それは、ある夜のことだった。
普段散々世話になっているんだから運んでやりなよと散々はやし立てられて、以蔵は仕方なく古馴染みの男をずりずりと引きずって歩いていた。
最初はその嫌味なほどに長い足を持って引きずり始めたのだが、ぎょっとしたマスターにさすがにそれはやめたげてよお、と訴えられたので渋々と肩に背負ってやっている。
今はだらりと脱力した腕を己の肩に引っかけ、下肢はずりずりとカルデアの廊下を引きずられている。いっそのことちゃんと背負ってやった方が運び易いというのはわかっているのだが、もう意地のようなものだ。
長い足に持っていかれるようにして以蔵の背から滑り落ちかけた男の身体を、ため息交じりに引き上げてやる休憩を何度か挟みながら部屋を目指す。
むにゃりとその唇が何事か呟いたのは、何度目かのそんな休憩の折だった。
「起きたんか」
返事はない。
起きたならこれ幸いと放り出してやろうと思っていたのに、どうやらそうはいかないらしい。ため息交じりに再び歩き始めようとした所で、ちょっと驚くほど甘えた響きで、もにもにと背中に乗せた男が口を開いた。
「わしにゃあ、昔からにゃあ、以蔵さんがにゃあ、すきじゃあ」
「――――……」
思わず、ぴたりと動きが止まる。
にゃあ、にゃあ、と。
普段は涼やかな低音が、今はふくふくと笑みまじりに甘えきった声音で、以蔵への好意を言葉にした。
はく、と小さく息を呑んで、反応に迷ったのは一瞬のことだった。
以蔵はすぐに、は、とそんな甘ったるい言葉を笑い飛ばすことにした。
「こンのようたんぼが、酔っ払いの冗談も大概にせえよ!」
そうだ。
こんなのは、酔っ払いの戯言だ。
明日には忘れさられる他愛のない冗談の類いだ。
そうでなくては困る。
困ってしまう。
正体がなくなるほどに酔い潰れて馬鹿なことを口走った男よりも誰よりも、そんな阿呆な男相手に生前より延々と叶うことのない片恋を拗らせている以蔵が困る。
このやろう、人の気も知らんで、なんてぶつぶつと口の中でぼやきながら、以蔵はずーりずーりと古馴染みの、子どもの頃より大事にたからもののように隠し続けた恋心の宛先を引きずって歩くのだ。
まるで、随分長く引きずり続けたはつこいそのもののように。
■□■
「ああ、以蔵さん」
それは、レイシフトから戻ってきた後のことだった。
管制室を後にして、自室に戻ろうとした以蔵の背に向けて、龍馬がふと声をかけたのだ。なんじゃ、と振り返った以蔵に、龍馬はにこりとその黒々とした涼やかな双眸を笑みの形に撓めて見せる。
「土佐のいいお酒が手に入ったんだ。おりょうさんも今日はマスター達と女子会があるっていうし、たまには水入らず、一緒に飲まないかい?」
「――――……」
一種、以蔵の頭をよぎったのはあの晩、くたくたに酔い潰れた男が漏らした言葉だった。すき、と囁く甘えた低い声音。それを追い払うように、以蔵は小さく頭を振る。
「以蔵さん?」
不思議そうにそう呼ぶ男は、あの夜のことなど何も覚えてはいないようだった。
否。
実際、覚えてなどいないのだろう。
あれからもう何日も経つ。
何度も顔を合わせているが、男の態度におかしなところはない。
翌日だって、誰からか以蔵が部屋まで送り届けてくれたと聞いたのか、へにゃりと軽く眉尻を下げて「迷惑をかけたみたいだね、ごめんね」なんてさらりと謝って見せたぐらいだ。何を言ったのかなんて覚えていないのだろう。そもそも、あの言葉自体が単なる弾みで零れただけの他愛のない戯れ言でしかないに違いないのだ。
例え本心だったとしても、それは以蔵の抱く「すき」とは決定的に種類の異なるものだろう。
この男の口にする好意はきっと、清らかでうつくしいものだ。
以蔵が抱く情念のようにどろりどろりと澱んではいないだろう。
そしてそれは決して以蔵にだけ向けられるものでなく、万人に対して等しく振りまかれるものに違いないのだ。
昔から、そんな男だった。
もしかしたら特別なのかもしれないと期待して、そんなことはなかったのだと落胆して。何度そんなことを繰り返しただろう。
以蔵の優しい優しい幼馴染みは、誰に対しても誠実で、真摯に向かい合い、等しく情を注ぐのだ。
以蔵にはとてもじゃないが真似できない。
以蔵の情は、狭く深く注がれる類のものだ。
優しさにも思いやりにも限りがある。
この幼馴染に比べれば、悲しくなるほどに底が浅い。
だからこそ、くめども尽きぬ海を満たす水のように誰にでも優しくできる男に、尽きぬ思いやりを惜しみなく配り歩く男に憧れたのだ。
そんなささやかな憧れはいつしか立派な恋情に育ってしまったわけなのだけれども。
は、と小さく息を逃す。
それから以蔵は気持ちを切り上げ、わざとらしくそっけない視線を龍馬へと向けた。
「つまみも用意するなら行ってやらんこともながぞ」
「はは、エミヤくんに頼んでおいたから期待していいと思うよ」
「そりゃあ楽しみじゃ」
ふっふっふ、と笑いが零れる。
こればっかりはあながち場をごまかすため、というだけではない。
カルデアの食堂を預かる赤い弓兵は、つまみを作らせてもその才能を遺憾なく発揮してくれるのだ。
今宵もきっと酒にあった美味いつまみをたっぷりと用意してくれるに違いない。
「こじゃんと呑むぜよ!」
がっしと龍馬の肩に腕を回して、へぁっはっは、と以蔵は己の胸の内に渦巻く諸々すらを笑い飛ばすように声をあげて笑った。
そして、それから数時間。
深夜と呼んでも構わぬ時間になったころ、以蔵の前にはすっかり空になった酒瓶とつまみの乗っていたはずの大皿がある。
龍馬の用意した酒は確かに美味だったが、土佐の男を良い潰すには少々量が足りなかった。酒に合わせて用意したつまみも、すっかり尽きてしまった。だが、まだ物足りない。もう少し飲みたいし、飲むならつまむものも欲しい。
「……、食堂にならなんぞあるじゃろ」
多少は渋い顔をするだろうが、なんだかんだ頼めば食堂の主めいた弓兵は酒とつまみを用意してくれることだろう。
そんな算段をつけつつ、ゆらりと身体を起こしかけた以蔵だったが。
それほど酔いが回っているとも思えないのに不思議と足腰に力が入らず、へにゃりと崩れて以蔵は向いに座っていた男の上に覆いかぶさるように膝をついてしまった。
「――あ?」
のったりと瞬く。
状況に思考が追いつかない。
男の肩に手をついて、再び立ち上がろうとするもののそれよりも先にするりと腕が以蔵の背を絡めとった。
「りょ、」
「前々から思っていたんだけど」
耳元で、とろりと甘い声音が囁く。
低く穏やかな声音はいつもと変わらぬように響くのに、それが妙に底知れぬいろを潜ませているように聞こえるのはどうしてだろう。
「駄目だよ、以蔵さん」
「……何がじゃ」
「お酒につられて、ホイホイ部屋に連れ込まれたりなんかしちゃあ」
「連れ込まれるて」
おまん何言うがじゃと呆れたように笑い飛ばしてやろうとして、持ち上げた視線の先、ぎらりと熱を滲ませた真っ黒な双眸に射竦められて言葉が喉につっかえる。
なんだ。
この男は。
一体どうしてこんな目で以蔵を見ている。
何がどうして。
笑いとばそうと笑みの形に開きかけたままの唇が、はくりと息を呑む。
どんな顔をして良いのかがわからなくて、困る。
「気を許してくれているのは嬉しいんだけど、」
さらり、と以蔵の頬に男が触れる。
大きな掌だ。
いつもは白の清らかな手套に覆われたそれが、今は直接に体温を伝えてくる。
こんな状況だというのに、古くから知る馴染みのあるその熱を心地良いと思ってしまって、以蔵の双眸がほそりと細くなる。
そのまま猫の仔でも愛でるように、親指の腹がすりすりと以蔵の目元を撫でた。
「……、お酒に変なもの混ぜられでもしたら、大変でしょう」
「…………、混ぜたんか」
「ふふ」
小さく零れた笑い混じりの吐息こそが、その答えじみていた。
四肢がくったりと重い。
それほど酔っていないはずなのに、身体が言うことをきかない。
「どいて」
どいて、こがなこと。
そう最後まで言うよりも先に頬を撫でていた掌に顎を掬われて、そのまま口づけられる。酒精の味わいの残る舌を絡めとられ、味わうように舐られる。
その間も男の片腕は逃がす気などないのだと主張するかのように以蔵の腰をしっかりと抱いたままだ。
は、と熱ぽい吐息が違いの唇を擽りあう距離で、男が微かに笑ったようだった。
「まだ、わからない?」
「……わからん」
「それじゃあ、もう一回」
ちゅ、と唇が重なって。
「わかった?」
「わからん」
また、濡れた音が一つ。
「どう?」
「…………わからん」
はは、と目の前で男が愉しそうに笑う。
こつんと額を触れさせて、すりすりと懐かせて、幸福そうに笑う。
「そいじゃあ、以蔵さんがわかるようになるまでわしがたっぷり教えちゃるきね」
