それからの二日は、穏やかに過ぎていった。
以蔵は相変わらずこまごまと家の修繕を行い、龍馬はそれを手伝ったり、ぷらりと村を探索したりなどして過ごす。
何度かおばあが力仕事で難儀をしているところを手伝ったなどした結果、家に呼んでもらったり、この村のこともいろいろと聞かせてもらったりもした。
なんでも、この村の人々のほとんどは畑で生計を立てているらしい。
日中ほとんど働き盛りの賛成の姿を村の中で見かけないのは、彼らは朝の早い時間から山の中にある畑に出かけており、村に残っているのは女子どもばかりだからだとのことだ。
村の中にある畑はどちらかというと自給自足の為の、半ばおばあ達が趣味でやっているものばかりで、本格的に仕事として行っている畑は山の中に場所をとってやっているらしい。
育てているのはパインや菊で、特に菊は電照菊といって夜間も電気をつけて日照時間が長いように錯覚させてやる促成栽培が盛んなのだそうだ。
おばあの息子が見せてくれるということになったのだが、あのとっぷりと暗い夜の森を軽トラの荷台に載せられて運ばれるのは今から人身売買にでもかけられるのではないかという謎の不安に襲われて龍馬と以蔵は二人で顔を見合わせたりしたものだ。
しばらく山道を走った先、突然開けた視界、一面まばゆく光輝く畑はなんだかいっそ幻想的な光景ですらあった。
またその次の日の夜は、おばあの息子に誘われて夜の公民館を訪ねたりなどもした。
この村の男衆は仕事を終えて村に戻ってくると、家で軽く夕飯を済ませた後、それぞれ酒やらつまみやらを持ち寄って公民館に集まり、そこで飲むのが日課になっているらしい。
ちょうど以蔵と龍馬が顔を出した日は、しばらく前に仕留めたイノシシの熟成が終わったとかで、牡丹鍋が振る舞われていた。
まだまだ夏の最中にあるような南国でだらだらと額に汗を浮かべながら鍋をいただくというのは不思議な気がしたが、野性味溢れる牡丹鍋は大変美味しかった。
そして。
その頃には、龍馬ももう風呂場に着替えを持って行くことはなくなっていた。
■□■
ふと、目が覚める。
枕元の時計を見ると、朝の九時を少し過ぎた頃合いだった。
日付が変わる頃には自然と就寝するような生活を続けているからか、最近の龍馬は目覚ましをかけずともこれぐらいの時間には自然と目が覚めるようになっていた。
相変わらず隣に以蔵の姿はない。
ぐうんと腕を伸ばしてノビを一つ、それから欠伸混じりに布団を抜け出す。
そのまま布団とブランケットをまとめて担いで廊下に出た。
「起きたか」
「おはよお、以蔵さん」
「おはよおさん」
そんな挨拶を交わしつつ、台所ではなく居間から縁側に出て、庭に降りる。
ひょいと物干し竿に布団とブランケットをひっかけてから台所に向かった。
台所に足を踏み入れると、ふわりと小麦の良い香りが鼻先を掠めていった。
「あれ、以蔵さんこの匂い」
「ふっふっふ、トーストじゃ」
「よく買えたねえ!」
共同売店でもパンは人気商品で、なかなか手に入らないのだ。
これまでにも何度か朝早くパンを狙って共同売店に赴いてみたりもしたのだが、これまでずっと負け越していた。
「わしは天才じゃき」
自慢そうにえへんと以蔵が胸を張る。
それをすごいねえ、さすが以蔵さんじゃと褒めそやしていれば次第に以蔵の口元がむにむにとして、眉尻が気まずそうに下がり始めた。
なんだなんだと思っていれば。
「……嘘じゃ」
ごにょりと以蔵が薄情した。
嘘とは、と龍馬が目をぱちぱちしていれば、以蔵は種明かしのように冷蔵庫の中から取りだした瓶をごとりとテーブルの上に置いた。
ジャムだ。
透明な瓶の中に、うっすら黄色がかった果肉が詰まっている。
「裏手に住んでるばあやんがくれゆう」
「ジャム?」
「手作りのパインのジャムやち言うちょった。で、一緒にパンもくれゆう」
「あはは、そうだったんだ」
「おん」
嘘をついてまで褒められたがってドヤドヤする癖に、いざ龍馬に手放しに褒められると居たたまれなさそうに白状する以蔵は変なところで正直ものだ。
そういうところがとても好ましく、可愛いなあ、なんどと龍馬は思っているのだけれども本人には内緒だ。
言えば間違いなくこっぴどくどつかれる。
「二枚でえいか」
「うん。コーヒー淹れるけど以蔵さんも飲む?」
「おん」
以蔵がトーストを焼いてくれている間に、龍馬は二人分のカップを並べてコーヒーを淹れる。
先に龍馬の分を淹れてから、以蔵の分をカップの六分目ぐらいまで淹れる。
それからお湯を注いでコーヒーを割った。
龍馬はそれほど好みなく、コーヒーならわりと何でも飲むが、以蔵は薄目のアメリカンを好む。本来ならばアメリカンならばアメリカンに適した豆などもあるのだろうが、家で淹れる分には簡易的に湯で割ってしまいがちだ。
コーヒーとトーストが用意できたところで、二人で朝食にする。
昼食や夕飯は居間でとることが多いが、朝食だけは台所で済ますことが多い。
表面がこんがりときつね色に焼けたトーストの香ばしい甘みに、パインのほんのり酸味の残った甘いジャムがとても合って美味しい。
市販のジャムよりも少しばかり酸味が勝っているのがかえって甘すぎず美味だ。
「龍馬、今日の午後は空けとけよ」
「いいけど、どうしたの? 何か大きな作業でもあった?」
何か手伝いでも必要なのだろうかとコーヒーカップを傾けつつ首を傾げた龍馬に、以蔵がにんまりと笑った。
「えい場所に連れていっちゃる」
「えい場所」
どことなく不穏な気配を感じて復唱してしまう龍馬である。
以蔵がこういう風にもったいぶる時には、本当に良いことが待っている場合と、期待を裏切って酷い目に遭わせてくるパターンが両方ある。
果たして今回はそのどちらなのだろうか。
えいもんを食わせちゃる、と言われて家に呼ばれたあげく、思わず龍馬が涙目になるような珍味の類いを食わされたこともあるのだ。
「…………それがどこだか教えてくれる気は?」
「ない」
きっぱりと即答で断られた。
せめて心の準備が出来ればとも思ったのだが、これはもうドキドキハラハラを抱えて今日の午後を待つしかなさそうだ。
はふとため息をついて、龍馬はトーストの残りをぽいと口の中に放り込んだ。
■□■
昼食を終えて、洗い物を終えたところで二人戸締まりを済ませて家を出た。
本日の昼食は庭で採れたパパイヤの野菜炒めだった。
龍馬にとってのパパイヤは南国フルーツの一種であったのだが、この島においては野菜の一種であるらしい。
まだ青いうちに収穫し、細く千切りにした後水に晒してアクを抜いて炒めるのだ。
味付けは出汁の素と醤油がベースだ。
独特の苦みがほんのりと残る味わいはご飯が進んだ。
それから龍馬が皿を洗っている間に以蔵が用意を調えて今に至る。
てくてくと二人並んで歩き、橋を越えて共同売店へ。
いつもならそこが終点だ。
そこより先には何もないと、引き返すエンドポイントだ。
だが、今日の以蔵はそのまま共同売店の前を過ぎた。
そうすると目の前には両脇を木々で覆われた細い道が山の中へと入っていくのが見えてくる。
アスファルトで舗装され、真ん中にはセンターラインが引かれて車2台がすれ違えるようにはなっているものの、両脇から緑の枝葉がせり出していることもあって実際よりも随分と狭いように感じられる。
うっそりと茂った木々により日差しが遮られている為か、足を踏み入れるとひやりと涼しい風が頬を撫でていった。
ガードレールの傍を一列になって二人で歩く。
「車がきたら危なそうだねえ」
「けんど滅多に車なんぞ通らんき」
「……確かに」
村の中でも、日中はほとんど車を見かけない。
朝方仕事に出かける人々が車を使って村を出ていき、夕暮れ時に車を使って村に戻ってくるというのがこの村における車の出入りのパターンだ。
「島袋さんが言ってた与那道ってここのことかな?」
「そうやろうにゃあ」
「これは確かに夜は運転したくないかも」
遅くなると与那道は危ない、という島袋の言葉をしみじみと実感する。
光がそれほど通らないせいか、アスファルトはじっとりと濡れたように湿っているし、道自体がぐねりぐねりと蛇行しており、道の先が見えないようなカーブも多い。
少しでもスピードを出してしまえばカーブを曲がりきれず、センターラインを超えて対向車とぶつかってしまいそうな危険性が見て取れた。
いかにも子どもが授業の一環で作りました、というような安全運転の看板がところどころに立てられているあたり、実際そういった事故は決して少なくはないのだろう。
そんな与那道を村を出てから20分ほど歩いたところで、ふと以蔵は脇道へとそれた。
そこから先はもう地面は舗装されておらず、赤土がむき出しになった上に砂利石を敷き詰めたような道がジャングルの中へと続いている。
「…………ええと」
「なんじゃ」
「以蔵さん、本当にそこであってる?」
「あっちゅう」
合っているらしい。
一体どこに連れていかれるのかと内心怯みながらも、龍馬は以蔵の後を追う。
そこは一応車でも乗り入れられるようなスペースが確保されているようだった。
いくつかのタイヤの後が地面に残っている。
だがそれだけだ。
そこより先にはもう、道はない。
だというのに以蔵はずんずんと進んで、ジャングルに続く駐車場の端に立った。
「龍馬」
「はいはいなんだい?」
「ここを降りるぞ」
「エッ」
ここ、と以蔵が示す先には当然道らしきものはない。
斜面だ。
崖というほど切り立ってはいないものの、坂道と呼べるほど緩やかなものでもない。
そんな斜面に、獣道程度の道がある。
否、道というよりも足場、といった方が良いだろう。
赤土が踏み固められた獣道は草こそ生い茂ってはいないものの、てろてろと艶やかに光ってとても滑りやすそうだ。
左右に生い茂る木々の根が階段のように張りだして絡み合っているものの、あまり救いにはなりそうにない。
「ここにロープもありゆう」
足下をのたくっていたロープを以蔵が広いあげる。
地面に深々と埋め込まれた鉄の杭から伸びるロープが命綱のように急な傾斜の先へと続いていた。
「む、無謀すぎないかい?」
「大丈夫じゃ」
「何を根拠に!?」
「えいから着いて来い」
「以蔵さん、危ないって!」
龍馬が止めるのも聞かずに、以蔵はさっさとロープを掴んで斜面を下り始める。
進行方向を向いて下れない程度の傾斜だと言えば、わかりやすいだろうか。
斜面と向き合うようにしてロープを掴み、体重をロープで支えながらじりじりと斜面を下っていく。
こんなことになるだなんて思っていなかったせいで、龍馬が履いているのは売店で買ったぺったんこの島草履と呼ばれるビーサンのようなものだ。
それは以蔵だって代わらない。
「龍馬」
「なに!」
「木の根の方がまだ滑らんぞ」
「ありがとうね!? でもこういうところに来るなら先に教えておいて欲しかったな!」
この小さな村において、しっかりと足下の滑らない靴を用意することなんて出来なかっただろうけれども、それでも心の準備ぐらいは出来た。
「おまんが足を滑らせたらわしまで巻き添えじゃ、気ぃつけえよ」
「気をつけるけどさあ!」
もう、と口の中でぼやきながら、龍馬はそろそろと慎重に斜面を下って行く。
一体以蔵は龍馬をどこに連れていこうとしているのか。
距離にしては数十メートルほどだろうか。
ロープを頼りに降りていった先でようやく平らな地面に降りたって、龍馬はほうと息を吐く。帰りも同じ道のりを今度は登らなければいけないのだと思えば神妙な顔にもなるわけだが、そこでふとざあざあと耳を打つ水音に気づいた。
「以蔵さん」
「ここじゃ」
以蔵が先導するようにして、目の前に生い茂る木々を回るようにして抜ける。
そしてそこに広がっていたのは――この世の楽園とも見紛う光景だった。
嘘のようにぽっかりと開けたそこには、緑の水面がひたひたと広がっていた。
浅瀬は水底の石の数が数えられそうなほどに澄み渡り、深みを増すにつれ水面は緑々と色づいていく。
真っ青な空、白い飛沫、深い緑の淵。
囲うように茂る木々の萌ゆる緑の青さもまた美しい。
たっぷり数分は見蕩れて、それからほうと嘆息混じりに龍馬は口を開いた。
「すごい……まるで地上じゃないみたいだ」
「おん……」
以蔵も、驚いたようにその光景に目を奪われている。
その様子からして、この場所のことを知ってはいたものの来るのは初めてなのだろう。
以蔵の淡い蜜色の双眸に、水面の碧が映り込んで複雑な色合いにきらめく様が何よりも綺麗だと思った。
「ここはな、タナガーグムイち言うがじゃ」
「タナガーグムイ?」
「おん。タナガーち言うんは手長海老のことなんじゃと」
「グムイは?」
「溜まり、やち言うちょった」
「手長海老のいる水溜まり?」
日本語に直すと急になんだか可愛くなってしまった響きに二人で視線を交わして小さく笑う。
手長海老のいる水溜まり、よりも龍馬や以蔵にとってはうまく意味をとれない「タナガーグムイ」という音の連なりの方がこの神秘的な光景には相応しいように思えた。
そっと屈んで、龍馬は水に触れる。
「つめた、」
想像していた以上に水はきりりと冷えている。
山水だからだろうか。
未だ残暑厳しい季節であるはずなのに、ゆらゆらと揺蕩う水は嘘のように冷たい。
指先で触れる程度であれば良いものの、泳ごうなどとして全身を浸せばきっと凍えてしまうだろう。
「あんまり深いとこには近づきなや。足を滑らせると危ないきの」
「うん」
以蔵の声に頷きながらもぐるりと視線を巡らせる。
龍馬たちの目の前は浅くさらさらと流れているが、右手側に進んでいけば水面の色味が次第に深みを増していくのがわかる。
どうやらその辺りが水深もまた深くなっているのだろう。
「あ」
「どいた」
「あそこ、ロープが下がってる」
いわゆるターザンロープだ。
水面に張り出した木々の枝に、太いロープがくびられ、吊されている。
岩の上からロープにつかまり、淵にダイブして遊べるようになっているのだ。
そういう遊び方も出来るのかあと頬を緩めた龍馬とは対照的に、以蔵はむっつりと口元をへの字にした。
「以蔵さん?」
「やろうなんて思うなよ」
「思ってはいないけど……、どうしたの?」
「…………」
以蔵はがりがりと頭を掻き、言おうか言わまいかしばらくの逡巡を挟んでから結局は言うことに決めたらしかった。
「ここなあ」
「うん」
「何人も人が死んでるがじゃ」
小さく息を呑む。
「おんちゃんから聞いたんやけんどな。さっきおまんも言うたみたいにここの水はひやいろう?」
「うん」
「やき、飛び込んだショックでそのまま心臓麻痺を起こしたモンもおるらしい」
「うわあ」
思わず眉間に皺が寄る。
確かに、水はぞっとするほどに冷たかった。
けれどそれは触れて初めて気づいたことで、浅瀬に寄らずまっすぐに岩縁に向かい、そこであのターザンロープを見つけてしまったら、水温のことなど考えずに飛び込んでしまう者がいたとしてもおかしくはない。
「あとまあ、ここの滝壺が飛び込みポイントやち言われちょるみたいでな」
「滝壺に飛び込むなんて危なくないかい……?」
「だから人死にがでゆう」
「あー……」
滝壺というのは滝が落ちるからこその滝壺だ。
水が上から下に流れ込む水流と、流れ落ちた水が水底にぶつかって跳ね返されて上昇する流れの二つがぐるぐると複雑に渦を巻いている。
万が一それに巻き込まれてしまえば、人の力ではなかなか逃れることは難しいだろう。
見れば、岩部の近くには飛び込みを禁止する旨の看板が鮮やかな警告色たる赤で書き作られた看板が立てられている。
こんな看板が必要になるほど、この淵では水難事故が多発しているということなのだろう。
「ここもにゃあ」
「うん」
「元々はもうちっくとちゃんとした案内が与那道の方に出てたらしいんやけんど……、あんまりにも事故が続くもんで、人が寄らんように案内を撤去したち話じゃ」
「へえ……、それはなんだか残念だね。こんなに綺麗な場所なのに」
ここに至るまでの道筋だって崖下りみたいなもので、決して気軽に観光客が来られるような場所ではないのだろうけれど。
さわさわと木々の揺れる音は耳に心地良く、さらさらと川の流れる音は涼やかで。
空も水面も澄みわたり、木々の緑と空の蒼を混ぜたような淵の色合いもただただに美しいのに、この場所は人には開かれていない。
いや、美しすぎるからこそ、閉ざされいるのかもしれない。
人の命すら奪ってしまうほどに美しいからこそ。
「…………」
「龍馬?」
「ちっくと、滝に近づいてもえいやろうか」
龍馬の言葉に以蔵は浅く眉間に皺を寄せたものの、気をつけえよ、なんて言葉で許してくれた。
龍馬としても淵に入るつもりはない。
ただ少し、浅瀬を渡って、岩伝いに少しだけ滝に近づきたかった。
ぐっしょりと濡れる足が痺れるほどに冷たい。
対照的に降り注ぐ日光に温められた平らな岩縁はぬくぬくと温かく、龍馬は渡った先の岩縁の上で草履を脱いで素足になった。
乾いた岩の上にひたひたと龍馬の足から滴る水が吸い取られていく。
足裏に感じる陽の熱がくすぐったくも心地良かった。
「――――」
ざあざあと水音が大きくなる。
タナガーグムイの滝はそれほど高くはない。
けれど、黒々と濡れた岩肌を白い水しぶきが彩る様は見事だった。
それはまるで。
「竜、みたいじゃ」
今にも空に飛翔せんとする竜の姿のようにもよく似ていた。
どうしてだか、鼻の奥がツンと痛くなる。
理由を考えるよりも先に、ぽろりと眦を滑り落ちていくものがあった。
「あ、あれ……」
指先で、頬に触れる。
じっとりと熱い水滴が指先を湿らせる。
「なんで」
わからない。
わからないのに、涙がとまらなかった。
ぽろりぽろりと涙が龍馬の頬を濡らしていく。
「龍馬?」
「……ごめんね、なんでだろう、なんだか、すごく、さびしくて」
口にして、自分でも驚くほどその言葉はストンと胸に落ちた。
そうだ。
龍馬は今、とてつもなく寂しいのだ。
まるで半身を喪いでもしたかのような寂寥感が押し寄せる。
誰も欠けてなどいないはずなのに、誰も喪ってなどいないはずなのに、どうしてだか誰か大切なひとがいないような気がしてたまらないのだ。
「龍馬」
以蔵が、龍馬の名を呼ぶ。
笑われるだろうか、泣きみそとまたからかわれるだろうかと思ったものの、以蔵は名前を呼んだ以外はただ静かに龍馬の肩を抱き寄せてくれた。
以蔵の身体は、温かい。
生きている。
そろそろと腕を回して抱きしめれば、確かな鼓動が触れ合った胸からも伝わってくる。
以蔵の肩口に額を乗せていなくなったはずのない誰かを悼んで龍馬が泣く間、以蔵は柔くその背を撫で続けていてくれた。
「……ごめんね、ありがとう」
以蔵の肩口をしっとりと熱い涙で濡らした後、龍馬は静かに顔をあげる。
未だ目元はじっとりと濡れて赤く染まっているものの、なんだか胸の中につかえていたものをすっかり吐き出してしまえたようなような晴れやかさすら感じられた。
「もう、えいんか」
「うん。もう、大丈夫」
「ほうか」
以蔵の言葉は不必要に踏み込まない優しさを潜ませてそっけない。
別段隠すつもりはないが、そもそも龍馬自身泣いてしまった理由が分からないのだ。
だから、聞かないでいてくれることがありがたい。
あー泣いた泣いた、とはにかむように笑っていれば、以蔵はふすりと小さく鼻で笑ったようだった。
ちらりと以蔵が龍馬を見る。
その口角がく、と持ち上がる。
ああこれは意地悪を言う前触れだぞ、と龍馬が思うのとほぼ同時に以蔵が口を開いた。
「…………泣きみそ」
「言わんでえ」
いつものやりとりだ。
二人視線を交わして、ふふふと笑いあう。
さあと水面をざわめかせた風が龍馬の赤く染まった目元をするりと撫でていった。
それは泣くなよと涙を拭ういつかの誰かの白くたおやかな指先の所作に似ているような気がした。
■□■
それからもうしばらくだけ、岩縁に座って足だけ浅瀬に浸して過ごした。
浅瀬の澄んだ水底には名前に恥じず何匹もの手長海老が潜んでいて、二人がかりでそれを捕まえてみようと試みたのだ。
まあ流石になんの道具もなく、素手で挑んで勝てる相手ではなかったのだが。
そのまま水遊びにも興じたりなどして、それから暗くなる前には来た道を登って、二人は村にある家に戻ってきていた。
足を浸した程度とはいえ川遊びをしてきたわけなので、以蔵はそのまま風呂場に直行することにしたらしい。
それを見送って、龍馬はぽつねんと縁側に腰を下ろした。
頭の中には、先ほど帰りしなに以蔵と交わした一つの会話がある。
それは、タナガーグムイを後にして暗くなり始めた与那道を歩いていた時のことだ。
連れてきてくれてありがとうね、と言った龍馬に、以蔵はこう答えたのだ。
『もう仕事も残っちょらんきにな』
なんだかその言葉に龍馬はがつんと側頭部を殴られたような気がしてしまった。
以蔵の、仕事が終わってしまった。
この家の手入れが終わってしまった。
それは、この日々の終わりを意味している。
「……わかってたはずなのになあ」
楽しい休暇には、いつか終わりが来る。
終わらない夏休みなどないのだ。
龍馬が取得した夏休みは、土日も含めて八日だ。
明日がその六日目となる。
ここに来たときと同じように、以蔵は何も言わない。
だから龍馬は何も知らないままここにいる。
きっとそのうち以蔵はなんでもないことのように、「帰るぜよ」と言い始めるのだろうという予感はあった。
けれど、もしもだ。
もしもの話だ。
もしも以蔵が何も用意していなかったのなら、それはそれで良いなとも龍馬は思ってしまったのだ。
何もかも捨ててしまって、この小さな村で二人で暮らしていくことになったとしても、それはそれで幸福で、満たされた日々になるだろうと思ってしまったのだ。
むしろ、龍馬はそれを望んでいたのかもしれない。
だから、以蔵の言葉に終わりの気配を感じて、今こんなにも心細く思っている。
「龍馬」
「あれ、以蔵さん」
顔をあげる。
先に風呂を使いにいったのだと思った以蔵が目の前に立っていた。
「おまんから先に入り」
「でも、その、むしが」
「やき、追い払ってきてやったきに」
ツンとまた鼻の奥が痛くなった。
龍馬を先に風呂にいれてやるために、以蔵はわざわざ虫を追い払いに行ってきてくれたのだ。
以蔵の優しさが、終わりの予感に怯える龍馬の心に染み入る。
そんな優しい以蔵と一緒にいられるのも後わずかなのだと思ったら、余計に目頭がじわじわと熱くなってきてしまった。
今生の別れでもないとわかっているはずなのに、どうしてこんなにも今が終わることが恐ろしいのだろう。
うつむいてしまった龍馬に、以蔵が首を傾げる。
「おい、りょ」
「お風呂、貰うね。ありがとう、以蔵さん」
震えそうな声に気合いをいれて平静を装う。
ぐすりと鼻を啜った音が、以蔵に聞こえてはしまわなかっただろうか。
降り始めた夕闇の中、熱く潤んだ目元を見られてはしまわなかっただろうか。
龍馬は以蔵の脇をすり抜けるようにしてそそくさと風呂へと向かった。
この情けない顔を、以蔵に見られたくないと思ったのだ。
昼間だって、以蔵の前で泣いてしまったけれど。
これは、あの涙とは違う。
なんだか龍馬自身にもよく分からなかったけれど、こんなにも良くしてもらっておいて、終わるのが辛いからと泣いてしまうのは優しくしてくれた以蔵に対する裏切りのような気がしたのだ。
以蔵はきっと龍馬にこんな顔をさせたくてここに連れてきたわけじゃないはずなのだから。
「なさけないなあ、ぼく」
風呂から上がったら、ちゃんと笑えるようにしよう。
そう思っていたのに、やっぱり上手く気持ちを浮上させきれないままで、その日の夜はお互いに口数も少ないままに終わってしまった。
