電話が、鳴る。
 誰がかけても同じ音でしか鳴らないはずの電話だが、なんの虫の知らせか、以蔵にはたまにそのかけてきた相手が誰なのかがわかることがあった。
 だからその日も、ああ厭な音だと思った。
 以蔵が小学校六年生になったある夏のことだ。
 電話に出た母親の眉尻が困ったように下がる。
 やっぱりだ。
 案の定、岡田の本家からの電話だ。
 以蔵は、岡田の本家があまり好きではない。
 一つしか年の変わらぬ従兄弟ばかり祖母が贔屓するからだということもある。
 その従兄弟が、中種であるということをかさにきて以蔵に傍若無人な振る舞いばかりするということもある。
 だが一番の理由は、祖母がこうして暇さえあれば以蔵の母親に電話をかけて寄越して、くどくどと何の役にも立たない小言や嫌味の類いを何時間でも言い続けるからというものだった。
 母親は、たまの電話ぐらいまあ仕方ないやねえ、なんて困った風にしながらも穏やかに笑うのだけれども、電話をきった後に見せる普段とは異なる憂鬱そうな横顔がとてもとても以蔵には我慢できない。
 大体の祖母の不満は、以蔵が坂本の家の世話ばかりして本家への忠節が足りない、というものだ。
 だから、そういうときは以蔵が暇を見つけて本家に顔を出して祖母の相手をし、本家の雑用を細々とやってやり、祖母が求める「忠節」というものの形ばかりを果たしてやることにしている。
 そうすると満足するのか、しばらくは電話はかかってこなくなるのだ。
 母親はそうやってまるで生け贄のように以蔵を本家に差し出すことを良しとはせず、いかんでえいの、いかんで、と言うが、以蔵が行かなければ母親が行くまで祖母は電話をかけてくることになる。
 それならば以蔵が行った方がいくらかかマシだ。
 ちょうど良いことに、今週末以蔵にはなんの予定もなかった。
 少し前までは以蔵にべったりで、毎週末を一緒に過ごしていた龍馬も、一足先に中学生になってからは一気に交友関係が広がり、今までほど何をするでも一緒というほどではなくなった。
 だから、ちょうど良い。

「おかやん、今週末、わしが本家にいくち婆様に伝えとおせ」
「以蔵……」

 電話口を押さえて、以蔵の母が困ったように眉尻を下げる。
 行かせたくないと、その顔にははっきりと書いてある。
 それだけで以蔵には十分だった。
 以蔵は、生け贄にされるのではない。
 自ら、防波堤となるべく赴くのだ。

「えいよ、わしが顔出せば婆様も納得するろ」
「………………」

 以蔵が譲らないのをわかっているからか、母親がため息をつく。
 ここで止めても、以蔵が勝手に本家に行くことを母親はわかっている。
 既に前に一度あったことだ。
 そのとき祖母は以蔵のことを「事前に挨拶もなく突然本家に押しかけた失礼極まりない分家の子ども」として酷く責め立てた。
 その癖、それで満足したのか、その後数ヶ月家からの電話は止んだ。
 本家の祖母は、分家の人間を呼びつけて小言やら何やらを言って気持ち良くなりたいだけなのだ。
 父親は己の母親のそういった暴挙を止めようとはしてくれているものの、そもそも以蔵の父親自体が祖母にとっては『軽種として生まれたハズレ』であるのだから聞く耳を持つはずもなかった。
 中種の長男と、軽種の次男。
 以蔵の父も、あの家ではさぞ苦労したことだろう。
 それでも以蔵の父が本家と縁を切れないのは、斑類の社会において軽種の人権が驚くほどに軽いからだ。
 軽種は、より『血の重いもの』には逆らえない。
 斑類の社会においてはひたすらに搾取される側になり得るのだ。
 だからこそ、軽種は後ろ盾を求める。
 自分たちより『血の重いもの』の庇護下に入ることにより、他のものからの搾取を避けるようにして生きるのだ。
 岡田家であれば、岡田本家の『中種』こそがその後ろ盾だ。
 岡田家に理不尽なちょっかいを出せば、本家の『中種』が黙ってはいないぞ、というわけだ。
 後ろ盾を失った軽種の行く末は悲惨だ。
 あっという間により強いものたちに喰いものにされる。
 岡田家にとって本家は扱いが面倒ではあるものの、だからといってそう簡単に縁を切れる相手でもないのだ。
 それがわかっているからこそ以蔵の母はおとなしく祖母の嫌がらせじみた――というか嫌がらせそのもの――の長電話にも付き合うし、以蔵も軽種として生まれたからには仕方のないことだと割り切って本家の我侭に付き合うのである。
 父親が一家の大黒柱として稼ぐことに専念できるように。
 母親が安心して未だ幼い弟の面倒を見ていられるように。
 以蔵は、それを己の役割として定めた。
 家族のためにできることを、やれることをする。
 それはただそれだけのことだ。

 □■□ 

 週末の昼下がり、以蔵は電車に二駅ばかり揺られて本家を訪れる。
 本家は少しばかり住宅街から離れた場所にある鄙びた平屋の木造屋敷だ。
 一般的な家屋に比べたらそれなりに敷地が広く、立派ではあるのかもしれないが、坂本の屋敷を見慣れた以蔵の目からしたらそれほど大層な屋敷であるようには見えない。
 勝手口にまわり、ごめんください、と声をかける。
 前に一度玄関から声をかけたら、分家の癖に表から入ろうなどと生意気だと叱られたので、それ以来以蔵はこうして裏口から回るようにしている。
 それはそれで、裏口から入りこもうなんて泥棒みたいな真似をして卑しい、などと言われるわけなのだが。
 結局、祖母は以蔵が何をしたって気に入らないのだ。
 随分と待たされてから、勝手口が開いて祖母が顔を出す。
 意地の悪い性根がそのまま顔に出た、我の強そうな老婆だ。
 きちりとした隙のない和装に身を包み、手土産を差し出す以蔵を不機嫌そうに、それでいてどこか楽しそうに双眸を光らせて睥睨している。

「またつまらない土産なんて寄越して。あんたのおかやんは本当に見る目がない」

 代わり映えのしないいつもの台詞だ。
 毎回判を押したように、祖母は以蔵の母親のことを「見る目がない」と言う。
 最初は土産一つにうじうじと言いやがってこのクソばばあ、ぐらいに思っていた以蔵なのだが、そのうちその言葉の意味を知るようになった。
 祖母にとって、以蔵の母親は「天敵」なのだ。
 祖母は、軽種だ。
 以蔵の祖父である中種に「嫁に」と望まれ、岡田家に嫁いだ。
 そして、中種である以蔵の伯父を産み、さらには以蔵の父をも産み落とした。
 それは軽種の女としては手柄だ。
 より血の重い家に嫁ぎ、世継ぎを産み落とす。
 手柄であり、誉れだ。
 祖母にとってはその価値観こそが正しく、真理だ。
 その祖母の価値観に一石を投じたのが以蔵の母親だ。
 以蔵の父親が、以蔵の母親をつれて結婚の許可を求めて実家を訪れた際、何を思ったのか以蔵の伯父が以蔵の母親に「わしに乗り換えんか」などとのたまったのだ。
 それが一目惚れなどというような真っ当な理由によるものだったのか、それとも単に弟のほうが先に結婚しようとしていることが気に入らなくて邪魔してやろうと思っただけのものだったのかはわからない。
 ただ、伯父が以蔵の父から、その婚約者を奪おうとしたことだけは事実だ。
 斑類の社会において、より血の重いものに嫁ぐことは軽種の誉れだ。
 だから一般的な斑類の価値観に従うのならば、以蔵の母親が伯父に乗り換えたとしても誰も責めることはしなかっただろう。
 以蔵の母の両親でさえ、あちらがそう言っているなら中種のお兄さんのほうにしても良いのだと言ったのだと言う。
 そんな中で、以蔵の母は以蔵の父を選んだ。
 そもそも軽種同士の恋愛結婚を選んだ時点で、以蔵の母親にとって『より血の重いものの子を産む』ことに対するこだわりは薄かったのだ。
 もしも以蔵の母親にそのつもりがあったのなら、最初から軽種である以蔵の父親とは付き合っていなかっただろう。
 それが、祖母には理解できなかった。
 どうして「栄誉ある中種の嫁」の座を擲つことができるのか。
 どうして、中種の兄のほうを選ばないのか。
 だから、祖母にとって以蔵の母は天敵なのだ。
 己の価値観を揺るがす、許しがたい敵なのだ。
 そして、そんな母が産んだ子である以蔵も、祖母にとっては同様に認められない存在なのだろう。
 以蔵がもう少し幼い頃には、従兄弟ばかりに優しくする祖母に対する寂しさや、悲しさのようなものを抱いていたようにも思うが、今ではもう祖母とはそういうものなのだという割り切りが生まれてしまっている。
 今更、何も期待などしてはいない。
 ただただ、余計なちょっかいを出してくれるなよと苦く思うばかりだ。

「そろそろ庭の草が伸びてきちょるきね、草むしりでも頼もうかしらねえ」
「わかりました」

 こくりと頷いて、以蔵は庭へと向かう。
 空はカンカンと晴れ渡っている。
 縁側に荷物を置き、水筒をリュックから取り出して一杯飲み干す。
 最初の頃は「婆様、何か飲むもんを貰えんか」などと言って散々育ちが悪いだの、たかり癖がどうのと嫌味を言われてしまったものだが、そろそろ以蔵も祖母の難癖ポイントは把握している。
 まあ、用意していけば用意していったで今度は可愛げがないと罵られるだけなのだが。
 軍手を手に嵌め、以蔵は庭の草をぶちりぶちりとむしり始める。
 からり、と音がした。
 そちらに目を向ければ、縁側に祖母が出てくるところだった。
 以蔵がサボらないように見張るつもりなのだろう。
 涼しげな軒先で、冷えた緑茶のグラスを片手に座る姿はいかにも良家の人間だという風に背筋がピンと伸びた綺麗なものだ。
 その性根はとても綺麗だとは言えないが。
 祖母の存在を黙殺して、以蔵は黙々と庭の草をむしる。
 炎天下の下だけあって、あっという間にふつふつと額に汗が浮いた。
 時折つっと肌の上を汗が滑っていく感触が気持ち悪い。

「ところで」

 ぽつりと祖母が口を開いた。

「最近、坂本さんの家とはどうしちょるの」

 きた、と以蔵は思う。
 岡田の本家とは言っても、所詮は中種だ。
 いや、血が重くなればなるほどレア度があがる斑類においては、重種なんていうのは雲の上の存在で、むしろ重種に会わないまま一生を終える斑類だって珍しくはないぐらいなのだ。
 だから、普段軽種にとっての上位者というのが中種をさす以上、所詮中種、なんていうのは口に出してしまえばとんでもない暴言の類いだ。
 だが、以蔵の近くには、坂本という重種の血筋がいる。
 より『血が重く』、より希有で、より強い斑類でありながら、驕り高ぶらず、以蔵ら軽種の家に対しても対等な人間として扱い、友人として付き合う坂本家の人々の人となりを知ってしまえば、たかだか中種の癖にこうして偉ぶり、何かと優位に立とうとする本家の人間の振る舞いはいっそ滑稽にも映る。
 以蔵は子どもらしからぬ冷えた眼差しをちらりと祖母へと向ける。
 より血の重いものを尊ぶことこそを当たり前だと考える祖母は、坂本家への執着も強い。
 最初、坂本家が龍馬の面倒を見てくれる子どもを探して岡田家に打診してきた折りには、以蔵よりもその従兄弟をと勧めようとしていたぐらいだ。
 その本家からの申し出は、坂本の屋敷と本家とが駅二つ分離れているという物理的な距離によって阻まれたが、今でも祖母は重種の世話をするなどという栄誉は本家にこそ与えられるべきだったと考えていて、何かと以蔵から坂本家の話を聞き出そうとする。

「あそこン子ぉは、獣崩れだとも聞くけんど」

 形ばかりは心配そうな、それでいてどこか嘲る響きを隠せない祖母の言葉にむ、と以蔵は鼻頭に皺を寄せる。
 魂元のコントロールがきかず、度々魂元を晒しては人の形に戻ることのできなかった龍馬のことを、口性のない人々はやっかみをこめて「獣くずれのなり損ない」などと陰口を叩いているのは以蔵も知っている。
 せっかくの重種に生まれても獣崩れじゃあ仕方がない、というわけだ。
 多くに人にとっては、そして以蔵の祖母にとっても、それは酸っぱい葡萄だ。
 本家の正当な跡取りである中種の従兄弟ではなく、たかだか軽種の以蔵を選んだ坂本家の跡取りを『立派な重種サマ』とは認めたくないのだ。

「婆様が心配せんでも、龍馬は立派になりゆう」
「ほうなの」

 おん、と頷いてぶちりと草を抜く。

「去年の卒業式では、生徒代表で挨拶しちょった」

 緊張に頬を染めながらも、壇上で挨拶をする龍馬はすごく、立派だった。
 身長だって随分と伸びたし、上背に見合って体格も良くなった。
 中等部の制服に身を包んだ龍馬は以蔵の目から見ても随分と格好が良かったし、まるで見知らぬにいやんのようだった。
 魂元のコントロールがきくようになってからは学校を度々休むようなこともなくなったし、物怖じせずいろんなことに挑戦するようになった龍馬はめきめきと頭角を現した。
 今では文武両道で通る、皆の憧れの坂本先輩だ。

「今年はな、中等部で生徒会長じゃ。まっこと、立派なもんちや」

 中等部に上がってから、龍馬は生徒会に属するようになった。
 そして、二年になってからは満を持して生徒会長だ。
 夜が怖いといって泣いた子どもの面影はもうない。
 雨がふっても、虫が出ても、もう龍馬は以蔵に助けを求めるようなことはない。
 きっと、その胸に下がる銀の笛が鳴らされることはもうないのだろう。
 少しだけ寂しいけれど、それで良いのだと以蔵は思っている。
 情けない駄目な龍馬でいてほしいなどと、どんどん立派になる幼馴染みの足を引っ張るようなことだけは思いたくはない。
 それは以蔵のことを慕ってくれた龍馬への裏切りだ。
 そんなことを思いながらぶちりぶちりと草を引き抜いていたところで、

「そいじゃあ」

 と祖母の声が響いた。
 意地の悪い、毒の滴るような声音だ。
 
「あんたはもう用無しやね」

 思わず、はっと顔をあげる。
 そんな以蔵の様子に、祖母は赤く塗られた唇を釣り上げて笑った。

「なんやの、あんた、そんなことに気づいてなかったんか。あちらさんの跡継ぎがそんなに立派になられたんなら、もうあんたに出来ることなんかなぁんもないきにね。あんまり勘違いしたらいけんよ。あんたは軽種、あちらは重種なんやから。あちらにお金出してもろて、えろうえい学校にも通わせてもろうているようやけんど……身の引き際ちいうもんもきちんと弁えんとねえ」

 祖母の言葉は随分と意地の悪いものであったけれど、確かに事実でもあった。
 以蔵は、龍馬の助けになることを条件に龍馬と同じ学校に通っている。
 幼稚舎から大学まである私立の学校で、本来の以蔵の家の財力では手が届かなかった名門校だ。その決して安からぬ学費を、坂本の両親は龍馬が以蔵の世話になっているから、という理由でこれまで払ってくれていたのだ。
 だが、龍馬はもう以蔵の助けを必要とはしていない。
 以蔵がいなくても、龍馬は大丈夫だ。
 周囲を人に囲まれ、名実ともに立派な坂本の跡継ぎの名に恥ずかしくない男に育った。

「それともあんた、おかやんと違って重種の子ぉでも産もう思うちょるの」

 小馬鹿にするような響きに、以蔵ははくりと息を呑んだ。
 以蔵は、男だ。
 男だが、軽種だ。
 斑類の軽種は、例え男であっても子を孕むことが出来るのだ。
 斑類そのものの数が少なく、なおかつ重種や中種といった血の重いものたちの繁殖率が人と比べて遙かに劣るからだろう。
 少しでも繁殖の成功率を上げるために、斑類の身体は性別の差を乗り越えるように進化していったのだ。
 だから、以蔵も、望めば子を成すことが出来る。
 その可能性は、与えられている。
 だがそれは、以蔵にとってあまりにも下劣な侮辱だった。
 違う。
 違うのだ。
 違う。
 そんなのじゃない。
 以蔵と龍馬の関係は、そんなものじゃない。
 わめき散らしたくなるのを堪えて、以蔵はじっと地面を睨みつける。
 以蔵だって、『重種の子を産む』ことがどういうことなのかを知っている。
 斑類の社会においてそれが酷く価値があることで、重種の子を産んだ軽種は大事にされて、その後一生困らないようになるということぐらい知っている。
 だから多くの軽種が男女関係なく機会さえあれば重種の子を産みたがっていることだって知っていたし、重種である龍馬のそばにいる以蔵に対してそういった人たちが「うまくやったな」と思っていることだって知っている。
 実際に言われたことだってある。
 でも、違うのだ。
 以蔵は、そんなことを目当てに龍馬のそばにいるわけではない。
 いたわけではない。
 龍馬は、以蔵を必要としてくれた。
 軽種である以蔵のことを必要として、頼ってくれた。
 だから、以蔵はそれに応えた。
 助けてやったのだ。
 それだけだ。
 そこに、そのような醜い下心は決してありはしなかった。
 以蔵と龍馬の間にあるのは純粋な友情であり、重種に媚びへつらう軽種の下心の上に成り立つようなものではないのだ。
 以蔵の母が以蔵の父を選んだように、坂本家のひとびとが決して以蔵らを軽種風情と侮ったりしないように、以蔵はまごころでもって龍馬に接している。
 ただそれだけのことなのだ。
 
「……わしと龍馬は、そんなんやない」

 小さく、吐き捨てるように呟く。
 母親の為にも祖母の機嫌を損ねるべきではないとわかっているのに、声音を取り繕うことが出来なかった。
 口にしてから怒らせるだろうか、と思ったものの以蔵の反応に祖母は面白そうに口元を笑ませただけだった。
 以蔵はまだ幼くて気づかなかったけれど。
 この瞬間祖母は、以蔵が傷ついたことを愉しむ酷薄な色をその双眸に浮かべていた。
 普段は子どもらしくなく、冷めた態度でそつなく祖母をあしらう以蔵が、珍しく顔色を変えて傷ついた顔をしたから。
 獲物をいたぶる猫のように口元を歪めて、祖母はなおも言葉を続ける。

「えいのよ、素直になりぃ。誰も彼もがあんたのおかやんみたいにご立派なわけじゃないんやからね。ばあやんはあんたが重種の子ぉ産んで玉の輿に乗りたいゆうても責めたりせんよ。むしろ立派なもんやわ。あんたのおかやんは軽種とはいえ子ぉを二人も産んどるきに、あんたも子ぉ産みやすい体質ろう。そいなら坂本さんくの子が産めんでも、仮腹としての引き取り手は多いきにね。ばあやんがあんたを孕ましてくれる立派なおひと、探しちゃってもえいのよ」

 良いことを思いついた、というように語られる祖母の言葉に、以蔵は、ひ、と怯えたような息が零れそうになるのを堪える。
 怒りすら通り越して、以蔵にはもう祖母が大変薄気味悪く、怖ろしいもののようにしか聞こえなかった。
 この祖母は、以蔵の母への嫌がらせのためだけに以蔵の人生を歪めようとしている。
 より血の重い子を産む道を選ばなかった以蔵の母への意趣返しのためだけに、以蔵により血の重い子を産ませようとしている。
 そして何よりこの祖母の意地が悪いのは、以蔵が龍馬に対して下心など何一つ持っていないのをわかっていながら、それを以蔵の建前としてしまったことだった。
 友情だの、親切だの、まごころだの、以蔵の母が尊び、以蔵が大事にしたいと思っているそれらを、全て浅ましい下心の建前だということにしてしまった。
 そう、決めつけた。
 以蔵がそうではないのだと、龍馬へのまごころを証明するためには龍馬から離れる道しか残されていない。
 龍馬が誰か別の伴侶と結ばれたならば、きっと今度はこの祖母はしたり顔で残念だったねえ、などと言うに決まっているのだ。
 そして、以蔵は「親友の結婚を祝う男」から、「狙っていた重種を落としそびれた軽種」へと貶められる。
 ぐう、と腹の底がうねる。
 込み上げる吐き気を呑み込むように、以蔵はごくりと喉を鳴らす。
 龍馬のことは好きだ。
 大事に思っている。
 その気持ちに龍馬が重種だからなどという下心はない。
 下心はないはずだ。
 けれど、以蔵が龍馬の傍にいる限り、以蔵が軽種で龍馬が重種である限り、その勘ぐりからは逃れられない。
 龍馬への清らかなまごころの証明を果たしたい気持ちと、純粋な好意故にこれからも仲良くしていたいという本来ならば相反せぬはずの気持ちに板挟みにされて以蔵は身動きが取れなくなる。
 どうしたら良いのかが、わからなくなる。
 ぴたりと動きの止まった以蔵を縁側から見下ろして、祖母はようやく気がすんだように笑ったようだった。

「手がとまっちょるよ、サボらんとしゃんしゃん草むしりせんと。そがあにとろこいと日が暮れても終わらんよ。ほんに、誰に似たんやろねえ」

 そういって祖母は、す、と立ち上がると室内へと戻るついでのように縁側の端においてあった以蔵の水筒をつま先に引っかけるようにして蹴倒した。
 先ほど仕事に取りかかる前に飲んだ際にきちんと飲み口を閉めきれていなかったのか、ぼとりと庭に落ちた水筒からだくだくとその中身が溢れ出す。
 それを振り返りすらせずに、祖母の背は室内へと消えていった。
 後に残されたのは途方に暮れたまま庭にしゃがみ込む以蔵と、ころり、と庭に転がってだくだくと中身を溢れさせる水筒が一つだけ。
 飲み口にもざらざら土がこびりついてすっかり汚れてしまったそれを、早く拾わなくてはと思うのに身体が動かない。
 ただただ動けずにいる以蔵の目の前で、じっとりと土を濡らす浸みだけがじわじわと広がっていった。
 

 ■□■

 それは、ある日の休日の午後のことだった。
 中等部に進学して以来何かと忙しく、以蔵とともに過ごすことが減っていた龍馬にとっては久しぶりの以蔵と過ごす休日だ。
 どこか遊びにでもいこうか、と龍馬は考えていたのだが、以蔵は龍馬の部屋を訪ねたがった。なんでも、宿題を見てほしいらしい。
 あまり勉強を好まない以蔵にしては珍しい申し出ではあるが、中等部進学を控えた小学部最後の夏だ、少し真面目に勉強をするつもりになったのかもしれない。
 よほど酷い点数を取らなければほぼほぼエスカレーター式で中等部に進学出来るのが一貫校の強みだが、それでも一応試験はあるので備えておくに越したことはない。
 そんなわけで、その日は二人で教科書を開いて過ごすことになったのだった。
 とはいえ、真面目に勉強ばかりしていたわけでもなく。
 お互いにちょっかいを出し合い、じゃれあって、けらけら笑い合って、また教科書に向き直って――…そうした中でふと以蔵が口を開いた。

「あんな、龍馬」
「うん? どうしたの? どこかわからないところでもあった?」

 以蔵は、言葉に迷うようにじっとノートに視線を落としている。
 何か難しい問題でもあっただろうかと龍馬はノートの隣に広げられた算数の教科書をのぞきこむ。
 以蔵は、計算式さえ与えられればすらすらと解くことが出来るが、文章問題からその式を読み取るという課程が少し苦手だ。
 ある程度練習してコツさえ掴んでしまえば以降は問題なく解くことが出来るのだが、それでもやはり長文のひっかけ問題にはうまいことしてやられてしまう。
 ヒントを与えて自力で解けたということにして自信をつけさせてあげよう、なんて思いながら龍馬はノートと教科書の間で視線を揺らすわけなのだが、教科書にある問題はもうすでに解き終わってしまっているようだった。
 計算式も、ざっと見た感じ間違ってはいない。

「どういた、以蔵さん」

 柔い口調で聞き直す。
 中等部に上がってからは、県外の他校などとの交流も増えてきたこともあって標準語で話すように心がけている龍馬だが、以蔵はその響きにうまく馴染めないらしく、最初の頃は随分と厭そうな顔をしていたものだった。

「…………今日な、坂本のおかやんたちに逢えるがか?」
「え、うちの親? どうだろう……帰ってくるかな……たぶん帰ってくるとは思うんだけど、何時になるかはちょっとわかんないなあ」

 坂本の両親は貿易関係の会社を営んでおり、日々忙しく働いている。
 それでも龍馬が子どものうちは何かと時間を割いてくれていたのだが、龍馬が中等部に入り、それなりに一人でもなんとかやっていけるようになってからは帰宅が深夜を過ぎるのも珍しくなくなった。
 夕食と朝食は、日中週三日で通ってきてくれる家政婦が用意してくれる。 
 それ以外の食事は外食だったり、レンチン食だったり、岡田家にお呼ばれしたり、といった感じなので龍馬としては特に文句はない。
 ほうか、と小さく呟いて肩を落とす以蔵に龍馬は首をかしげる。
 もしかすると以蔵は、坂本の両親に会うために宿題を見てほしいなどと行って訪ねてきたのだろうか。

「何か言づてでもあった? 早く帰れるかどうか聞いてみる?」
「いや、そこまではせんでもえいけんど……」

 ごにょごにょ、と以蔵は言いにくそうに口元をもごつかせる。
 まだ幼い頃のふくふくとしてくちばしのようにとがっていた口元を思い出させる仕草に龍馬は内心ほっこりするわけなのだが、その可愛らしい口元からぽそりとこぼれ落ちた言葉には思わず手にしていたシャーペンを取り落とした。

「わしな……、中学校は、公立にしようかと思いゆう」
「エッ」

 あんまりにも、寝耳に水だった。
 龍馬の口から素っ頓狂な声が出る。

「そ、それは以蔵さん、わしとは別ん学校に行くちゅうことがか?」
「おん、まだ考えゆうだけやけんど、おまんくのおとやんたちとも話してみようち……」

 思うて、と以蔵が続けるより先にばさりと衣擦れの音がした。
 
「……?」
 
 何の音だと顔をあげて、

「へあ!?」

 今度は以蔵が素っ頓狂な声をあげる番だった。
 すぐそこで同じく宿題をしていたはずの龍馬の姿が消えている。
 ころろ……とシャーペンが机の上を転がり、龍馬がいたはずの場所にはこれまで龍馬が着ていた衣服の山だけがこんもりと残されていた。

「え、えええ……」 

 このシチュエーションには身に覚えがある。
 身に覚えがあるので慌てたりはしないものの、それでもどうしてこうなったという動揺は隠しきれない。
 以蔵は眉尻を下げつつも身を乗り出してその衣服の山をかきわけてやる。
 やがて衣服の山の下で呆然としてます、といった顔の蛇を救出する。
 自力で這い出す余裕もないのか、以蔵が引っ張り出してやって初めて思い出したようににょろりと以蔵の手首にほっそりとした尻尾を巻き付けた。
 初対面の頃よりも随分と育った白蛇は、今ではゴムホースほどの太さになった。
 血の色を透かすようにうっすらと桃色がかっていた鱗も今では厚みを帯びて透明感のある白へと変わり、そんな白の合間合間にテンテンと蒼の結晶じみた鱗が散っている。
 大変うつくしい蛇だ。
 重種だとかそういうことを抜きにしても、世の爬虫類好きには垂涎ものの美しいモルフの蛇である。
 とりあえずは保温せねばと幼い頃から身につけた飼育員魂でその身体を温めてやるべく掌で掬うようにハンドリングしながら以蔵は首を傾げる。

「どういたよ、龍馬。ひやかったがか?」

 そっと問いかけつつ、以蔵は室温を確かめる。
 エアコンの効いた室内は27度前後と過ごしやすい温度になっている。
 いくら蛇の目が寒さに弱いとはいえ、魂元が出てしまうほどではない。

「おまん、風邪でもひいちょったんか? 腹でも冷やしたか? こん前したばっかやき、脱皮前、ちゅうこともないよな?」

 突然の魂元の発露に思い当たる可能性を一つ一つ口にしては首を傾げる以蔵に、白蛇は不満げにびたんっと尻尾を揺らして以蔵の肌を軽く叩いた。
 それは、言葉を持たない白蛇が不満を訴える所作の一つだ。
 それからもう一度以蔵の手首に尻尾をぐるりと巻き付けて、ぎゅうと強めに締め付けられる。おまけのようにあぐりと指先を甘噛みまでされてしまえば、以蔵としてもそれが白蛇による全身の抗議あぴーるであることがわかった。
 あんぐあんぐ、と指を懸命に食む仕草に以蔵の口元が緩む。
 時折ちくちくとした感触が指腹に当たるのは白蛇の歯だろう。
 普段は大口をあけても柔らかな歯茎に埋まるようにして見えない歯だが、猫の爪のように口蓋を押すとにゅっと小さなフック状の牙が現れるのだ。
 以蔵を傷つけないようにと加減しつつも、あごご、とまるで丸呑みを試みるかのように柔く歯をたてる白蛇の額をこしこしと以蔵は指先で撫でてやる。
 
「もしかして……おまん、わしが別の学校にいく、ち言うんがそがあにショックだったんか?」

 思わず魂元が出てきてしまうほどか、と思うと以蔵としてはなんだか不思議な気すらしてきてしまう。
 中等部に進学してからの龍馬は、以蔵が少し寂しく思ってしまうほどに一人で頑張れていたのだ。
 生徒会に入ってみたり、部活を始めてみたり、勉強以外のことにも目を向け始め、いつだって周囲には誰かがいるようになった。
 あの日、祖母におまえはもう用無しなのだと言われた後。
 以蔵はこっそりと中等部まで龍馬の様子を覗きに行った。
 そして、そこで見たのだ。
 たくさんの友人に囲まれ、人々の中心で笑っている龍馬の姿を。
 ああもう龍馬は大丈夫だと、そのときに思った。
 以蔵がいなくても、龍馬は大丈夫だ。
 だから、もう以蔵に出来ることがなくなった以上、龍馬の世話係として学費を坂本家に出してもらうのは釣り合いが取れない
 それでは対等ではいられないと思ってしまったのだ。
 坂本家の好意につけ込んでしまっているような気がして、苦しくなった。
 だから、中学からは公立の学校に行こうと思った。
 きっと、龍馬も反対はしないだろうと思った。
 もう以前のように不用意に魂元になってしまうようなこともなくなったし、学校でも大勢の人々に囲まれてすっかり人気者だ。
 寒い冬の時期は蛇の目の特性上苦労するだろうが、学校は違っても一緒に寝てやることは出来るし、何なら朝は起こしにいってやったって良いと以蔵は思っていた。
 だからきっと、あっさりそれなら、と話は進むと思っていたのに。
 だというのに、現在以蔵の掌にはずっしりと丸まった蛇が乗っている。
 以蔵の手首に胴を巻き付け尻尾ロックしたあげくに、指先をあぐあぐ甘噛みするという不満の訴えようである。
 一方の龍馬としては青天の霹靂も良いところだ。
 ショック、なんてものではない。
 だって、龍馬はとても楽しみにしていたのだ。
 以蔵が中等部に上がったら、また一緒に登下校が出来るようになる。
 学校行事だって一緒だ。
 以蔵と龍馬では年の差が二つあるから、同じ学校に通えるのはたった一年だけだけれども、その一年を龍馬はとてもとても楽しみにしていたのだ。
 それに、まだ何も恩返し出来ていない。
 弱虫で泣き虫で何かと面倒ばかりかけていた龍馬だけれども、ようやく最近はいろんなことがうまく行き始めて、周囲からも一目置かれるようになってきている。
 困ったときには以蔵が助けてくれる。
 何があっても、胸に輝く銀の笛を吹きさえしたならば以蔵が助けにきてくれる。
 そう思えばこそ龍馬はいろんなことに挑戦出来るようになった。
 そうしていろいろ試してみれば、向き不向きもわかってきて、自分の出来ること、出来ないことがわかってきたし、出来ないことだってそれを補う方法なども工夫して乗り切れるようになってきていたのだ。
 だから、以蔵が中等部にあがる頃には少しは格好良い先輩としての姿を見せることが出来るんじゃないか、なんて思っていたのに。
 以蔵は、公立の学校に進学しようと思っているだなんて言い出すのだ。
 それがショック以外のなんだというのか。

「けんど龍馬」

 あぐあぐと以蔵の指を囓る龍馬の頭上に、以蔵の柔い声音が降る。

「おまんはもう、わしなんぞおらんくても平気やろう?」

 それこそがトドメだった。
 龍馬の全身からしおしおと力が抜ける。
 龍馬が頑張っていられるのは以蔵のおかげだし、以蔵にこそ格好良いところを見せたい、今度は以蔵を助けられるような男になりたいという一心故だというのに、肝心の以蔵は龍馬は以蔵など要らないと思っていると思っているのだ。
 龍馬の気持ちが、以蔵には伝わっていない。
 こんな悲しいことがあって良いのだろうか。
 かなしい。
 悲しすぎる。
 あまりにも悲しすぎて、龍馬はかぱあと以蔵の指を食んでいた口からも力を抜いてぼとりと以蔵の腕から床に落ちた。
 思わずの死んだふりで腹を出してでろんと脱力する。
 言葉を持たない魂元だからこその、全身を用いての余念のない悲しみアピールだった。

「おいこら不吉な真似しなや」

 呆れたような声とともに、以蔵がごろりと龍馬の天地を正す。
 が、龍馬にだって意地がある。
 いや、何の意地なのかわからないが。
 ただなんとなく、龍馬の精一杯の悲しみアピールである死んだふりを物理的に直されるのが、龍馬の哀しみですら以蔵になかったことにされるようで余計に悲しかったのだ。
 龍馬は、こんなにも悲しんでいるのに。
 再びごろりと腹を見せる。
 ごろんとまた転がされる。
 またごろり。
 ごろん。
 ごろり。
 ごろん。
 無言の攻防戦をどれくらい続けた後だろうか。
 面倒くさくなったように、ごねごねと乱暴な手つきで以蔵に捏ねられた。
 暖かな手指にもちもちごねごねと捏ねくりまわされるのは、少しばかり乱暴なマッサージじみている。
 上下がわからなくほどに捏ねたくられた後にそろりと腹の下に手を差し入れられて、以蔵の視線の高さまで持ち上げられた。
 死んだふりをするタイミングを失った龍馬が拗ねたように尻尾でたしりたしりと以蔵の掌を叩いていれば、宥めるように鼻頭にちょんと以蔵の鼻先が触れていった。

「拗ねなや、りょおま。おまんはもう、わしの助けなんぞ要らんろ? ほいたら……わしなんぞがおまんのそばにおるんも、坂本のおかやんおとやんにわしの学費まで出してもらうんも、悪いきに」

 その声音の、どこか物わかりの良い諦念と、そうしなくてはいけないのだというような萎縮を滲ませたような響きがガリガリと龍馬の胸を引っ掻いていく。

「わしは、ただの軽種やき」
 
 そんな小さなぽつりと落ちた自嘲に満ちた言葉にたまらなくなって。
 今ここできちんと反論せねば、以蔵との間に埋めがたい距離が生まれてしまうことが、龍馬にはわかってしまったから。

「以蔵さんがえい」

 伝えなければ、言わなければ、言葉できちんとこの幼馴染みを引き留めなければと思ったとたん、嘘のように龍馬は人の姿に戻っていた。
 逃げるように咄嗟に手を引こうとした以蔵の手首を、今度は人の形をした手指でしっかりと捕まえて、引き寄せる。

「以蔵さんがそばにいてくれんと厭じゃ」

 ぽかんと丸い以蔵の双眸が龍馬を見上げている。
 それに言い聞かせるように、龍馬は言葉を続ける。

「以蔵さんの目から見て、わしが大丈夫なように見えちょるんなら、それはありがたい話やけんど……あんな、以蔵さん。それはな、わしの意地じゃ。以蔵さんに少しでも格好えいとこ見せたいち思うて、頑張っちょるだけじゃ。以蔵さんがおるからな、わしは頑張ろうち思うちょるし、頑張れるんじゃ。やき、以蔵さんがおらんくなったら、わしは、駄目になる。嘘じゃあなかぞ、以蔵さんが驚くぐらいに駄目になるきにな。朝も起きれんし、少しでもひやいと思ったら外にも出んくなる。引きこもりじゃ。夏まで外に出んからな」

 己の駄目さを力いっぱい力説する。
 それからふと思い直して訂正した。

「やっぱり夏も駄目じゃ。暑すぎて動けん」

 爬虫類は体温が外注なもので、気温の影響を受けやすいのだ。
 龍馬は蛇の目であり、爬虫類そのものというわけではないが、それでもやはり血の重さの分だけどうしたって魂元の影響を受けやすい。
 社会生活を営む上では自分の居心地の良い場所にだけにいるわけにはいかないと思うからある程度妥協をするつもりもあるが、それだって以蔵がいるからだ。
 龍馬が本気で望めば、引きこもり生活を実現するだけの財力が坂本家にはあるし、血の重さを理由にしたならば十分にそれが許される環境でもあるのだ。
 それでも龍馬が合わない社会生活になんとか適応してやっていこうと努力しているのは、すぐそばで助けてくれる幼馴染みがいてくれるからだし、その幼馴染みに少しでも格好良いところを見せたいという気持ち故だ。
 以蔵がいなければ龍馬にとっての外の世界はただただ怖い世界のままだった。

「にゃあ、以蔵さん、わしから離れんで」

 ぎゅう、と以蔵を抱きしめて、その首元にすりすりと鼻筋を押しつける。
 ふわりと日向のような甘い香りが鼻先を掠めていく。
 以蔵の匂いだ。
 龍馬の大好きな以蔵の匂いだ。
 この香りが、この匂いの持ち主が自分のそばから離れていこうとしているなんてとてもじゃないけれど許せなくて、自然と以蔵を抱きしめる腕にも力がこもる。
 以蔵を逃がすまいとするような、力任せの抱擁だ。
 その縋り付くような懸命さを宥めるように、以蔵は龍馬の成長期を迎えて広くなりはじめた背をそろりと撫でてやった。

「…………おまんはそがあにふとおなって、センセ方にも褒められる優等生の生徒会長サマやのに、そいでも、わしがおらんと駄目なんか」
「うん……」

 すんすんと哀れっぽく鼻を鳴らして頷く龍馬に、ほうか、と以蔵は息を吐いた。
 ぎゅうぎゅうと子どもがぬいぐるみでも抱きしめるように以蔵にひっついている龍馬の体温に、胸の内で蟠っていた祖母仕込みの毒がほろほろと崩れていくような心地がする。
 確かに以蔵はただの軽種で、龍馬の傍にいるには不釣り合いな存在であるのかもしれない。
 学費だって、坂本の家に世話になっている。
 けれど、龍馬は以蔵を必要としてくれている。
 龍馬が、以蔵を必要としているのだ。
 誰に何を言われても、ただそれだけが以蔵が龍馬の隣にいる理由になる。
 重種の子を産む為でも、坂本の家に媚びるためでもない。
 他の誰でもない坂本龍馬が岡田以蔵じゃなきゃ駄目だと言うから。
 傍にいてくれと駄々をこねるから。
 だから、以蔵は龍馬の傍にいたって良いのだ。
 そう、決めた。
 開き直るように、以蔵は深々と息を吐く。
 
「おまんはほんに、しょうのないやつじゃのお」

 呆れたような言葉尻とは裏腹に、その声色はどこまでも優しい。
 すり、と以蔵は鼻先を龍馬の鼻梁に寄せた。
 鼻同士を擦り寄せるのは、犬神人の親愛の所作だ。
 じっとりと潤んだ双黒を覗きこむようにして、以蔵は言う。

「おまんが大丈夫になるまでは、わしが傍にいちゃる」
「ほんとに?」
「おん」
「じゃあ、同じ学校に通ってくれる?」
「おん。まあ、坂本のおかやんとおとやんがえいち言うならやけんど」

 いくら以蔵と龍馬が望んだところで、お金を出すのは坂本の両親だ。
 けれど、そのことに関しては特に心配していないように龍馬は軽く肩をすくめた。

「えいに決まっちょる。あん二人、以蔵さんの制服姿楽しみにしてるんだから」

 坂本の両親は、もう一人の息子のように以蔵を可愛がっているのだ。
 今更学費を出し惜しみするはずがない。
 それに。
 そもそも坂本の両親は、龍馬の面倒を見てもらうために以蔵に転園してもらった時から以蔵の人生に責任を持つつもりでいる。
 それだけの影響を以蔵の人生に与えたと、二人は考えているのだ。
 以蔵は、龍馬に対してそれだけの献身を果たしてくれている。
 本人の自覚のあるなしは別として。

「わしな、以蔵さんが中等部にくるの、楽しみにしてるきね」
「……首洗ってまっちょき」
「それ何か違わない?」

 二人で額を擦り寄せあって、ふふと笑いあう。
 そんなほのぼのと柔らかな空気が漂ったところで、ふと、何かに気付いたように以蔵の口角がくぅと持ち上がった。

「以蔵さん?」

 龍馬の呼ぶ声に、以蔵がふひひ、と笑う。

「どないた」
「あんな」

 内緒話をするように、以蔵が龍馬の耳元に顔を寄せる。
 なんだなんだ、とこそばゆいのを我慢して龍馬が耳を傾けたところで。

「おまん、ちんちもふとおなりゆう」

 悪戯っぽい声音で言われた内容に龍馬は自分が魂元から戻って素っ裸のままだったことを思い出して声にならない悲鳴をあげたし、ちょっぱやでベッドカバーを引きずり落として下肢を覆ったのだった。

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