立花葵はタレントである。
デビューの切っ掛けは、高校生の時に街中でスカウトに声をかけられたことだ。
可愛いねと褒められて、モデルをやってみないかと誘われて、アルバイト感覚でカメラの前に立つようになった。
読者モデルから始まって、葵はそのうちテレビにも出るようになった。
いくつかのバラエティ番組に出て、人気が出た頃に、今度はちょい役でドラマにも出てみないかと声がかかった。
演技のことなど学んだことはなかったけれど、任された仕事には真面目に取り組む質が幸いしたのか、それ以降もドラマの仕事は次々とやってくるようになり―――そして気付いたら、葵は立派な『芸能人』になっていた。
最初のうちは周囲が思い描く芸能人立花葵と、自己の認識の間での乖離が大きくて戸惑うことも多かった。
それでも少しずつ折り合いをつけて、なんとか上手く私人立花葵と芸能人立花葵のバランスが取れ始めた頃に、葵は『楢崎龍』としてドラマに出演することになった。
今をときめく国民的人気俳優、坂本龍馬との共演だ。
坂本龍馬の妻役だと聞いて、えっちなシーンがあったらどうしようとドギマギしたものの、聞けば坂本龍馬は坂本龍馬でも役名の方の妻であるらしかった。
坂本龍馬役、岡田以蔵。
岡田以蔵役、坂本龍馬。
お互い歴史上の人物と同じ名前を持つ役者二人が、あべこべに役を演じることになったというのだから面白い話だ。
葵の相手役は、俳優岡田以蔵だった。
あまりテレビでは見かけない顔で、普段はどちらかというと舞台で活躍することが多いのだと言う。
どういう人なのか興味がわいて調べてみたものの、あまりはっきりと顔のわかる写真はネット上にも落ちてはいなかった。
少しだけ安心する。
なんせ、今回のドラマは坂本龍馬を筆頭に話題の役者ばかりが揃えられている。
葵だけが浮いてしまったらどうしようと内心不安もあったのだが、同じぐらいの知名度の岡田以蔵がいてくれたなら、アウェイに一人だけ取り残されたような不安は感じないで済むのではないだろうか。
「どんな人なんだろう」
知名度はそれほど高くはないが、主役の『坂本龍馬』役に抜擢されるほどだ。
きっと才能溢れる良い役者なのだろう。
おそらく、顔も良いだろう。
あの坂本龍馬を脇役にしようと監督陣が判断するぐらいだ。
「……良い人だと、いいなあ」
ぽつりと小さく、祈るように呟く。
まだまだ経験の浅い葵だが、人間性と引き換えに才能を得たんだろうかと思ってしまうような人とも何度か仕事をした経験がある。
あれは大変だった。
あれは本当に大変だった。
才能さえあればここまで許されるのか、と謎の悟りのようなものを得てしまった。
不安と期待に胸を高鳴らせ、葵は役作りのためにも史実上の『楢崎龍』の情報を調べ始めたのだった。
■□■
結論から言うと、岡田以蔵との顔合わせは散々だった。
いや、岡田以蔵が葵に対して酷いことをしたというわけではないのだ。
ただ、運の巡り合わせが葵にとっては大変良くなかった。
もしも時を戻せるのなら、間違いなく葵は岡田以蔵との初対面をやり直すだろう。
一体何が起きたのか。
それはずばり、こうだ。
その日、葵は酷く緊張していた。
大きな仕事であるし、相手役の岡田以蔵とはその日が初めての顔合わせだ。
少しでも良い印象を与えられるようにと、いつも以上に着るものやメイクにも気を遣った。
何かトラブルが起きて遅刻、なんていうことになってはいけないからと、随分と早めにスタジオにも入った。
そして時間もあるし、少し身だしなみを確認しようとトイレに入ったところで、ふと会話が近づいてくるのに気付いたのだ。
咄嗟に個室に隠れてしまったのは、見栄かもしれなかった。
緊張してこんなにも早い時間にやってきたなんていうのがバレるのは、少し気恥ずかしかったのだ。
二人連れの女性は、プロデューサーサイドの人間のようだった。
お互いの仕事の進捗のようなものを話ながら、鏡の前でメイクを直している。
「そういえばさ、あの大河、今日役者陣の顔合わせらしいわよ」
「へえ、そうなんだ。結構上が力入れてるって聞いたけど、どうなの? 何か聞いてる?」
「力入れてるってわりにはキャストがぐだぐだしてる気もするんだけれどね」
「え、でもサカリョ抑えたんでしょ?」
「脇にね。主役は岡田以蔵なんだって」
「え、サカリョ主役じゃないの?」
「うん、まさかの脇役」
「えー……、絶対サカリョ主役の方が話題になるのに。上の人たちは何考えてキャスティングしてるんだか。ヒロインは?」
「立花葵だって」
どきりと、個室の中で葵の心臓が跳ねる。
外の二人は、ここに葵がいることを知らない。
葵が聞いていることを知らない。
そんなところで葵がどんな風に評価されるのか、聞きたいような聞きたくないような、そんな気持ちの間でドキドキと鼓動だけが早くなっていく。
「あー……、あの子か。今事務所がすごいプッシュしてるんでしょ。最近あちこちで名前見るよね」
「うん。これも事務所からねじ込まれて断れなかったやつじゃないかな。主役がほぼ無名に近いんだから本当ならヒロイン枠こそ実力派の有名女優入れといた方が安心できただろうにねえ」
「メインキャストがショボいと数字に繋がらないからなあ」
そんなことを話している内に、メイク直しが終了したのだろう。
二人が連れ立ってトイレから出て行く気配がして、声が遠のいていく。
それを確認してから、葵は個室の中で深々とため息を吐いた。
先ほどまでのドギマギとしたポジティブな緊張感は、すっかり萎れてしまっていた。
葵は、望まれてキャスティングされたわけではなかった。
葵の所属する事務所がねじ込んで、それ故に仕方なく、監督たちは葵を選んだ。
それもそうだろうと思う。
売り出し中のぺーぺーのタレントだ。
ただ少しばかり顔と運が良かっただけの女だ。
きちんと演技の勉強をしたことがあるわけでもない。
事務所は事務所としての仕事を真っ当にしただけだということはわかってはいるものの、こんな端から見ても不釣り合いに思えるような仕事にまで無理に自分を売り込まなくとも、と恨めしく思えてしまって、葵はしおしおと力のないため息を吐き出した。
「………………」
鏡に映る葵は、とてもしょぼくれて貧相に見える。
早めにきたわけだし、先に監督やプロデューサー達に挨拶を、とも考えていたのだけれども、この顔ではどこにも行けない。
控え室に戻ろうかとも思うが、今はマネージャーとも顔を合わせたくはなかった。
どうしてこんな仕事を、と言うべきではない泣き言を漏らしてしまいそうだ。
とぼとぼと葵は人の気配に背を向けて、誰かと顔を合わせる心配のない場所を探して廊下を歩く。
そして辿り着いたのは、スタジオの裏手にある小さな喫煙所だった。
喫煙所といっても名ばかりで、スタジオの外の扉の脇に小さな灰皿スタンドがぽつんと置かれているだけの場所だ。
灰皿の中身は空っぽで、おそらくほとんど人が来ないのだろうということがわかった。
煙草を吸いたいだけならば、室内にも喫煙所はある。
そこなら空調も効いているし、近くにはコーヒーやスナックが買える自販機なども設置されている。
わざわざこんな何もない外にまで吸いに来る必要はない。
「…………、つらたん」
小さく呟いて、壁に背中を預けて葵はずるずるとうずくまる。
それでもスカートの裾が地面についてしまわないようにと手繰ってしまって、落ち込んでいるのにそんなことにまで気を回してしまう自分が酷く小賢しいように思えて、ますます気が滅入った。
膝に額を乗せて、うずくまったままため息を吐く。
撮影が始まれば、監督や共演者たちはきっと頭の中で思い描く『実力派女優の演じる楢崎龍』と『立花葵の楢崎龍』を比較して、がっかりすることになるだろう。
そしてドラマが放映されれば、今度は視聴者たちは共演者たちの演技と未熟な葵の演技を比較して、その場違いさに首を捻ることになるのだ。
そんな悪い想像ばかりに打ちのめされて、逃げ出したくなる。
ぎい、と扉が軋む音がしたのはそんな時だった。
その人物は、先客がいることに少し驚いたように立ち止まる。
そのまま引き返してくれないだろうかと思いつつも葵が動かずにいれば、その人物はじゃりと小さな足音を立てて葵の隣にやってきた。
しゅぼりと煙草に火を灯す音がする。
少し遅れて、紫煙の香り。
何やら落ち込んでいる女がいるからそっとしておいてやろう、との気遣いは期待できないものらしい。
その無遠慮さが憎らしい一方で、例え行きずりの相手とはいえ誰か人の気配が隣にあることに少しばかりの安堵も覚える。
しばらくの間、葵とその人物はお互いに無言だった。
口を開いたのは、紫煙を吹かす男が先だった。
「腹でも痛いんか」
短い言葉は、そっけなく、けれども葵にとっては適切に響いた。
あからさまに優しくするでなく、好奇心か滲むわけでもなく。
程よい距離感での気遣いが滲む。
標準語とは異なるイントネーションが耳に心地良いのは、ここの所葵がドラマの撮影にむけて高知弁の動画をよく見聞きしていたからだろう。
「………ちょっと、めげるようなことがありまして」
「ほうか」
ちらりと、顔をあげて隣の男をうかがう。
ラフなTシャツに、黒のジーンズ。
動きやすそうな身軽な恰好に、首にはタオルをひっかけている。
帽子を被っているせいで目元のあたりは影になって伺えないものの、顎の下にまばらに散る無精ひげから、どうやら年上の男らしいということがわかった。
おそらくはどこかの番組のスタッフだろう。
煙草休憩に抜け出してきたのだろうか。
室内の快適な喫煙所ではなく、わざわざこんなところまで吸いにくるぐらいなので、もしかしたらサボりなのかもしれない。
そんなことを思いながら、葵はまた顔を伏せる。
男は特に事情を聴きだそうとするようなこともないままに静かに煙草を吹かしている。
「……あの」
なんとなく、懺悔のように吐き出したくなった。
この男なら、面白おかしく葵の事情を吹聴したりはしないだろう。
いや、吹聴されたとしても良いのだ。
事務所のごり押しで仕事を得た癖になんとも思わず調子に乗っている若手タレントと思われるよりも、そのことを気にしてへこむような可愛げのある女だと思われた方が葵にとっては都合が良い。
「少し、愚痴ってもいいですか」
「えいよ。この一本、吸い終わるまでなら聞いちゃる」
「ありがとうございます」
はーと息を吐いて、葵は膝から顔をあげると壁に背を預けた。
「私ね、大きな仕事が決まったんですよ」
「おん」
「今から、顔合わせがあるんですけど……その前に、聞いちゃったんです。どうやら私がその仕事に決まったのが事務所のごり押しのおかげだったらしいって」
「……ほおん?」
「私ね、本当演技に関しては素人なんですよ。街中でスカウトされて、モデルやるようになって、テレビに出るようになって。演技の勉強なんか、したことないんです。 それでも任された仕事なら頑張ろうと思ってやってきたんです。ううん、やってきたつもり、なんですけど。この仕事って、いろいろ隠せないじゃないですか。見たら、実力の有り無しなんてすぐにバレちゃう。……それが急にしんどくなってしまって」
分不相応なのだ。
実力に釣り合わない仕事を任されて、大きな舞台の上に祭り上げられて、きっと駄目だろうと葵自身含めて誰もがわかっているのに、全てのお膳立てが済んでしまっている以上穏便な方法では降りることもできない。
逃げ出したい。
何もかも放り出して、逃げてしまいたい。
こんな大役、自分には務まらないのだとひっくり返してしまいたい。
「厭なら逃げりゃあえい」
「……そういうわけにもいかないんですよ」
「どいてじゃ」
「だって」
反射的に口にした反論の言葉なのに、その先が咄嗟には出てこなくて口ごもる。
だって、なんだろう。
どうして、葵は逃げ出さずに今もここにいるのだろう。
「だって、……喜んでくれた人たちが、いるから」
そうだ。
この『楢崎龍』の役が決まったとき、事務所の人々は皆我がことのように喜んでくれた。
両親も、目に涙すら浮かべて喜んでくれた。
友人たちも、皆双眸をキラキラさせて絶対に見るからね、と応援してくれた。
あのきらきらとした笑顔が、葵をこの場に繋ぎとめている。
逃げてはいけない、投げ出してはいけないと葵を踏ん張らせている。
そんな人たちを、がっかりさせたくはない。
くつ、と隣から低く笑う音が降ってくる。
馬鹿にするでなく、子どもの葛藤を笑い飛ばすような、それでいて突き放す冷たさのない優しい笑い声だ。
葵は一人ッ子なので想像するしかないが、世間でいう兄というのはこういう感じの存在なのかもしれないとなんとなく思った。
「そいたらおまん、」
ちらりと見上げる。
見下ろす男の、甘い蜜の色をした双眸と目があった。
「腹をくくるしかないろう」
あっさりと言われた言葉に、驚くほど肩から力が抜けた。
手慰みのように伸びてきた手が、わしゃりと一度無造作に葵の髪を撫でる。
見知らぬ男に触れられたというのに、不思議と厭だとは思わなかった。
その男の手付きがあまりに無造作で、それこそ幼い子どもを慰めるような慣れた所作だったからかもしれない。
「……そう、なんですよねえ」
空を仰いだ。
澄みわたる空は、どこまでも晴れやかに青く、気持ちが良い。
どこまでも広がる青い空を見上げていると、どん底まで沈んでいた気持ちがふっと持ち上がるような気がした。
本当に、男の言う通りだ。
逃げるつもりがないならば、腹をくくるしかない。
逃げ出したいと、すべてを放り出してしまいたいと思うほどに苦しくなるのは、そのつもりがないからだ。
踏ん張るつもりがなければ、苦しくなる必要などない。
ふと、時計に視線を落とす。
そろそろ良い時間だ。
控室に戻って、顔合わせの支度をした方が良いだろう。
葵はひょいと立ち上がると、空にむかってぐうと腕を伸ばしてノビをした。
「ありがとうございます。腹くくって、頑張ってみようと思います」
「おんおん、そうせえ」
穏やかな方言訛りが耳に心地良い。
もしかしたらこの男も関係者かもしれないとなんとなく思った。
坂本龍馬は土佐の男だ。
もしかしたら方言の監修のために呼ばれたスタッフなのかもしれない。
それならばあまりへこんでいるところばかり見せてしまうのも申訳ない。
葵は少しばかりおどけて、口元を笑ませた。
「しんどいこともあるんですけど、私、愉しみにしてることもあるんですよ」
「?」
なんじゃ、というように男が緩く首を傾げる。
ふふと小さく笑って葵は言葉を続けた。
「私、ミーハーなので。あのサカリョに会えるのは愉しみにしてるんです」
「―――」
帽子のつばの影で、男の目がぱちくりと丸くなる。
「おまん、あいたあのファンなんか」
「熱心に追いかけてるってほどではないですけど」
「ほおん」
にまり、と男の口元が笑みに歪む。
面白がるような、少しばかり意地の悪い顔だ。
その表情の意図を探るべく葵が口を開きかけたところで――おおい、とのびやかな声が響いた。
「以蔵さん、そろそろ時間だよ」
たったった、と軽やかな足音が近づいてくる。
そうして姿を現したのは、たった今葵が口に出したばかりの男だった。
噂をすれば影がさす、とはまさにこのことだ。
涼やかな顔立ちに、優し気に垂れた目元。
飾り気のない細身のパンツに群青色のシャツといったラフな格好が、シンプルだからこそそのスタイルの良さを、端的に言うのならばその足の長さを恐ろしいほどに惹きたてている。
「え」
思わず間の抜けた声が、葵の唇から零れる。
突然のサカリョこと坂本龍馬の登場にももちろん度肝を抜かれたし、心底動揺もしているわけだが。
今、坂本龍馬は何と言った?
葵の隣で、面倒くさそうに腕を伸ばして灰皿で煙草の火を消している男のことを、以蔵さん、と呼ばなかったか。
それはまさしく葵の相手役の名前ではないのか。
ぎ、ぎぎい、と軋むような動きで、葵は隣の男へと視線を向ける。
男は心底面白がるように、ニチャリと意地悪く笑って口を開いた。
「お初にお目にかかりますゥ。おまんの夫、坂本龍馬役の岡田以蔵じゃ。まあ、なんじゃ、夫婦になる前に浮気されちょるみたいやけんどにゃあ。龍馬、こいたあおまんのファンらしいぞ」
「え、そうなの? あはは、ありがたいなあ」
そんなのんびりとした会話を聞きながら、葵は穴があったら埋まりたいと切実に思ったし、何なら自ら地球の裏側まで貫通するレベルの穴を掘りたいと心の底から願ったのだった。
―――それが、葵と岡田以蔵の出会いの経緯だ。
叶うことなら何度だってやり直したい。
■□■
その一方で、そんな出会いにも恩恵はあった。
初対面で泣き言をぶちまけてしまったせいか、以蔵はよくよく葵のことを気遣ってくれたし、坂本龍馬もまた葵によくしてくれた。
ただの共演者ということ以上に、目をかけてくれたように思う。
葵の演技に迷いがあれば、以蔵はすぐにそれを見抜いたし、その迷いを解決すべくアドバイスめいたことを言ってくれることもあった。
一度、どうしてそこまで良くしてくれるのかと聞いてみたことがある。
どれだけ頑張ってもなかなか満足のいく演技ができなくて、すっかり葵が落ち込んでしまっている時のことだ。
カメラの前に立っているときは十分な演技ができたと思うのに、改めてカメラを通して自分の演技を見てみると、どうにも薄っぺらく見えてしまって仕方がないのだ。
何度も何度も監督に頼んで撮りなおさせてもらって、それでも満足のいくような出来にはならなくて、最終的にそのシーンの撮影は後回しにすることになった。
付き合わせてしまった以蔵にもスタッフにも申訳なくて、落ち込んでうつむいた葵に、以蔵は「わしはおまんの夫やきな、つきおうちゃるわ」と軽口を叩いてくれたのだ。
夫婦というのはあくまで役柄の話だ。
以蔵と葵は、この共演を通して出会うまで顔を合わせたこともなかった。
まだ、以蔵が葵に対して下心があるというのならわかる。
気に入った異性に良いところを見せようとしているのだというのなら、以蔵がそうしてつきあってくれるのもまだわかるような気がするのだ。
けれど、そうではないのは誰よりも葵がよくわかっていた。
だからつい聞いてしまったのだ。
以蔵は、少し考えるように双眸を伏せて、まばらに髭の生えた顎先をすりすりと指で撫でてぼんやりと口を開いた。
「おまんにな」
「うん」
「よう似た子を知っちゅう」
「私に?」
「おん」
頷いて、懐かしそうに双眸を細めながら以蔵は言葉を続ける。
どんな子だったの、と聞けば、以蔵は言葉を選ぶような間を挟み挟み、とつとつと語り聞かせてくれた。
その子どもは、葵と同じように見出されて役割を与えられたのだそうだ。
望んで立候補したわけではないから、知識も力も足りないものは多かったらしい。
「あれも知らん、これも出来んち、よう泣き出しそうな顔をしちょった」
それは、葵にとっても身に覚えのある感情だった。
見出されたのは才能だろう。
だけれども、才能だけでは物事は回らない。
知識や、経験が必ず必要になる。
才能だけで飛び込んでしまった世界で、その葵に似ているという子どももまたきっとさぞ苦労をしたのではないだろうか。
「その子は、どうなりました?」
「ははっ、やり遂げよった。おまんには無理じゃ、諦めえ、もっと知識のあるやつに任せえ、おまんより上手くやりゆうやつがおる、と散々言われちょったけんど、それでも見事にやり遂げよった」
へあっはっは、と以蔵が自分のことのように自慢げに笑う。
その子のことを、心の底から誇りに思っているのだということがとてもよくわかる顔だった。
「私は、その子に似てるんですか?」
「ちっくとばあな」
「……そっか。そうかあ」
むにりと葵の口元が緩む。
以蔵がそこまで大事そうに語る思い出話の主に、葵はほんの少しでも似ているのだという。
それなら、もう少しだけ頑張ってみようと思った。
以蔵にあんな顔で、あんな声で語られるような人物に、例え少しでも似ていると言って貰えたのだ。
「……もう一度、つきあってもらえますか?」
「そん意気じゃ!」
ばしいんと背中を強く叩かれる。
びりびりと肌がしびれるほどの痛みに顔をしかめつつも、その遠慮のない気合いの入れ方が酷く好ましくてつい口元が緩んでしまった。
そんな光景をたまたま差し入れにやってきた龍馬に目撃され、「い、以蔵さん、女の子相手に何やってるの!」などとあたふたさせてしまったりもしつつ。
二人の練習は深夜にまで及び、その成果もあって日々坂本夫妻の演技は意気のあった良いものへとなっていったのだった。
ちなみに。
監督やスタッフから岡田以蔵演じる『坂本龍馬』と、立花葵演じる『楢崎龍』の夫婦っぷりが褒められる度に何故か以蔵は坂本龍馬を見てニヨニヨしていたし、坂本龍馬は坂本龍馬で何故だか照れたように視線をうろうろさせていたりなどした。
「以蔵さん」
「べぇつにぃ。わしは何も言っちょりませんけどォ?」
「顔。顔」
「わしん顔がどうかしましたかァ?」
「顔がうるさい」
なかなかの暴言が飛び出した。
■□■
きっかけは、なんとなく感じるようになった気配だった。
ふとした瞬間に、視線を感じるのだ。
が、そのわりに振り返っても人の姿はない。
なんだろうなんだろうと不気味に思っていたある日のことだ。
、明日の撮影に向けて以蔵と稽古を終えてスタジオを出ようとしたところで、突如一人の男が目の前に飛び出してきた。
パシャリとまばゆい光が突如目の前でチラつく。
「ッ!?」
写真を撮られたのだと理解したのは、「こんな時間まで二人きりで稽古ですか!? 話によるとお二人は大層意気のあった夫婦を演じてらっしゃるとのことなのですが、それは私生活に基づいた成果ということで良いんでしょうか!」なんて下世話な質問が飛んできてからのことだった。
質問の意図を理解するまでにも、一拍間が空く。
それくらい、葵にとってはその記者の問は突拍子のないものだったのだ。
意気のあった演技が、私生活に基づく成果?
それは、つまり以蔵と葵が私生活でも付き合っているのではないかということか。
「いやいやまさか、そういうことじゃありませんよ。私と岡田さんは良き仲間です。それだけです。それ以上の付き合いはありません」
ドきっぱりと葵は言い切る。
華やかな色恋沙汰は芸能界の花だ。
これまで葵もいろいろなゴシップ記事に目を通し、いつか自分もこんな風に取り上げられることもあるんだろうか、なんて考えてみたことはあった。
少しばかり憧れる気持ちすらあった。
だが、実際にやられてみるとこれはなかなかに迷惑なものだ。
「岡田さん、立花さんはそう仰ってますが岡田さんはどう思われますか!?」
「どう思うもなんも、葵の言うた通りじゃ。聞こえんかったんか?」
「葵!? 岡田さんは立花さんのことを名前で呼んでらっしゃるのですね!」
「それがどういた、おまんには関係ないろう、邪魔しなや」
それだけ言うと、そっけなく記者を無視して以蔵はずんずんと歩きだす。
もちろん残された葵が記者につかまらないようにと、軽く肩のあたりを引き寄せてタクシー乗り場まで送り届けてくれたわけなのだが。
当然そんな写真を撮られていた二人は、翌日の芸能ニュースにて「立花葵、岡田以蔵との熱愛発覚か!?」なんてセンセーショナルな見出しとともに取り上げられることになってしまった。
確かに夜の道を二人並んで歩く姿は仲睦まじげに見えるかもしれないし、肩を抱き寄せる以蔵の仕草はカップルの愛情表現のようにも見えたかもしれない。
だがそれは夜遅くなったのは葵の稽古に付き合ってくれたからだし、肩を抱き寄せているように見えるのはしつこい記者の追及から葵を逃がすためのものだ。
なんたるマッチポンプと、腹の底からムカムカとして、それから葵は深々とため息を吐いた。
葵と以蔵の間には記者が期待するような甘やかな恋愛感情はない。
お互いにドラマに対して少しでも良いものを作りたいという気持ちでつながった戦友のようなものだ。
それを面白おかしく取り上げられることにも腹が立つし、このゴシップが葵だけでなく以蔵にとって悪いように働いてしまったらばと思うと申し訳なさが募る。
そんなわけで、噂が落ち着くまではしばらくあまり二人きりにはならないようにしようと気を付け始めたわけだったのだが――。
一度立ってしまった噂というのは葵が思っていたよりもしつこかった。
いつか二人が尻尾を出すのでは、と四六時中記者が付きまとうようになってしまったのだ。
以蔵の方は対して気にしている様子は見せなかったものの、葵はすっかり参ってしまっていた。
何をしていても、どこにいても、視線を感じるのだ。
そうして、せっかく稽古の甲斐もあって順調に進んでいた撮影にも身が入らなくなってしまった頃。
とぼとぼと帰路につきかけた葵を呼び止める声があった。
以蔵だ。
「岡田さん」
「おう、葵、今晩暇か。わしにちっくと付き合ってくれんか」
「で、でもカメラが」
「えいえい、気にしなや。おまんがわしと飯を食うのが厭じゃち言うなら仕方のないことやきわしも諦めるが、そうやないんやったら付き合え」
「…………迷惑には、なりませんか」
「迷惑やと思っちょったら最初から誘いはせんわ」
からからと笑い飛ばす以蔵はいつも通りだ。
本当に良いのだろうかと思いつつ、それでも以蔵がゴシップにも関わらず態度を変えずに誘ってくれたことが嬉しくて、葵はおずおずと頷く。
「そいたらな、今晩ここに来とおせ。えい店やき、こじゃんとめかしこんで来ぃや?」
そう言って以蔵から渡されたのは、都内でも有名なホテルのバーレストランのカードだった。
「――はい?」
夜景の綺麗な、ロマンチックなバーレストランで。
お洒落して待ち合わせして、食事?
それはまさしく。
今世間を騒がせているゴシップ通りのデートなのでは?
ぽかんと目を丸くする葵に向かって、以蔵はにんまりとその蜜色の双眸を細めて大変悪い顔をして見せた。
■□■
以蔵は、葵をお姫様のように扱った。
待ち合わせ場所はホテルのロビーだったにも関わらず、ついたら連絡せえよ、の言葉通りに連絡したならば、わざわざ玄関まで出てきてタクシーから降りる葵を出迎えるサービス付きだった。
いつもの以蔵は初対面時に葵がスタッフと間違えてしまったようなラフな格好をしていることが多いし、それ以外の印象といえば撮影中の和装しかなかったこともあり、以蔵のきっちりとしたタイドアップスタイルには一瞬誰だかわからなくて全力で戸惑ってしまった。
普段は無造作に一つで結ばれているだけの癖のある黒髪をハーフアップに束ね、薄いブルーのシャツに黒地に銀のストライプのネクタイ、ブラックジャケットを羽織った姿は見知らぬ大人の男のように見える。
恭しく差し出された手に戸惑いながらも手を重ねれば、「えいこじゃ」と褒められた。
そのまま二人でエレベーターに乗り込み、どういうつもりなのかと問おうとしたところで普段はまばらにその顎に散るトレードマークじみた髭までなくなっていることに気づいて、葵はますます動揺してしまった。
「お、岡田さんヒゲは」
「剃った」
「剃った」
思わず復唱する。
「こじゃんち綺麗な女優さんとのデートじゃ、わしもめかしこまんと釣り合わんろう」
なんて悪戯っぽい流し目を喰らってはドギマギと心臓が跳ねる。
確かに葵は以蔵を異性としては見ていなかった。
頼りになる共演相手であり、仲間だった。
だが、こんなにも魅力的な男を相手にそれは逆に失礼なのでは??? なんてよくわからない考えがぐるぐると頭の中を巡り始める。
そんな混乱しきった葵の手を取り、以蔵がエスコートした先はぽっかりと夜に浮かぶラグジュアリーな空間だった。
フロアの中央には光がしゃらしゃらと零れ落ちて行くようなシャンデリアが飾られ、そこから端にいくに連れ次第に夜空に溶け込むように薄暗くなっていく。
四方は大きな窓になっており、フロア中央の光から遠ざかれば遠ざかるほど夜景が楽しめるようになっているのだ。
それでいて手元がわかるようにと各テーブルに煌めくキャンドルがゆらゆらと揺らめく様がまたロマンチックな雰囲気を高めている。
見渡せば店の一角にはグランドピアノが置かれており、ぽろんぽろんと爪弾くようなジャズピアノの生演奏が会話を遮らない程度に耳を楽しませてくれる。
場違いではないかと不安になるほどに、酷く洒落た店だった。
「夕飯はまだろう? 何にするがじゃ」
声をかけられて、はっとする。
差し出されたメニューでは小難しいカタカナばかりが踊っている。
思わず眉尻を下げたところで、以蔵がくつりと笑った。
「わしも難しいのはようわからんき、適当におすすめのメニューでえいか?」
「……お願いします」
以蔵が緩く手をあげてウェイターを呼び寄せ、何がおすすめなのかと会話を楽しみながらメニューを決めていく。
最初は以蔵の意図が分からずに戸惑っていた葵だったが、口当たりの軽い食前酒から始まって食事が進むにつれて次第と寛いだ表情で笑うことも増えた。
その様子に、以蔵の双眸が柔らかに細くなる。
そんな穏やかな表情に、葵は最近記者に付け回されて心労の溜まっていた自分に息抜きをさせるためにこうしてお洒落な食事に誘ってくれたのか、なんて思っていたわけだったのだが。
食後のカクテルを味わっているあたりで、ふと。
向かいに座っていた以蔵の雰囲気が変わるのがわかった。
ニィ、とその口角が持ち上がる。
獲物が現れたことに気付いた猟犬のような面持ちだ。
薄暗がりの中で、淡い色合いの以蔵の双眸がぼうと光るように見える。
「おまんから見て五時の方向じゃ」
「……え?」
「あん男がおる。おうおう、今日もカメラ持参とはご苦労様なこっちゃ」
「ッ……!」
以蔵の言葉に、葵はびくりと小さく肩を揺らす。
そうだ。
楽しい一時に忘れていたが、現状葵と以蔵はパパラッチにゴシップ目当てにつきまとわれているのだ。
こんなところを撮られでもしたら、ますます騒がれてしまう。
以蔵の言う5時の方向とやらを振り返りそうになったところで、低く囁くように「動きなや」と言われて反射的に葵は身体を竦ませた。
こういうとき、以蔵の声には不思議な力がある。
決して大声ではないのに、言われた通りにしなければならないと思わせられるのだ。
「ちっくと電話えいがか」
「は、はい」
以蔵はジャケットの内側よりスマホを取り出すと、どこかへとかける。
すぐに繋がったのか、二、三言の短い会話を交わすとすぐに電話を切ってまた懐へとスマホを片付けた。
それからまた以蔵は何事もなかったかのように会話に戻るが、すぐ近くにあの記者がいるのだと思うと葵としてはどうにも落ち着かない。
今は薄暗い窓際の席にいるからまだ良いが、ホテルから出るためにはロビーに向かわなければいけないのだ。
明るいところで以蔵といるところを撮られでもしたならば、今度こそ言い訳のしようがないスクープ写真になりかねない。
以蔵と言葉を交わしながらも、このあとどうしたらいいのかと葵は気もそぞろだ。
そうしてしばらく経ったところで、二人のテーブルへと近づいてくる影があった。
もしやあの記者が、と身構えつつ葵は視線を持ち上げて――――え、と小さく声を零して固まった。
そこにいたのは、坂本龍馬だったからだ。
「今晩は、二人とも。僕もご一緒しても良いかな」
「え、坂本さん?」
「うん。ちょっと以蔵さんに呼ばれてね」
こちらもまた惚れ惚れとするようなスーツ姿だ。
白いシャツにブルーのタイ、濃紺のベストに白に近い淡い青灰のジャケットに濃いグレーのパンツをあわせ、いつもは下ろしてる前髪をすっきりと上に撫でつけたオールバックスタイルだ。
普段は前髪で隠れる秀でた額が露わになる様子に、葵はただただ見とれるしかない。
と、そこで龍馬から流された視線に応えるようにして以蔵が立ち上がった。
そのまま出迎えるように龍馬へとの距離を削り。
「早かったの。近くにいたんか?」
「まあね」
なんて会話を交わしながら、するりと以蔵の腕が龍馬の首裏に回った。
まるで、友人と過ごしているところに遅れてやってきた恋人を迎えるかのような甘い歓迎の所作だ。
突然のことに葵はぽかんと目を丸くしたし、やられた当人である龍馬も驚いたようにひくりと片眉を跳ね上げる。
が、すぐに以蔵の意図を察したのか、龍馬の片腕が当たり前のように以蔵の腰を抱き寄せた。
やわりと身体を寄せ合って抱き合う所作からは、親密さが匂い立つ。
「このわりことし」
「えいろ、つきあっとおせ」
「いいけどさ。……そのシャツ、良く似合ってるね」
「色男から拝借したきな」
「うん、知ってる」
くすくすと笑いあう声音を仲睦まじげに響かせ、その後何事かを囁くように龍馬の耳元へと顔を寄せた。
一瞬剣呑な色合いが二人の双眸をちらりとよぎっていくものの、きっとそんな所作は幸福なカップルが互いの頬へと唇を寄せ合うようにしか見えなかったことだろう。
以蔵はそんなハグを終えると席に戻りかけるが――何かに気付いたように、その腰をぐっと抱き寄せる形で龍馬が以蔵をその腕内へと引き戻した。
「まってまってまってまって以蔵さんまって」
「なんじゃ」
「ひげ、ひげどうしたの、どこで落としてきたの」
腰を抱いたまま、龍馬の指先が以蔵の輪郭を辿る。
すり、と頬から顎にかけてを形の良い指先で撫で下ろす所作は、そのまま口づけの一つや二つしてもおかしくはないように見える。
「剃った。なんじゃあ、おまんも葵も一大事みたいに言いよって」
「一大事だよ、滅茶苦茶一大事だよ、うわあ……ヒゲのない以蔵さんなんてどれくらいぶりかな……」
さすさすすりすりと念入りにその指腹が今は子どものようにつるりとした以蔵の顎を撫でる。
ひとしきり撫で倒し、後で写真も撮ろうね、なんて言ってからようやく龍馬は満足したように以蔵を解放した。
そのタイミングを見計らったように、スタッフがそッと追加の椅子を二人のテーブルへと届けにくる。
ありがとう、と穏やかに礼を告げて、龍馬が席についた。
それから、目の前に広げられたメニューを覗きこみながら首を傾げる。
「以蔵さんたちはもう食べ終わったところ?」
「おん。これからデザートで〆ようと思っていたところちや。おまんも食うろ?」
「何にしようかな」
「ここはアップルパイが上手いらしいぜよ」
「それじゃあそれにしよ。葵ちゃんは?」
ぽん、と会話を放られて、ぱちくりと葵は瞬く。
名前を呼ばれて、話題を振られて、ようやく脳が現状へと追いついたような気がした。
「えっ、あ、……、えっ、っと、デザート?」
「そう、デザート。ここ、アップルパイが美味しいんだって」
「ええと、それなら私もそれで」
「以蔵さんは?」
「わしも同じのにする」
「それじゃあアップルパイが三つだね」
す、と片手をあげてスタッフを呼び寄せた龍馬が手際良くデザートのオーダーを済ませる。
そうして、龍馬は未だ事情がわからずに双眸を戸惑いに揺らす葵に向かって柔らかに微笑みかけた。
「突然で驚いたでしょう?」
「はい……ええと、その、結局これは何だったんでしょう……?」
「それは――……、あ、以蔵さん、どう?」
「ふひひ」
説明の途中で、ふと首尾を問う龍馬の声に、以蔵は大変ご機嫌な様子で笑って見せた。
「作戦通りじゃな。あの記者、スクープが撮れたちほくほく顔で帰っていきよった」
「え。スクープ、……って、もしかして、さっきの……?」
「そういうこと。以蔵さん、わざと撮らせるつもりで僕をここに呼んだんだろう?」
「話が早くて助かるぜよ」
くいとカクテルグラスを傾けて、以蔵が笑う。
どうやら以蔵は最初から写真を撮らせるつもりで、この場所を選んだらしかった。
あいたあが来なけりゃ普通に食事をして終わるつもりじゃったんやけんどにゃあ、と笑う以蔵は酷く楽しそうだ。
記者が現れたのを確認した上で、わざと龍馬を呼んだのだ。
あの写真を撮らせるために。
これで明日の一面はわしとこいたあの写真じゃな、これでもうおまんが付け回されることもないろ、と悪い顔をして楽しそうに笑う以蔵に慌てるのは葵の方だ。
痛くもない腹を探られて、シャッターチャンスを狙って付け回されるのは確かに困るが、だからといって以蔵と龍馬を犠牲にして良いという話ではない。
ましてや、この二人の場合は同性愛カップルということになる。
その話題のセンセーショナルさは、きっと以蔵と葵の比ではない。
おそらく、いや、間違いなく二人の仕事にも影響が出てしまうことだろう。
そんな、と悲壮な顔をした葵に、龍馬はにこやかに笑ってひらりと手を振って見せる。
「大丈夫だよ、君が思ってるようなことにはならないから」
「……本当に、大丈夫なんですか?」
「もちろん。僕も以蔵さんも、勝ち目のない勝負には出ない主義でね」
「わしは勝ち目がなかろうとやるときゃやるぞ」
「やめて。本当やめて。何か勝負に出るときは必ず僕に相談してからにして」
龍馬の懇願にも、以蔵は上機嫌に笑うばかりだ。
そうこうしているうちに三人の元にデザートのアップルパイが届く。
熱々さくさくのアップルパイに、バニラアイスが添えられた英国式だ。
早速パイ生地にスプーンを突き立て、アイスを添えて口に運んだ二人が、
「以蔵さんの言う通り、美味しいねえ」
「龍馬、パイ屑零しゆうぞ」
なんていつも通りの平和な会話を繰り広げているのを聞いていると、なんだか一人だけおろおろしているのも馬鹿らしくなってしまって、葵ももぐりとパイを口に運ぶ。
タルトのようなさくさくとした歯ごたえの甘さ控えめの生地の中から、とろりと甘酸っぱく煮詰められた林檎の味わいが零れ出すのが溜まらなく美味しい。
蜜のように零れ出すごろりとした熱々の林檎の酸味と、その上でじわじわと溶かされていく冷たいバニラアイスの風味の相性が最高に良い。
あっという間にぺろりと平らげてしまって。
その後はカクテルを片手に撮影中のドラマの話などで盛り上がり、すっかり不安を忘れて会話を楽しんだ後、葵は二人に見送られてタクシーで帰路につくことになったのだった。
■□■
ぶおおおお、と葵の乗ったタクシーがエンジン音を響かせて遠ざかっていく。
それをにこやかに見送った後、龍馬はふと隣へと視線を流して口を開いた。
「随分と気に入ったみたいだねえ。以蔵さんがここまでするとはちょっと思ってなかったな」
少しばかり揶揄うような口調に、以蔵がひょいと視線を持ち上げる。
「なんじゃ、やきもちかえ」
どちらがどちらに、とは聞くと藪蛇になりそうだったので、龍馬はにこりと口端を持ち上げて笑って誤魔化す。
以蔵も、そのあたりを深くを追求するつもりはないのか、ふすと小さく息を吐いてから、夜空に視線を向けてぽつりと口を開いた。
「あいたあは、ちっくとばあマスターに似ちょるき」
「ふふ、懐かしいねえ」
「おん」
二人、視線を交わして笑いあう。
いつかのどこか、人理を守るべく戦った人の子は、レイシフトに適正があるということ以外は至って普通の子どもだった。
ただそれだけの特性故にカルデアへと招聘され、その後たった一人のマスターとし人理などという途方もないものを取り戻すために戦うことになったのだ。
あの子どももまた、選ばれたが故にこそ欠けた知識や経験を求めて足掻き続けていた。
魔術のことも知らなければ、戦う術も知らない、本当にどこにでもいる普通の子どもだったのだ。
整った見目故にスカウトされ、その身一つで芸能界で戦うことになった葵の持つ悩みは、そんなかつての戦友の姿を以蔵に思い起こさせるには十分だった。
それに、名前のこともある。
彼女の名前は、立花葵。
立花。
りつか、だ。
「にゃあ、龍馬」
「なぁに、以蔵さん」
「マスターも、今ごろどこかで元気にしゆうじゃろうか」
「僕たちがこうなんだもの。きっとマスターも元気にしているとも」
もしかしたら、どこかで今は俳優業などに精を出している二人を見て笑っているのかもしれない。
そんな幸せな想像に口元を綻ばせながら、龍馬は懐からちゃりりと小さく音を立てながらルームキィを引っ張りだした。
「ところで以蔵さん」
「なんじゃ」
「部屋なら取ってあるんだけど」
いつかのどこかの英雄の名言だ。
ふひひと楽しそうに笑った以蔵がえいな、と頷いたもので、二人肩を組んでホテルの中へとUターンをキメる。
そのまま部屋にあがって、ミニバーの酒を片っ端から二人で空けて、それでも足りずに追加のルームサービスまで頼んだりなどして夜は明けていったのだった。
■□■
翌日の朝。
坂本龍馬と岡田以蔵がデキてる説が熱烈な写真とともに一部の芸能誌の朝刊をド派手に飾ったものの。
隠し撮りのはずのその写真のすべてにおいて岡田以蔵がカメラ目線であることだったり、イチャイチャと坂本龍馬に寄りそう態でありながらカメラにぎりぎり映るか映らないかの位置取りで中指を立てまくっていることが発覚したため、それがプライベートを暴き立てようと執拗に付きまとう記者に対する意趣返しであることがあっさりと明らかになった。
昼過ぎからは二人してテレビの取材にも応じ始め、友人でもある葵が記者に付き纏われることですっかり気が滅入っている様子を見てちょっとした悪戯を仕掛けようと思ったのだと応える様子には世間からも同情が多く集まった。
行き過ぎた取材はいくら相手が芸能人であるとはいえ良くない、という方向性で報道される様子を自宅でテレビを眺めて安堵に胸を撫でおろしていた葵だったのだが。
取材される坂本龍馬が淡いブルーのシャツを、その隣の岡田以蔵が白いシャツを着ているのに気づいてしまい。
一人、あのスクープが別段フェイクでもなんでもなかったのではという可能性に至って
頭を抱えて悶々とする羽目になったのはまた別の話だ。
