『すみません、子どもが熱を出してしまって……。申し訳ないのですが、本日の予定はまた次回に延期させてもらっても良いでしょうか』

 賑やかな駅構内の雑踏の中、そんな内容の電話を受けた男、坂本龍馬は一度ぱちりと瞬いて、それからすぐに意識して柔らかな声音でもってその声に応じた。

「もちろんですよ。早く帰ってあげてください。次回につきましてては、また改めてこちらからご連絡差し上げますので。お子さん、早く良くなると良いですね」

 龍馬の心からそう思っているのだ、という真心のこもった言葉に、電話口の向こうで相手がほっとしたように声音を和らげるのがわかる。
 初めて顔を合わせる取引先の営業相手に、顔合わせの延期してほしいなどという連絡を当日の夜にしなければならないのだ。
 きっと、さぞ気が重かったことだろう。
 本当にありがとうございます、と何度も繰り返される礼に、当然のことをしたまでですからそんなに畏まらないでくださいと笑って、電話を終える。
 そして、それからさてどうしようと龍馬は駅の壁際にてふと足を止めた。
 本来の予定であれば、駅の改札を出たところで待ち合わせ相手と合流し、それから予約してあった創作和食の美味しいお洒落な居酒屋に向かうつもりだった。
 レストランほど畏まってはいないものの、大衆居酒屋ほど雑然ともしていない。
 ちょうど良いお洒落感と、ちょうど良い日常感。
 初の顔合わせということもあって、そういうちょうど良い店、を抑えてはいたのだが。
 あまり一人で行こう、という気にはならなかった。
 相手からの連絡を受けた電話で、そのまま予約をしていた店へと電話をし、申し訳ないがキャンセルしたいという旨を伝える。
 席を確保しておいただけで、コースの予約のように食材を確保して貰っていたわけではないもので、店側の反応も至極あっさりとしたものだった。
 はい、わかりました。
 また機会があればよろしくおねがいします。
 愛想の良い声に、龍馬もまた是非よろしくおねがいします、なんて言葉を返して電話を切る。

「……さて、これからどうしようかなァ」

 ぴたりと足を止めて、とんと背中を壁に預けて忙しく行き交う人々を眺める。
 もう会社は出てしまった。
 タイムカードには打刻済みだし、今から会社に戻って仕事の続きをする、という気分ではなかった。
 それなら家に帰るか、といってもこんな早い時間に家に帰ったところで待っている人がいるわけでもなく、特にしたいことがあるわけでもない。
 なんだか急にぽんと空中に放り出され、どこにも行けずに宙ぶらりんになってしまったような心地だった。

「何か、食べて帰るかな」

 ぽつり、と小さくつぶやく。
 龍馬は大学進学をきっかけに一人暮らしを始めて、そのまま社会人になった。
 社会人になって五年だ。。
 大学時代を含めれば一人暮らし生活はおよそ九年にも及ぶが、龍馬の料理スキルが成長することはなく、なおかつ多忙な営業職であることが災いして平日はほとんど毎晩が取引先との外食で終わることが多い。
 そうでない日は遅くまで会社に詰めて、そういった直帰の日にはなかなか手が回らない書類の整理やらデータをまとめることになる。 
 そうなればもう龍馬が食事に求めるのはある程度食べられる味であることと、あとは腹が膨れるかどうか、といった最低限になってしまう。
 毎日会社の近くの小さな食堂でも全然かまわないし、そこが閉まってしまった時間であればコンビニの弁当でも全く構わなかった。
 だから。
 今こうしてぽっかりと出来た空いた時間に、何を食べたいかと考えてみても驚くほど何も頭には浮かんでこなかった。

「え」

 思わず、小さく声が零れた。
 自分自身に、動揺する。
 食べたいものが、わからない。
 何が食べたいのか、何一つ頭に浮かんでこない。
 何が食べたいか、を考えるより先に、必要な条件は何か、というところに思考が流れていってしまう。
 それは龍馬にすっかりと馴染んだ手順だった。
 例えば、取引先の相手との食事ともなれば、その相手が好きそうなものをリサーチして店を探すことになる。
 元より龍馬は人の喜ぶ顔が好きだ。
 どうせ一緒に過ごすなら楽しんでほしいと思っている。
 だから食事をともにするのが同僚だとしても、龍馬は当たり前のように相手の好みを考慮する癖がついた。
 食事の相手が複数人ともなれば大変だ。
 だが、その分遣り甲斐がある。
 さりげない日常のやりとりの中から漏れ聞こえる同僚や取引先の人々の好みを心にとめておき、食事の機会があればそれぞれの地雷を避けて無難に喜んでもらえるような店を探す。それが営業職であり、日々多くの接待をこなす坂本龍馬の日常だった。
 自分が食べたいものではなく、連れに喜んでもらえるような食事。
 そんなのを繰り返しすぎたのだろうか。
 自分自身の食べたいもの、というのがすっかり霞にでもなってしまったかのように不明瞭で、形にならない。
 
 僕は、何が好きだった?
 僕は、今何を食べたいと思っている?

 速足に、歩き始める。
 駅を出て、実際の店が並ぶさまを見れば「あ、ここで食べよう」とひらめくようなこともあるかもしれないと思ったのだ。
 けれど、駄目だった。
 どの店を見ても、誰かを思い出す。
 例えばラーメン屋だ。
 ラーメン屋を見ると、龍馬は「そういえば同僚の林田さんがこういうあっさり系のラーメンが好きだったなっけ。魚介系の出汁が好きなんだよね。逆に後輩の小川くんはとんこつ系のこってりとしたラーメンを好むから、ここは合わないかもしれないな」なんてことを考えてしまう。
 居酒屋でも同じだ。
 あの系列はサラダが美味しいと女性陣には人気があったな。
 でも、男性陣は少し物足りなさそうにしていたから、今後行くことがあれば男女比の割合も考えて選んだ方が良いかもしれないな、などなど。
 そんなことばかりが脳裏に浮かんできて、肝心の自分の食欲につながらない。
 コンビニにも入ってみたがやはり駄目だった。
 頭に浮かぶのは「これでいいか」ばかりで「これがいい」が一つも出てこない。
 確かに空腹感は感じているのに、何が食べたい、という具体的な欲が何一つ浮かんでこないのだ。
 なんだか自分の中が空っぽになってしまったかのような虚無感にぞわぞわと肝が冷えた。
 自分はこんなにも何もない男だっただろうか。
 幼馴染相手にあれが食べたいこれが食べたいとリクエストしては、このワガママ末っ子野郎がと罵られたのが随分と昔のような気がする。 
 
「って、そうだ。以蔵さん!」

 そうだ。
 以蔵だ。
 龍馬のことをワガママ末っ子野郎だと罵った本人でもある幼馴染なら。
 岡田以蔵なら、龍馬の食べたいものを知っているに違いないと思った。
 何故そう思ったのかは龍馬自身にもわからない。
 それはまるで天啓のような閃きだった。
 龍馬は懐から取り出したスマホで、幼馴染の番号を呼び出す。
 通話ボタンを押すと、しばらくの呼び出し音の後に回線がつながる。

『なんじゃ、珍しいn』
「もしもし以蔵さん、あのね、僕の食べたいものわかる?」

 電話の向こうで、心底呆れたようなため息が深々と吐き出される音が聞こえたような気がした。
 そして、続いて聞こえたのは無慈悲な回線切断音だった。
 ぶつっ。

「切られちゃった」

 が、負けない。
 これぐらいで心を折られていては営業マンなどしていられない。
 速攻でリダイヤルのボタンを押す。
 つながる。

「もしもし以蔵さん?」

 ぶつっ。
 また切られた。
 二度目のリダイヤルをキメる。
 が、今度は「おかけになった番号は現在電源が入っていないか、電波の届かない場所にあります」というそっけない機械音声に繋がってしまった。
 つれない。
 龍馬の幼馴染は、基本的につれない。
 けれど、その声を聞いた瞬間から龍馬の中で「したいこと」が一つ決まった。

 ――そうだ、以蔵さんに会いに行こう。
  
 スマホをポケットに滑り込ませて、代わりに手帳を取り出す。
 龍馬の幼馴染である以蔵は、地元である高知を拠点に依頼さえあれば全国を飛び回る宮大工をしている。
 今はどこにいるのだろう。
 ぱらぱら、と手帳をめくっていって、龍馬は再び愕然とする羽目になってしまった。
 ここ半年ほど、龍馬の手帳に以蔵の名前が出てこない。
 あるのは仕事の会議の予定や、打ち合わせの予定ばかりだ。
 びっちりと書き込まれた黒々とした予定の数々に、こんなにも毎日働いてばかりだったのかと改めて自分で驚いてしまう。
 それと同時に、ますますつれない幼馴染が恋しくなった。
 以蔵とは、二人がまだほんの子どもだった頃からの付き合いだ。
 家が近所で、二つほど龍馬の方が年上ではあったものの、末っ子の龍馬と長男の以蔵とではそんな年の差はあってないようなものだった。
 むしろ何かと年下の以蔵の方が兄貴風を吹かすようなところすらあった。
 物心ついた時には当たり前のようにそばにいた。
 そんな二人の関係はこうして大人になり、龍馬が地元を離れた今となっても続いている。以蔵が仕事で関東まで来るようなことがあれば龍馬が部屋に泊めてやるし、年に何度か高知に帰れば離れていた時間などなかったかのように笑い合う。
 以蔵と龍馬はそういう関係だ。
 何かあればお互いに連絡を取り合うし、全国を飛び回る以蔵と予定を合わせるために、龍馬はいつだって以蔵と話す機会があれば以蔵のその時点で判明している予定を自分の手帳に書き込むのが常だった。
 だというのに、この半年ほど手帳に一度も以蔵の名前が出てきていない。
 それはすなわち、半年以上もの間龍馬が以蔵と話すらしていないということの証拠じみている。

「嘘でしょ……」

 呆然と呟いてはみるものの、確かに記憶を浚っても以蔵と最後に会ったのは年末年始に地元に帰ったときが最後だ。
 そして現在、気づけばいつの間にやら夏が終わろうとしている。
 そういえば会社でもまだ夏休みを取得していないのは坂本さんだけですよ、なんて総務の女性にチクチク言われていたのを思い出す。
 まだまだ夏は始まったばかりだし皆お休みとるの早いなあなんて笑っていたけれど、皆が早かったわけではなかったのだ。龍馬の季節感が死んでいただけだ。
 ちらっと、時計を見る。
 今ならまだ会社に人がいる時間だ。
 思い立てば行動に移すのは早い。
 それが坂本龍馬という男だ。
 スマホを取り出し、会社へとかける。
 まだ早い時間だとはいえ、既に定時は過ぎているというのに3コール以内で繋がったあたりに同僚たちの社畜魂を感じた。
 
「もしもし――――」

 
 ■□■

 急な話だったはずなのに、顔見知りの総務の女性はいともあっさりと龍馬の遅めの夏休みの申請を受け入れてくれた。
 それどころか、「ようやく坂本さんも有給という制度の存在を思い出してくれたんですね……」なんてしみじみと言われてしまった。さらに、どうせなら溜まりに溜まってる有給も消化してみませんか、と勧められ、三日間の夏休みにさらに二日の有給を追加して土日と繋げてまるまる一週間以上の休みを手に入れた龍馬である。
 その日のうちに荷物をまとめて、高知への航空券を手配した。
 そして次の日の午前中には、龍馬は懐かしい故郷の地に立っていた。
 一番の目的は以蔵に逢うことだ。
 が、昨夜は結局何度電話しても以蔵に繋がることはなく、仕方なくSNSを通して一方的に「明日会いに行くね」なんていうメッセージを残しておいたわけなのだが。
 果たして以蔵は自宅にいるのだろうか。
 空港からまっすぐ以蔵の部屋に向かってタクシーを拾う。
 最寄り駅までは電車を使っても良かったのだけれども、どうにも頭が重くて仕方がなかったもので仕方なくのタクシーだ。
 飛行機の中で中途半端に眠ってしまったのが良くなかったのかもしれない。
 偏頭痛の予兆めいた重さが首まわりから後頭部の辺りに忍び寄ってきている。
 タクシーなんて使ったのがバレたら、以蔵はきっと顔をしかめるだろうなと思うと、体調の悪さから表情をなくしがちの口元にも小さく笑みらしきものが浮かんだ。
 龍馬の幼馴染みの以蔵という男は、パチンコやら競馬やら賭け事の類いには惜しみなく金を突っ込む癖に、日常においては潔癖なまでに倹約家っぷりを見せるという一面がある。むしろ、そのためにこそ倹約しているのだと言うべきなのか。
 ふわあ、と欠伸を噛み殺しながら懐かしい景色をぼんやりと車窓から眺める。
 訪ねてみて、もしも以蔵が部屋にいないようだったら実家に向かえば良い。
 実家より先に以蔵の元を訪ねることにしたのは、一度家に戻ってしまえばなんだかんだと家族に構われてなかなか出られなくなるのがわかっていたからだ。伊達に長年末っ子をやってはいない。
 以蔵の住むアパートの前でタクシーを降りて、荷物を抱えて階段を上る。
 以蔵は地元である高知に残ってこそいるが、実家は出ている。
 今は古びた二階建てアパートの二階に部屋を借りての一人暮らしだ。
 以蔵が一人暮らしを始めたのは龍馬が高知を出てからのことだが、高知に戻ってくる度に訪ねているので龍馬にとってもすっかり馴染みのある部屋だ。
 ピンポーン、とチャイムを鳴らす。
 ドアの前に立ち尽くしていれば、ごそごそと人の気配が近づいてきてガチャリとドアが開いた。
 もっさりとした黒の癖ッ毛を高い位置で揺った以蔵が顔を出し、玄関先に立つ龍馬を見るなり心の底から呆れ果てたというような顔をする。

「おまん、本当に来よったんか」

 その、低く掠れた懐かしい声音が驚くほど胸に染み入って、龍馬はぼんやりと瞬いた。
 目の前に以蔵がいるのだと、その声を聞いて改めて実感してしまった。
 電話口で聞く機械で合成された音でなく、本物の以蔵の声だ。
 素っ気ないようでいて、どこかぬくもりを感じる、以蔵の声だ。
 暖かな郷里の響きに、泣きたくなるような安堵を感じて龍馬の眉尻がへにゃりと下がった。
 
「いぞうさん」
「なんじゃ、幽霊でも見たような顔をして」
「いぞうさんだ」
「だからなんじゃ」
「いぞうさんだ!」

 どさりと手にしていた荷物の入ったボストンバッグを取り落として、龍馬は腕を広げてふらりと一歩以蔵に向かって距離を削る。
 ゆらゆらとした手が以蔵の肩の輪郭を確かめるようにたどるより前に、まるでつっかえ棒めいてがしっと顔面に以蔵の手によるアイアンクローがキメられた。
 単純に手足の長さでいうならばわずかに上背でも勝つ龍馬の方が有利だ。
 だが、片足を前に踏み出して捻りを加えた上で長さを稼いだ以蔵の腕には流石に勝てず、あわあわと龍馬の手が宙をかく。
 触って確かめたいのに届かない。
 
「いぞうさああん」

 心底情けない、ふにゃふにゃとした声が出た。
 日頃穏やかで優しくも、どこか芯の強さを感じさせる低い声音しか知らない取引先の人間が聞いたのならば同じ男の声帯から出た声だとはとても信じられないだろう。
 ぺそぺそと嘆きながらも以蔵に触れたくてそれでも伸ばした腕をあっさりとかわして、以蔵のもう片手がぐいと龍馬の肩を押す。押されるままにくるりと身体が反転して、そのまま背をぐいぐいと押されるようにして玄関前から押しのけられてしまった。
 家にも入れてくれないなんてひどい。
 こうなったら本格的に泣き落としをかますしか、と思ったところで、龍馬は以蔵が龍馬の後を追うようにして玄関から出てきたのに気づいた。
 足下につっかけたスニーカーのつま先をとんとんと地面に打ち付ける所作が、今から出かけるのだと主張している。
 首をひねって振り返れば、以蔵の足下には龍馬の足下に転がっているのとよく似たボストンバッグがあった。

「あれま、以蔵さん、今から出かけるところだったの」
「おん。ちっくとな」

 以蔵は、手荷物を好かない。
 近場に出かける時であれば、財布とスマホと煙草と部屋の鍵を無造作にポケットに突っ込んで出かけるような男だ。
 そんな以蔵がこうしてボストンバッグを用意しているということは、少なくとも何泊かは家を空けることになるのだろう。
 大工などという仕事柄、長い時には半年も帰ってこないこともある。
 ガチャガチャと無造作に戸締まりする音を聞きながら、龍馬はしょんぼりと肩を落とした。滅茶苦茶に残念だ。泣いてしまいそうなほどに、残念だ。
 だが、以蔵が仕事だというのならば駄々をこねて引き留めるわけにもいかない。
 仕方ない。仕方のないことだ。
 実家に顔を出し、何泊かしたらさっさと東京に戻ろう。
 そんな算段をつけているところで、以蔵がちらりと龍馬を振り返った。
 そして、一言。

「行くぜよ」
「…………、」

 どこに、だとか。
 聞くよりも先に、ただただ素直に「おん」と小さく頷いて龍馬は以蔵の背を追うようにして歩き出していた。
 以蔵は、どこに向かっているのかを龍馬に説明することはなかった。
 ただ、龍馬がついてくることを疑いもしないような足取りですたすたと歩いて行く。
 だから、龍馬もどこにいくのかと聞かぬままにただただその背について行くことにした。
 まるで子どもの頃のようだ。
 以蔵は龍馬よりも二つほど年下だったものの、怖がりで気弱だった龍馬に代わっていつだってこうして龍馬の前を歩いていったものだ。
 身長だって龍馬より幾分か小柄で、女の子のように可愛らしかったのに、それでも以蔵はいつだってキリリと眉を吊り上げ、唇をへの字にし、龍馬の前に立って歩き、時に手を差し出して引っ張ってくれた。
 大きくなるにつれ、以蔵は以蔵、龍馬は龍馬でそれぞれの道に進み、龍馬だってただただ以蔵の後をついていくだけの子どもではなくなったけれど。
 そんな以蔵のそんなところがとても格好良くて、好きだった。
 だから、こうして目的地もわからないまま龍馬はてくてくと以蔵について歩いているのだろう。刷り込みのようなものだ。ひよこのようにぴよぴよとついていく。
 三つ子の魂百まで、というやつだ。
 正直に言うならば、名残惜しかったのだ。
 久々に会ったのだから、もう少し一緒にいたかった。
 話はしてもしなくても良い。
 以蔵とならば沈黙も苦にならない。
 ただ同じ空気を共有しているだけで、頭の重みが楽になるような気がした。
 久しぶりに伸びやかに呼吸が出来ているような、そんな気すらしたのだ。
 別段東京で仕事に邁進していた時だって、息が出来ないなんて思ってはいなかったはずなのに。
 てくてくと歩いているうちに最寄りの駅につき、ぴ、とICカードを翳して改札を抜けたせいでやっぱりどこに向かうのかわからないまま、龍馬は以蔵に誘われるようにして電車に乗った。
 昼の間の電車は空いていて、がらんと人のいない長椅子の真ん中あたりに二人で並んで腰掛けた。
 ごとん。
 ごとん、ごとん。
 電車が揺れる。
 隣の以蔵をちらりと見る。
 ああこれは煙草を吸いたいと思っている顔だなと思う。
 唇がうっすらと開いている。
 手持ち無沙汰にぁー……と小さく呻いて天井を見上げる以蔵の顎にはまばらに無精ひげが散っている。
 以蔵がひげを育て始めたのはいつの頃だったろう。
 高校を卒業してすぐだったように覚えている。
 その頃龍馬は大学進学で地元を離れていて、久しぶりに会った時にはもう以蔵の顎にはちらちらとひげが育ち始めていた。
 思わず手を伸ばしてそのちくちくとした感触を指で確かめて、ほおお、と感嘆めいた息を零した龍馬に、以蔵は自慢げにその双眸を細めてどうじゃ、似合っちょるろう、なんて笑ったのだ。
 今ならば知っている。
 あれが高校を卒業すると同時に弟子入りして大人たちに混じって宮大工の道を歩み始めた以蔵の精一杯の背伸びだった。
 大事に育ててそれなのだ。
 元々以蔵はヒゲの濃くなる体質ではないのだろう。
 ヒゲを育て始めてもう何年も経ち、そんなことは自分でもとっくにわかりきっているだろうに、それでもちびちびとしたヒゲを顎のあたりに散らして育て続けているのがとてもいじましく、可愛いと思う。

「……なんじゃ、人の顔をじろじろ見よって」
「ううん。ヒゲ、まだは生やしてるんだなあと思って」
「えい男じゃろ」

 ふひひ、とあの頃と変わらぬ顔で笑うのに、ふすと龍馬の唇からも笑いの蕩けた呼気が小さく零れた。
 そんな他愛のない会話をぽつぽつと交わして、やがて以蔵が辿り着いた駅にてすっくと立ち上がる。ああここが目的地だったのか、と龍馬も以蔵の後を追うようにして立ち上がり、電車から降りる。
 着いたのは空港だ。
 龍馬にとっては、Uターンをキメたようなものだ。
 なるほど、どうやら以蔵は随分と遠くに行くのだな、なんてことを思う。
 せっかくこうして空港まで戻ってきてしまったのだから、もういっそ実家に顔を出すのは諦めて、ここでキャンセル待ちでもして東京に戻ってしまっても良いかもしれない。別段実家の家族に今日訪ねるなんて話は通してもいないのだ。

「おい龍馬」
「うん、なあに?」
「しゃんしゃん荷物預けるぜよ」
「う、うん?」

 見送れということなのか。
 それとも、荷物を持てということなのか。
 一緒に行動するのが当たり前だというような以蔵の口ぶりに戸惑いながらも、龍馬は以蔵の手元にあるボストンバッグを受け取ろうとする。

「……、何しゆうが」

 何かものすごく、龍馬が素っ頓狂なことをしでかしたのだというような目で見られてしまった。解せぬ。思わずごめんと小さく呟いて手をひっこめたが、何故自分が謝らなければいけなかったのかはよくわからないままだった。
 以蔵がち、と小さく舌打ちして、ちらりと龍馬を見る。
 そしてやっぱり「しゃんしゃんせえ」なんて短い言葉で促されて、龍馬は慌てて荷物を預けるための列にさっさと並んでいた以蔵の隣へと滑り込む。
 これから旅行に行くからなのか、周囲の人々はどこか浮き足だっている。
 そんな中に紛れ込んでしまった事に若干の居心地悪さを感じながら、龍馬はちらりと以蔵の横顔を伺う。
 以蔵は別段怒っているようにも、浮かれているようにも見えなかった。
 つんと前を向いた横顔は、ただただ荷物を預けるための長蛇の列にうんざりしているだけのようにも見える。もしかしたら以蔵は、一人で並んで手持ち無沙汰になることを嫌って龍馬を隣に呼びつけたのかもしれない。 
 それならそうと、何か気の利いた話題でも、と思うのにこんな時に限って龍馬の頭も舌も上手く働いてくれず、結局ほとんど会話らしい会話も出来ないままに以蔵の番が巡ってきてしまった。
 にこやかな挨拶とともに手続きが始まる。
 龍馬は以蔵の邪魔をしないように心持ち一歩下がってその様子を眺めていたわけなのだが。

「大人二名様でよろしいですか?」
「はい」

 ????
 さらっと聞き流しかけたそんなやりとりに、龍馬の頭の中に大量のクエスチョンマークが浮かぶ。
 二人? 二名様???
 以蔵さん、誰か連れがいたの???
 ここで誰かと待ち合わせでもしているの???
 きょろきょろとつい視線を巡らせたところで、追撃がかかる。

「岡田様と、坂本様でお間違いはありませんか?」
「はい」

 坂本ってぼくのことかな???
 ぼくだな???
 あれえ??
 ぼく今からどこにいくの???
 確かにここは空港で、ちょうどよく手元にはパッキングされた荷物があるし、これから一週間ちょっとの休暇を持て余してはいるわけなのだけれども。
 だからといってこれは不意打ちにもほどがある。
 否、龍馬がぼんやりして聞き逃してしまっていただけで、最初からこういう予定だったのだろうか。
 全力で戸惑いながらも、立ち尽くすことしか出来ていない龍馬に向かって、以蔵が「ン」と手を突き出してくる。
 それが荷物を寄越せという意味なのだと理解したのは、焦れたように眉間に皺を寄せた以蔵が半ば強引に龍馬の手から荷物をぶんどって行ってからのことだった。
 どすん、と計量器の上に龍馬のボストンバッグが乗せられ、テキパキと手続きが済んだ後は以蔵のボストンバッグと並んでベルトコンベアに乗せられて流されていく。
 先ほどまで手元にあったはずの荷物が流されていき、やたら手の中が軽くなってしまったことにああどうやらぼくはどこかに行くらしいぞ?とじわじわと実感が湧いてくる。

「ええと、以蔵さん」
「なんじゃ」
「あの」

 ぼくは一体どこへ行くのでしょうか、と聞くのはさすがに間抜けな気がしていざ聞こうとすると喉につっかえてしまった。
 まごまごと龍馬が言葉に困っている間に、以蔵はさっさと歩き出してしまっていた。

「まだ時間があるき、買い物でも済ますぞ。土産も買わんといけん」
「そ、そうなの」

 あまりの急展開に、相づちを打つのがやっとだ。
 以蔵はすたすたと歩くとまずはコンビニへと入った。

「おまんも飲むじゃろ?」

 そういって以蔵が手にとったのはよく冷えていそうな缶ビールだった。
 ああ美味しそうだな、と思って頷く。

「よし。つまみは何がえい?」
「僕はピーナッツがいいな」
「イカでえいじゃろ」
「なんで聞いたの???」

 聞くだけ聞いておいて、以蔵は龍馬のリクエストは聞き流すことにしたらしい。
 手に持った籠の中に無造作に缶ビールが日本と、するめの袋が放り込まれる。
 その会計を済ませると、以蔵はさっさと保安検査エリアへと向かった。
 二人とも荷物はほとんど預けてしまっているので、手荷物検査もそれほど時間はかからなかった。
 ふわふわと柔らかな絨毯の敷き詰められた床と相まってなんだか現実感が希薄だ。
 夢か。
 夢なのか。
 そんな夢見心地のまま土産を買うのだという以蔵に付き合って高知銘菓をいくつか見繕った。これはどうだ、あれは新作らしいぞ、なんて話をしているうちにあっというまに時間が過ぎて、搭乗の時間がやってきたようだった。
 行くぜよ、と歩きだした以蔵の後を龍馬はやっぱりひよこのように追いかけて、「ここじゃ」と言われるままに飛行機の座席に座り、シートベルトを締める。
 隣でぷしりと気持ちの良い音がして、龍馬はそちらへと視線を向ける。
 以蔵が缶ビールのプルタブを持ち上げたところだった。
 以蔵はちらりと龍馬へと視線をなげかけ、まるで悪戯な子どものような面持ちでごっごっご、と豪快に喉を鳴らしてビールを流し込む。
 自然と龍馬の喉もごくりと鳴った。
 ほれ、と無造作に袋に入ったままの缶ビールを膝の上に放られる。
 ごそりとビールとイカを袋から取り出す。
 ひやりとした缶の冷たさがどうやらこれは夢ではないらしいぞ、と訴えているものの、現状を追及するのがどうでもよくなってしまうほどにそんなビールが美味しそうに思えて、龍馬は何もかもを一度棚に上げてひとまずはビールを堪能することにした。
 ぷしう、とプルタブを押し上げて、冷えた飲み口に唇をつける。
 ほろ苦くも、しゅわしゅわとした味わいが一息に喉を過ぎていく爽快感がたまらない。
 ビールとは、こんなにも美味しいものだっただろうか。
 思わず銘柄を確認する。
 どこにでもあるいたって普通の缶ビールだ。
 龍馬がたまに晩酌用にコンビニで買うのと変わらない。
 それなのに、そんなビールが驚くほど美味しく感じられた。

「……美味しい」
「真っ昼間から飲む酒は格別やき」
「ふふ、確かにそうだ」

 窓の外では太陽がぎらぎらと輝いている。
 空は真っ青に晴れ渡っている。
 こんな明るい時間から、心地良く冷えた機内でビールに舌鼓を打っているのだ。
 そりゃあ格別な味わいがしたって当然だ。
 それに、なんていったって隣には以蔵がいる。
 イカの袋をぱりりと空けて、がじがじとかじる。
 イカそのものの旨味を活かした濃い目の味付けがビールによく合う。

「おまん、最近は忙しくしちょったんか」
「うん。ちょっと人事異動があってね。編成が変わったりなんかしたものだから、しばらくはばたばたしっぱなしだったなあ。人事異動があるからその準備、っていってバタバタして、いざ人事異動が終わったら終わったで今度はそれに慣れるまでバタバタで」
「はは、そりゃあ大変じゃのう」
「うん。以蔵さんの方は?」
「わしの方は相変わらずじゃ。そうじゃの。古い社の修繕で北のあたりまで行っちょったぞ」
「寒くはなかった?」
「もう春先じゃったきにそがあには」
「へえ」

 のんびりとようやく落ち着いて近況報告などをしあう。
 穏やかな以蔵の声音が耳に優しい。
 そんな声を聞いているうちになんだか眠くなってきてしまって、龍馬は小さくあくびをかみ殺す。
 普段であれば缶ビールの一本や二本で良いが回るようなことはない。
 それなのに、なんだか妙に眠くて、背骨というか身体の芯をずるりと引っこ抜かれでもしたかのように身体からくたりと力が抜けていく。

「……いぞ、さん、ごめん、……なんだかぼく、すごく、ねむい……」
「えいえい、疲れとるんじゃ、おとなしく寝えや」

 ああ、そうかあ。
 ぼく、疲れていたんだなあ。
 以蔵の優しい言葉にそんな風につくづく実感した。
 そのまま寝落ちるし寸前、手の中からスコンと抜け落ちかけたビールの缶を素早く以蔵が回収していくのがわかった。
 それが、龍馬の機内での最後の記憶だ。
 そして。
 気づいたら、龍馬は見知らぬ家の畳間に転がされていた。

「????????」

 何がどうしてこうなった???

 

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