、僕だって頑張らないと」
 
 さらりと言う男に内心忌々しく以蔵はそういうところだ、とぼやく。
 この男は当然のように命を懸けるつもりだ。
 己がおそらく源頼光に斬り殺されることもわかっている。
 お竜のいない自分では源頼光に敵わないことをわかっている。
 それを承知で、この男はあっさりと笑って死地に赴くつもりなのだ。
 まるでそれが、ある種の贖罪でもあるかのように。
 嗚呼、腹が立つ。

「ぞうくその悪いやっちゃ……」

 低い以蔵の声は、果たして龍馬の耳にはどのように届いたのだろう。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 ■□■
 
 
 
 
 
 
 
 
 ぜい、ぜいと喉が鳴る音が煩い。
 こめかみがガンガンと鳴る痛みは英霊となって久しく感じたことのない類のものだ。
 生身の身体というのはこんなにも煩わしいものだっただろうか。
 砂を蹴立てて走りながら、以蔵は唇を噛む。
 龍馬がしっかり囮を務めてくれているのか、今のところ以蔵の周囲に群がるのは雑魚ばかりだ。こちらに向かって伸ばされる屍人の腕の下をくぐり抜けて、以蔵は呼吸を整えながら背後を振り返る。
 追いすがって伸ばされた屍人の眉間を撃ち抜いたのはおそらく、遠くから援護してくれているエミヤの放った矢だ。

「エミヤ、聞こえゆうがか」

 荒く弾む息の下で問う。
 エミヤの方から魔力をつないでパスを作ってくれたのだ。
 弓兵を名乗りながら、エミヤという男は魔術への造詣も深い。
 どのような成り立ちをもつ英霊であるのかは以蔵にはよくわからないが、器用なものだと思う。

『聞こえている。どうかしたか』
「マスターはどうじゃ」
『安心してくれ、そろそろゲートにつくところだ』
「ほうか。龍馬は、どうしちょる」
『……、彼はよくやっている』

 ほんの少しの言葉を選ぶ逡巡こそが、答えじみていた。
 以蔵の元へと追いすがろうとする源頼光を龍馬は一人で押しとどめているのだ。
 もともとそれほど長く持つものではないとわかっていたはずだ。
 は、と息を吐いて、それから以蔵は口元に悪戯を目論む子どものような笑みを浮かべた。なあに。この作戦に置いて一番しんどいところを引き受けたのだ。多少の意趣返しは許されるべきだろう。

「にゃあ、エミヤ」
『なんだね』
「わしの頼みばあ一つ聞いてくれんか」
『構わないとも。今回の功労者は君だ。君の頼みとあれば喜んで』
「ほうかほうか」

 ニチャア、と以蔵は悪どい笑みを浮かべる。
 そうして、以蔵はエミヤへと頼みを告げた。
 
 

 ■□■
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 そろそろ終わりが近いな、と無感動に龍馬は思った。
 以蔵を囮にした以上、源頼光の影はなんとしてでも食い止めたかった。
 ただびとのレベルまで霊威を落とした上に、今の以蔵はマスターを装うために武装すらしていない。ただその身一つで、エネミーの多くうろつく砂浜を逃げまどっているのだ。
 そんな窮地に以蔵を追い込んだのは龍馬だ。
 その抱えるトラウマすら、抉るような真似をしてしまった。
 それだけ傷つけたのだから、これぐらいなんということはない。
 腹をずぐりと抉る太刀傷を片手で抑えて、口元に龍馬は緩く笑みを浮かべる。
 マスターはそろそろゲートに辿りついたことだろう。
 以蔵には、エミヤをつけている。
 酒呑とマスターの援護が優先されるが、敵勢のほとんどは龍馬と以蔵が引きつけていることを考えれば、エミヤはほぼ以蔵の援護に専念していると考えても良いだろう。
 あの弓兵がついているのだ。
 無傷ということは難しくとも、それでも以蔵の引き受ける痛みは最小限で済むにではないのだろうか。

 十分だ。
 現状でやれるだけの最善は尽くした。
 
 後は、以蔵とエミヤがゲートに辿りつくまでここで源頼光を惹きつけておくだけだ。

「わから、ないな」

 龍馬は挑発するように目の前の女武者へと声をかけた。
 刀を交えるのは、もう少しだけ待って欲しかった。
 今少し、呼吸を整えて、抉られた腹の傷を治すだけの時間を稼ぎたい。

「マスターをわが子と呼びながら、どうして君はその愛しい子どもを手にかけようとするんだい」

 夢見るような、いっそ無垢ともよべる眼が龍馬を見る。
 返事もせず踏み込んでくるかとも思われたが、龍馬の問は何かこの源頼光という英霊を写した影の気を惹いたようだった。

「我が子に苦しんで欲しくないと思うのが親心というものでしょう」
「だから殺すと?」
「ええ、ええ。母の手で苦しまず、一息に逝くことこそが我が子の幸い。生の苦しみなど知らなくて良いのです。母が、救ってあげましょう」
「は、……君はずいぶんと、傲慢だ」
「傲慢?」

 はて、と首を傾げる姿はまるで幼い少女のようだ。
 血に汚れた長い髪がざらりと揺れる。
 千切れかけた片腕を引き摺りながら、それでもその女は源氏の大将だった。
 鬼神のごとき強さで龍馬を追い詰めた。
 龍馬の振るう刀も、撃ち出した弾も、がりがりとその身を削るようにダメージは着実に与えていたはずなのだが、基盤となる魔力量があまりにも違いすぎたのだ。
 バーサーカーというこちらの攻撃が通りやすい霊基でなければ、そもそもここまでやりあうことすら叶わなかっただろう。
 片手にした刀を杖のように砂地に刺して、源氏の大将が口を開く。

「あなただって、終わりを望んでいるのでしょう」

 その、当然のことを言っているだけだという口ぶりに背筋がぞわりとした。
 望んでいるのだろうか。
 龍馬自分も、終わりを。
 この永遠に続くともしれない仮初めの生の終わりを。
 最善のために最大の執着を犠牲にすることを強いられるような日々の終わりを。
 咄嗟に否定の言葉が出てこなかったという事実にこそ、ぎくりと龍馬の身体が強張る。
 その隙をむざむざと見過ごす源頼光ではなかった。
 慈愛にも、哀れみにも似た色がその双眸を満たす。

「あなたも、楽しにしてあげましょう。この、母が」

 優しい声だ。
 歪み、歪ではあってもその愛情は確かに子を想う母のように強かだった。
 前のめりに踏み込んで、女武者は片手に携えた長剣を咄嗟に回避すら間に合わなかった龍馬の胸へとするすると刺しこもうとして―――

「ぁ」

 その肩口にどつりと黒々とした矢が突き立った。
 その勢いに肩口からぐらりと頼光の身体が傾く。
 ひゅ、ひゅ、と続いて聞こえる風切り音は次いで放たれた二の矢、三の矢の到来を知らせるものだ。
 刀を振るい、矢をはじこうとするものの残された腕の付け根を穿つ矢に阻まれ頼光の腕はすでに自由にはならないようだった。
 だらりと両の腕を落としたままのその豊かな胸に、柔らかな女の肌にどすりどすりと鋭い矢がのめり込んで行く。

「ああ――…」

 零れた声音は甘やかだった。
 それこそ、生の苦しみからようやく解放されることを歓ぶように官能に満ちていた。
 黒々と、濡れて潤んだ双眸が龍馬を見る。
 どうして、と問うような眼差しだ。
 苦しい癖に、儘ならない癖に、どうしてこうも生きようとするのかと問うような目だった。
 それには応える言葉を持たぬままに、龍馬はその機を逃さずずらりと抜いた刀を携えて地に崩れる女の身体を追うように身を低く踏み込む。

「すまないね、頼光さん」

 小さく、謝りながら。
 逆手に持ち変えた刀を、真上から突き立てるようにしてその心の臓へとずぶりとめり込ませる。
 終わりは、呆気なかった。
 びくりと手足を一度戦慄かせ、この地に充ちた余剰な魔力で生み出された影の英霊は光の粒子に分解されて静かに消えていく。
 後に残されるのは、砂浜に刀を突き立てたまま荒い息をつく龍馬だけだ。

「ッ、……どう、して」

 呟く。
 矢の援護は、間違いなくエミヤによるものだろう。
 だが、どうして。
 彼は以蔵を護っているはずではないのか。
 以蔵に、何かあったのか。
 それで、エミヤは援護の対象を変えたのか。

「エミヤくん!」
『無事か、坂本龍馬』
「どうして君が僕の援護を!」
『――……』

 魔力のパスで繋がった先で、弓兵が呆れたように息を吐くのを聞いたような気がした。

『……岡田くんに頼まれた』
「以蔵、さんに?」
『君の方を援護するように、と』
「どうして!」

 思わず声が荒くなる。
 それはどうしてそんな言うことを聞いたのか、とエミヤに向けた問いでもあり、どうして以蔵はそんなことを言ったのかという疑問の声でもあった。
 どうして。

『―――…つまらない感傷だ』

 皮肉げな声が耳元でわらう。
 どこか自嘲の滲む、それでいてどこか柔らかな、いつか見た朝焼けの丘を思い出させるような声だった。
 朝に光に蕩ける夜の藍。
 幽けく消えゆきながらも光による駆逐を、己の役割を果たしたことに満足げに笑うような、柔らかな皮肉の棘と鮮烈な光への希望が混じり合う声だ。
 龍馬自身が抑止力として何度も見てきたものによく似ている。

『私たちは、最善のために多くのものを犠牲にする』

 そうだ。
 自らの望みのためにたくさんのものを、差し出した。
 得難いと想っていた大事なものさえ、差し出した。

『それは、我が身であっても変わらない。むしろ、この身一つで済むのなら安いものだと。君も思っているだろう』
「――――」

 そうだ。
 所詮この身は世界と契約を交わしたもの。
 何度肉体が滅ぼうと、精神が摩耗しようと、世界に危機が訪れれば再び形作られ、魔力を充填されて壊れかけた世界に派遣される。
 終わりなどない。
 だから、自分の仮初めの命なんていうものは真っ先に切れるカードの一つに過ぎない。
 
『遺されるものの痛みを、仕方ないと、自分のいなくなった世界でもしあわせに生きてくれと願う傲慢さを、君も知っているだろう』
「―――」

 知っている。
 そんな別ればかりを、繰り返してきた。
 鮮やかに笑って、舞台裏に引っ込んで、舞台上のしあわせを祈る。
 自らの欠落なぞ、どうせすぐ埋まるのだからと、自分の欠けた上でのさいわいこそを願いながら、揚々と舞台を降り続けた。

『だからだよ、今もまた、遺されようとしている彼の頼みを、聞きたくなった』
「それさ」
『なんだね』
「酷いよ、本当、酷すぎる」

 呻くように呟いた。
 誰よりも龍馬の気持ちをわかっている癖に、この弓兵はまるで自分のしてきたことの罪滅ぼしのように以蔵の願いを汲み取ったのだ。
 遺される側の意地に沿った。
 ははは、と愉しげな笑い声が耳元で響く。

『急ぎたまえ、坂本龍馬。本当に、間に合わなくなるぞ』
「言われなくとも!」

 立ち上がり、砂に突き立てたままの刀を引き抜いて、龍馬は走り出す。
 援護を欠いた以蔵はきっと追い詰められている。
 まだ生きていてくれ、踏ん張っていてくれと祈り、願い、砂を蹴って走る。
 以蔵だってカルデアで召喚されたサーヴァントである以上、終わりはないのだと知っているのに、どうせここで潰えてもカルデアに戻るだけだと知っているのに、自分ならば合理化出来る理屈が、以蔵にはどうしても当てはめられなかった。
 例え、それが本物の死ではないのだとしても、もう二度と置いて逝かれたくはないのだ。どんなに自分の心を殺そうと、どうしたって譲れなくて、そんな自分に呆れたように龍馬はは、と小さく息を吐く。
 くろぐろとした双眸の奥に強い意思の光を浮かべて、龍馬は弓兵を呼んだ。

「エミヤくん」
『なんだ』
「あとで一発殴らせて」

 耳の奥で、低く柔らかな声音が、御免被ると笑った。
 
 

 ■□■

 目が、回る。
 ぐらぐらと回るのは世界か、自分か。
 以蔵はすっかりへこたれかけていた。
 エミヤを龍馬の元に行かせたのは、ちょっとした意趣返しのつもりだった。
 あの男が死ぬつもりなのはわかっていた。
 以蔵を危険に晒すのだから、自分がこれぐらいやるのは当然だと、光のない澱んだ眼で笑った男に、心底腹が立ったのだ。
 だから、助けちゃろうと思った。
 置いて逝かれる側の気持ちを味わって、一方的に守られた歯がゆさに苦しめば良いと思った。
 
 まあ、それはすなわち自分が代わりに死ぬことを意味しているのだということもわかってはいたのだが。
 
 どうせ、カルデアに戻るだけだ。
 マスターは、もうゲートを潜ったことだろう。
 もはや、以蔵がこの地で命を張る必要などない。
 なんなら、以蔵だけでなく龍馬やエミヤだってこの地で果てたとしても構わないのだ。
 ただ、一度魔力に分解されて、カルデアでこの身を再構築されるだけ。
 ただ、それだけのことだ。
 だから、別段諦めたって良かったのだ。
 さくっとその身を屍鬼たちに投げ出してしまえば良い。
 そうわかっているのに、どうしてだか以蔵は今も戦い続けている。
 伸ばされる屍鬼たちの腕をかいくぐり、砂地を転がり、足元を掬おうとする巨大なヤドカリの鋏を蹴り飛ばして飛び越える。
 捕まってしまえば楽になるとわかっているのに、何かに突き動かされるように、誰かを待つように以蔵はこの地で堪え続けている。

「ッ、しわいちや!」

 伸ばされた屍人の腕を逆に掴みとり、関節技をキメて本来曲がるはずのない場所に向けてごきりと捻じ曲げる。
 同じアサシンクラスの同僚に学んだ近接格闘技だ。
 得物を用いない戦闘技術というのはこれまでそれほど縁がなかったこともあり、以蔵にとってはずいぶんと興味深かった。
 殴る蹴るのシンプルな暴力というのは、自らの肉体への反動も大きい。
 殴った方が拳を痛めるという話も珍しいものではない。
 だから、以蔵は刀を、得物を使う方が好みだ。
 だが、「だったら上手くやればいいんだよ」と肩を竦めて呵々と笑った男に生来の負けず嫌いが刺激されて、最近少しずつ無手での手合わせをするようになっていたのだ。
 それが、こんなところで生きた。
 痛みを感じてはいないだろうが、物理的に壊された腕では獲物を掴むことはできない。
 止めを刺すところまではいかずとも、敵の脅威レベルを下げることで以蔵はここまでなんとか生き延び続けている。

 は、と息を吐く。

 絶えず動き続け、くるくると四方から迫るエネミーの群れを相手にし続けたこともあってもはや体力は限界に近い。
 こめかみがガンガンと痛み、酸素が足りていないのか視界が霞む。
 極度の疲労に蝕まれた四肢は重く、思い通りに動かない。
 生身の、ただびとの身体の儘ならなさに、以蔵はチ、と舌打ちをする。
 のたのたと本来の男の身体能力を思えば悲しくなるほど無様な鈍さでエネミーから距離を置こうと足を動かしたところで、ずぼりと砂に足がめりこんだ。

「なんじゃァ!?」

 すぐさま足を引き抜こうとするものの、まとわりついた砂が重く絡みついて思うように動かない。そしてそんな砂の下に、つやりと光を弾く硬質な貝の殻が見えた。
 これはまずい、と思う。
 足をやられては機動力を失う。
 酒呑の酒によりほぼほぼ無力化された以蔵にとって、その逃げ足だけが現状の武器だったのだ。それを失えば、後はもう嬲り殺しにされるだけだ。
 それはぞっとしない。
 なんとかして逃げ出そうと足掻く足を、ばちんと鈍い音をたてて巨大な鋏が捕らえる。

「あッぐぅ……!」

 思わず苦鳴の声が零れた。
 ヤドカリの鋏には獲物を断つような鋭い切れ味は備わっていない。
 それはどちらかというと敵を捕らえ、捕まえ、そして――捕まえた獲物をの肉を圧し千切るためのものだ。
 ところどころぼこぼこと盛り上がった凹凸のある鋏が脛にぎちぎちと喰い込む痛みに、以蔵は喉を反らして零れそうになる悲鳴を堪えた。
 とんでもなく、痛い。
 凄まじい痛みに目の前が暗くなる。
 ぐらぐらと世界が揺れる。
 光が遠のく。
 目を開けているはずなのに、視界が暗く染まる。
 酸欠と、悪酔いと、激痛とに以蔵の意識はチカチカと明滅する。
 与えられる痛みだけが以蔵の拠り所になり果てて、その痛みすら過去の疵に重なって曖昧になっていく。
 
 今自分がいるのはどこだ。
 ここはどこだ。
 いつだ。
 
 頬に触れるざらりとした砂の感触が遠のき、代わりに湿った土の匂いが鼻先を霞める。
 燦燦と降り注いでいたはずの光が消え失せて、四方を分厚い壁に囲まれる。
 ぎちりぎちりと足を締め上げて激痛を齎すものは巨大なヤドカリの鋏ではなく、いつかの拷問器具に変わった。
 
「い、厭じゃ……ッ」

 情けなく震える声音で呟く。
 あそこにはもう戻りたくない。
 もう厭だ。
 あんなところには閉じ込められたくない。
 あんな痛みはもう御免だ。
 厭だ。
 厭だ。
 厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ。

「りょぉま、」

 来ないと分かっている男の名を、それでも縋るように呼んだ。

■□■

 
 
 
 
 
 
 真夏の燦々と降り注ぐ日差しの下、巨大なヤドカリのハサミに足を取られ崩れ落ちる幼馴染みの姿を見た。

「以蔵さん……!!」

 叫ぶ。
 呼ぶ。
 ぐらりと目眩がする。
 腹の底からこみ上げる熱が喉元までせぐりあげる。
 ぐつぐつと煮立つこれは一体どう分類すべきものなのか。
 怒りと、焦燥が混ざり合って焦げついて、考えるよりも先に龍馬は砂を蹴散らして一息に以蔵の元まで距離を削る。
 砂浜に沈みかけた背の、その腰裏を腕に攫って引き寄せる。
 苦悶に顔を歪めた以蔵の顔色は、すこぶる悪い。
 霊格をただびとのレベルまで落とすべく、酒呑童子の宝具たる毒酒をあおっているのだ。
 それを、以蔵にやらせたのは龍馬だ。
 マスターを救うために、以蔵を囮にした。
 以蔵をこんな目に遭わせたのは龍馬だ。
 だから、龍馬に怒る資格はない。
 以蔵を傷つけた敵に怒りを向ける資格なんてものは、この作戦を決行することを決めた時点で失った。
 それなのに。
 それでもなお。

「以蔵さんに、何しゆうがか……!!」

 低い、殺気の籠もった声音が喉から漏れた。
 腰からずらりと抜き放った刀を、以蔵の足を挟んで砂の底に引きずりこもうとする大鋏の根元に突き立てる。
 しゅううううと空気が漏れるような、おそらくは威嚇なのであろう音を発しながら砂を散らしてのけぞったヤドカリの胴元からぶちりと大鋏が引き千切れる。
 砂の下から姿を現した大ヤドカリは、突然の反撃に警戒したように、わさわさと足を蠢かせて龍馬と以蔵から距離を取る。
 それを見届けてから、龍馬は急いで腕に抱いた以蔵の足を挟む大鋏を引き剥がした。
気持ちは急くものの、痛みを嫌う以蔵にこれ以上の苦痛を与えないように限りなく気を遣う。
 それでもぐ、と小さく呻く声に胸が締め付けられるように苦しくなった。

「以蔵さん、大丈夫がか!」
「―――……、」

 龍馬の声に応えるように、うっすらと以蔵の瞼が持ち上がる。
 きっと、恨めしげな目をしているのだと思った。
 以蔵をこんな状況に追い込んだ龍馬を、きっと睨み付けるのだと思った。
 それなのに、以蔵は。

「ああ、りょぉま、来てくれたがか」

 嬉しそうに、しあわせそうに、口元を緩めて笑った。
 息が詰まる。
 
「以蔵、さん」
 
 きっと、少しばかり意識が混濁しているのだ。
 いつかと、間違えている。
 道を違えた幼馴染が、それでも助けに来てくれるのではないかと待ち続けていたのであろういつかと。
 青ざめた頬に、手をやる。
 無意識の所作ですりと懐く以蔵の体温に嗚呼、と小さく声が零れる。
 以蔵は、生きている。
 生きて、今、龍馬の腕の中にいる。
 たまらなくて、龍馬は以蔵を抱く腕にぐと力を込めた。
 あのときは間に合わなかった。
 助けられなかった。
 けれども、今は。

「うん、以蔵さん。来たよ」
「ほうか……、」

 ゆるりと持ち上がった以蔵の腕が、龍馬の背に回る。
 以蔵の指がぎゅうと縋るように龍馬の布地を手繰った。
 刀を握る手は以蔵を庇い、周囲を警戒するように構えつつ、もう片方の腕で龍馬は、宥めるようにゆるゆると以蔵の背を撫でる。
 少しでもその苦痛が和らぐようにと、祈るような気持ちでその背を撫でる。
 どれくらい、そうしていただろうか。
 ゆるゆると微睡むように瞬いていた以蔵の双眸に少しずつ力が戻り始める。
 焦点の惚けていた金の瞳が、次第に龍馬へと絞られる。

「……、りょう、ま」
「うん」
「……生きちょったんか」
「うん。以蔵さんの、おかげかな」

 以蔵が、エミヤを龍馬の元へとやった。
 そのおかげで、龍馬は生き延びた。
 背の布地を手繰っていた指先から力が抜けて、ずるりと落ちかけていく途中で軌道を変えてその手は龍馬の頬に触れた。
 泣き出しそうに濡れた黒々と光る双眸を見上げて、以蔵がどうしてだか満足そうに笑った。

「おまんは、その方が、えい」
「その方が、て」
「泣きもせんより、泣きみそのがえい」
「……、本当、以蔵さんには敵わないなあ」

 うつむいて、は、と熱のこもった息を吐きだす。
 泣き出してしまいそうな心地だった。

「わしは頭が悪いき」

 そんなことないよと言葉を挟むより先に、以蔵が言葉を続ける。

「おまんに、言いたい言葉もようよう見つからんかったが」
「うん」
「ようやくわかった気がするぜよ」
「なに」

 腕の中から、泣きべそをかく龍馬を見上げて、以蔵は呆れたように、それでいてなんだかどうしようもなく手のかかる年少者を見るような優しい眼で笑った。

「おまんは、ほんに、げにまっことどうしようもないべこのかあじゃ」
「……………そんな、しみじみ言うことなくない?」
「えいか」
「はい」

 小言のトーンで続けられた言葉に、結局反論は封じられて龍馬はおとなしく傾聴の態を作った。

「マスターを救いたいち思いゆうのはわしもおまんも同じじゃ」
「うん」
「やき、わしに悪いなんぞ思うんじゃながぞ」
「それは」
「わしは頭が悪い。おまんは、頭がえい」

 だから、と言葉を続けて、以蔵は晴れやかに笑った。
 目的は同じなのだ。
 今は二人同じ道の途中にいて、同じ方向を見て、肩を並べて歩いている。
 それならば、共に目指す目的のために全力を尽くすことになんの罪悪感が必要だろう。

「悪だくみは、おまんの仕事じゃ。頭のえいおまんに、わしの命も預けちゃる」
「―――」

 それは。
 それはなんて、豪快な、赦しの言葉だろう。
 ぱちりと瞬いた龍馬の双眸から、その拍子にぽろりと涙が零れ落ちた。
 ぽたんと以蔵の頬に落ちた雫を見て、それが己が零した涙だと自覚したらしい男が慌てたように「ごめんね」だとか「え、わあ、なんでぼく」とか口走るのを、以蔵はしてやったりの顔で見上げて口角を釣り上げる。

「泣きみそ」

 誤魔化すような言葉を探していた龍馬が、その言葉に諦めたようにへにゃりと眉尻を下げる。困ったように、恨めしそうにする癖に、どこかその黒の双眸には幸福のあまい色が滲んでいる。

「以蔵さんに、泣かされゆう」
「おう。わしが、泣かしたった」

 泣くことも嘆くことも諦めたように、屍のようだった男を。
 以蔵こそが、泣かしてやった。
 ふはは、とボロボロの身体で、勝ち誇ったように以蔵が笑う。
 最善のために考えうる限り最小の犠牲を払うことができるのが、坂本龍馬という男だ。
 自らの感傷や、想いに蓋をして、感情を殺して、為すべきことを為せるのが坂本龍馬という男だ。
 岡田以蔵は、それを赦すという。
 道連れにされることを良しとするのだと。
 同じ目的のために、自らの命すらカードの一枚として扱うことを赦すと。
 かつて信じた人に裏切られ、道具のように使われることを誰よりも嫌う岡田以蔵という男が。
 それを、赦すと!

「以蔵さん」
「何じゃ」
「すきだよ」
「………あやかしいことを言うなや、阿呆」

 ふへ、と緩んだ顔を見上げて以蔵はフンと息を吐く。
 それから、にんまりと悪い顔をした。
 見下ろす龍馬が、ゲ、と言いたげな顔をする。

「にゃあ、りょぉま」

 甘えるような声と響きに、それが無茶ぶりの前兆であることを心得た男は口元を引き攣らせつつ、なあに、と返す。
 正直、聞くのが怖い。
 
「ちっくと、魔力よこしぃや」
「え」

 それはもしかしなくとも。
 何か言うよりも先に、龍馬の頬に振れていた以蔵の腕がするりと龍馬の胸元まで滑り落ちて勢いよく龍馬の血で汚れたシャツの胸倉を掴んで上体を引き寄せた。
 わ、とか間の抜けた声が零れる。
 そんな声ごと奪うように、がぶりと以蔵に咬みつくように唇を塞がれていた。
 否。
 咬みつくように、というよりも。
 これは、実際に咬みつかれている。
 がぶ、と鋭い犬歯が唇に突き立てられる。

「ッ、」

 痛みに怯んだように呻いた唇の隙間に舌をねじ込まれた。
 熱い舌がぞろりと龍馬の舌をねぶり、魔力ごと唾液を吸い上げていく。
 オマケのように舌までがぶりと咬まれ、腔内に滲む鉄錆の味わいごとじゅるじゅると啜り上げていくのだからタチが悪い。
 魔力を如何にブン獲るかしか考えていないような、獰猛な、口づけとはとても言えないような代物だ。

「……いぞ、さん」
「何じゃ」
「いくらなんでも、下手すぎない?」
「叩ッ斬るぞ」

 半眼での返事は不穏だった。
 いつかの新宿で、龍馬の方からも魔力供給を目的として以蔵に口づけたことがあった。
 きっと、それをやり返してやった、ぐらいの意味しか以蔵にはないのだろうけれど。
 は、と熱の滲んだ息を吐いて、まるで紅でもひいたかのように龍馬の血で赤く染まったくちびるでにんまりと笑う以蔵はあんまりにも艶やかだ。
 酷くうつくしく、恐ろしい、血に飢えた獣のようだ。
 龍馬の魔力をがっつりと奪った以蔵は、するりと龍馬の腕内より逃れて手の甲で血に濡れた唇をぐいと拭う。
 それからその手を腰元にやって、そこに愛刀の姿がないことを思い出してチッと舌打ちを一つした。
 マスターを装うために、刀は魔力に還してしまった。
 編みなおしても良いが、龍馬から補充したとはいえ、魔力はそれほど潤沢に満ちているわけではない。
 以蔵は少し考えて、それから片手を耳元にやり、繋がったままであるはずのパスを探すように指先で耳元を擦った。

「エミヤ、聞こえゆうがか」
『聞こえているとも』
「武器ばあ作ってくれんか」
『なんだ、後は帰るだけじゃないのかね』
「やられっぱなしじゃあのうが悪いきの」
『はは』

 耳元で響く低い声音は、以蔵ほどではないものの、なかなかに悪い声をしていた。
 それならば、と日頃はカルデアのキッチンで腕を振るう弓兵は、ふ、と小さくその唇から笑いの溶けた呼気を漏らして、幻想を現実に繋ぐ為の呪を紡ぎ出す。
 己が内に抱く幻想を現実に投影するためのパスであり、力ある言葉が連なるにつれて周囲が茜色に染め抜かれ、ごうんごうんと鋼を鍛える音が周囲に鳴り響く。

 そして。
 
 ヒュ、と風を切る音が幾重にも重なって響いたかと思った次の瞬間には、どどどと砂浜にたくさんの刀が突き立った。
 鞘に入ったままの日本刀が檻のよう、幾重にも以蔵を中心に砂浜に降り注ぐ。
 その色とりどりの柄を睥睨して、にまりと以蔵の口角が持ち上がった。
 これだけあれば十分戦える。
 十分に、殺れる。

『所詮はまがい物、それほどの強度はないと思いたまえ」
「えいえい、これだけあれば十分じゃ」
『ああ、それと君にはやはりこれかと思ってね』
「おん?」

 一拍遅れて、とすりと以蔵の眼前に一振りの刀が突き立つ。
 艶やかな黒の上にうっすらと赤の飛沫の散る鞘に、以蔵は静かに息を呑む。
 柄に手をかければ、驚くほどに手に馴染む。
 本来の愛刀以上に思い入れがあるかもしれないそれの鍔には美しい龍が刀身を護るように優雅に身を躍らせている。

 ――肥前忠広だ。
 
 かつて以蔵が龍馬より借り受けた美しい太刀だ。
 動乱の日々の中、何度目かの天誅の折りに以蔵はその切っ先を折った。
 そのあとはどうしたのだったか。
 すでに道を違えた古き友に今更返すわけにもいかず、かといって困窮した日々の中では刀を直すだけの金を工面することも出来ず、結局以蔵はその刀を質にいれて代わりの刀を手に入れたのだ。
 いつか手放した美しい刀が、しっくりと手に馴染む。

「惚れ惚れするほど、えい刀じゃ」

 うっとりと呟いて、以蔵は祈るような気持ちでその鍔に唇を寄せる。
 願わくば、今このひと時だけでも、かつての夢を叶えてみようと思った。
 
「二刀流でも見せちゃろかい」

 はッ、と鼻で笑いつつ、以蔵はひょいと足を伸ばし、素足の先で周囲に突き立つ刀の中から適当な一本の鞘をつまむ。
 親指と人差し指の間に鞘を挟み込み――――それをそのまま蹴り上げた。
 砂を散らして浮いた刀の柄を左の手で掴み取り、振り払う所作で鞘を抜き捨てる。
 右に構えるは肥前忠広。
 左に抜くは、名も知らぬ名刀。
 かつて道を違えた古き友より与えられた美しい太刀を、その友と肩を並べて同じ目的のために力を合わせて戦う。
 いつか夢見た他愛ない願いだ。
 同じ道を征けたなら、と。

「行くぜよ龍馬ァ!」
「はいはい、無理はしないでくれよ!」

 緩みそうになる唇をきりと引き締めて、以蔵は二頭の龍とともに戦場を駆ける。
 

 ■□■

 
 
 
 
 
 
 
 
 砂浜に残っていたエネミーをなんとかかんとか一掃した頃には、もはや三人そろって魔力はほぼほぼすっからかんという酷い有様だった。
 龍馬と以蔵はぐったりと四肢を投げ出すようにして、血に赤く染まった砂浜に座り込んでいる。
 高台を陣取り、二人を援護し続けたエミヤもそれは同じだろう。
 二人ぼんやりとざんざざんと打ち寄せる波の音を聞きながら、戦闘で火照った身体を涼しい潮風で宥める。

「龍馬」
「なんだい?」

 呼ばれた声に視線を向ければ、隣から伸ばされた指先がそろりと龍馬の耳元を撫でていった。なんのつもりかと、緩く瞬く。
 赤々とした夕日の下、何もかもを赤く染めて以蔵はふふふと楽し気に笑う。

「花はどうしたがじゃ」
「花? ああ」
「似合うちょっとたのに」

 揶揄うような声にそういえば、森を探索していた際にお竜に似合うから、なんて言われて髪に花を挿されたのを思い出した。
 大輪の赤々とした南国の花だ。
 大の男を捕まえて花飾りが似合うもないだろうとは思ったものの、別段断固として拒否する、といったほどでもなかったのでお竜のしたいようにさせたままだった。
 きっと、あれやこれやと駆けずりまわっているうちに落としてしまったのだろう。
 そんなことをぼんやり考えていると、隣の男はのそりと腰を持ち上げた。
 ごそごそと砂浜の繁みに向かい、ぶつりと赤い花を千切って帰ってくる。
 思わず胡乱な顔をしていれば、無骨な指先が意外なほどに優しくその花を龍馬の髪に挿した。
 
「……………」
「………おん」

 満足げに以蔵が頷く。
 ああ、以蔵さん疲れてるのだなあ、と思いながら、今度は龍馬がのそりと立ち上がった。あちこち痛む身体を引き摺ってのたのたと繁みに向かい、以蔵が摘んだのとは色の異なる、大輪の白花をぶつりと指先に摘まむ。
 そして以蔵の元に戻ると、その顎先を軽く指先で持ち上げて、もう片手ですいとそのざんばらのふわふわした癖ッ毛の中に花を挿してやった。
 不吉の象徴めいて見えた以蔵の短髪も、今はまだ髪を結う前のいとけない子どものように見えて微笑ましい限りだ。

「……………」
「………おん」

 たぶん、意味はない。
 なんとなく、以蔵のしたことにやり返しただけだ。
 そもそも以蔵だって、何か意味があってしたことではないはずだ。
 あえていうなら、ただただ二人とも死ぬほどに疲れていたのだ。
 
「…………」
「…………」

 二人、見つめ合う。
 大の男の髪に咲く、赤と白、それぞれの大輪の花。
 ぶひゃ、と先に笑いだしたのはどちらだったのか。
 げらげらと互いを指さして笑いあい、なんの騒ぎだと様子を見に来たエミヤをも巻き込んだ。
 
 そんなわけで。

 カルデアにて適切な治療を受けて意識を取り戻したマスターは、三人が戻ったと聞いて管制室へと駆けつけて。
 まずは長い結い髪をざっぱと斬りおとした以蔵の姿に仰天し。
 さらには満身創痍なんて言葉がふさわしいほどに魔力がすっからかんになった三人が、それぞれ頭に大輪の花を咲かせているというすさまじい光景に言葉を失うのだった。
 
「えええ……何があったの、状態異常解除いる……? マルタさん呼ぶ???」

 なんて口走ったマスターは間違っていない。
 
 
 
 
 ■□■
 
 
 
 
 
 ちなみに。
 以蔵はエミヤの拵えた肥前忠弘を最後の最後まで大事に抱えて手放そうとせず。
 エミヤが回収しようとしても厭じゃ厭じゃと駄々をこねまくり、その結果そこまで気に入ったのならばと喰わず嫌いを改めることと引き換えにエミヤから貸与されることになった。
 その翌日から、これまで口にしなかった洋食を目の前にしんみょうな顔で箸を伸ばす以蔵の姿がカルデアの食堂にて目撃されるようになったとか。

「イゾー、カエルも食うか?」
「要らん!」
「以蔵さん、こっちは食べやすいよ」
「……不味かったら許さんきの」

 今日も、カルデアは賑やかだ。

 

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