雨の日

ざあ。ざあ。ざあ。
 ざあ。ざあ。ざあ。
ざあ。ざあ。ざあ。ざあ。

 雨の音がする。

「なかなか止まんのう」

 以蔵は軒下より差し出した掌で大粒の雨を受け止めて、げんなりとした調子で呻いた。
 隣で同じく雨宿りしていた子どもが「うん」と小さく頷く。
 週に三度、放課後に立ち寄る剣道場の帰りのことだ。
 突然の大雨に、以蔵とその子どもはすっかり足止めを喰らってしまっているのだ。
 否、以蔵とその子以外にとっては別段突然の雨ではなかったのかもしれない。
 ほとんどの連中は傘を持参していて、当たり前のように傘をさして帰っていってしまったのだから。
 後に残されたのは、以蔵とその子どもの二人だ。
 以蔵としてはもうこの際雨に濡れて帰ってしまっても良かったのだが、そうなると隣でどことなく心細そうな顔をした子どもだけが一人残されてしまう。
 それはなんだかかわいそうな気がして以蔵は雨宿りに付き合っているのだった。
 とは言っても二人の間には特に会話もないのだが。
 小学校の四年生ぐらい、だろうか。
 以蔵は現在中学三年生だ。
 同じ道場に通ってはいても、それだけ年が離れていればほとんど言葉を交わす機会もない。
 お互いにせいぜい顔を見知っている、という程度だ。
 そんな相手と二人きりで軒下に取り残されてしまっているのだから、以蔵の隣の少年はどことなく緊張しているようにも見える。
 いっそさっさと以蔵がこの場からいなくなってしまった方が、隣の子どもにとっては過ごしやすいのだろうか、なんてことをざあざあと響く雨音を聞きながらつらつらと考えてみたりもする。
 ざあ。ざあ。ざあ。
 雨に周囲の景色はすっかり煙っている。
 そんな雨の向こうに、人影が一つぼんやりと浮かんだ。
 その輪郭の淡くぼけた人影は、近づいてくるにつれて以蔵の幼馴染みの形をとった。

「ああやっぱり雨宿りしてたんだね。以蔵さんちのお母さんに頼まれて迎えにきたんだ」

 一足先に高校生になった幼馴染みの龍馬は、腹の立つことに以蔵よりも頭半分ほどひょろりと背が高い。
 今はまだ縦にばかり伸びたというような印象が強いが、それでもしっかりと日々その上背に見合った体格に身体が出来つつあるのを以蔵はよく知っている。

「なんじゃ、使いっ走りか」

 口の端を意地悪く持ち上げてそう言っても、幼馴染みの男はへらりと柔く笑って頷くだけに終わった。

「以蔵さんのことだからどうせ天気予報なんか見てなかったんでしょう」
「じゃかあしい」

 全く以蔵さんは仕方がないんだから、なんて柔こい小言を呟きながら龍馬はひょいと片手に持っていた傘を以蔵へと差し出す。
 コンビニなどでよく見るビニール傘だ。
 天気予報を見て傘を持ち歩くなんていう高度なことができない以蔵のおかげで、岡田家のコンビニ傘コレクションは日々充実し続けている。
 きっと、以蔵の母親にでも持たされたのだろう。
 以蔵は差し出された傘を受け取って。

「………………」

 少し考えてから、その傘をそのまま隣にいた少年へとずいと差し出した。

「やるき、家に帰りぃ。もうすぐ暗くなるきにの」
「で、でも……」
「えいえい、わしのことなら気にすんな。そこに傘があるき」

 ひょいと指さすのは龍馬だ。
 龍馬も柔く笑って頷く。
 それでもなかなか手を伸ばそうとしない子どもに焦れたように、以蔵は半ば無理矢理そのビニール傘を押しつけると雨の中に佇む龍馬の傘の下に滑り込んだ。
 とたんにざあざあと響く雨の音が大きくなる。
 振り返れば、傘を持ったものの未だ葛藤するような顔をした子どもがいる。
 さっさと帰れ、とジェスチャーでも示すように以蔵はしっし、と手を振って見せた。

「いくぞ龍馬」
「うん、そうだね」

 自分たちがいつまでもここにいては、あの子どもも帰りにくいだろうとさっさと背を向けて歩き出す。
 その背に向かって、「ありがとうございます!」と大きな声が響いた。

 ■□■

 びしゃりびしゃり、足下で水が跳ねる。
 二人は並んで家路を辿る。
 龍馬がさしているのは、少し大きめの紳士傘だ。
 おかげで男二人の相合傘でもそれほど酷いことにはなっていない。
 とはいえ、お互いはみ出た肩がしとしとと濡れているのはもうご愛敬だ。

「そういや、どいておまんが迎えにきたんじゃ」
「今日はほら、以蔵さんとこと皆でご飯食べる日だから」
「あ」
「忘れてた?」
「忘れちょった」

 岡田家と坂本家は家が隣同士ということもあり、何かとかこつけて両家で食事を取ることも多い。
 元々は坂本家の両親が仕事で忙しく家を空けがちだったこともあり、幼い頃の龍馬だけが岡田家に預けられて夕食を共にすることが多かったのだが。
 最近は家族ぐるみのイベントとなって食事会が行われることが増えてきている。

「今日の夕飯、何じゃった?」
「お寿司だって。ほら。今日は」
「――――」

 龍馬の言葉に、以蔵は今日が何の日だったのかを思い出したようだった。
 ぐぬと呻くような声がその唇から漏れ、無意識の所作で持ち上がった手が首裏を抑える。
 今から三年ほど前。
 以蔵は中学入学の際に行われる健康診断にて、オメガであるとの診断を受けた。
 龍馬がアルファであるとの診断を受けた二年後のことだ。
 それからすったもんだあって、龍馬と以蔵はつがいになった。
 今日は、まさにその日、なのである。

「…………、あやかしいことはやめろち言いちょるんじゃけんど」
「まあほら……以蔵さんの必死の抵抗の甲斐あってお赤飯だけは回避したわけだし」
「当たり前じゃ!」

 何が悲しくて、幼馴染みに首裏を思い切り咬まれた日に赤飯を炊かれなければならないのか。
 以蔵と龍馬にとって、お互いはあくまで幼馴染みだ。
 アルファとオメガのつがいであったとしても、あくまでその関係は健全な相互扶助のためのものだ。
 龍馬というアルファのものとなったことで、以蔵はヒート時にむやみやたらに他人の性欲を煽らずにすむようになり、こうして剣道を続けることも出来ている。
 ただ、それだけの話なのだ。
 それ以上の意味合いなど、何もない。
 何もない、はずなのだ。

「…………」
「…………」

 ざあ。
  ざあ。
ざあ。

 雨音がする。
 外の世界から切り離されたように二人のいる傘の下だけが静かだ。

「以蔵さん」
「何じゃ」
「もっとこっちに寄りなよ。肩、濡れてるでしょ」
「おまんじゃって濡れとるじゃろうが」
「ほら、風邪ひくよ」

 一度傘を持ち替えて、龍馬の腕がぐいと以蔵の肩を抱き寄せる。
 肩がぶつかり、擦れる。
 清涼な雨の匂いに混じって、ほのかに甘い匂いが鼻先を掠めていく。
 とろりと甘い、蜜のような香りだ。
 以蔵にとっては龍馬が。
 龍馬にとっては以蔵が。
 その身に纏う香りは、蕩けるような甘さを帯びているように感じられて仕方がない。
 そうして互いに本能レベルで惹かれあうのがつがいというものなのだ。
 けれど、今はまだ。
 今は、まだ。

「以蔵さんから良い匂いがしゆう」
「おまんからもじゃ。美味そうな匂いぷんぷんさせよって」
「それはこっちの台詞だからね」

 はあ、とお互い煩悩を散らすように息を吐く。
 アルファとオメガだから、なんて理由で手を出すにはお互いが大事な二人である。
 けれど、いつかは。
 いつかはきっと。
 もしかしたらそんな未来は、もうすぐ近くまで来ているかもしれない。

 

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