それ以降、撮影は順調に進んでいるようだった。
 龍馬にも、別の仕事が入った。
 ドラマ関係の雑誌の取材や、その他の仕事をこなしていくうちに時間は穏やかに流れ行き、撮影が始まったのはまだ初夏ともいえる季節だったはずなのに今ではすっかり秋を通りこし、少しずつ寒さが厳しくなり始めた冬の頭にさしかかっていた。
 以蔵より先に帰宅した龍馬は、冷えた指先にほうと息を吹きかけながらすりすりとすり合わせる。
 そろそろ手袋を出しても良いかもしれない。
 日が暮れるのも随分と早くなった。
 まだ時間としては夕刻であるはずなのに、窓の外はとっぷりと暮れていつの間にか夜の態を示し始めている。
 ぱちりと部屋に明かりを灯して、その拍子に目に飛び込んできたカレンダーについた赤丸に龍馬はなんだっけ、と首を傾げた。
 どうしてあの日付を赤のマーカーで囲ったのだったか。

「あ」

 そうだ。
 明日は、以蔵のクランクアップだ。
 
 
            ■          ■       
  
  
「明日、現場を見に来たいじゃと?」

 日付が変わる少し前に帰宅した以蔵が風呂場に消えてからしばらく。
 わしゃわしゃと乱暴に濡れ髪を拭いながら戻ってきた以蔵に、龍馬はさりげなく明日の現場訪問を切り出してみる。
 濡れ髪をしとりと額にはりつかせた以蔵は、癖ッ毛の嵩が減った分少しばかり縮んだようにも見える。
 そんなことを言ったら叩き斬られるのがわかっているので口に出すつもりはないが。
 くるくると以蔵が風呂を出るタイミングを見計らって淹れた紅茶に最後の仕上げとばかりに少量のブランデーをとろりと垂らしてかき混ぜながら、うん、と龍馬は頷く。
 紅茶の湯気の中に濃い酒精の風味が混じってふわりと龍馬の鼻先を掠めていった。

「以蔵さん、明日が最後でしょ?」
「まあ、……そうじゃな」
「やっぱりほら、ここはクランクアップのお祝いに行きたいなと思って」
「…………」
「以蔵さん?」

 以蔵は、駄目だとも良いとも言わない。
 あーだとかうーだとかよくわからない返事をもごもごと口の中で呻りながら、ぺたぺたと素足を鳴らして居間へと入ってくる。
 その様子に龍馬は少しだけおや、と思った。
 以蔵のことなので、即答で「来んな」などと却下してくるに違いないと思っていたのだ。密やかに内心で交渉人としての血を燃やしていただけに、少し押せばあっさり頷いてくれそうな以蔵の様子に心の中だけで首を傾げる。
 以蔵はソファに向かう途中でぽいと持っていたタオルを龍馬の方へと放り投げる。それをぱしりと片手でキャッチして、代わりのように龍馬はもう片手に持っていた紅茶のマグを以蔵へと手渡してやった。
 ふす、と小さく以蔵が匂いを嗅ぎ、紅茶に蕩ける酒精の風味に満足したように一つ頷く。夜に呑むなら酒に決まっちょるじゃろう、というのが以蔵の言い分で、昼の間は水や茶ばかり呑んでいる分夜にそういったノンアルコールドリンクを出すと非常に物足りなさそうな、つまらない顔をされるのだ。
 そんな以蔵の様子に龍馬は口元だけで小さく笑い、一度洗面所へと向かってドライヤーを取って来る。
 背を丸めるようにしてラグに座って紅茶を啜る以蔵の背後、ソファにぽすりと腰掛ければ、極々自然な流れで以蔵が龍馬の長い脚の間に収まった。

「おつかれさま、以蔵さん」
「おん」

 以蔵の濡れ髪に手にしていたタオルをぱさりとかけて、その上から揉み込むように五指で圧を加えていく。わしわし、とタオル越し頭皮を擦っていけば、あっという間にタオルは水気を吸ってじっとりと重くなっていった。
 ちらりと、ほんのり仰向き気味の以蔵の双眸が気持ち良さそうに細くなるのがタオルの隙間から覗いて、龍馬の口元に浮かんだ笑みも深くなる。
 これは、いつの間にか二人の間で習慣になったことだった。
 最初は、どうせ一緒に暮らすなら仲良くしたいね、ということで週に何度かは一緒に夕食をとろう、という取り決めだった。
 そうやって意識しなければ、同じ家で暮らしていてもあっさりすれ違いになるというのは最初の一か月で十分に学んでいたからだ。
 けれど、お互いに役者としての仕事が忙しくなるとそれも難しくなった。
 外での撮影ならばともかく、スタジオ内の撮影ともなると朝も昼も夜も関係ない。
 元より土日祝日といった曜日にも縛られぬ職業だ。
 そのため、龍馬と以蔵の生活スタイルはすれ違い、懇親会やら打ち上げやら顔見せのための飲みやらの外食が続けば、そりゃあ一緒に夕飯を食べるなんてことは叶わない。
 そこで、何か別のことをしようと思ったのだ。
 共に向かい合わせに食事をすることに代わるような何かを。
 それが、風呂上がりに飲み物をいれてやり、髪を乾かしてやる、ということだった。
 最初にやり始めたのはどちらだったのか。
 龍馬だったような気もするし、以蔵だったような気もする。
 たぶん以蔵だったんじゃないかと龍馬は思っているが実際のところは曖昧だ。 
 くたくたに草臥れて帰宅して、風呂に入って。
 身体がほかほかと温まったらすっかり身体の力が抜けてしまって、それこそナメクジのように龍馬はくってりと居間のソファに行き倒れていたのだ。
 髪を乾かすのも面倒で、突っ伏していたところに聞こえたのはばさりとバスタオルを頭から被せられる音だった。暗くなった視界で、ほにゃほにゃと緩んだ声で「いぞおさんー?」と呼べば、げしりと蹴られてソファから落とされた。ひどい、と哀れっぽく鼻を鳴らすより先に腕を引かれて身体を起こされ、ぐいと背後に身体を割り入れられた。そして気づいたときには龍馬は以蔵の脚の間に収まっていた。力が入らずにぐらんと揺れた龍馬の頭を以蔵の手が捕まえて、わしゃわしゃと乱暴に、それでもどこか愛情を感じさせる手つきで髪を拭っていく。トドメにドライヤーで温風を吹きかけられたりなどすると元々緩んでいた気持ちがますます蕩けてそのまま溢れだしてしまうような心地がしたものだ。
 以来、この習慣は続いている。
 本日は龍馬が以蔵の髪を乾かしてやる番だ。
 ぶおおお、とドライヤーの温風を吹きかけながら、龍馬はわしわしと以蔵の髪を乾かしていく。
 しっとりと濡れておとなしくなっていた以蔵の髪が、乾くにつれてくるりと癖を浮かばせて跳ね散らかっていく。そんなのをくるくると指先に絡めて遊びながら、問う。

「にゃあ、以蔵さん。いかんがか?」
「……………別に、えいけんど」
「えいの?」
「………………」

 上から見下ろす以蔵は複雑そうな表情で口元をもにもにとさせている。
 何か言いたいこと、もしくは言いたくないことがあるというときの所作だ。
 それが考えていることをどう言葉にするかを迷う仕草であることを知っているから、龍馬はその以蔵の試みを邪魔しないようにおとなしく髪を乾かすことに専念する。
 以蔵がようやく口を開いたのは、龍馬の手によって以蔵の髪がふわっふわに乾いた頃だった。癖のある黒髪が、いつもの1.5倍ほどに増量されている感がある。ふわっふわのぽめっぽめだ。
 うむ、と偉業を成し遂げたような顔で悦に入ってそのふわふわの毛並みを楽しむように手櫛で梳いている龍馬に向かって、以蔵がぽつりと口を開く。

「おまんは、えいがか」
「え? ぼく?」
「おん。最期ちゆうたら」

 ぐいと以蔵が身体を捻って龍馬を振り返る。
 伸ばされた指先が、つ、と龍馬の額に触れる。
 
「ここ」
 
 子どもの頃に負った古傷をたどるように、指腹がすりりと額を撫でる。

「かち割られゆうとこじゃぞ」
「ああ」

 以蔵が何を気にかけていたのかがわかって、龍馬はへらりと笑って見せた。
 優しい気遣いに口元がふにゃりと緩む。

「えいえい、気にせんき」
「少しは気にせえ」

 即答で突っ込まれた。
 が、龍馬は己の死については無頓着である。
 確かに道半ばで死んでしまったことについては多少の未練もあったし、生きて新しい時代を見てみたかったという気持ちもある。
 だが、それは今叶っている。
 あの頃の龍馬が夢見た未来に、今の龍馬はいるのだ。
 しかも、あの時には取りこぼしてしまったと思っていた古い友も隣にいる。
 終わり良ければ全て良し、というほど大雑把にまとめる気はないが、今が幸せであるので龍馬としてあの終わりにそれほどの思い入れはない。
 ああ、そんなこともあったなあ、とか。
 お竜さんには悪いことをしたなあ、とか。
 そういった程度だ。
 心の底から気にかけてない、というような龍馬の顔に、以蔵は呆れたような半眼を作って見せる。
 じろりと睨まれて、龍馬ははは、と苦笑を口元に浮かべた。

「わしには説教しくさった癖に」
「僕のはほら。以蔵さんとは違うからね」

 以蔵とは違うのだ。
 以蔵にとって、その死のあり方は古傷に似ている。
 以蔵がそれをなんでもないふりをしたり、その傷や、痛みを当然だと言い捨てる声には自嘲や自傷の意味合いが滲む。
 龍馬が厭なのはそれだ。
 痛いのなら痛いと言えばいい。
 じくじくと痛む古傷を治すこともせず、手当もせず、未だ生々しく痛みを訴える傷口を放置して何でもないふりで、受け入れたふりで、以蔵が一人でそれを抱え込むのが厭なのだ。
 が、龍馬は違う。
 だから、良いのだ。
 むすりと何か言いたげにしていた以蔵も、結局それ以上は言葉にすることを諦めたようだった。ふす、と小さく息を吐いて、紅茶のマグを傾けて飲み干した。
 立ち上がった以蔵が、同じく立ち上がった龍馬に向かってぐいと空になったマグを突きつける。

「わしはもう寝る」
「うん」
「……まあ、なんじゃ」
「うん」
「好きにせえ」

 ぶっきらぼうな許可の言葉に、龍馬の口元はますます緩んだ。

「ありがとう、以蔵さん。こじゃんとふとい花束用意して行くきね!」
「要らん!」

 ぽわぽわと膨らんだ黒髪を逆立てて怒鳴る以蔵に、龍馬はますますでれでれと口元やら目元やらを緩めるのだった。

 
             ■          ■       
 
 
 そして翌日。
 龍馬は宣言通り、一抱えほどの花束を用意した。
 龍馬の体躯でもって一抱え、なのでなかなかの大きさだ。
 花に関しては花屋のセンスにお任せすることにした。
 あまり派手すぎず、自然な感じで、なんていう曖昧なリクエストをしてみた結果、なんだかかえってすごいことになってしまった。
 薄い朱色に濃い紅で花びらを縁取る大振りのポピーや、淡い桃色のトルコキキョウや、よく似た色合いのまるいボンボンめいた八重咲きの薔薇が花束の中ほどにみっちりと並び、そういった淡い色調の花々の合間に差し色のように濃い黄色のガーベラや真紅の薔薇が咲き誇る。その背後から枝垂れ落ちるようにほろほろと咲くのは淡い水色のデルフィニウムだ。形を作りすぎず、飛び出したデルフィニウムが揺れる様などはどこか手作りの花束感めいた無造作感を漂わせてはいるものの、全体的に大振りで、ボリュームたっぷりだ。
 これは間違いなく以蔵を怒らせるやつだな、と思いながらも龍馬の口元は笑みに緩んでいる。 
 そんなものを抱えていては電車移動も儘ならないので、スタジオまではタクシーを利用した。
 ぱりっとした身なりの龍馬が大きな花束を抱えている姿に、タクシーのドライバーにはこれからプロポーズにでも行くのかなどと聞かれてしまって、龍馬はナイショだと言ってやっぱり楽しそうに笑った。
 もちろん花だけではない。
 以蔵を喜ばせるべく、少し奮発して良い酒も用意した。
 これなら間違いなく喜んでくれるだろうという一品だ。
 そんな諸々を引っ提げて意気揚々とスタジオ入りした龍馬であったわけなのだが。
 龍馬が足を踏み入れたスタジオには、なんだか困惑めいた空気が満ちていた。
 撮影最終日にしては、妙に空気が沈んでいる。
 というか、静かだ。
 以蔵さんは、と視線をきょろきょろさせていれば、顔馴染みのスタッフがすすすと傍にやってきた。

「あれ、以蔵さんは? もしかしてもう撮影終わっちゃった?」

 午後に入ってすぐの時間帯、まだ撮影は終わっていないだろうと踏んでいたのだがもしかすると遅すぎたのだろうか。
 いや、それにしては撮影が終わった後ともこの空気は違うような気もする。
 撮影が終わった後のスタジオもやはり閑散として静かなものだが、そこに漂うのは全てが終わったのだという微かな寂しさを滲ませた達成感だ。やり遂げた、終わった、というここまで張り詰めていた気概の欠片がその空気には残っている。
 だが、今ここにあるのはどこか気詰まりな沈黙だ。
 龍馬の問いに、スタッフは困ったように眉尻を下げた。

「その……岡田さんなら楽屋に。ちょっと、撮影に詰まってしまって」
「あれま。どうしたの?」

 何気なく、聞く。
 以蔵は喜怒哀楽を表現するような演技が、少しばかり苦手だ。
 細やかで複雑な感情を見せるような演技はあまり得意とはしていない。
 元よりまっすぐな男なので、感情を偽る、というのがそれほど得意ではないのだ。
 ただ、人の気持ちに寄り添うことができない男ではないから、キャラクターの心情に共感することさえ出来ればその辺の短所は十分にカバーすることはできる。
 まあ、『岡田以蔵の死を悲しむ坂本龍馬』の時のように、演じる人物の気持ちが理解できなかった折には随分と悩むことになってしまったりもするわけなのだが。
 だが、今から以蔵が撮影しようとしているシーンにはそんな要素はなかったはずだ。
 なんせ、暗殺シーンである。
 むしろ斬ったり斬られたりは以蔵の得意としているところだ。
 そんな以蔵が撮影に詰まる、というのが想像できなくて、龍馬は緩く首を傾げる。

「それが岡田さん、……その、強すぎちゃって」
「強すぎる、とは」

 思わずしんみょうな顔になる龍馬だ。
 何故そこで以蔵が強いという話になるのか。
 いや、以蔵が強いのは事実だ。
 純粋な剣の腕でいったら、この平和なご時世、以蔵に勝てる人間などそうそういないだろう。龍馬だっておそらく十回やって勝率は二割から三割あれば良いというぐらいだ。
 だが、それが撮影に一体どう関係してくるというのか。
 これまでも以蔵は斬られ役を演じてきている。
 演技としての斬り合いと、実際の剣の腕というのは無縁とは言わないまでも、そこまで密接に関係するものではないはずだ。
 むしろ以蔵の場合、実戦における強さが良い風に作用して、斬られ役だろうが見事にこなすことで役者としての経歴を重ねてきているぐらいだ。
 そんな以蔵が今更、強すぎるから負け試合を演じられないというようなことがあるだろうか。

「どうもねえ、違和感が出ちゃうんだよねえ」
「ああ、監督」

 横合いからひょいと顔を出したのは監督だった。
 ご無沙汰してました、との龍馬の挨拶に、好々爺然として監督はにこにこと笑う。

「岡田くんはほら、目が良いでしょう」
「はい」
「全部、見えちゃってるんだよね。どう刀が振られるのか、どうそれが当たるのか、全部わかった目をしてしまうから不意打ちにならない」
「あ――…」

 あの夜、龍馬は不意に襲われた。
 安全だと思っていた塒に攻め込まれ、思うように反撃できないままに仕留められた。
 下から響いた大きな物音に、何事だと襖を開いたところで思い切り額に斬りつけられたことを思い出して思わず眉間に皺が寄る。
 別段トラウマになるほど厭な思い出、というわけではないが、過去の己の失態に渋い顔をする程度の感慨は残っている。

「ほら、これ」

 ずい、と差し出されたのはタブレットだ。
 撮影したばかりの、未編集の動画が見られるようにされているらしかった。
 画面には、近江屋での一部始終が映し出されている。
 暗殺者たちが踏み込み、どたどたと足音をたてて二階へと上がる。
 そこで襖を開いて、何事だと『坂本龍馬』が顔を出す。
 その顔面に向かって、刺客が刀を振りぬく。
 『坂本龍馬』は。
 否、以蔵の目は確実にその動を見切っていた。
 見切った上で無意識のうちに一度回避に出かけて、その途中で逃げてはいけないのだと思いだしたように不自然なまでに身体を硬直させて棒立ちになる。
 なるほど。
 これではNGが出るのも納得だ。
 斬られるその瞬間、以蔵は『坂本龍馬』からただの以蔵に戻ってしまっている。
 確かに以蔵であればあの一撃を避けるのはたやすいことだろう。
 刀を携えずとも身体一つで反撃に転じ、刀を奪って逆に仕留めるぐらいしたっておかしくはない。だがそれはあくまで岡田以蔵なら、の話だ。
 『坂本龍馬』はそこで死ななければならないのだ。
 それが話の筋だ。
 これは一体どうしたことだろう。
 龍馬が顎先を撫でつつ考え込んでいるところで、ぽすりと監督がその肩を叩いた。

「それでね、坂本くん。ちょっと相談があるんだけど」
「えええ……」

 なんだか少し、厭な予感がした。
 
 
             ■          ■       
             
  
「以蔵さん、入るよ」

 声をかけて、龍馬は以蔵の控室へと足を踏み入れる。
 監督の話によると、以蔵は何度かのNGを出した後、自分の動きをタブレットで確認し、それから控室に閉じこもってしまったのだという。
 以蔵は完璧主義にも似た潔癖さを持ち合わせているようなところがあるので、らしくもないNGを出してしまうなんてと落ち込んでいるのだろう。
 以蔵にとって殺陣は天職だ。
 それでNGを出したともなればさぞ落ち込んでいるのではないだろうか。
 そう思ってはいたものの、足を踏み入れた楽屋で見た光景に思わず龍馬はびゃッと肩を撥ねさせた。
 
 ―――以蔵は、控室の隅っこで膝を抱えていた。

 一段高くなった畳間の角に背を押し付けるようにして身体を小さくし、折った膝に額を擦りつけて身体を丸くしている。
 それはもうずいぶんと見なくなって久しい子どもの頃の以蔵の所作を思わせた。
 以蔵はいつだってそうやって、泣き顔を見られないようにして泣いたものだった。
 長男だからなのか、年下でありながら以蔵は泣くことを恥ずかしいと思う気持ちの強い子どもだった。何かあればびえびえと恥ずかし気もなくすぐに泣いた龍馬とは大違いだ。
 その以蔵が、泣いている。

「い、以蔵さんどうしたの!?」
 
 なんだかそんな姿に龍馬の方が動揺してしまった。
 あわあわと駆け寄れば、以蔵がのろのろと顔を上げる。
 うっすらと赤みのさした目元から、その拍子にぽろりと涙が零れ落ちた。
 そんな姿に龍馬はますますギョっとしてしまう。
 以蔵が泣いていることを隠す気にもならないほど追い詰められているのだということがわかってしまったからだ。
 以蔵はいつだって、泣き顔を見せたがらない。
 前回だって、以蔵は龍馬の肩に顔を埋めて、泣いている顔は決して見せてはくれなかった。そんな男が、今無防備に零れる涙を見せた。
 龍馬でなくとも焦るというものだ。

「どういたがか、以蔵さん! 腹でも痛いんか、えずいんか、大丈夫がか。すっと撮影を延期してくれるよう監督に伝えてくるき、ちっくと待っとおせ。すぐに家に連れ帰っちゃるきな」

 慌てて龍馬はばたばたと踵を返して控室を飛び出しかける。
 きっと、相当具合が悪いに違いないと思ったのだ。
 あんな以蔵らしからぬNGを出してしまったのも、体調がよくないのだと思えば納得がいく。あの意地っ張りで、弱みを見せたがらない以蔵がこうして泣いてしまうほどに具合がよろしくないのだ。
 すぐに家に連れて帰ってやると言いはしたものの、その前に病院に寄った方が良いかもしれない。救急で看てくれそうな病院を頭の中にリストアップする。大抵のことであれば以蔵の窮地を救うのは己でありたいと思っている龍馬であるが、病気や怪我の類には太刀打ちできない。餅は餅屋、病院に頼るしかないのだ。
 と。
 くん、と何かがひっかかるような感覚に龍馬は足を止める。
 振り返る。
 
「以蔵、さん?」

 以蔵の指が、ぎゅ、と龍馬の着たままの外套の裾を握っていた。
 まるでそれが置いていくなと訴える幼子の訴えのようにも見えて、龍馬は足を止める。
 それから、そっと以蔵の傍らに屈みこんだ。

「大丈夫じゃ、すぐにもんてくるき。な。えいこじゃ、ちっくと待てるろう?」

 意識して穏やかな声を心がけて、龍馬は宥めるように声をかける。
 だが、以蔵は愚図るように頭を左右に振るだけだった。

「りょぉま」

 ぐすぐすと啜り泣く声が、龍馬の名を呼ぶ。
 それだけでますます堪えきれなくなったかのように一際大きくなる嗚咽に、なんだかそれを聞いている龍馬の方がたまらなくなってしまった。
 ひ、ひ、と喉がしゃくりあげる音が痛々しく響く。
 痛いから、だとか。
 気持ち悪いから、とか。
 以蔵の龍馬の名を呼ぶ声には、そんな理由から助けを求めているのとは違ったただただ坂本龍馬という人間にそばにいてほしいのだという切実さが満ちていた。
 いとけない子どもが母親を呼ぶような、そんな必死さだけが伝わってくる。

「以蔵さん」

 ゆっくりと龍馬は、以蔵の近くに腰を下ろした。

「どいたがか。わしはここにおるよ」

 以蔵を刺激しないように、そろりとその肩に触れる。
 うっすらと涙の膜の張った朧月のような双眸が龍馬を見上げる。
 少し、躊躇うように以蔵は瞳をゆらゆらと揺らす。
 それは龍馬に何かを言うのを恐れているというよりも、口にすることでその事実と向き合わないといけなくなることに怯えているようにも見えた。
 大丈夫じゃ、と龍馬は以蔵の背をゆるゆると撫でる。
 怖い夢に覚える子どものような男の背を大きな掌で安心させてやるように撫でる。
 その体温に励まされたように、以蔵が小さく口を開く。
 言葉にすることを恐れるようにはくはくと戦慄いた唇が、ぽつりと小さく呟いた。

「りょおまを、死なせとおない」
「―――、」

 その一言に、龍馬は頭を思い切り殴られたような気がした。
 もしかしたら少しの間、呼吸すら忘れていたのかもしれない。
 は、と息を吐きだす。

「以蔵さん」
「どいて」

 き、と以蔵が顔をあげる。
 勢いでぽろぽろと散った涙の雫がいっそ場違いなほどにうつくしく見えた。

「どいて、龍馬が死なんといかん! なんも悪いことなんぞしちょらんろう! おまんはわしとは違う、あがな死にざま、おまんには似つかわしくないちや!」

 あがな、あがな、と言い募って、それ以上は言葉にならなかった。
 もはや堪えることもできなくなったのか、以蔵はわあわあと泣く。
 癇癪を起した子どものようだった。
 ああ、そうか、と真っ白になった頭の片隅で龍馬は冷静に思う。
 以蔵は、龍馬の死を知らなかった。
 龍馬がかつて殺されたとき、以蔵はもう先に逝ってしまっていた。
 英霊として座に登録され、聖杯より知識を授けられたときにはお互いが英霊などというものになってしまった後だった。
 龍馬も以蔵も人理に焼き付いた影法師として、二度目の生を歩んでいた。
 だから以蔵は、きっとこれまで龍馬の死を本当の意味では理解していなかったのだ。
 死んだといわれた本人が目の前にいるのだ。
 実感など沸くはずもない。
 だから、以蔵は龍馬の死をずっと知らないままでいた。
 以蔵の情の深さを龍馬は見くびっていた。
 今までさんざんわしならもっと上手く斬ってやったなんて軽口を叩いてもいたから、まさかこんなにも以蔵が龍馬の死の再演に動揺するなんて思ってもいなかったのだ。こんなにも、泣いてくれるなんて思わなかった。こんなにも、悼んでくれるなんて。
 さくっと演じて、さくっと死んで、けろりと「えい死にざまだったろう」なんて笑うに違いないと思ってすらいたのだ。
 腹の底からぐつりと沸き起こる衝動のままに、龍馬はぐいと以蔵の手首をとらえて引き寄せた。わんわんと泣きじゃくる幼馴染の男を腕の内に捕らえてしまう。
 いっそ痛いほどに強く抱きしめた龍馬の腕の中で、以蔵はますます癇癪を起したように身をよじって暴れた。

「どいてじゃ、どいておまんは死んだ!」

 どん、どん、と捕まえたのとは逆の手が固く拳を作り、何度も龍馬の胸を打つ。
 手加減のない殴打だ。
 けれどそれでも放してやらずに、ただただぎゅうと抱きしめて、その耳元で柔く「ごめんね、以蔵さん」と小さく呟いた。
 死んだりなどしてすまなかった。
 自身の死で傷つけてしまってすまなかった。
 龍馬だってその痛みを、悼みを知っている。
 誰よりも知っている。
 あの日、以蔵が先に逝ったと手紙で知らされたときに厭というほどに味わった。
 獣じみた呻り声をあげて、ぼろぼろと泣きじゃくる幼馴染みをただただ抱きしめる。

「どいてじゃ、どいて!」

 それはいつか龍馬だって叫んだ言葉だ。
 喉が涸れるほどに、泣いて、呪って、叫んだ。
 だから、その問いに答えなどないことを龍馬はよくよく知っている。
 誰に説明されたって、どんなに正しい理屈を説かれたって、絶対に納得など出来ないのだ。

「おまんは、何も悪いことなんぞしちょらんのに!」

 それはなんとも以蔵らしい言葉だった。
 以蔵は、自身の死には納得しているのだ。
 殺されるだけのことをした、と。
 それだけのことをしたのだから、あれは報いだったのだと自分の死を受け入れている。
 だからこそ、同じ理屈では龍馬の死に納得できないのだ。
 何も悪いことをしていない龍馬があのような死を遂げたことに納得が出来ないのだ。
 ゆるゆると以蔵の背を撫でながら、龍馬は柔く応える。

「そうやねえ……、悪いことは、しちょらんつもりぜよ。けんど、それでも。わしはきっと、死ななきゃいけなかったんろう」

 世界を変えるために、動いた。
 衝突は覚悟の上で、それでも動いた。
 そしてその結果、想定していた通りの反発を喰らって、死んだ。

「おまんは、頭がえいきわかっちょったろう!」

 どん。
 また、以蔵の拳が龍馬の胸を打つ。
 龍馬の死に抗議するように、強く、強く。
 
「うん、そうだね」

 龍馬は頷く。
 そう。
 龍馬は知っていたのだ。
 自分のしていることがどんな結末に辿り着きうるかを、龍馬はちゃんと知っていた。
 知った上で、その道を辿った。

「だって」

 こつん、と龍馬は以蔵の額に自分の額を触れ合わせた。

「以蔵さんが、先に逝ってしまったきに」
「わしのせいにするんか!」
「うん。以蔵さんのせいじゃ」

 すり、と額を合わせて龍馬は小さく笑う。
 以蔵はやっぱり口元をへの字にして、手負いの獣のようにぐるぐると唸った。

「例えわし自身がな、志半ばに斃れることになったとしても。もう絶対に以蔵さんみたいな人を出したくなかったんじゃ。皆に笑ってて欲しかったんじゃ。わしは、土佐の仲間も、アギも、以蔵さんも、みんなみんな後ろに置いていってしもうた。やき、そこまでしたんじゃ。最期まで走らんと顔向けできんろう」

 大事な人を。
 大事だった人たちを、幸せにしたいと走り出す原動力にした人たちほど龍馬はその背後に置き去りにして駆け抜けてしまった。
 結果として、見殺しにしてしまった。
 それでもなお見た夢だった。
 それならば自分の命だってその夢のために賭けなきゃ嘘だろうと思ったのだ。

「にゃあ、以蔵さん」
「…………なんじゃ」
「今日、以蔵さんが演じる『坂本龍馬』が死んだって、わしは死なんよ」
「……知っちょる」
「良かった」

 なあでなあで。
 とんとん。
 ぽんぽん。
 龍馬はその腕で以蔵の背を撫でる。
 なんだか随分と昔に戻ったような気がした。
 今生ではお互い過去の記憶を持つ分、ただの子どもとして振る舞うことはなかった。
 こんな風に癇癪を起こして泣きじゃくる以蔵を慰めたのはいつ以来だろう。
 次第に龍馬の胸を叩いていた拳が大人しくなる。
 その手はやがて縋るように龍馬のシャツの胸辺りを強く握るだけになり、その手指からもやがてゆるゆると力が抜けていった。

「『以蔵さんの龍馬』は死なんよ」

 『以蔵の演じる坂本龍馬』でなく。
 今現在、今生において、『岡田以蔵と生きる坂本龍馬』こそを、龍馬は『以蔵の龍馬』と呼んだ。

「『以蔵さんの龍馬』はここにちゃんとおるきに」
「………………」

 すりと額を合わせて、柔く言い聞かせる。
 その声に、ちろりと以蔵の蜜色の双眸が持ち上がる。
 涙の膜に覆われて朧月めいていたその瞳から少しずつ曇りが晴れていく。
 ぐりと強めに額を押し付けられるのに、「いたいよ」と軽い調子で言えば、「痛くしゆうんじゃ」と可愛くない軽口が返る。
 そんな軽口こそが可愛くて、緩みそうになる口元を龍馬はなんとか引き締めた。
 ここで笑ったら、間違いなく頭突きの刑に処される。

「以蔵さん」
「なんじゃ」
「いけるがか」
「…………おん」

 少し照れくさそうに目元に泣いたせいだけではない朱色を滲ませながら、以蔵が龍馬から身体を離す。それに思いだしたように、龍馬も以蔵の手首を捕らえていた手を解いた。見れば、衝動に任せてよほどの力で掴んでしまったのか以蔵の手首にはうっすらと赤く手形が残ってしまっている。
 
「…………」
「…………」

 以蔵が半眼で龍馬を見る。
 
「……ご、ごめん」
「ゴリラか」
 
 さすさすと手首を擦る以蔵の仕草に罪悪感から龍馬はうろりと視線を泳がせる。
 思わず手加減を忘れた自覚はあった。

「まあ、えい」

 するりと以蔵の指先が自らの手首をたどる。
 それから、龍馬を見た。

「おまんの死にざま、わしが見事に演じちゃるきに。よう見とけ」

 先ほどまでの動揺ぶりが嘘のように強気に満ちた言葉だった。
 それはもしかしたら以蔵お得意の意地によるものだったのかもしれない。
 けれど、以蔵の双眸はもう晴れやかに澄んでいたから、龍馬はその言葉を信じることにした。

「うん。特等席で見てるから」
「特等席?」

 訝し気に以蔵が首を傾げる。
 が、すぐに撮影が押していることを思い出したのか、些細なひっかかりは気にしないことにしたらしかった。
 鏡をのぞき、泣きまくったせいで赤くなった目元やら、化粧が落ちてどろどろになった顔に「なんじゃああ」と呻いたりと忙し気に身支度を整え始める。
 その様子を眺めながら、龍馬ははいはいちょっとタオル濡らしてくるから待っててね、それで目を冷やすんだよ、だとか言いつつ。
 内心、そういうところぜよ以蔵さん、と以蔵の詰めの甘さをしみじみと思ったりもする龍馬だ。
 甲斐甲斐しく濡れタオルを作ってやり、メイク担当のスタッフを呼んでやったりなどした後。

「それじゃあ、また後でね」
「おん」

 以蔵の身支度を邪魔しないように、なんて名目で龍馬はそろりと以蔵の控室を抜け出した。
 

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 メイク担当のスタッフは泣きはらした以蔵の顔に心底仰天したようだったものの、酷いことになっている顔の割にどこか晴れやかな空気を纏う以蔵に、深くは追及しないことにしてくれたらしかった。
 それでも好奇心は完全に殺せなかったらしく、そわそわとしているもので。

「坂本サンに泣かされた」

 とチクったりなどした以蔵である。
 まあ嘘ではない。
 あの男に泣かされたようなものだ。
 メイク担当スタッフは以蔵の爆弾発言にうわあという顔をしつつも、以蔵と龍馬が気ごころの知れた仲であることは十分知っているためか「まあこの二人ならそういうこともあるんだろう」という半ば投げやりさも覗く理解力の高さを示した。
 多少呆れたような顔をしつつも、それで岡田さんのスランプが解決したなら良かったです、なんて言って見事なメイクを施してくれたあたり、プロである。
 すぐに顔を洗って冷やしたとはいえ、赤みの残っていた瞼が嘘のように平然を装っている。普段は女じゃあるまいし化粧なんぞ要らんろう、と思っている以蔵ではあるのだが、こうして世話になれば凄いもんじゃのうと感心するしかない。
 そうして用意を整えてスタジオに戻れば、そこではもう撮影再開の用意が整っていた。
 以蔵は共演者や監督たちへと頭を下げる。
 個人的な動揺で皆に迷惑をかけてしまった。

「時間をとってしもうて、まっことすみません」
「いいんだよ、それだけ役への思い入れが強いってことだからねえ。もう、大丈夫そうかな」
「はい」

 きっぱりと頷く以蔵の瞳からは迷いが抜けて非常に晴れやかだ。
 その顔に監督はこれは良いものが撮れそうだとにこにこと柔和に目元を和らげる。
 そうして以蔵はセットの中へと足を踏み入れ、配置につく。
 そうしてスタンバイしてみれば、先ほどまでとは少しばかりカメラの配置が変わっていることが気になった。
 部屋の内側から、刺客の動向を映すためのカメラが先ほどまでに比べると随分とローアングルだ。これでは刺客役の顔までは映らないのではないだろうか。
 完成品の映像というのは様々な角度から撮った映像を組み合わせ、編集して作られるものなので、もしかしたら以蔵が控室に引きこもっている間に監督の方にも何かインスピレーションが沸いたのかもしれない。

「撮影、入りまァす!」

 スタッフの高らかな宣言が響きわたる。
 続くカウントダウンを聞きながら、以蔵はさすりと未だうっすらと赤い痕の残る手首をなぞる。
 熱く、力強い手だった。
 ここで以蔵が演じる『坂本龍馬』が死んだとしても、あの手の持ち主は以蔵の目の前から姿を消したりはしないのだと思わせてくれるだけの強さがあった。
 すり、と親指の腹で手首の痕をなぞって小さく、誰にも聞こえないように小さく吐息に蕩かすように呟く。

「痛いんじゃ、あンべこ」

 痛かった。
 けれど、その強さにこそ安心できたのも事実だ。
 今から以蔵は、『坂本龍馬』を殺す。
 本来の以蔵であれば易々と避けられる剣筋をまともに受けて、その頭を割られ、背を斬りつけられ、止めを刺される。
 それは、先ほどまでの以蔵にはとても難しいことだった。
 殺したくないと、死なせたくないと思ってしまったのだ。
 一生懸命に夢のためにひた走った男を死なせたくなかった。
 何も悪いことなどしていない幼馴染に、あんな死にざまは相応しくないと思ってしまったのだ。
 だから、あらすじ通りに斬られてやることが出来なかった。
 わしなら殺されんのに、と思ってしまった。
 けれど、そんな逡巡も終わりだ。
 以蔵は『坂本龍馬』として死ななくてはいけない。
 最後に一度、以蔵はちらりとセットの外に視線を向けた。
 龍馬の姿は見当たらない。
 けれど、きっとどこか、特等席とやらで見ているのだろう。
 よう見さらせ、と以蔵が心の中で呟くのと、カチンコが高く澄んだ音を立てるのはほぼ同時だった。
 がたた、と階下で響く物音。

「……なんじゃ?」

 す、と以蔵は立ち上がって部屋の外を伺うべく襖へと向かう。
 刀は座布団の脇に置いたままだ。
 もしもこの時、油断せず腰に刀を佩いていたのならば坂本龍馬のたどる運命はまた異なったものになっていただろう。
 幼馴染のその大事なところで抜けたところが、以蔵はどうにも放っておけなかった。
 放っておけなかったのならばついていけばよかったのだ、との後悔がちくりと胸を刺す。それはもう全部終わったことで、今となってはどうしたって取り返しのつかないことだと以蔵だってわかってはいるのだが。
 すすすす、と襖を開く。

「どういたが」

 か、と最後までセリフを言うことはできなかった。
 開いた襖の向こう、目の前には一人の男が立っていた。
 鼠色の長着に、ぼろぼろに裾の解れた老緑の袴。
 首元を覆い、顔の下半分を隠すのは鳶色の襟巻だ。
 もっさりと高い位置で長い髪を結いあげた男が、にたりと以蔵の眼前で笑った。

「お初にお目にかかりますゥ」

 集音機で拾えるかどうかのぎりぎりまで落とした囁くような低い声音だ。
 ア、と声を上げるより先に男が腰の刀を一閃する。
 鋭い銀光が目の前でちかりと瞬く。
 演技でなければ、間違いなく以蔵はこの瞬間、確かに仕留められていただろう。
 それだけ、驚いたのだ。
 以蔵の驚愕と、『坂本龍馬』としての驚きがリンクする。
 この野郎、と心の中だけで以蔵は吠える。

 特等席というのはそこか……!!
 
 額を斬りつけられたという態で、以蔵はぐらりとよろめいて背後に尻もちをつく。
 それを見下ろし、厭らしく笑う男は以蔵の幼馴染の顔をしていた。
 何故、カメラが刺客の顔を映さないローアングルに移動していたかの意味を思い知る。
 監督が龍馬に話を通したのだろう。
 他の殺陣役者では以蔵を殺せないのなら。
 以蔵を殺すことのできる男を、刺客に寄越したのだ。
 それとは知らずに、『坂本龍馬』を殺す『岡田以蔵』を!
 片手で額を覆いながら、以蔵は素早く身を翻し四つ這いになって刀を探す。

「中岡さ、」

 逃げろと言いながらも『坂本龍馬』の手指はがりがりと畳を掻き毟って刀を探す。
 まだ反撃は諦めていない。
 額を割られながらも、『坂本龍馬』は未だ心を折られてはいない。
 そんなことで死を受け入れるほど以蔵の知る『坂本龍馬』は物分かりが良い男ではないのだ。以蔵はそれを知っている。いつかの神社の境内にて、獣のような目でなおも立ち向かおうとする男の姿を見た。

「こんなところで、」

 吐き捨てるように呻いたところで刀を探す背をばっさりと斬りつけられてぐしゃりと以蔵は畳に突っ伏す。
 その拍子に、指先が微かに鞘の感触に触れた。
 ああ、あった。
 これで、反撃が。
 戦慄く指先で柄を握り、刀を引き抜きながら刺客を振り返ったところで再び目の前を鋭い銀光が薙いでいく。
 これが、『坂本龍馬』の終わりだ。
 最期の最期まで諦めず、なんとしてでも生きようと戦い抜いた男の最期だ。
 畳に崩れた以蔵を見下ろして、刺客が刀を納める。
 行くぞ、と下からかけられた声に、刺客が身を翻す。
 だだだと階段を駆け下りていく足音を聞いて―――そこで、カチィン、と高らかにそのシーンの終わりを告げるカチンコの音が響いた。
 すぐには起き上がる気になれなくて、以蔵は畳に倒れたままぼんやりと息を吐く。
 してやられたのが悔しいような、以蔵演じる『坂本龍馬』を殺したのが龍馬の演じる『岡田以蔵』だったことに対する満足感にも似た気持ちがぐるぐると混ざりあって非常に複雑だ。まあ、あの名もなき刺客がかつての『岡田以蔵』の再現だったなんてことは、きっと以蔵と龍馬しかわかりえないのだけれども。
 とすとす、と足音が近づいてくる。

「以蔵さん」

 呼ばれて、目を開ける。
 へにゃりと眉尻を下げた龍馬が、立っていた。
 怒ってる?と問いたげな顔だ。
 末っ子根性というべきか人たらし属性というべきか。
 怒らせるだろうな、ということを確信犯的にやらかしておきながら、こうして様子をそろそろと伺われると怒る気も削がれてしまう。
 衣装は先ほどのままだ。
 かつての岡田以蔵としての格好をした男が、倒れたままの以蔵に向けて手を差し出す。
 その手をぎゅ、と握り返せば、ぐいと力強く引き起こされた。
 そのまま、その腕内に引き寄せられる。
 なんじゃあ、と言うより先に、柔く、柔く。
 何もかもをくるみこむような低く甘い声音が、おつかれさま、と以蔵の耳元で囁いた。
 とたん、ぐ、と喉元に熱いものが込み上げる。
 目元がじわりと濡れるのがわかって、以蔵はごん、と龍馬の胸元に頭突きをキメた。
 一日のうちに二度も、この男に泣かされるなんてみっともないにもほどがある。
 でも、それでも、どうしようもなく泣けてしまったのだ。
 それはかつて見た他愛のない夢だ。
 もしも、一緒に行けたのなら、と。
 これはただの追体験だ。
 実際の以蔵が土佐を出た龍馬とともに生きたわけではない。
 それでも、以蔵は『坂本龍馬』としての人生を追ったのだ。
 幕末の動乱を駆け抜けた維新の英雄の一生を、かつて道を違えた幼馴染の人生を、最初から最期まで、共に辿ることができた。
 三度めの生にしてようやく叶った夢だった。

「こンべこのかあ」
「監督がやれって言ったんだもん」
「大の男がかわいこぶりな」

 もんとか言うな。もんとか。
 似合うだろう。
 なんで似合うのだ。
 解せぬ。
 それに龍馬に刺客役をやってくれと頼んだのは確かに監督かもしれないが、わざわざかつての以蔵の姿に似せてきたのは龍馬の独断に違いないのだ。
 そういうことは事前に言えや、とごんごんと龍馬の胸に以蔵は頭突きを繰り返す。
 駄々っこが甘えるがごときその所作に、龍馬がでれでれと口元を緩めていることなど以蔵は知らない。

「わしならな」
「うん」
「もっとすっと殺したちゆうたろう」

 いちげきじゃ、とすんすんと鼻を啜りながら以蔵は言う。
 その背をとんとんと撫でながら、龍馬は緩く笑う。

「わしは以蔵さんほど腕が良くないきね」
「げにまっことその通りちや、しゃんと精進せえ」

 ぐずりと鼻を啜りながら毒づく以蔵に、龍馬はやっぱり笑う。
 この平和な世の中で、そんな精進をしたところで次に役立てる機会など一体どこで巡ってくるというのか。
 ふふと笑いながら、龍馬は以蔵が泣き止むまではそうしていてくれた。
 以蔵がずびずびと鼻を啜りながら顔をあげたところで、とん、と促すように龍馬が以蔵の背を叩く。

「下で、皆が待ってるよ」
「……おん」

 二人連れだって、階段を下りてセットから出る。
 それが、二人の共演する『龍馬と以蔵』のドラマの幕引きだった。

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 セットから出た後はもうもみくちゃだった。
 たくさんの花束を抱えた大勢のスタッフや共演者たちに口々に労われ、祝福されて。
 以蔵はすっかり花まみれにされてしまった。

「以蔵さん、まだ花びらついてるよ」

 隣で同じようにもみくちゃにされていた男が、すっと手を伸ばして以蔵の髪についたままになっていた花びらを指先に摘まみあげる。
 桜のような薄い小さな花弁は一体何の花のものだろうか。
 花の名前に疎い以蔵にはわからない。
 大量に貰ってしまった花束は、今は控室に置いてある。
 あれを持ち帰ったら、二人の暮らす部屋は花屋が始められそうなほどに花で埋まってしまうことだろう。
 どうしたものかと思いながらも、せっかく貰ったものなのだから、ちゃんと持って帰ってやりたいなどとも思う以蔵だ。
 今は二人、着替え終えて打ち上げにまで待機しているところだ。
 先ほどまでは賑やかだったスタジオも、撤収作業に入ったおかげで今は閑散としている。
本物さながらのリアリティのあったセットも、今はもうバラされ始めて虚構となり果てていた。
 
「終わったねえ」
「終わったのう」

 二人でぼんやりと呟いてほうと息を吐く。
 最初、坂本龍馬役のオーディションを受けるなんて話を聞いたときにはとんだ笑い話だとばかり思っていた。
 笑い話のはずだったのだ。
 それがこんなことになるなんて、二人ともその時は思ってもいなかった。
 互いの過去の未練を清算する物語になるだなんて。
 物語の虚構においても龍馬も以蔵も、互いの運命を変えることは出来なかった。
 以蔵はやはり土佐の河原で刑死したし、龍馬は近江屋の一室にて暗殺された。
 その事実は変わらない。
 変えようがない。
 けれど、三度めにして二人はそれらを共に乗り越えることができたのだ。
 二人で、一緒に。
 ようやく終わったというような安堵と、終わってしまった名残惜しさが混ざり合った息を深々と吐きだす。

「行こうか、以蔵さん」

 そろそろ時間だよ、と龍馬が言う。
 打ち上げは豪華にどこぞのホテルのバーを貸し切ったのだと監督は言っていた。
 きっと、たくさんのご馳走と、上手い酒が出てくるのだろう。
 それはそれで愉しみだが、なんとなく以蔵は隣を歩く男と二人でガード下あたりで何か暖かいものでもつつきながらのんびり酒を飲みたいような気もしていた。
 とはいえ、せっかくの打ち上げを主役がすっぽかすわけにもいかない。
 おん、と頷いて以蔵は龍馬と共に歩き出す。

「あのさ、以蔵さん」
「おん?」
「明日あたり、二人でも打ち上げやろうか」
「えいな」
 
 以心伝心めいた誘いに、以蔵はにんまりと笑って頷く。
 
「おまん、何か喰いたいもんでもあるんか」
「僕ね、軍鶏鍋食べたい」
「…………」

 思わず以蔵は半眼になった。

「おまん、心臓に毛でも生えちょるんか。もふもふか。縁起でもない」
「いやだって僕、あの時結局軍鶏鍋食べ損ねたんだよなあって思ったら食べたくなっちゃってさ」
「お竜に夢枕に立たれるがぞ」
「それならカエル鍋にしとく? アマ◎ンで売ってたよ、カエル肉」
「やめえ」

 のしん、と以蔵は体当たりめいて隣の男に肩をぶつける。
 ゆらりと揺れた長躯が、くつくつと楽しそうに笑う。
 だから以蔵も、晴れやかに笑った。
 冬のある日のことだ。
 ドラマが終わっても、二人の三度めの生はこれからも続いていく。
 三度めの正直、もしくは改めてのハッピーエンドに向かってのんびりと。

 

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