その日は空があんまりにも蒼かったもので、龍馬は何か厭な予感がしたものだ。
悪いことが起きる日というものは、いつだって空がやけに綺麗だ。
「龍馬、何をぼーっとしちゅう」
「ああ、以蔵さんか」
背後からかけられた声に、龍馬が振り返るより先に声の主がどすりと龍馬の隣に腰を下ろす。
幼馴染の以蔵だ。
隣り合った家でまるで兄弟のように育った仲だ。
他人に対してはパーソナルスペースを広くとりがちな以蔵だが、龍馬に対しては家族以上に近い距離を許す。
それこそ互いの吐息が触れ合うような距離にまで龍馬が顔を寄せたとしても、以蔵は平然と「何じゃ」と返してその頭をわしゃりと乱暴に撫でる程度には。
「以蔵さん、プール掃除は終わったの?」
「終わった」
龍馬の問いに、途端に以蔵は嫌そうに顔を顰める。
その様子に、龍馬は喉をくつくつと鳴らして笑った。
「だから、課題はちゃんとやっといた方がいいよ、って言ったのに」
「部活で忙しかったんじゃ」
ぶすくれた様子で言いつつ、以蔵はぱきりと手にしていたアイスを半分にわけると片方を龍馬へと差し出した。
おそらく、プール掃除の褒美として配給されたものだろう。
そもそも課題をサボった罰としてのプール掃除であったはずなのだが、それでも炎天下のもとで丸一年寝かされ、放置され続けたプールの掃除なんていう大仕事をやり遂げた生徒に対しては何かしらの褒美があってしかるべきだと監督役を務めた教師が判断したのだろう。
プール掃除を終えて真っ直ぐここにやってきたのか、以蔵は制服のズボンの裾を膝丈に折ったままだ。
折られた制服の裾からにゅっと伸びるのびやかな脛や、まるっこい膝小僧を見るのはずいぶん久しぶりなような気がして龍馬はほそりと双眸を細める。
もう時分幼い頃は、半ズボン姿で駆けまわっていた以蔵だったが、中学に上がる頃合いからはハーフパンツや七分丈を好むようになった。
高校に入ってからは、普段でも足首まであるようなジーンズやトレパンばかり着るようになって、それはそれで二つ年下の幼馴染の成長が垣間見えるようで良かったのだけれども、龍馬としては少しばかり寂しくも思っていたのだ。
その成長を喜ばしく思う一方で、いつまでも子どものままでいてほしい、と願ってしまうような。
「以蔵さん、今年の夏はどうしようか」
「ほうじゃなァ……海は外せんじゃろ」
「そうだねえ、海は外せないねえ」
「あー……でも部活の合宿もあるんじゃった」
「予定、僕が合わせられると思うよ」
「おまんも受験勉強があるんじゃながか」
「あるけど」
龍馬は今年が高校生活最後の年だ。
二年ばかり以蔵より早く生まれてしまったがために、この幼馴染をおいて一足早く卒業しなければいけない、というのがなんとももどかしい。
「まあ、龍馬は頭がえいからな」
「うん」
「自分で頷くなや」
笑い交じりに、小突かれる。
ふふふ、と龍馬も笑って、二人並んで空を眺める。
基本的に校舎の屋上への生徒の立ち入りは禁じられているから、ここは龍馬と以蔵だけの特等席じみている。
生徒会長として教師からの信頼厚い龍馬だからこそ、手に入れられた特権の一つだ。
――と。
「ぁ」
龍馬の隣で、以蔵が小さく声を上げた。
「以蔵さん?」
「―――」
以蔵は答えない。
ぐ、と微かに前のめりになる姿勢。
その双眸は、鮮やかな青空に向けられている。
真っ青な、深い海のような、済んだ色の空へと。
嗚呼、厭だ。
龍馬の腹の底で嫌悪が鎌首を擡げる。
幼馴染がその色の惹かれると、ロクなことにならないのだ。
「以蔵さん」
もう一度呼んで、その手を取る。
ここに、隣に自分がいることを思い出させるようにしっかりと指を絡めて握る。
「りょうま」
「なあに」
「クラゲがいゆう」
「クラゲ……?」
「おん。おまんには見えんがか?」
「見えない。見えないよ、以蔵さん」
月の色をした、未だ幼げの名残を残してまろい眼をきらきらとさせて、以蔵は龍馬には何も見えない青空を眺めている。
その眼には、青空をふよふよと漂うクラゲの姿が見えているのだろうか。
空を泳ぐうつくしい何かが。
「以蔵さん」
縋るように、祈るように呼ぶ。
そんな龍馬の声が聞こえていないかのように、以蔵はただただひたむきな色を青空に向けている。
いつの間にかその顔を鮮やかに彩っていたはずの表情は薄れ、ぼんやりと眠りに落ちる間際のような面持になっている。
ぼたり、と聞こえたのは以蔵の手からアイスの棒が滑り落ちた音だろう。
いつもなら大袈裟に騒ぐはずなのに、以蔵は地に落ちてへしゃげたアイスに一瞥すらくれなかった。
空いた片手が、無意識の所作めいて自らの頸筋に這わされる。
見えぬ痕を探すようにかり、と引っ掻く所作に龍馬の肝が冷える。
「以蔵さん、やめてくれ」
お願いだ、と懇願する。
けれど、その一方で龍馬はこれが終わりの始まりであることを知っている。
もう何度も、何度も、繰り返してきたのだ。
春には満開の桜の下、以蔵はやはり青空を舞うクラゲを見た。
夏には海で。
秋には紅葉の舞う空に。
冬には真白の空に。
何度も何度も何度も何度も何度も繰り返して、そのうちの何度かは無理やりに以蔵がどこにもいけないように繋いだこともある。
それでも、まるで掌に掬った砂のように以蔵は龍馬の手の中から零れ落ちていく。
空の青と、雪の白に誘われて、以蔵は。
「嗚呼」
ぽつり、と声が響いた。
全て理解した、というような声だ。
納得した、というように小さく頷いて、龍馬が強く握っていたはずの掌の中から以蔵の手がするりと逃げていく。
「以蔵さん、お願いじゃ、いかんでくれ」
「りょぉま」
立ち上がって、数歩歩んだ以蔵が龍馬を振り返る。
まろい月色の双眸に浮かんでいた無垢な色は、もうそこにはなかった。
課題をさぼり、プール掃除の罰にふてくされていたこどもはもうそこにはいない。
月の色に冴え冴えと光るのは人斬りの色だ。
刀を振るい、人の命を狩ることを知った獣の眼だ。
その金色が、くしゃりと笑みの形に細くなった。
「これは夢じゃき。わしは先に起きるがぞ。おまんもしゃんしゃん起きぃ」
「厭じゃ、やめとおせ」
龍馬の声は届かない。
以蔵はなんの未練もないかのように、とん、と駆けだす。
「以蔵さん!」
叫んだとしても引き留められないことを、何百回もの試行の中から龍馬は学んでいる。
それでも、呼ばずにいられないのはここで過ごした時が幸せだったからだ。
以蔵が誰も傷つけずに、誰かを傷つけた自分に傷つかずにすむ幸せの世界を誰よりも望んでいるのが龍馬だからだ。
だというのに、以蔵はひとたびここが夢の世界だと気づけば、まるでたった今鎖につながれていたことに気づいたかというように、つれなく龍馬のことを振り切って一人駆けだしていってしまう。
たん、と踏み切る軽やかな音がした。
以蔵のしなやかな矮躯が屋上の床を蹴る。
右足で踏み切って、屋上の手すりへの着地は左足。
そして、そのまま以蔵は軽やかに、屋上の外に広がる青空に向けて身を躍らせた。
振り向くことすらしなかった。
どしゃりとその身が大地に叩きつけられる音は響かなかった。
「以蔵さん……」
ひとりぼっちになってしまった屋上で、龍馬はぽつりとつぶやく。
また、駄目だった。
また、以蔵は一人でいってしまった。
また、以蔵は龍馬を置いていってしまった。
「どいてじゃ、以蔵さん……」
夏のにおいと、希望に満ちていたはずの世界から急速に色が失せていく。
当たり前だ。
ここは以蔵のための世界だ。
以蔵のための夢だ。
岡田以蔵が誰も斬らず、戦いに身を置かず、龍馬と以蔵がただの仲睦まじい幼馴染でいられる世界だ。
そこから以蔵が失われたのだ。
もはやこの世界にはなんの価値も残されてはいない。
「以蔵さん、以蔵さん、以蔵さん、以蔵さん、以蔵さん、以蔵さん」
いくら呼んでも、以蔵は戻ってきてはくれない。
うつむいた龍馬の足元に、ぽたりとしずくが落ちる。
ほろほろと涙を零して、龍馬は項垂れる。
慰めてくれる幼馴染はいない。
泣かんでえい、と涙をぬぐってくれる幼馴染は、龍馬をひとりおいていってしまった。
「また、駄目だったなあ……」
はは、と小さく自嘲するような乾いた笑いを零す龍馬の周囲で、役割を終えた世界がどろりと泥のように崩れた。
□■□
はち、と以蔵は瞬いて瞼を持ち上げた。
真っ白な天井は、カルデアのメディカルルームのものだろうか。
そしてその真白を背景に、今にも泣き出しそうな顔で以蔵をのぞき込む男に向かって、以蔵は小さく笑って見せた。
「泣きみそ」
「……以蔵さんがぎっちり心配ばかりさせるからちや」
責めるように、拗ねるようにそう言いながらも男の声音は柔らかい。
ふわあ、と欠伸をしながら以蔵はゆっくりと身体を起こす。
「どんくらい寝ちょった」
「今回は三日かな」
「…………」
以蔵は眉間に皺を寄せる。
以蔵がカルデアのサーヴァントとして現界してからしばらく経ってからのことだ。
以蔵は、眠りに捕らわれるようになった。
本来睡眠を必要としないサーヴァントの身でありながら、唐突に睡魔に襲われ、以蔵の意識は眠りに落ちてしまう。
そして一度眠ってしまえば、時が来るまで目覚めることはない。
外界からいくら呼びかけても、どんなに揺さぶっても、駄目なのだ。
以蔵が自ら眼を覚ますまで、その眠りは継続する。
「また、夢見てたの?」
「おん……」
「内容、覚えてる?」
「覚えちょらん」
厭な夢ではなかった、ような気がしているのだが。
目覚めはいつもすっきりとしていて、何か不快な夢に捕らわれていた、というような感覚がないのが唯一の救いだ。
欠伸で浮いた目元の涙を指先で擦りながら、以蔵は龍馬を見る。
いつもと変わらぬ白の海軍服だ。
襟元や袖口から微かに覗くシャツは、鮮やかな青。
この男の生きざまや、性格を現したような美しい青だ。
その青さに、何かを思い出しそうな気がした。
「…………」
「以蔵さん?」
が、それは気づかわしげに名を呼ぶ男の声にふわりと霧散した。
思い出せないことならば、思い出すほどのことではないのだろうと結論づけて、以蔵は寝かされていたベッドの中から抜け出す。
毎度のこととはいえ、こうして目覚めたからにはダウィンチによるメディカルチェックを受けなくてはいけない。
「僕、先食堂にいって何か食事用意しててもらおうか」
「おん。卵焼きがえい」
「うん、わかった」
そう言って懐こく双眸を細めた幼馴染の姿になんとなく違和感を覚えたような気がして、以蔵は緩く瞬いた。
「龍馬」
「ン?」
「おまん、そがあな眼の色しちょったか」
「え?」
唐突な以蔵な問に、龍馬はぱちくりと双眸を瞬かせる。
人の好さそうな、目尻の垂れた黒々とした双眸だ。
不思議そうな顔をされて、以蔵も聞いておきながら自分で首を捻る。
以蔵の知る坂本龍馬という男は、目の前にいるこの男ただ一人であるはずだ。
それなのに、なんとなく違和感を覚えてしまった。
もっと違う色を纏う彼を知っているような気が、した。
■□■
ひとりぼっちはさびしい。
さびしくて、かなしい。
ひとりの世界は砂を噛むように味気なく、価値を失ってしまうから、龍馬は仕方なく何度だって手を伸ばして、優しくも薄情な幼馴染の足をつかんで泥のように甘い夢の中へと引きずり込んでしまう。
何度でも。
何度でも。
何度でも。
何度でも。
何度でも。
何度でも。
何度でも。
何度でも。
何度でも。
何度でも。
何度でも。
■□■
「ッ、」
ぐらりと起きだしたはずの以蔵の身体が揺れた。
それを慌てて龍馬はその腕の中に抱き寄せる。
「以蔵さん!」
「―――……、」
うっすらと閉ざされかけた蜜色の双眸は、夢見るようにとろりとした色合いを宿している。また夢路に捕まったのだ、と理解するよりも先に、ふとふとと瞼が落ちて、腕の中の身体から急速に力が抜けていった。
■□■
捕まえて、引き寄せて。
ずぶずぶと沈んで堕ちてきた身体を大事に大事に抱き抱えて。
今はまだくったりと眠る額に唇を寄せて、男は甘く囁いた。
「今度は以蔵さん、諦めてくれると良いんだけどなあ」
人懐こく目元の垂れた男の双眸が、双黒とは言い難い色合いにぬらりと煌めいた。
