やりなおしの春が往く

 それは新年があけてからしばらく経ってのことだった。
 雀の宿で起きた騒動を解決し、マスターが意気揚々と彷徨海のベースに戻ってきたのが一週間ほど前のこと。
 それからは特に新しい特異点が見つかることもなければ、新たな異聞帯に踏み込む支度も整っていなかったこともあり、堅実にかつての特異点を巡って素材を集めたりなどして現状のリソースを強化する日々が続いていた。
 以蔵もまたそれに付き合わされていた一人で、その日もマスターとともにかつての特異点へと飛び、魔力残滓が形成したエネミーを倒し、素材を回収してきたわけなのだが――心地良い疲労とともに帰還した先の自室には、何故か古馴染みの男が正座で待ち構えていたりなどした。

「……………」
「……………」

 シャッと開いた先の扉の向こう、以蔵の寝台の上できっちりと正座している男の姿にしんみょうな顔になる。ご丁寧なことに寝台の下に靴がそろえて置いてあったあたりにますますどんな顔をしていいのかがわからなくなった。
 わからないので、そのまま一歩後退った。
 シャッとドアが閉まる。

「………………」

 さて。
 このまま食堂にでも行こうかと思う。
 おそらく、本日のレイシフトに付き合わされていた他のメンツが今頃食事に舌鼓を打っている頃だろう。もしかしたらそのまま酒宴に縺れ込むようなこともあるかもしれない。それはそれで大歓迎だ。疲れた身体には酒が利く。それが良い酒であるのならばなおさらだ。

「……………………あー」

 呻いて、わしゃわしゃわしゃ、と以蔵は癖のある髪を掻き毟った。
 結い髪が乱れて撥ねるが、邪魔にならないように結っているという程度なので多少の乱れなど気にする以蔵ではない。第一、本日の仕事はきっちり終えてきた。もう、見目を整える必要もないのだ。いわゆるぷらいべーと、である。
 もう一度、一歩前に出る。
 シャッ、と音をたてて以蔵の目の前の扉が開く。
 先ほどと寸分変わらぬ姿勢で待ち構えていた男が、少しだけ安堵したように眉尻を下げて笑うのが見えた。
 ああこの野郎と喉奥でぐるぐると唸る。
 以蔵のこの古い付き合いの男は、きっと以蔵が戻ってくるまでこのまま待ち続けるつもりに違いなかったのだ。以蔵が食堂に赴き、飯を食い、酒を飲み、夜の遅くに戻ってきてもきっと同じ姿勢で、やっぱりどこかほっとしたように笑ったのだろう。
 それがわかるものだから、厭なことを後回しにしたところでなんの解決にもならないことを悟って以蔵は渋々と自室へと足を踏み入れることにした。
「おかえり、以蔵さん」
「おん。おまん、どうやってわしの部屋に入ったがか」
「霊体化したら壁とか抜けられるからね」
 身なりの良い紳士然とした雰囲気を漂わせながらも、やっていることは押し込み強盗である。
「……おまん、たまに手段を選ばんよな」
「えへへ」
「褒めちょらんぞ」
 げんなりしつつも、くいと首を巻く襟巻を緩めながら以蔵は寝台へと歩み寄る。
 そして、きっちりと正座を崩さぬ男の傍らへと腰掛け、見上げるようにして睨めつけた。

「で」
「ん?」
「なんの用じゃ」
「ええと」

 男は、こほんと咳払いを一つする。
 それから真剣なまなざしでまっすぐに以蔵を見据えた。
 わざわざ部屋に侵入して待ち構えるぐらいだ。
 今度はどんな無茶ぶりをするつもりだと以蔵が身構えていれば、男の口から出たのは予想外の誘い文句だった。

「あんな、わしと一緒に温泉にいってくれんか」
「は?」

 思わず以蔵は半眼になる。

「その……、こん前、わし、以蔵さんのこと誘い損ねてしまったろう?」
「ああ、お前がわしを置いていったやつな」
「置いていったわけやがない!」

 あわあわと言い訳めいて言葉を募る古馴染みから、以蔵はツーンと素っ気ない仕草で視線を逸らす。
 とはいえ、それほど怒りを引きずっているわけではない。
 置いていかれたことには腹を立てた。
 だから怒鳴り散らしたし、謝らせもした。
 だが、以蔵の抱えている怒りなど、その程度のものである。
 腹が立ったらぶん殴り、殴れば気が済むという類のものだ。
 ただ、拗ねた風を見せると普段は風にふかれる柳のように飄々とした男が珍しく心底困ったように眉尻を下げて謝罪を繰り返すのが面白くて揶揄っているだけである。

「げにまっことすまんかった、にゃあ以蔵さん、機嫌を直しちゃくれんか」

 しょげかえった風に、以蔵に視線を合わせようと覗き込んでくる男相手に以蔵はフンと鼻で笑う。それから、わざとらしく逸らしていた視線を戻して、ひらりと手を振った。

「おまんを揶揄っちょっただけじゃ、わしはもう別に怒っちょらんぞ。やき、わざわざそがなことせんでもえい」
「わしが」

 伸びてきた腕が、以蔵の手を捕らえる。
 そのままぎゅっと握りこまれて、昔から変わらぬ必殺のおねだりの角度で見据えられた。
 黒々とした双眸は眉尻こそ垂れているものの、強いいろに充ちている。
 へたれているようで、押しが強い。
 そのチグハグさこそが、末っ子の本領発揮めいている。

「厭なんじゃ。にゃあ、やり直させてくれんか。にゃあ、いかん?」
「……………」

 以蔵は、深々とため息をつく。
 こうやって駄々をこねられると、以蔵はどうにも弱いのだ。
 特に今回のおねだりを受けたところで以蔵にはなんの害もない。
 温泉につきあってやり、飲み食いするだけで良いのだ。

「おまんの奢りか?」
「もちろんだ」
「マスターには」
「話は通してある」
「お竜は」
「お竜さんにもわかってもらった」

 用意周到であった。
 むしろその周到さが怖い。
 既に外堀が埋められていたことがわかってしまって、以蔵は半眼になる。
 こわ、と小声でつぶやいた言葉はきっと聞こえていただろうに、交渉事に長けた以蔵の古馴染みはにこにこと嬉しそうにやわりと笑って見せるだけだった。

「にゃあ、以蔵さん」

 子どもが菓子でもねだる調子で名を呼ばれて、以蔵は再び小さく息を吐いた。
 どうせ、以蔵が断っても諦める男ではない。
 厭じゃと断れば、きっとなんで駄目なの、どうして、と質問を繰り返し、以蔵が口にした厭な理由を一つ一つ丁寧に潰して回るであろうことが目に見えていた。
 そんなのは、無駄な労力だ。
 どれだけ嫌がろうと、以蔵はきっと最終的に断る理由をなくして渋々とこの男の望む通りに温泉につきあってやることになるに違いないのだ。
 だから、そんな無駄はとっとと省くに限る。

「……えいよ、つきおうちゃる」
「やったあ! ありがとう以蔵さん! そうと決まったら早速出かけるとしようか!」

 握りこまれたままだった手をぐいと引かれて、以蔵はうわた、とバランスを崩しかけるが、しっかりと腕を掴まれたままだったので転ぶこともなくそのまま腕を引かれて立たされるだけに終わった。
 心から嬉しそうに笑ってはしゃぐ男の姿に、なんだか以蔵の腹もくすぐったくなる。
 わしと温泉に行けるというのがそがに嬉しいもんか、なんて言葉は口には出さない。
 きっと口に出してしまえば、「嬉しいに決まってるぜよ!」なんてはしゃいだ声と顔で、どれだけそれが良いことであるのかをぺらぺらとそのよく回る口で雄弁に語られてしまうのがわかっていたからだ。
 傍らに置いたままだった中折れ帽子をひょいと掬って頭に乗せた男が心底楽しげに「行こう」なんて言うものだから、以蔵は緩みそうになる口元をむにりと意図的にへの字にして、「おん」とだけ短く答える。
 そうして、岡田以蔵と坂本龍馬のやり直しめいた温泉旅行は幕を開けたのだった。

■□■

 二人きりでレイシフトした先は、朱塗りの橋の麓だった。
 外界が夕闇に閉ざされつつある中、灯籠に照らされた金色の旗がまるで二人の訪れを歓迎するかのようにはたりはたりと揺れている。
 景色を堪能させるためにか、あえて曲線を描くように設けられた橋の先には、華やかな閻魔亭が高い山の斜面を背に赤々と聳え立っている。
 日が暮れてしばらくたった今となっては、山は黒々と暗く闇に沈み、閻魔亭の明かりだけが鮮やかにぽつぽつとその朱塗りの華やかな外観を照らし出している。
 レイシフト先になる特異点という場所はどこも魔力により本来の歴史から外れた場所であり、存在しないはずの場所という一種現実離れした様相を呈していることが多い。
 それ故に現実離れした世界、なんていうのにもある程度見慣れてきているはずなのだが……、そんな二人の目にも閻魔亭は特別に映った。
 きっとそれは、閻魔亭が二人が子どもの頃より聞かされて頭のうちに思い描いてきた迷い家そのものだったからかもしれない。
 子どもの頃から胸に抱いていた幻想がそのまま形になったような錯覚と言えば良いのか。
 うねる橋を、二人しててくてくと渡る。
 閻魔亭が近づくにつれ、ずっしりと身体が重みを増していくような不思議な感覚に襲われて、二人はちらりちらりと視線を交わし合う。
 それは決して不快なものではない。
 どこか充足感を伴った重みだ。
 地に足がつく重み、とでも言おうか。
 これまでエーテルにて構成されていた肉体が、実体を得始めている。
 一歩、また一歩と閻魔亭に近づくにつれ、二人の肉体は「ひと」に近づいているのだ。
 その特別な道行きを、以蔵と共に並んで渡っているということが龍馬にとってはなんだか少し新鮮な心地がして、嬉しくなると同時にこれが初めてでないことを改めて残念に思ってしまった。
 きっと、以蔵は「なんじゃああ!?」と驚いただろう。
 それを宥めすかして、なんなら手でも繋いでこの道を行くのはきっと楽しかっただろう。そんなことを思うと、誘い損ねたのは自分だというのにその事実を綺麗に棚にあげて龍馬は残念で仕方なくなってしまうのだ。

「以蔵さん」
「どいた」
「すごく、勝手なこと言ってもえい?」
「…………」

 ちらり、と隣を歩く以蔵が龍馬を見る。
 それからふ、と小さく口の端で笑って、勝手にせえ、と返される。
 龍馬の我侭など慣れている、とでも言いたげなその口ぶりに龍馬自身も小さく笑って、それからその身勝手な感慨を口にした。

「一度目もさ」
「おん」
「以蔵さんと一緒が良かった」

 しみじみと、そう思ったのだ。
 二人して突然強制的に受肉させられる感覚に戸惑ったり、目の前に現れる昔語りに思い描いたままの閻魔亭の姿に歓声をあげたり、したかった。
 怒るだろうか、と以蔵を見る。
 以蔵を誘い損ね、置いていってしまったのは龍馬だ。
 その本人が口にするあまりにも正直な言葉は、やはり以蔵を怒らせてしまうだろうか。
 でかい図体を丸めるようにして、ちろ、と龍馬は上目使いに以蔵の様子を伺う。
 そして、小さく息を呑んだ。
 
「…………」

 以蔵は、小さく笑っていた。
 口の端を緩く持ち上げて。
 嫌味でも、皮肉でも、怒りからくるものでもなく、ただただ柔く、幼い子どもの栓のない我が侭を聞いたとでも言いたげな面持ちで。

「おまんはほんに仕様のない男ちや」

 呆れたような言葉すら、どこか柔らかく響く。
 薄赤く、灯籠に照らされる以蔵の横顔はここしばらく見たことがないほどに安らいでいるようにも見える。

「おまんは昔っから大事なところで抜けちょった」
「……お恥ずかしい」

 そうだ。
 龍馬はいつだって大事なところでポカをした。
 頭が良く、物事をなんでも見通して先回りして動き、時代の先端を駆け抜けるだけの胆力を持ち合わせていながら、大事なところで詰めが甘いのだ。
 だからこそあんな最期を迎えることになったのだろうし、だからこそ今も以蔵は龍馬に対しての怒りを抱き続けることができずにいる。
 龍馬のポカに悪意はない。
 以蔵を軽んじるつもりも、ない。
 ただ単に、この男は本当に誘うまでもなく以蔵も温泉に向かうと思っていたのだろうし、そこで声をかければいいや程度にしか思っていなかっただけなのだ。
 以蔵がまさか誘われていないからと彷徨海のベースに止まるとは思いも寄らなかったのだろうし、だからこそすぐにお龍を迎えにやってくれたのだ。
 だから今口にした言葉だって、きっと本心だ。
 なんだか置いて行かれた以蔵以上にしょぼくれたように見える龍馬に、以蔵は呆れたように小さく息を吐く。
 これではどちらが置いていかれた側なのかわかったものではない。

「龍馬」
「ああ、うん、ごめんね、僕がどうこう言えることじゃ」
「…………、おまんと」
「え?」
「おまんと来るのはこれが一度目じゃ、それで十分ろう」

 以蔵の言葉に、叱られるものだと思ってますますしょげ返って物憂げに伏せられていた龍馬の双眸がはッとしたように持ち上がった。
 笑っても良いのかを迷うように唇がもにもにとして、それでもやっぱり抑えきれずに口元がふにゃりと笑みに緩む。

「以蔵さん」
「なんじゃ」
「しょうまっこと、以蔵さんには敵わんにゃあ」
「なんじゃ、今更気づいたんか」

 少し先を行っていた以蔵がちらりと龍馬へと視線を流し、ドヤァンなんて効果音がしそうなほどに不敵な笑みを口元に浮かべて見せた。
 こらめった、との降伏宣言を口の中で小さく呟きながら、龍馬は以蔵へと追いつくべく足を速めるのだった。
 
 
□■□
 
 
 して、たどりついた閻魔亭にて。
 入り口を潜ったとたんに、小柄な女将がそれこそ文字通り飛ぶようにして二人の前へとやってきた。

「いらっしゃいまちぇでち!」

 可愛らしい小鳥の囀りのような声音に出迎えられて、二人の口元にもわずかな笑みが乗る。
 幼い子どものママゴト遊びのような風情もあるが、この少女こそがこの閻魔亭の主であり、閻魔大王の養女として名代を務める獄卒の一人である。
 その剣技の冴えは以蔵ですら一目置くほどだ。

「やあ、こんにちは。今回は無理を言って悪かったね」
「無理だなんてとんでもないでち! カルデアの皆ちゃまには大変なご恩がありまちからね! これぐらい、なんてことないでち!」

 舌足らずな子どもの声で、女将が嬉しそうに笑う。

「ご予約は二名様で良かったでちか?」
「ああ、」

 うん、と龍馬が頷くより先に。
 横合いからにゅっと以蔵が口を挟んだ。

「にゃあ、人数は今からでも変更出来るがか」
「大丈夫でちよ! まあ、大人数になるようならちょっとご相談させてもらうこともあるかもちれまちぇんが」
「三人、ならどうじゃ」
「お部屋はご一緒でも大丈夫でちか?」

 ちらり、と以蔵が龍馬を見る。
 以蔵の思惑は未だよくわかっていないものの、それでも龍馬はこくこくと頷く。

「それなら簡単でち。では三名様に変更しまちゅね」
「おん」
「ではお部屋に案内ちまちゅ」

 龍馬が状況を掴めないでいるうちに、あれよあれよという間に以蔵と女将の間で話は進み、二人だけの温泉旅行はいつの間にか三人旅へと変更されることになった。
 果たして三人目とは一体誰のことなのか。
 マスターでも呼ぶつもりなのだろうか、なんて思案しながら龍馬はすたすたと歩き始める女将とその後に続く以蔵の後を慌てて追いかける。

「以蔵さん、三人って」
「お竜も呼んじゃり」

 あっさりと言われた言葉に、ぱちりと龍馬は目を丸くした。
 本当なら、龍馬とお竜は二人で一つの霊基を成す英霊だ。
 お竜が傍を離れた間に龍馬が暗殺された、という過去もあるが故に、お竜は龍馬の傍から離れることを何よりも嫌う。
 そのお竜が今こうして龍馬の傍にいないのは、龍馬が宥め賺して己の内に引っ込んでもらっているからだ。
 前回、龍馬はお竜だけを連れて閻魔亭に来てしまった。
 そんなつもりはなかったとはいえ、以蔵だけをベースに置き去りにしてしまった。
 だから今回は、その分も以蔵とゆっくり過ごしたかったのだ。
 以蔵のことだけを見て、なんでも以蔵の望むことを叶えてやって、甘やかしてやりたかった。
 だというのに、以蔵はお竜を呼んでやれと言う。
 それが以蔵の望みだというのなら、叶えるのはたやすい。
 だが。
 
「いいのかい?」
「おん」

 フンと息を吐き、口元を隠すように襟巻きを引き上げて以蔵は言う。

「仲間外れは好かんき」
「……、そうだね。ありがとう、以蔵さん」

 そうした以蔵のさりげない優しさが、とても好ましいと龍馬は思う。
 昔から、以蔵はそういう男だった。
 お互いがまだ小さな子どもだった頃、何をするにもとろくさく、いじめられてばかりだった龍馬の手を引いてくれたのは以蔵だった。
 おまんはまっこととろこいのう、と呆れたように口では毒づきながらも、決して龍馬を見捨てなかった。
 だから今回も、龍馬の胸のうちにしまわれた美しい宝具のことを思いやってくれたのだろう。一人、二人の様子を龍馬の内側から眺めているのであろうお竜のことを。

「お竜さん」

 虚空へと手を差し出して、龍馬は呼ぶ。
 とたんに、しゅるるるると衣擦れのような音をわずかに響かせて、黒の煙が渦を巻くようにして現れた。
 ぐるりぐるりと渦を巻いて、たなびく黒の煙がセーラー服姿の女体を象る。
 いつもであれば以蔵を見つけるや否や喧嘩をふっかけるお竜も、今回ばかりは人らしい感情の薄い整った顔立ちに困惑を滲ませ、その紅玉のような双眸を何度か瞬かせた。
 ふよりと空を蹴って漂ったお竜が、逆さに以蔵の顔を覗きこむ。

「いいのか」

 それをまるで五月蠅い羽虫に寄られたかのようなそぶりで、以蔵は「おん」と頷きながらもひらひらと手を振って追い払おうと試みる。
 その手をするりと避けて、お竜は蝶が花で羽を休めるかの気軽さで以蔵の頭上に止まった。のしりと猫の子ほどの重さをかけて、以蔵の頭の上で腕を組む。
 それを鬱陶しそうに見上げながらも、以蔵は結局お竜を追い払うことを諦めたようだった。
 すぐにすいと以蔵の視線はお竜からそれて、すたすたと先を行く女将の背を追い始める。
 だから、以蔵は気づかなかっただろう。
 お竜の、整ってはいるものの人としては表情の薄いその顔の、淡く色づいた唇が大変嬉しそうに綻んでいたことなんて。
 三人を部屋に案内した後は、女将は「もう枕投げで部屋を破壊するのはよちゅのでちよ」なんて注意をして去って行った。
 以蔵から向けられるおまんそがなことしたんか、と問いたげな冷ややかな視線を誤魔化すように、龍馬はこほんと咳ばらいを一つしてから二人を温泉に誘うことにする。
 そもそもあれは不可抗力だ。
 龍馬は一応止めようとしたのだ。
 お竜やらその他のメンツが止まってくれなかっただけで。

「ねえ、せっかくだから夕食の前に一っ風呂浴びてこないかい?」
「えいぞ」
「お竜さんも構わないぞ!」
「浴衣、忘れないようにしないとね」
「おうおう」

 この閻魔亭にいる間、龍馬や以蔵といった英霊は半受肉した状態となる。
 おそらく、程度の差こそあれどお竜も似たようなものだろう。
 着ている服もほとんど物質化しており、いつものように魔力で編み直せば良い、というわけにはいかない。
 手間だが、そんな手間は生前の日常を彷彿とさせて愛おしい。
 備え付けのクローゼットを開けば、黒塗りの盆の上に三人分の浴衣がきちんと並んでいた。
 いつの間に用意したのだろう。
 女将が三人を案内している間に、雀たちが先回りでもしたのだろうか。
 さすが一流のおもてなしが約束された閻魔亭である。
 
「以蔵さん、お竜さん、浴衣ここにあったよ」

 声をかけて二人にそれぞれ浴衣を渡してやり、残った一つを手に抱えて三人でいそいそと大浴場へと向かう。
 その道すがら、織田組や新撰組一行と枕投げをした結果酷いことになり、風呂掃除をさせられた話などをすれば、以蔵はおかしげにけたけたと笑ってくれた。

「見たかったのう、おまんが風呂掃除なんぞしゆうとこ」
「見て良いものでもなかったと思うよ。ねえ、お竜さん」
「リョーマは風呂掃除している姿も格好良かったぞ」
「そ、そうかなあ」
「ケ」

 お竜の言葉に、以蔵が半眼でべ、と舌を出す。
 子どものような所作が可愛くも懐かしくて、思わず龍馬の口元も綻んだ。
 なんだかんだと停戦状態に辿り着いてからの以蔵は、龍馬に対しても昔のような砕けた表情を見せてくれることが増えている。
 睨みつけられるばかりだった最初の比べると、大違いだ。
 こうして三人でわちゃわちゃとじゃれ合うようにして過ごしていると、いつかの楽しかった頃に戻ったような気すらしてしまう。

「ほれ、お竜、おまんはあっちじゃ」

 ちょいと以蔵が女湯ののれんを指さす。
 しっし、と改めて追い払うように頭上を手で払うのに、ふよりと一度は浮いたお竜が不満げに頬を膨らませた。

「仲間外れは良くないぞ、イゾー」
「そういう話じゃないちや、おまんは見目だけは娘っこじゃき、しゃんしゃん女風呂に行かんか」
「いやだ、お竜さんもリョーマと一緒がいい!」
「それなら龍馬、おまんがお竜につきあって女風呂に行っちゃれ」
「そいつはまずいよ以蔵さん」

 引き攣った声音で呻くように龍馬は言う。
 流石にそれは全力でまずい。
 男風呂にお竜がいるのもまずいが、女風呂に龍馬が行くのはもっとまずい。
 間違いなく女将にわーいされてしまう。

「お竜さん、悪いけどここは堪えてくれないか」
「むう……リョーマまでお竜さんを仲間外れにするのか」
「もちろんそういうわけじゃないよ」

 お竜に悲しげに目を伏せられてしまうと、龍馬も困ってしまう。
 仲間外れにしたいわけではない。
 だが、性別の違いというのは時に大きな壁となって男女の間に聳え立つのだ。
 お竜は見目こそは美しい女性の姿をしているが、その精神性はまつろわぬ神としての特性が強い。彼女にとって性別なんていうのは些細な問題であり、たまたま人の形を模す上で女性の姿をとった、という程度にしか認識されていない。
 だからこそ、男湯と女湯が別である、という人にとっては当たり前のことに素直に従うことができないのだろう。

「弱ったな」
「……仕方ないのう」
「以蔵さん?」

 わしゃわしゃと結い髪をかき混ぜながら以蔵がぼやく。
 まさか全員で女湯にとか言いだすんじゃなかろうなと身構えた龍馬に、以蔵は阿呆め、というような視線を向けつつ口を開いた。

「人の形をしゆうき問題があるんじゃ。おまん、元の姿でちっくとこんまくはなれんがか」
「なれるぞ! お竜さんはお竜さんだからな、それぐらいはお茶の子サイサイだ!」
「ほいじゃあそれで解決じゃ。龍馬」
「あ、はい」
「お竜を盥にでも入れてやり」
「うん」

 あっと言うまに問題を解決して見せた以蔵に、ほわーと龍馬は感嘆の息を吐く。
 難しい交渉ごとは龍馬の方が得意だと思っていたが、こういった子どものワガママめいたものへの対処は以蔵の方が一枚上手だ。
 さすがの長男の貫禄である。
 いそいそと嬉し気に空中でくるりんぱと回ってみせたお竜のスカートの裾が残像のようにひらめいて、龍馬の二の腕ほどの長さの黒蛇へと姿を変える。
 太さは親指と人差し指で作る輪程度といったところだろうか。
 宝具として開放された時の姿はその長大さもあって神としての威容にあふれているが、同じ姿でもこうこぢんまりとされると愛らしさが先に立つ。

「可愛いね、お竜さん」
「そうか? ふふふ、小さいのは不便だが、リョーマにそう言ってもらえるなら悪くないな。イゾー、どうだ。お竜さんは可愛いか」
「可愛えい可愛えい。あれじゃ、いつかの川で釣った泥鰌に似ゆう」
「泥鰌なんかと一緒にするな!!」
 
 ぴゃー!と尾を逆立てて怒るお竜に、以蔵はけらけらと楽し気に笑いながら男湯の暖簾をくぐっていく。
 その後を追ってまるで弾丸のようにすっとんでいったお竜が、以蔵のに体当たりでもキメたのか、なんじゃああああ、なんて賑やかな声が響き渡った。
 そんなのを聞きながら龍馬ものんびりとそのあとを追って脱衣場へと足を踏み入れる。
 服を脱ぐ必要のないお竜を待たせて、以蔵と並んでばさりばさりと服を脱いでいく。
 と、そこでふと横合いから向けられる以蔵の視線に気づいた。
 妙にじとりとした湿り気を帯びた眼差しに、若干怯みながら問う。

「……な、なに」
「相変わらず脱ぐとえっずい身体しよるな」
「えずいって何えずいって」

 随分な言われようだと半眼を向けてくる龍馬から、以蔵は視線をついとそらしてそっぽを向いた。
 服を着込んでいればひょろりと線の細い優男然としている癖に、この男はこうして服を剥ぎ取れば想定外にがっちりと筋肉に包まれた大変良い身体が出てくるのである。
 詐欺も良いところだ。
 なんだその腹筋は。
 なんだその腰の厚みは。
 なんだその臑から腿にかけてのよくよく鍛えられた肉の張りは。
 全くもって腹立たしい。
 以蔵だって男として決して龍馬に見劣りする身体をしているとは思ってはいない。
 ただ、昔からへなちょこで泣きみそだったこの男のために身体を張ってやるのは以蔵の役割だったのだ。
 それが最初から逞しく、よく出来た万能の男であったかのようになってしまったから、それが以蔵は面白くない。
 苦虫を噛みつぶしたような顔で、ばさりばさりと衣擦れの音を立てて以蔵は服を脱いでいく。
 乱暴な所作に見えて、脱いだ服は脱衣籠の中に丁寧に畳まれて収められている。
 一方、逆にぐしゃぐしゃに適当の脱いだ服を丸めて籠に放り込んでいるのは龍馬の方だ。最終的にだらりと籠の中から袖がはみ出ているぐらいだ。

「まっことそういうとこぜよ」

 詰めが甘い、とお小言めいて言うと、龍馬はへにゃりと眉尻を下げて、それでもどこか嬉しげに面目ないと口元を柔く笑ませた。
 そういうところだ、と以蔵は思う。
 年少の以蔵に偉ぶった小言を言われても、坂本龍馬という男は決して気を悪くしたりなどしない。むしろ、構ってもらえたことを喜ぶように、柔く眦を下げて笑うのだ。
 全く、嫌がらせにもなりやしない。
 以蔵は小さく息を吐いて、さっさと浴室に向かうことにした。
 ここの大浴場は露天風呂仕様だ。
 春先とはいえ、からりと扉を開けた先の外気の冷たさに、びくりと身体が竦みあがる。

「さっぶ!」

 悲鳴のような声をあげて、以蔵は足早にかけ湯に向かう。
 ぺたぺたと裸足の足音が忙しなく追いかけてくるので、龍馬もそれに倣ったのだろう。
 油断すると風邪を引いてしまいそうだ。
 普段であればそれほど影響を受けない外気温であるのだが、こうして半受肉した肉体にはずいぶんと寒さが厳しい。
 ぞわぞわと鳥肌のたった裸の腕を撫で擦りながら、盥に掬った湯を何度もざばざばと浴びてようやく人心地つく。
 それから、するりと湯の中へと身体を滑り込ませた。
 龍馬はすぐにお竜のためにぷうかりと浮かべた盥の中にも湯をためてやった。
 腕に巻き付いていたお竜もすぐさま湯の中へと滑り込み、ぐるりと満足げにとぐろを巻く。

「お竜さん、熱すぎないかい?」
「大丈夫だ、暖かくて気持ちいいぞ」
「無理はしないでね」
「わかってる」

 盥からちょろりとはみ出した尻尾が器用に湯を掻いて、お竜の収まった盥はゆらりゆらりと水面を漂っている。
 ひっくり返りはしないかとしばらくそわそわと見守って、大丈夫そうなのを見届けてから龍馬はほうと息を吐いて全身を弛緩させた。
 きんきんに冷えた外気と、湯の暖かさのギャップがここまで心地良く感じられるのも受肉して鋭くなった感覚のおかげだろう。
 外気温の影響を受けない、ということはきっとそれだけ感覚が鈍っている、というのとも同義だ。
 英霊の身というのも、存外生きていた頃とそう変わらないなどと思っていたがそれはどうやら慣れに過ぎなかったものらしい。
 逆にきっと生前魔術的なものと縁のなかった龍馬や以蔵は、霊的な感覚についてはきっといつもよりも鈍くなってしまっていることだろう。
 まあ、今回は純粋な温泉旅行だ。
 戦闘に巻き込まれる予定はない。
 もう木材を集めなくとも良いのだ。
 湯の中にくったりと四肢を投げ出し、ざぶりと手の中に掬った湯で顔を洗う。
 あまりの心地良さに、「あ―――……」と油断しきった濁った声が出た。
 
「おっさんみたいな声、出すなや」
「いやこれはおっさんみたいな声も出ちゃうでしょ……」

 露天風呂のへりに頭を預けたまま、龍馬はちらりと以蔵を見る。
 こちらも、手ぬぐいを頭にのせて寛ぎきった態だ。
 以蔵はそんな龍馬の姿ににんまりと口角を持ち上げて意地悪く笑った。
 
「ああ、すまんかったの。おっさんみたい、やなくておっさんじゃったな」
「やめてよ、二つしか変わらないだろうに」
「中身の問題じゃ、中身の」
「ふぅん?」

 ほほうと納得するような、小馬鹿にするような意味深な相づちに、ぎ、と以蔵の目つきが鋭くなる。
 それを横目に、龍馬はふふんと笑った。
 人の良い維新の英雄サマには不似合いな、意地の悪い笑みだ。
 気の置けない古馴染みにしか見せないような、悪い顔だ。

「確かに以蔵さんは、わしと違っておぼこい顔しゆうにゃあ」

 効果は覿面だった。
 ぐぅと以蔵の眉間に皺が寄り、ますますその金の双眸に剣呑な色が宿る。
 この幼馴染は、そう濃くもない髭を頑張って育てる程度には童顔を気にしているのだ。
 案の定ぐぐうとその眉間に皺が寄る。
 はてさてどんな反撃が来るかと思っていれば。
 びゅ、と飛んできた湯飛沫が油断しきった龍馬の顔面に命中した。
 
「ぅぶ!?」
「ひひ、命中じゃ」

 にやにやとする幼馴染は、湯の中で手を組んでいる。
 いわゆる水鉄砲だ。
 何事も器用にこなす以蔵は、こんなところでまでその天才性をいかんなく発揮したらしい。

「おいこらクソ雑魚ナメクジ、リョーマに何をする!」

 びしゃん!
 お竜の尻尾が派手に湯に叩きつけられて、ざっぱあと立った湯の白波が以蔵へと襲いかかる。反射的に手をかざして顔を庇おうとはしたらしいものの、湯の量が量だ。
 頭から湯を浴びせられてびっちょりと以蔵は濡れそぼった。
 ぷるるる、と顔を振るのに合わせてしぴしぴと水滴が散る。
 そんな仕草はなんだか犬じみているが、それを口にしてはますますその怒りに油を注ぐだけだろう。
 もうすでに十分怒っているわけだし。

「こンのスベタが、湯掻いて喰うちゃるぞ!」
「ふふん、逆だな、逆。お竜さんが一口ペロリだ。でもまあナメクジなんて美味しくもないし食べたくもないがな!」
「なんじゃとお!!」

 それじゃあまるで以蔵さん、お竜さんに食べられたがっているみたいだよ、なんて突っ込みを挟む余地は既になかった。
 盥の中で鎌首を擡げたお竜と、湯の中で中腰に立ち上がった以蔵の間で盛大なお湯掛け合戦のゴングが鳴り響くのを龍馬は確かに聞いたような気がした。

「死にさらせェ!!」
「クソ雑魚ナメクジの癖にいきがるなよ!!」

 ざぱーんどぱーんぶしゃーん!
 盛大に上がる湯飛沫を眺めながら、龍馬はさりげなくすすすと被害の及ばなさそうな位置に引き上げたわけだが。

「逃げるんか龍馬ァアアアア!」

 ぶん投げられた盥をスコーンと頭にぶち当てられるわ。
 大暴れの果てに湯あたりを起こしてひっくり返った一人と一匹を担いで脱衣場まで引き上げる羽目になるわで、結局一番損な役回りになってしまったのだった。
 

■□■
 

 はたり、はたりと団扇を仰ぐ。
 なんとか浴衣を着つけてやり、負ぶって部屋まで連れ帰った以蔵は畳の上で未だぐったりとノビたままである。
 その腹の上でぐるりとお竜もとぐろを巻いてじっとしている。
 なんだかんだ犬猿の仲であるようでいて、実はこの二人は仲が良いのではないだろうかと龍馬が思ってしまうのはこういう時だ。
 以蔵はお竜を払い落とそうとはしないし、お竜も以蔵の腹の上を陣取って動こうとはしない。

「二人とも大丈夫? お水飲めそう?」

 はたはた。
 はたはたり。
 団扇で風を送りながらそう問えば、うっすらと以蔵の瞼が持ち上がった。

「みず」
「はい」

 かしりと500ミリリットルサイズのペットボトルの封を切ってから渡してやる。
 ゆっくりと身体を起こした以蔵の腹のあたりから、ずりずりとお竜が腿のあたりまでずり落ちていった。
 以蔵は確かにそれに気づいている癖に、先ほどまでいがみあっていたのが嘘のように気にした様子を見せずに龍馬からペットボトルを受け取った。
 よく冷えた水をごきゅごきゅと喉に流し込み、ほうと息を吐く。
 それから、

「お竜、おまんも水飲みぃ、干物になるぜよ」

 腿の上でぐたりと伸びる黒蛇の首元を指先に摘まんで持ち上げた。
 にょろりと伸びる黒蛇の、鮮やかな柘榴色の複眼が以蔵を見る。

「…………、あー」

 お竜が、ぱかりと口を開ける。

「甘える相手が違うろう」

 なんて言いつつも、以蔵はかいがいしくペットボトルの口をお竜の口元に寄せてやり、少しずつ水を飲ませてやり始めた。
 その面倒見の良さが以蔵らしくて、龍馬はついにこにことそんな二人の様子を見守ってしまう。もちろん、はたはたと二人に風を送る手は休めてはいなかったのだけれども。

「お竜さん、大失態。身体に肉がつくと、あれぐらいで弱るものなんだな」
「ほうじゃな、わしも久しぶりじゃき、つい感覚が鈍った」
「湯殿であれだけ暴れたらそりゃあね」

 いつもの霊体であれば、きっとそれぐらいで影響を受けることもなかったのだろうが、今は中途半端に受肉した状態だ。
 人間に限りなく近い肉体であれば、熱がこもりすぎればひっくり返りもする。

「二人が平気そうなら、夕食の支度に入ってもらうけど……」
「わしはかまんが、お竜、おまんはどうじゃ」
「お竜さんも平気だ」

 そう言いながら、口元をぺろりと舐めた黒蛇がふよりと宙に浮かんで身をくねらせる。艶やかな黒の鱗が残像のようにとろりと虚空に溶けて、滲み、拡大し、形を改め――

「龍馬!」
「はいよ!」

 以蔵が怒鳴るのと、龍馬が手元にあった浴衣を以蔵に向かって放るのはほぼ同時だった。
 温泉に持っていきはしたものの、お竜が人の形をとっていなかったが故に使われることなく持ってかえってきたままになっていた浴衣である。
 それを以蔵は空中で鷲掴んで、その勢いを殺さず一息にびらりと広げると己の腰を跨ぐようにして人の形へと再構成されたお竜の華奢ですべらかな白い肩を瞬速で包みこんだ。
 そのままふん縛るかの勢いで前を交差する。
 ぐ、っと浴衣で身体を絞めあげられる形になったお竜が、不満げに唇を尖らせる。
 長い黒髪がつやりと白い肌を這い、着乱れた浴衣を羽織っただけの美しい女が以蔵の男らしいごつりとした質感を伴う腿のあたりに跨る図というのは大変艶めかしい図ではあるのだが、それが以蔵とお竜なのだと思うと急に艶がどこかにいってしまう。
 兄と妹めいた気安さというか。
 人と人ざるものの距離感というか。
 男女の仲を想像させない親密さが二人の間にはある。

「痛いぞ、イゾー」
「娘っこに化けるなら娘っこらしゅうせんかこン阿呆」

 呆れたようなお小言を漏らしながらも、以蔵はぴ、とお竜の浴衣の合わせを整えてやる。それからン、と龍馬に向かって手を突きだすものだから、龍馬もはいはい、とその掌に帯を乗せてやった。

「ほれ、万歳せえ」
「ばんざーい」

 お竜が言われるがままに両手を持ち上げる。
 その腰にしゅるりと帯を回し、以蔵は器用に可愛らしい結びを形作った。
 きっとどこかで結う所作を見て覚えたものなのだろう。
 器用なものだ。
 無骨な男の指先が、可愛らしい帯の結びを完成させる。
 それからぐるりと結びが背後になるように帯を回した。

「ン。これでえい」
「以蔵さん、器用やねえ」
「こンぐらいなんちゃあないき」
「わしにはできんぜよ」
「おまんが不器用なだけじゃ」
「えー……」
 
 そうかなあ、と龍馬は首を傾げる。
 否定したいが、己の生活能力のなさというか、そういった方面での不器用さは自覚してもいる。ここで否定したならば、きっと以蔵は危機として過去の数々の失態を掘り返してくるだろう。
 よし。
 戦略的撤退を決め込んで、龍馬はそそくさと話題を変えるべく、夕食を運んでもらうよう雀の丁稚たちへと呼びかけた。

 ■□■
 
 閻魔亭の夕食は大変豪華だった。
 二人が同郷だということを知っていたからなのか、土佐の名物、カツオの藁焼きなどがメインに据えられ、懐かしい味わいに三人で舌鼓を打つ。
 ほんのりとかおる香ばしい煙の風味と、柔らかなカツオの味を堪能するために添えられるのは醤油ではなく塩と薬味が少々だ。
 匂いのきつい野菜を嫌う以蔵の分も、薬味は龍馬がふんだんに使って味わった。
 その他にも贅と工夫を凝らした膳が並んだものの、それほど料理に詳しくない二人にとっては「よくわからないけど美味しいもの」だ。
 その中でも特に目を惹いたのは、アワビの姿煮だった。
 何せ、小型の鍋の中に恭しく鎮座したアワビは、食卓に載った段階ではまだ生きていたのだから。
 うごうごと蠢く様子に、三人でわあと歓声をあげる。
 鍋の下にはキャンドルが設置されており、女将がにこにこと笑いながらカチリカチリと三人分の鍋に着火していく。
 食べ頃は鍋がくつくつと煮えて、キャンドルの火が消えた頃、なのだそうだ。
 基本的にはカエルを至上の美味とするお竜もこれには興味津々で、「カエルの次の次ぐらいには美味い」なんて言葉を漏らしていた。
 そんな賑やかでおいしい食事を終えた後は、当然のごとく酒宴が始まった。
 様々なつまみを頼んで、三人でわいわいと盛り上がった。
 昔の話。
 最近の話。
 これからのこと。
 話題は尽きなかった。
 たくさん笑い合った。
 げらげらと笑って、笑いすぎて目じりに涙が浮くほどだ。
 いつまでも更けなければ良いと思うほどに楽しくて、幸福な夜だった。

「にゃあ、以蔵さん」

 龍馬の呼びかけに、以蔵は答えない。
 いつの間にか、胡坐をかいた龍馬の膝を枕にすっかり寝入ってしまったようだった。
 そんな以蔵の腿を枕に、お竜もすかー、と幸せそうな寝息を立てている。
 龍馬は一人、そんな二人を慈しむように双眸を細める。
 空け放った障子戸、細く開いた窓の外からは酔いに火照った身体に心地良い冷えた夜気がひやひやと月明りとともに差し込んできている。
 手遊びのように、男らしく陽に焼けた幼馴染の濃い肌色の額をさりと指腹で撫でる。
 そのまま髪の生え際から、癖のある黒髪に指を差し込んで手櫛で梳く。
 周囲を見渡せば、結構な量の一升瓶が乱雑に並んでいた。
 これだけの酒を三人で空けたのだ。
 いくら酒に強い土佐の男とはいえど、これには流石に酔いも回るというものだ。
 実際龍馬だって、十分に酔っている。
 それでも横にならないのは、この夜が往くことがどうにも惜しくてたまらなかったからだ。起きてさえいれば、眠らなければいつまでもこの夜を続けていられるような錯覚に胸を絞めつけられているからだ。
 愚かな感傷だということはわかっている。
 眠りを挟まずとも、夜は明ける。
 世界は進み続ける。
 この先、待つのは不条理な別離かもしれない。
 こうして笑い合って過ごせる夜はこれが最期になるのかもしれない。
 そんな不安は決して杞憂ではない。
 十分にありうる未来の可能性の一つだ。
 だから、龍馬はこの夜が往くのを惜しむ。
 夜明けなど来なければ良いとかつて日の本の夜明けを目指してひた走った男らしくもないことを思ってしまう。
 
「ン、……ンン」

 唸る声がした。
 視線をふと、しらじらと白く染まり始めた山の際から己の腿を枕に寝転がる男へと落とす。

「以蔵さん?」
「……ン…ゥ、……、まだ起きてたんか」

 うっすらと瞼が持ち上がる。
 酒精にとろんと潤んだ月と同じ色をした双眸が瞼の下から現れて、ぼんやりと龍馬を見上げる。

「……うん。なんだか、寝るのが惜しくてね」
「…………」

 そう答えた龍馬の顔は、どんな風に見上げた男の目には映ったのだろう。
 ゆらりと、以蔵の腕が持ち上がる。

「以蔵さ、」

 なんのつもりかと名前を呼ぶよりも先に、その腕がするりと龍馬の首元に絡みついた。
 そのままぐいと引き寄せられて、あっけなく龍馬の身体はバランスを崩して畳間に転がった。腿にはまだ以蔵の頭が載ったままなので、お互いにさかさまに視線を交わすような態だ。

「おまんは賢い癖に時々げにまっこと阿呆になるのう」

 眠たげな声が、言う。

「今日が楽しかったなら明日も楽しいことをすりゃえいろう」

 泣きそうな子どもみたいな顔をしよって、と呆れたような声音がむにゃむにゃと言って、首に絡みついていた腕が持ち上がる。
 犬猫でも撫でるような、それこそ湯あたりを起こしたお竜に対して向けられていたのと変わらぬ気安さで龍馬の頭をわしゃわしゃと撫でた。
 まるで寝付けぬ子どもにでもするような所作だ。
 きっと、いつか以蔵がその弟たちにしていたのであろう所作だ。
 そんな愛情とやさしさのこもった、だからこそっけない所作に、なんだかじんわりと熱いものが喉元まで込み上げてきてしまうような気がした。

「以蔵さん」
「なんじゃあ」

 眠たげながら、呼びかければ返事を返してくれる律儀さにふと笑みの滲んだ呼気が零れた。きっと、明日も、以蔵は龍馬がその名を呼べば面倒くさそうに双眸を眇めながらも、こうして返事を返してくれるのだろう。
 先はわからない。
 わかるのは、今こうして返事をしてくれるこの男が、龍馬が傍にいることを赦してくれているということだけだ。
 ごろりと寝返りを打って、身体をくの字にする。
 脚は枕として以蔵に与えたまま、代わりのように以蔵の腹にぐりすりと頭を懐かせた。

「重い」

 苦情は聞こえないふりをする。

「にゃあ、以蔵さん」
「なんじゃあ」
 
 白み始めた窓の外、未だ夜の濃紺を濃くするそこから吹き込む風には、凛としてそれでどこか甘い梅の花の香が淡く載っている。

「佳い、春やにゃあ」

 ぽつりと呟いた龍馬の声に応えるように、面倒そうに、以蔵の手がわしゃわしゃと龍馬の頭を撫でてくれた。

 

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