カルデアという場所は、どこもかしこも真っ白で、清潔で、以蔵はそんな場所に自分がいることにとんでもない違和感を覚えることがある。
召ばれて来たのだ、人斬りとしての力を必要とされたのだと自分を鼓舞してみても、どうにも場違いな気がしてしまう。
何もかもがきらきらとうつくしいカルデアので、自分だけが一点の汚点であるように思えてしまうのだ。
そもそもマスターが何故自分のような人斬りを召喚したのかもわからない。
マスターの周囲にはいつだってお綺麗な英雄たちが控えている。
清く正しく生き、そして今も清く正しく人類史を救うためにマスターの傍にいるのだ。
そう。
まるで以蔵の幼馴染のように。
「……、」
ケ、と小さく息を吐く。
あの男は理想を追って時代の荒波を駆け抜けた。
きらきらとまぶしい陽の光の中を、以蔵一人を屍の腐臭濃い闇に置き去りにして一人言ってしまった。
聖杯の与えてくれた知識によると、あの男もまた最後まで走り切ったわけではなさそうなのだけれども。
きっと、道半ばに足を踏み外し、荒波の下に沈んだとしてもあの男に後悔はないだろうと思った。まっすぐに懸命に前だけを向いて生き満足げに笑って死んだに違いないのだ。
以蔵とは大違いだ。
以蔵は、恐怖と苦しみと諦念の中で死んだ。
死にとうないと暴れ、もがき、最期の最期まで無様に命乞いをし、大事だったはずの仲間たちの情報を吐き散らかした後に首を落とされた。
のろりと持ち上がった指先が、くん、と襟巻をひっかける。
その下の頸には、英霊になった今となってもぐるりとぎこちなく処刑の痕が薄っすらと残っている。
本来なら残らぬはずの傷だ。
全盛期の姿で召喚される英霊に、死因となった障りが残る道理はない。
それがこうして残っているのは、以蔵がそれだけ処刑を恐れたからだ。
苦痛を、死を、恐れたからだ。
以蔵の恐怖の象徴たる頸を巡る輪は、きっと以蔵の魂に灼きついてしまった瑕だ。
だから癒えることはないし、こうして英霊として現界する今となっても付き纏う。
これではまるで、英霊というよりも亡霊だ。
この美しく清潔なカルデアで、以蔵ただ一人が血腥い怨霊じみている。
実際今も、以蔵は龍馬への怒りという名の執着を捨てられずにいるのだから。
「マスターが厭な奴ならよかったんにのう」
小さく呟く。
マスターが厭な人間であったのなら。
己の剣の腕を捧げるに相応しくない人間であったのなら、きっとこんなにもぐつぐつと考え込む必要はなかっただろう。
呼ばれ、命じられるままに刀を振るい、マスターの敵を斬ってやれば良いだけだ。
それは人斬りと依頼人の簡潔な関係によく似ている。
だが、カルデアのマスターは厭な人間ではなかった。
仕事だと、以蔵が割り切るには良い人間すぎた。
人斬りに過ぎない以蔵を決して侮ることなく、一人の人間として扱ってくれる。
一度、以蔵はマスターを試してしまったことがある。
その日、以蔵はレイシフトのメンバーに組み入れられていた。
それを、当日の朝になって以蔵は気分が乗らん、と断ったのだ。
マスターはさてどうするか、と思った。
人を斬らない人斬りに価値がないのと同じように、戦わないサーヴァントなどカルデアに留め置く必要はないはずだ。
例えばそれが本当に不調であったのなら、まだ使いようはある。
だが、「気分が乗らん」とは。
いざというとき、本当にマスターがその力を必要とした時にまで「気分が乗らん」なんて一言で投げられてしまうのではと思えば、信用することも難しいだろう。
月の色をした双眸を眇めて、以蔵は注意深くマスターの様子を観察した。
例え微かにでも「使えない」、と侮るような落胆の色がその顔に浮かぶのではないかと思って。
だが、マスターの顔に浮かんだのは以蔵を慮る色だった。
「えっ、今日のエネミーは以蔵さんが大好きなライダークラスなのに?しかもたぶん人型だよ??? それでも気が乗らないって大丈夫? もしかして何か霊基に問題が起きてるんじゃない? ちょっとダヴィンチちゃんに看てもらう?」
以蔵に対する気安さと、思いやりのこもった言葉に思わず言葉に詰まった。
気が変わったき、付きおうちゃる、なんて用意していた言葉すら言い損ねて、以蔵はおとなしくレイシフトしていくマスターたちを見送ることしか出来なかった。
マスターは、以蔵をひとりのサーヴァントとして認めてくれていて、その上で大事にもしてくれているし、気安くも接してくれている。
その事実は酷くくすぐったく、嬉しかった。
以蔵はもとより、自分で考えて行動し、自らの身を立てるよりも誰か信じられる人のために身を尽くすことを好む質だ。
功をたてて英雄になるというよりも、英雄となる人物を陰日向に支えるタイプだ。
だから、その出来事をきっかけに以蔵は今回のマスターである青年のために出来ることを全部してやろうと思った。
それなのに。
ああ、それなのに。
―――以蔵のささやかな霊基はもう満ちてしまった。
英霊には、格がある。
純粋な強さ、というよりもカルデアで召還出来るように調整された英霊の霊基に貯め込める魔力量によってつけられた格、といったところだ。
召還されたばかりの英霊の霊基には魔力がほとんど存在していない。
カルデアからの補助があるとはいえ、この世界に血肉を纏って現界し、契約を交わすことに魔力の大部分を使い果たしてしまうのだ。
そんな英霊たちに、マスターは種火と呼ばれる形でもって魔力を注ぐ。
空の霊基に魔力を注がれることによって、英霊たちは全盛期の姿を取り戻していくのだ。
それは以蔵も同じだった。
マスターから種火を注がれ、一つ一つ素材を捧げられ、スキルの限界を開放して。
三度の再臨を経て、以蔵の霊基はあっさりと満ちた。
もうこれ以上は強くなれないのかと思うと、目の前が暗くなった。
以蔵には人斬りとして培った技術があるし、魔力量がサーヴァントの強さを決めるものではないということはわかっている。
実際に、以蔵よりも霊基の格が低い者の中でも、マスターに重用されているものは決して少なくはない。
とはいえ、霊基に貯め込める魔力量というのはいわゆる基礎体力のようなものだ。
魔力量が多ければ多いほど長く活動することが出来るし、より攻撃にも魔力による補助で威力を乗せることが出来る。
ともに並んだ戦線にて、ほぼほぼ似たような条件下だというのにそれでも戦闘続行できる者とそうでないものの差は大きかった。
わしだってまだやれる、やらしとおせ、と叫びながらも、半ば無理やり後衛に下げられるということを何度も経験した。
それが、以蔵には悔しくて仕方がない。
霊基で定められた魔力の貯蔵量というのは日々の鍛錬で増やせるようなものではない。
これはもうカルデアに召喚される際に定められたもので、どうあったとしても変えようがないのだ。
だから、この数日、以蔵はマスターからの誘いを断ることが増えている。
己を戦力として数えることは、マスターにとって危険ではないのかと以蔵には思えてしまうのだ。
生前、以蔵は護衛と暗殺者の両方の立場に立ったことがある。
圧倒的に楽なのは殺す方だ。
敵を観察し、場所、状況を選んで襲撃をかけられる暗殺者と違って、護衛というのはまさにその逆で、常に不利な状況からの逆転を求められる。
当たり前だ。
有利だと思わなければそもそも敵だって襲ってなぞ来ないからだ。
それ故に、護衛は暗殺以上に腕が問われる。
マスターの護衛もそうだ。
有象無象の敵といえど、不意打ちの類に対応しなければならないことを考えたならば、潤沢な魔力を持ち、連戦をこなせるサーヴァントを傍につける方が安全だ。
以蔵は、マスターの敵であればどんなものだって斬っちゃる、とは思っている。
純粋な腕でだけなら、他の連中に引けは取らないとも思っている。
だが、魔力量だけはどうにもならないのだ。
カルデアの真っ白な廊下、窓枠に腰かけて外を眺める。
星見台との異名を誇るカルデアだが、窓から星が見えた試しはない。
常に白々と吹雪に閉じ込められているのがこのカルデアという場所だった。
外界との気温はきっちり遮断されているはずだが、それでも窓ごしにぞっとするような冷気がほのかに伝わってくる。
「以蔵さん」
背後から、馴染みのある声が以蔵の名を呼んだ。
「おまんに用はないき、いね」
振り返りもせずに言い放つ。
はは、と柔い苦笑が返る。
真っ白な硝子の窓に、真っ白な洋装に身を包んだ男が映っている。
以蔵の年上の幼馴染であり、今では仇敵となった男、坂本龍馬だ。
顔を見れば斬り殺してやろうとぐらりと火が付く殺意が確かに以蔵の中にはあるのだが、どうしてだかそれを行動には移せないまま今に至っている。
それ故、今では冷戦状態だ。
まあ、それは以蔵にとっては、というだけで、相手の方はなんとも思っていないのか割合気軽に声をかけてきたりするわけなのだが。
「マスターがね、以蔵さんのこと、探していたよ」
「……おまんには関係ないが」
「そうだけど。今日も、レイシフト断ったんだって?」
そうだ。
今日も、以蔵はレイシフトを断った。
編成のメンツがあまり上手くはなかったからだ。
以蔵としては、最低一騎は有事に対応できる格の高いサーヴァントをマスターは連れて行くべきだと思っている。
今日のメンツの中には、それがいなかった。
以蔵に声をかける、ということはライダークラスのエネミーが想定されているのだろうということはわかる。それならば雑魚の掃討用に全体宝具を打てるサーヴァントがまずは欲しいし、耐久力の高い敵と正面から殴り合いになっても耐久できるだけのサーヴァントをマスターの傍には控えさせたい。
そう考えた時、そこに以蔵の枠はなかった。
「マスターのためにはその方がえい」
「以蔵さんのその判断は、きっと間違えてはいないんだと思うけど。なんせ、プロだしね。でも、マスターの話ぐらいは聞いてあげても良いんじゃない?」
「しわいちや」
振り返って、ぎろりと薄笑いを浮かべたままの男を睨みつける。
この男には以蔵の考えていることなどわからないのだ。
否、以蔵の気持ちなど、というべきだろうか。
以蔵だって本当ならば自らマスターを守りたい。
そのための剣だ。
以蔵は誰かのための剣となる生き方しか知らない。
剣を捧げた誰かのために人を斬る生き方しか。
その以蔵が、今は必死に自分を抑えているのだ。
マスターを生かすための最善手をそのよろしくない頭で懸命に考えて、その結果自分が一番でなければ気が済まない男が二軍で堪えているのだ。
マスターに直接以蔵に傍にいてほしいなどと言われてしまえば、せっかく抑えた気持ちが無駄になる。
もともと以蔵は我慢なんて言葉は知らないのだ。
知っていたら、あんな末路をたどることはなかっただろう。
それが自分でもわかっているから、以蔵はあえてマスターと距離を取っている。
「おい、リョーマ」
すぅ、と突如、虚空から染み出すようにして幼馴染の男の背後に人の姿が現れた。
すらりとした細身の少女のようにも見えるが、その足は地についておらず、ぷぅかりと空中に浮かんでいる。
いつの間にか幼馴染に憑くようになったまつろわぬ神の一柱であり、幼馴染の宝具でもあるお竜だ。
「マスターの方の準備はできたぞ」
「ありがとう、それなら以蔵さんの方もお願い」
「全くなんでお竜さんがクソ雑魚ナメクジなんか」
「頼むよ」
「リョーマの頼みとあれば仕方ない。後でお竜さんにカエルをたんまりご馳走してくれ」
「おい」
何か勝手に不穏な会話が進行していた気がした。
が、以蔵が何か言うより先に、ふよりと宙を泳いだお竜が無造作に以蔵に接近し、その襟元をひっ掴む。
たおやかな少女の白く、華奢な腕のようにしか見えないのに、いともあっさりと以蔵の身体が宙に浮き、全体重が襟元にかかってぐいぐいと絞まる。
「な、なんじゃああああ!?」
「マスターがお前に話があるそうだ。覚悟を決めて話してこい。あと暴れると首が絞まるぞ」
「離さんかこのスベタァアアアア!!」
「はは、ごめんね、以蔵さん」
ぎゃあぎゃあと盛大にわめきつつ。
以蔵はお竜の手により、強制的にマスターの私室へと放り込まれることになったのだった。
■□■
人類最後のマスターというのは、子どもの顔をしている。
今もどこか申し訳なさそうにベッドに座る青年は、悪戯をした後に呼び出された悪ガキのような顔をしている。
なんの苦労もしたこともなさそうな顔だ。
愛されて育った顔だ。
だが、以蔵はその青年がそれだけではないことを知っている。
人理などというよくわからないものを取り戻すために戦いに身を投じ、何度も死地に飛び込み、多くの出会いと別れを繰り返してきたのだと知っている。
それでも、こうしてカルデアの中で日常に身を浸すマスターは、どこか無垢で幸せな子どもと同じ顔をしている。
「…………」
「…………」
そんなマスターと、以蔵はしばし無言で見つめあっていた。
お竜によって乱暴に放り込まれたままの床で、以蔵は溜息交じりに胡坐をかく。
以蔵と話がしたいと望んだのはマスターだろうが、それこんな形で叶えた実行犯の二人はといえば、「しっかり話し合った方といいよ」だとか「いえーい、お竜さん大手柄ー」、なんて大変無責任な言葉とともに既に退場した後だ。
これが終わったら後でぶった斬っちゃる、と心の中で決意しつつ、以蔵は覚悟を決めてマスターへと声をかけた。
「で、わしに何の用じゃ」
「ええと、その。最近ほら、以蔵さん、あまりレイシフトに付き合ってくれないじゃないですか」
「どいて敬語なんじゃ」
「緊張してるからだよ察してよ」
察したので(察せてない)以蔵はとりあえず黙る。
こうして改めて話がしたい、と言われると腹の底がひやりと冷えるような心地がした。
最近の以蔵は、マスターへの編成の助言という形では協力できていたかもしれないが、純粋に戦力としては役に立っていない。
頭の良くない以蔵の助言などマスターにとっては要らぬ世話だろうし、そもそも敵を斬らない人斬りなどカルデアに抱えていてもいわゆる不良在庫というやつだろう。
座に還ってほしい、と切り出されることを覚悟して、以蔵はやわりと目を伏せる。
きっとこのマスターなら、そんなときでも真摯に言葉を尽くし、役立たずである以蔵ですら無碍には扱わないのだろうと思う。
その優しさと真心に触れられただけでも、ここに来て良かったな、と思う。
良き主に出会うことが出来た。
酷く穏やかな気持ちで、以蔵はマスターの次の言葉を待つ。
「以蔵さんは、いつも俺のことを考えて、編成にアドバイスをくれるけど。俺は、以蔵さんと一緒に戦いたくて。だから」
まっすぐに顔を上げたマスターが以蔵を見据える。
そして、何か手にしていたものを以蔵に向けて、差し出した。
「これ、受け取ってほしいんだ」
「は、……はあ!?」
以蔵は思わず大きく息を呑む。
差し出されたマスターの手の中には、小さな金の器があった。
決して派手ではないシンプルな器だ。
それでいてつやりと光を弾く黄金は美しく、人の目を惹きつける。
見目だけの問題ではない。
いっそ妖しいほどにつややかな黄金からは、膨大な魔力の気配が滲んでいた。
――聖杯。
万能の願望機とも呼ばれるそれは、英霊に与えることでその霊基を拡張することが可能になると言われている。
本来不可能であるはずの霊基への大幅な干渉を可能とするのだ。
確かにその聖杯があれば、以蔵の霊基の格は上がる。
溜め込める魔力の量も増えるし、そうなれば格上のサーヴァントたちと並んでマスターと共に戦うことも出来るだろう。
だが。
それは、そう簡単に以蔵などに与えて良いものではないということも以蔵にはよくわかっていた。
それは、マスター達がこれまで戦ってきた証だ。
特異点を一つ修復し、人理を修復する度に手に入れてきた大事なものだ。
他の素材のように、足りなくなれば戦って手に入れることが出来る、というようなものではないのだ。
「そがいなもん、わしは受けとれんちや!」
以蔵は首を横に振る。
血に汚れた人斬りなどではなく、清廉潔白に正しく生き、正しく今も人理を救わんとマスターに協力するうつくしい英雄たちにこそ与えられるべきものだ。
「俺は、以蔵さんに受けとってほしい」
「どいてじゃ!? わしなんかよりもっとえい英霊がマスターにはおるじゃか!」
「俺は、以蔵さんが良いんだ。以蔵さんは自分は頭が悪いって言うけど、以蔵さんのアドバイスのおかげで命拾いしたことだって少なくないんだよ」
以蔵の心配は杞憂で終わることもあった。
何事もなく終わり、これなら以蔵さんに来てもらっても良かった、と思うような日も。
けれど、そうじゃないこともあったのだ。
以蔵のアドバイス通りに編成を変えていたおかげで、不意の敵襲をかいくぐり、無事に皆で生還することが出来た、というような事が。
「だから、以蔵さんにも戦地に一緒に来てほしい。魔力不足が不安要素だっていうなら、それを解消するのがマスターである俺の仕事だと思ってる。だから、受け取って欲しいんだ」
「ッ……」
マスターの双眸はまっすぐに以蔵を見つめている。
以蔵を信頼し、頼る目だ。
それになんだか、以蔵は息苦しくなってしまって目をそらした。
頼られ、認められ、必要とされることを何よりも望んでいたはずなのに、今こうしてマスターから差し出される聖杯がとんでもなく恐ろしいものであるように思えてならないのはどうしてなのか。
知らず、以蔵は腰を浮かしてじりと逃げるようにいざっていた。
「以蔵さん?」
訝し気に以蔵の名を呼んで、聖杯を手にしたマスターが一歩、以蔵へと距離を詰める。
また一歩、じたりと逃げた以蔵の顔色は蒼褪めて悪い。
マスターを思いとどまらせるためにも何か言わなければと思うのに、以蔵には何故自分が聖杯をこれほどまでに恐れるのかがよくわからない。
自分自身の感情だというのに、それがどこから来るものなのかがわからないのだ。
わからないから、余計に怖い。
「っ、……、やめとぉせ、後生じゃき」
「無理強いはするつもりはないけど……どうしてそんなに嫌がるのか、聞いても良い?」
以蔵さんなら喜ぶと思ったんだけどなあ、とマスターは眉尻をへにゃりと下げる。
きっと、優しいマスターは以蔵が喜ぶと思っていたのだろう。
より強くなれると喜んでくれる、と。
そんなマスターの思いやりを無碍にしてしまったのだと思うとますます以蔵は恐ろしくなってしまって、考えるより先に口を開いてしまっていた。
「わしは、裏切りモンじゃき。そがいなわしに大事なもん、使うちゃいけん。使うちゃいけんのじゃ」
一息にそう言って、それから以蔵は「あ」と小さく声を上げる。
自分が何を言ったのかを理解して、初めて以蔵は自分が何を恐れているのかを自覚したのだ。自覚、してしまった。
「わしは……、わしは…………」
真っ青に蒼褪めて、以蔵は小さく震える手を握る。
生前、苦痛に負けて売った仲間たちのことを思う。
思えば以蔵は多くの命を奪ってきたが、それは敵だけに限らなかった。
以蔵はその最期に、多くの仲間すら道連れのしてしまったのだ。
頭の悪い己は自ら考えて動くのではなく、信じた誰かに剣を捧げ、その人物の刀として敵を討つだけの人斬りになろうと思った。なったつもりだった。
以蔵にとってはその人がすべてで、その人の言うことだけが全て正しくて、その人の言う通りにさえしていれば間違いはないはずだった。
その人から与えられた人斬りとしての評価こそが己の価値のすべてだと信じ、拠り所として縋っていたのに、以蔵は苦痛と孤独に負けてその価値を投げ捨ててしまった。
全てを委ねたはずのものを裏切ってしまった以蔵には何も残らなかった。
からっぽだ。
信じたもののために身を尽くしたはずの一生を自分自身の弱さでもって否定して、何がなんだかわからなくなって、それで――
――龍馬を、憎んだ。
ぜんぶ、龍馬がわるい。
傍にいてくれなかった龍馬がわるい。
自分を置いていった龍馬がわるい。
龍馬が傍にいてくれたなら、きっとあんな風にはならなかったのに。
悪いのは、龍馬だ。
ぜんぶぜんぶ、龍馬のせい。
龍馬がわるい。
そうじゃなかったら、
ぬらぁ、と聖杯が不穏な光を放った。
安定を喪った以蔵の霊基に呼応するようにちかりちかりと聖杯が瞬く。
「ッ、駄目だ以蔵さん!」
マスターは慌てて聖杯を手にした腕を引いて以蔵から遠ざけようとするが、それよりも早くまるで聖杯自体が意志をもつようにしてその手の中からまろび出る。
そのまま聖杯は、呆然と山吹色の双眸を瞠って恐慌状態に陥っているような以蔵の胸の中へとスゥと呑まれていく。
「以蔵さん!」
「以蔵さん! マスター!」
騒ぎを聞きつけたのか、それとも異常反応を見せる聖杯の気配に気づいたのか、ドアが開いて龍馬とお竜が部屋へと飛び込んでくる。
幼馴染でもある仇敵でもある男の姿に、虚を抱えてぼんやりとしていた以蔵の双眸がゆっくりと瞬く。
膨れ上がる魔力反応に、龍馬は顔を顰める。
「お竜さん、マスターを安全なところに!」
「リョーマ、お前は!」
「僕は、」
以蔵を見る。
まるで、置いてけぼりにされた子どものように悲し気で、途方にくれたような金色の瞳が龍馬を映していた。
「りょおま」
舌足らずな声音が龍馬を呼ぶ。
そして、膨らみ切った膨大な魔力が爆発した。
■□■
立ち眩みにも似た一瞬の意識の断絶を経て、ふと気づくと龍馬は河原に佇んでいた。
さらさらと水が流れる音がする。
足元に敷き詰められるのは、川を転がるうちに角が取れて丸っこくなった石だ。
見上げた空は高く蒼く澄んでいて、からっとした気持ちの良い天気だ。
それでいて吹き抜ける風は涼を含んでいて爽やかだ。
空を行く見知らぬ鳥が、チチチ、と鳴く声が長閑に響いた。
「お竜さん?」
呼びかけに応える声はない。
なるほど。
先ほどまでカルデアにいたことを考えれば、どうやら龍馬は強制的に単独でどこかに飛ばされてしまったらしかった。
お竜が傍にいない、つまりは宝具が使えないということに対する焦りと同時に、邪魔されずにすむ、というような安堵も覚えてしまう。
そう。
龍馬はここがどこなのかをなんとなく察していた。
じゃり、と石を踏む音がする。
顔をあげれば、ほら。
そこには、襤褸を纏った以蔵がゆぅらりと片手に抜き身の刀をぶら下げて立っている。
そうだ。
ここは、以蔵が首を落とされた場所。
最期を迎えた場所に違いないのだ。
そう改めて近くした瞬間、どろりと世界が溶け落ちるように歪んだ。
澄んだ蒼空は禍々しく血色に染まり、足元に敷き詰められていた丸っこい小石は白く踏み砕かれた人骨へと変わる。
爽やかに香った夏の風も、今は鉄錆めいた血臭を運ぶだけのものへとなり果てた。
「以蔵さん」
「どいて……どいて助けてくれなかったんじゃ」
「……ごめんね、以蔵さん」
りょうま、りょうま、と助けを求めるように己の名を呼び、啜り泣く声が河原に響く。助けとぉせ、といじめられた子どものような泣き声が切々と胸を打つ。
助けられるものなら、助けたかった。
けれど一度差し出した手は振り払われ、その後は機会を失った。
そして龍馬が目の前のことに追われ、余裕なく走り続けている間に以蔵は罪人として首を落とされた。
そのことを、龍馬は手紙で知った。
幼馴染の最期を、乾いた墨の綴る簡素な白黒の紙切れによって知らされた。
目的のために自分が何を犠牲にしたのかを突きつけられたのはその時だ。
もう二度と会えないし、もう二度と助けることもできない。
以蔵さんが落ち着いて話を聞いてくれるようになったら、だとか。
もう少し近辺が落ち着いたら、だとか。
そんなことはもう永遠に二度と起こりえないのだと突きつけられて目の前が端からほの暗く染まった。
獣のような慙愧の声を上げたのを覚えている。
がりがりと畳をかきむしり、喉が枯れるまで泣いたのを覚えている。
喪ったものの痛みを抱えて、こんなにも大事なものを喪ってまで願った夢なのだからと龍馬は最期まで全力で駆けた。
きっと、自分は間違えてなかった。
龍馬が目指した理想は正しかった。
龍馬のしたことは皆の幸福の礎となった。
けれど、取りこぼしてしまったものがある。
大多数の幸福を夢みて、一番守りたかったはずの誰かを傷つけ、見捨ててしまった。
だから、その誰かが龍馬を憎み、殺そうとするならばその刃を受け入れるのも龍馬の役目なのだ。
抑止の英霊となった龍馬に、もはや死は訪れない。
死ぬほどの苦痛も、死にたくなるほどの絶望も、もはや龍馬を殺してはくれない。
此度の現界が潰えたとしても、座に還るだけだ。
それに、今は龍馬はカルデアのサーヴァントだ。
一度カルデアと縁を結び、マスターとの契約を済ませた龍馬の霊基はカルデアにより保管され、護られている。
通常であればここで以蔵に殺されたとしても、カルデアに戻るだけで済む。
ここが通常じゃない場所だったとしても、まあいいかな、と龍馬はぼんやりと思って口の端に苦笑を乗せた。
マスターやお竜にはすまないことをする。
だけど、きっと二人なら許してくれるだろう。
マスターには龍馬の他にもたくさんの素晴らしい英霊たちがついている。
きっと彼らは龍馬の分もマスターを支えてくれるだろう。
お竜は……きっと、すごく怒る。
だけども、なんだかんだ龍馬に甘いお竜は、すごく怒るだろうが、それでもリョーマは本当に仕方がないな、と言いつつ次の召喚まで一緒に座でおとなしく待ってくれるはずだ。
そう算段をつけて、龍馬は眉尻を下げて緩く眼前の以蔵へと笑いかけた。
「僕が憎いなら、斬ればいい。……えいよ、以蔵さん」
彼にはそれをする権利がある。
彼を助けなかった薄情な幼馴染を斬り殺す権利がある。
「ほうか」
返事は短かった。
ごうと燃えるように目の前に相対する以蔵の霊基の質が変わる。
うねるように伸びた髪は血の色をして赤く、目深に被った破れ笠から覗く眼もまた赫々と燃えている。
きっとあれは龍馬への怒りに燃えているのだ。
轟轟と憎悪に燃えている。
そのあかを、痛ましくもうつくしいと思ってしまった。
ゆらりと赤い影が傾いだと思った次の瞬間には、以蔵の姿が掻き消える。
恐ろしいほどの速度で踏み込み、こちらの懐に飛び込んできたのだと気づいたときには――もう目の前にいた。
■□■
ただただ悲しくて苦しくて助けてほしくて「りょうま」と大事な名を呼んだ。
龍馬なら自分を見捨てるはずがないと信じてその名を何度も呼んだ。
それなのに、いざその名の持ち主が目の前に現れた時には喜びよりも先に怒りがその心を塗りつぶした。
何が維新の英雄じゃ。
わしのことは助けてくれんざった癖に。
わしを見捨てたくせに。
「龍馬ァアアアアア!!!」
吠える。
腹の底でぐつぐつと燃える怒りを吐き出すように、吠える。
殺す。殺す。
絶対に殺す。
この男だけは許してはいけない。
怨嗟の咆哮を上げる。
内側で膨らみ切った殺意が喉を塞ぐように苦しくて、がりと片手が喉をかきむしる。
首元を覆う襟巻を引き剥ぐと、少しだけ呼吸が楽になったような気がした。
頸を不格好にぐるりと巻く歪な傷痕に、対峙した男は静かに息を呑んだようだった。
悲し気に、痛まし気に切れ長の涼やかな双眸が伏せられる。
が、それは一瞬。
すぐにその黒色の双眸は持ち上がって真っ直ぐに以蔵を見た。
厭になるほど真っ直ぐな眼だ。
「僕が憎いなら、斬ればいい。……えいよ、以蔵さん」
すっきりとした白の洋装を身に纏い、凪いだ黒の双眸が穏やかに笑っている。
全てを受け入れた目だ。
諦念に侵され、その身を投げ出すような受容でなく。
鋼のような意志でもって死の痛みを受け入れようとする男の眼だ。
銃と刀と、二種の武器を携えていながら、この男はきっと最期の瞬間までそのどれもに手を伸ばすつもりはないのだろうということが以蔵にはわかった。
いつかどこかの一幕を思い出す。
『な、なんで避けんがじゃ、龍馬!?』
振りぬいた刃が届いてしまったことへの驚愕と、恐ろしいことをしてしまったという悔恨と、自分にそんなことをさせた龍馬へとの怒りと。
ああ、そうか。
ぼんやりと以蔵は思う。
これが、新たに召び出されたカルデアでも龍馬を斬るのを躊躇った理由だったのか。
以蔵は、既に経験していたのだ。
この男を斬ったところで何も変わらないどころか、ますます気持ちが塞ぐばかりだということを。
ふつ、と新たな怒りが以蔵の中に芽生える。
この男は。
この男だって。
あの時のことを覚えているはずだ。
それなのに、この男はそれを二度も繰り返そうというのか。
以蔵に、あの厭な気持ちを、やり場のない靄々を再び味わわようというのか。
ふつ。
ふつふつ。
新たに煮立った怒りに坂本龍馬という男に見捨てられたことへの怒りは塗り替えられたような気すらした。
「ほうか」
短く、息を吐く。
そして、ぱきぱきと白い骨を踏み砕いて以蔵は軽やかに前へと踏み込んだ。
迎える男は、微かに笑ったようにすら見えた。
眉尻を情けなく下げて、それでいてどこか嬉しそうにすら。
まるで遠いいつか、りょうま!と無邪気にその名を呼び、飛びかかった以蔵を抱きとめてくれた時のように。
ゆるうく開かれた腕。
その中に飛び込んで―――以蔵は。
ぐん、と仰け反って、そのまま全力の頭突きを、キメた。
■□■
ごわん、と何かすごい音がした。
目の前に星が散る。
足元がぐらぐらとして立っていられなくなって、とすんと尻もちをつく。
己を一刀両断のもとに斬り捨てるのだと思った人斬りは、ふーふーと荒い息をつきながら、へたりこんだ龍馬を見下ろしている。
「い、以蔵さん……?」
「じゃかあしい!」
「ええええ……」
呆然と見上げるしかない龍馬を見下ろす以蔵は、未だ苦し気だ。
猫の仔が親を呼ぶような甘えた声音で、縋るように「りょうま」と呼んでは、憎々し気に殺すとつぶやいては頭を左右にする。
その度に、ばさりばさりと鮮やかな緋色に染まった長い髪が跳ねる。
「以蔵さん」
葛藤するように苦しむその姿が見ていられなくて、龍馬は以蔵を呼ぶ。
「いいんだよ、そんなに苦しいなら、僕を斬ってくれ」
「あ、アアア、ああああ」
がり。
苦し気にまた、以蔵の手が首を掻く。
既にその首元を隠す襟巻はない。
どぷりとぎざぎざと歪んだ首の切り取り線から泥のような血が零れる。
「にくい、りょおま、おまんがわしは死ぬほどにくい」
「うん」
その憎悪を受け止めるつもりで頷くのに、重ねて以蔵が口を開く。
「わやに、すんなや……ッ」
「以蔵、さん?」
月色の双眸に宿るのは壮絶な色合いだ。
霊基に刻まれた怒りと恨みすら塗り替えるような、鮮烈な怒りの色。
研ぎ澄まされた刃のような殺気を向けられてなお、その瞳の色合いの美しさに龍馬は惹かれて仕方がない。
「りょおま」
「うるさい」
「りょおま」
「しわい」
「りょお、」
ぶつぶつと、それは独り言のような。
目の前にいる以蔵は一人であるはずなのに、その中にまるでいくつもの人格があるかのような不安定さに、見ている龍馬の方が不安を掻き立てられる。
まるで内側から壊れてしまいそうだ。
このまま以蔵が壊れてしまったら――…どうなるのだろう。
壊れた霊基すら、カルデアの契約は修復することが出来るのだろうか。
それとも。
もしも。
万が一。
壊れた状態で、座に戻ってしまったら。
『壊れた』霊基の記憶が、座にいる以蔵すらを毒してしまったのなら。
そんなのは、耐えられない。
ぞわぞわと背筋を走る冷たい予感に、龍馬は鋭く叫ぶ。
「以蔵さん、えいからはようわしを斬れ!」
それで気が済めば。
否、それで気がすまなくとも。
少しでも以蔵の気をそらせるならそれでよかった。
以蔵が落ち着くまで、何度だって殺されてやろうと思った。
どうせカルデアに帰るだけなのだ。
例え座に戻ったとしても、以蔵が己を殺したがっているのなら。
己を殺すことで壊れゆく自我を引き留めることが出来るのならば、何度だって押しかけて殺されてやるつもりにすらなった。
■□■
はようわしを斬れ、なんて言葉にますます以蔵の怒りは燃え滾った。
このやろう。
人の気もしらんで。
おまんを斬ってわしがどんだけ厭な思いをしたかなんて知らんのじゃ。
そういうところじゃ坂本竜馬。
わしはお前のそういうところが、一等にくい。
は、と短く息を吐く。
暴走した聖杯は、轟轟と以蔵の霊基に刻まれた怒りを燃やしている。
坂本竜馬という男に対する怒りを、囂々と燃やしている。
怒りは以蔵の身体を突き動かして、今にも目の前の男を引き裂こうとしている。
以蔵の負けず嫌いがぐぐっと頭を擡げる。
利かん気に火がつく。
その炎はいつしか、めらめらと鮮やかに憎悪を凌駕して。
以蔵は、まっすぐに龍馬を睨み付けた。
■□■
「わしは、な」
しわがれた声が呻くように言う。
金の双眸はいっそ怖いほどに美しく。
ああそれは。
いつも、子どものころ、以蔵が何かとんでもないことをやらかすときの眼の色だ。
龍馬を泣かせたいじめっこに仕返しにいっちゃる、と言い出した時も。
とんでもない悪戯を思いついた時にも。
同じ目の色を、していた。
厭な予感に背筋がぞわぞわと震える。
「えいか、わしが、げにまっこと憎いのは」
「いかん、以蔵さん、それは」
それ以上、言わせてはいけない。
させてはいけない。
きっと、以蔵は何か恐ろしいことをしでかすつもりだ。
やらかすつもりだ。
「ッ!」
龍馬は以蔵の手にした刀へと必死になって手を伸ばす。
以蔵がしようとしていることをなんとしてでも止めたかった。
■□■
本当に、腹を立てていたのは。
龍馬と同じものを見ることのできなかった自分自身の愚かさだ。
本当に憎んでいたのは、自らの信念に泥を塗り、自分自身を貶めた己の弱さだ。
頭が悪いからといって、自らの剣を預け、道具として人斬りとしてあることに自らの価値を求めたくせに、最期の最期に以蔵は苦痛と孤独に負けた。
そしてそんな自らの弱さすら、龍馬がそばにいてくれなかったから、と。
龍馬が助けに来てくれなかったからと、幼馴染のせいにした。
だから。
以蔵が本当に、本当に、大嫌いで、殺したいほどに憎いのは。
■□■
「――わし自身やき」
「以蔵さん!!」
龍馬が止めるよりも先に、以蔵の腕が薙ぐ方が早かった。
一体どれほどの覚悟があれば、どれほどの胆力があれば、自らの首を斬り落とすなんて凶行が可能になるというのか。
鋭い太刀筋は、一寸過たず見事に以蔵の頸を斬り落とした。
ごろん、と落ちた生首を龍馬は呆然と受け止める。
腕の中で、生首は龍馬を見て笑ったようだった。
「ざまぁ見ィ」
悪戯の成功した子どものような、顔だった。
その二つに分かたれた身体が、光の粒子となって空に溶けていく。
紅く、黒く、白く、地獄のような様相を呈していた世界が再び姿を変える。
青空は澄んで冴え渡り、風からは緑の香りがする。
抜き身の刀をぶら下げた過去の怨霊のような男も、ごろりと落ちた生首も、何もかもがまるで夢のように消え失せていた。
は、と龍馬は息を吐く。
いぞうさん、と声にならない声で呼ぶ。
「そういう、ところぜよ」
本当。
意地だけで、恐ろしいことを平気でやり遂げてしまう。
まるで恐れを知らない子どものような。
痛がりで怖がりのくせに、変なところで思い切りが良くて、後でべそべそ後悔する癖に、それでも意地を張ってなんちゃあない、なんて言う。
河原に落ちたままだった中折れ帽を拾って頭に乗せる。
そこで、世界は静かに崩れ落ちた。
■□■
ゆっくりと、以蔵は目を覚ました。
ぱち、ぱち、と何度か瞬く。
酷く悪い夢を見たような気がする。
その一方で、妙にすっきりしたような気もしている。
身じろごうとして、身体が自由に動かないことに気づいた。
もしや首をすっ飛ばしたせいで、未だ胴と頭が泣き別れでもしているのだろうかとぞっとしないことを想像して顔を顰める。
が、そろりと確かめてみたところ手指の感覚はしっかりあるし、何なら動かすことも出来る。
「……おん?」
首をかしげる。
そろっと身体を起こそうとして、どうやら己が頬を寄せているのが白く清潔なシーツなどではなく、誰か人の胸であることに気が付いた。
厭な予感に軋むような動きで首を持ち上げれば、そこには案の定幼馴染の顔がある。
どうやら以蔵は、壁に背を預けて座る龍馬の腕の中にがっちりと捕縛されているようだった。
思わず「はあ!?」と声をあげかけるものの、己のやらかしたことを思い出せば起こしてはまずいと堪える。
たぶん、文句を言われる。
たぶん、怒られる気がする。
伊達に幼馴染をしてはいないのである。
見上げた男の切れ長の双眸の目元は赤く腫れ、明らかに泣いたのがわかる状態だ。
涼やかな男前が台無しだ。
思えば昔から、この坂本龍馬という男は泣き虫だった。
姉に叱られたといってはべえべえ泣き、いじめられたといってはべえべえ泣いた。
そんな彼が泣かなくなったのはいつの頃だったろう。
久しぶりに見た泣き顔に、この泣きみそが、なんぞとぼやいたところで背後から声がかかった。
「起きたのか、クソ雑魚ナメクジ」
龍馬の腕の中でなんか首だけ捻って背後をみやれば、壁からお竜が首だけ突き出しているところだった。
「……なんじゃ、蛇女か。状況がわからん、しゃんしゃん説明せえ」
「マスターがお前に聖杯を与えようとして暴走した。それは覚えてるか」
「おん。覚えちょる。なんじゃ、夢じゃなかったがか」
「……ユメみたいなもんだ」
「で、なんでこがなことになっちょる」
問題はその後だ。
その夢の内容なら、以蔵だって知っている。
なんせ当人だ。
だが、その後のことはわからない。
以蔵の記憶は、当然ながら自らの頸をさっぱと斬り落としたところで終わっている。
「お前が悪い」
「わしが何をしたというんじゃ」
「リョーマの眼の前で死にやがって」
「……おまん、見ちょったのか」
「お竜さんは無敵だからな。手出しはできなかったが見てはいたぞ」
「そか。ってそれはえい。わしが聞きたいのはどいてこがなことになっちょるかがじゃ」
すやすやと寝入っている癖に、以蔵を抱きしめる男の腕はまるで万力のようにしっかりと捕らえていてどうにも逃げ出せそうにない。
いっそ叩き起こしてでも離させるべきかなんて思案しているところでぽつりとお竜が口を開く。
「……お前が死んで、お前が聖杯を暴走させて作った世界は壊れた。それで、リョーマもお前もこっちに戻ってきたんだ」
「ほにほに」
そういえば、そういう仕組みだった、と思い出す。
レイシフトした先で一時的にダメージを負って肉体を保てなくなったとしても、以蔵らカルデアのサーヴァントはカルデアから供給される魔力でもって座に還ることなく再びカルデアにて肉体を再構成される。
お竜の言う通りあれが夢なのかどうかはわからないが、あそこが何であれ、あそこで死んだ以蔵はここに戻ってきたのだ。
「……リョーマは」
「おん?」
「お前に誰も近づけさせなかった」
「…………」
お竜は思い出す。
いつもは凪いだ色を浮かべる黒の双眸に、獣じみた獰猛な色を浮かべ、それでもなんとか必死に理性の手綱を取って、「悪いけど、今は二人にしてくれる?」と駆け付けたマスターやそのサーヴァントたちに言い放った龍馬の顔を。
あんな顔、見たことがなかった。
お竜ですら、背筋がぞわりとするような顔だった。
いつもの飄々とした余裕をかなぐり捨てて、ぐったりと意識のない以蔵の身体を全身で庇うように抱きしめて、誰も近づけさせまいと殺気立つ姿は手負いの獣めいていたのだ。
だというのに、龍馬にあんな顔をさせた張本人である以蔵はといえば、なんとものんきな表情でぼりぼりと頭をかいている。
「……クソ雑魚ナメクジめ」
「何か言いゆうか」
お、やんのか、と凄むガラの悪い声にフン、とお竜は息を吐く。
「お前はもう少しリョーマの抱き枕になってろ」
それだけ言ってお竜はすっと壁からひっこんで見えなくなる。
逃げよったかあのスベタ、なんぞと毒づきつつも、改めて以蔵は息を吐く。
こんなにもぎゅうぎゅうと力任せに抱きしめられては、口からモツが出そうである。
「おい、龍馬、このべこのかあ」
起きんか、と龍馬の胸を叩く。
「ん……」
微かに龍馬の睫毛が震え、やがってゆっくりとその瞼が持ち上がった。
「以蔵、さん……?」
「……おう」
信じられないというように瞠られた黒の双眸にじわりと薄く水の膜が張る様に言葉に迷った結果、以蔵はただ頷くような短い返事を返すだけに留める。
「以蔵さん……!!」
「ぐえッ」
鯖折りにでもする気か、という勢いで抱きしめられて以蔵は呼気を絞りだされて呻く。
この男はわしのことをぬいぐるみか何かと勘違いしちょるんじゃえいか、などと思いつつ抗議の意をこめて遠慮なく以蔵は龍馬の胸を殴る。
パリっとした白の洋装に身を包んだ幼馴染は細身の優男であるように見えていたわけなのだが、こうして抱きしめられてみると厭になるほどにその胸板は厚く、以蔵をその腕の中に収めてしまえるhおどの体格が良いことがわかる。
なんとなくそれも以蔵の面白くなさに拍車をかけて、以蔵はケ、と息を吐いた。
ようやく背を抱きしめていた腕が緩んで腰のあたりまで落ちたのに一息ついた心地で、改めて以蔵は龍馬を見やる。
もともと下がり気味の目元をへにゃりと眉ごと下げた幼馴染は、まさに泣きべそ、といって差し支えのない顔をしていた。
「おまん、何ちゆう顔をしとるちや」
「以蔵さんが、あがいなことするからやき。阿呆。ばあたれ。べこのかあ」
「喧嘩うっちょるがか、おまん」
半眼で呻くが、返事はぐすぐすと鼻を啜る音だった。
なんだかなあ、と以蔵はため息をつきたくなる。
殺すぞと脅しても、実際刀を抜いてみせても、「えいよ」と穏やかに凪いだ眼で受け入れてみせた男が、己が首を斬り落としたことに対してこんなにも動揺して見せているという事実が妙に尻の座りが悪い。
きっとこの男は、いつか、以蔵が河原で果てたことを知ったときにもこんな風に泣いたのだろうな、と思ってしまった。
「……泣きみそ」
「以蔵さんが意地悪するきちや」
「おまん、土佐言葉が出ちゅうぞ」
「……、」
すん、と哀れっぽく龍馬が鼻を啜る。
「えい加減離しぃ、わしはマスターのとこに行かんと」
「それなら僕も一緒に行く」
「そがな顔でか」
「……顔洗うからちょっと待ってて」
ようやく龍馬が解放してくれたもので、以蔵はよっこらせ、と立ち上がる。
そこでふと、思いついたことがあった。
「龍馬、鏡はあるが?」
「あるよ、ほら、そこに」
壁にかかった鏡を示されて、以蔵はその前に立った。
しゅるりと首を巻く襟巻を解く。
少し見上げる角度で、反った頸を確かめる。
それからふふん、と笑った。
「以蔵さん?」
「見てみィ、龍馬」
頸をぐるりと一周する紅い傷跡。
それは、すべらかに、まっすぐに。
一本のラインとしてなめらかに首をつるりと覆っている。
「やっぱりわしは剣の天才じゃな。まっこと見事なもんちや」
「…………!」
そう言って悦に浸る以蔵の隣で、何か恐ろしい光景を思い出したのか龍馬の双眸からブワッと再び涙が噴き出した。
そんな龍馬の反応に以蔵はギョッとして三度見したりなどしていたわけだが、結局「男がぴいぴい泣きなさんな! しゃんとせえ龍馬!」なんて言いつつ蹴りを入れることになる。
「ほら、マスターのところに行くんじゃろうが」
あいた、と小さく悲鳴をあげる龍馬の手を取って、以蔵はずんずんと部屋を出る。
結局顔を洗うことすらしていないものだから、龍馬はわりと酷い顔をしたままだ。
それでも、おとなしく手を引かれている。
「…………」
己の手を引いて真っ白な廊下をずんずんと歩いていく以蔵の後ろ姿を見ながら、龍馬は思う。
もしかしたら、最初から素直に泣いてしまえばよかったのかもしれない、と。
子どものときからいつだって、この年下の幼馴染は龍馬が泣いてしまうと甘かった。
ボロクソに文句を言いながらも決して龍馬を見放さず、なんだかんだこうして手を引いて歩いてくれたものだ。
いつしか二人とも大人になって、道を違えて。
龍馬は、泣かなくなった。
自ら選んだ道の果てに得た結果を嘆くのは筋違いだと思ったからだ。
どんな痛みも、自らが選び取ったものであるのならすべて受け入れようと覚悟を決めたからだ。
だから、以蔵に対してもその怒りは正当なものだと思っていたし。
きちんと受け止めるつもりで、斬られるつもりでいた。
それで以蔵の気が済むなら、と。
けれどそもそも以蔵は本当にそれを求めていたのだろうか。
本当に、以蔵は龍馬を殺したかったのだろうか。
『な、なんで避けんがじゃ、龍馬!?』
帝都での悲痛な叫びを思い出す。
刀を振るって龍馬を肩口から袈裟斬りにした癖に、以蔵はまるで自分の方が酷いことをされたかのような顔をした。
事実、きっと龍馬は以蔵の怒りの受け止め方を間違えてしまったのだ。
「以蔵さん」
「何ちや」
「もう、あんなことはせんといてね」
「…………」
ちらり、と以蔵の月の色をした瞳が龍馬を振り返る。
その顔に浮かんだのは、へっ、と何故か得意げなガキ大将めいた笑みだった。
