この気持ちに何と名前をつけようか。
最近以蔵は、そんなことばかり考えている。
最初は友愛だった。
友としてその男のことを慕っていた。
次は憤怒だった。
友だったはずなのに自分を置いて故郷を出ていった男のことが憎たらしくて、以蔵が助けて欲しいと願った時に傍にいてくれなかった男のことが許せなかった。
そして、今。
果たして、今現在以蔵の胸にあるこの気持ちに何と名前をつけたものか。
カルデアで再会し、少しずつ蟠りが溶けて、酒を酌み交わすようになって。
そのとき以蔵の胸にあったのはかつて抱いていたのと変わらぬ友愛であったように思う。
けれど、ある日の晩に、以蔵とその男はいとも軽々と一線を飛び越えてしまった。
どうしてそうなったのか、今考えてもよくわからない。
なんだか、不思議な夜だった。
いつもは多弁なほどに語る男がやけに静かで、けれどその沈黙は決して気詰まりではなかった。
二人穏やかに杯を傾けては酒精を飲み干し、「えい夜じゃ」と静かに笑いあった。
そうして何度目かのそんなやりとりを繰り返した後に、以蔵のくちびるからとろりと滴った酒の雫を、ゆるりと伸びてきた男の指先が優しく拭っていった。
「もったいない」だとかなんだとか、そんなことを言っていたような気がする。
頬に添えられた素肌の指先が温かで、くちびるを辿る親指の腹が優しくて、それで―――…どうしてだか、男はそのまま以蔵のくちびるから零れた酒の痕を、指で拭ったはずのそこを今度はぬるりと舌先で辿り、そのまま口づけていた。
もしかしたら、そこで以蔵は抵抗すべきだったのかもしれない。
何をしよる、と顔をしかめて、この酔うたんぼめ、と罵ってやるべきだったのかもしれない。
けれどもそのときは何故だかそれが当然なような気がして、以蔵はその口づけに応え、その結果気付いたら押し倒されていたし、そのままうっかり一線を越えてしまったのだ。
それ以来、なんとなく、なんとなく、男との関係は続いている。
違いに気が向いたら身体を重ねて、熱を交わして。
けれどそれでいて、部屋の外での二人の関係が変わったかと言えばこれまたこれまでと何ら変わらない。
世話を焼いて、焼かれ、どついて、どつかれて。
そうなってくると、以蔵にはよくわからなくなってきてしまう。
確かに変わったはずなのに、変わってもいない。
いろいろと形を変えつつも絶えず以蔵の胸にあり続けたあの男への想いは、今一体どんな形をしているのだろう。
この気持ちは今もなお友愛の延長にあるものなのだろうか。
身体を貸し与えてやっても良いと思えるところにまで気を許した親愛なのだろうか。
以蔵は、この胸にある気持ちと、その男との関係にいまいち名前を付けかねている。
■□■
そんな中、バレンタインなるイベントが今年もカルデアにやってきた。
なんでも、意中の相手にチョコレートを贈って気持ちを伝えるものらしい。
マスターは、日頃世話になっているサーヴァントの皆にチョコを贈るのだといって張り切っているし、一方のサーヴァント連中はそんなマスターの気持ちにどう応えようかと頭を巡らせている。
なんとなく、これまたなんとなく、これだ、と思った。
この名前の付けられないふわふわとした気持ちに名前を与えるのならば、きっとこの機会しかあるまいと、以蔵はまるで天啓のように閃いたのだ。
それで早速、以蔵はリサーチしてみることにした。
あの男が飲んべえの癖に甘味も好むというのはこれまでの付き合いからもよくわかっている。おそらくどんなチョコを贈ったところで喜んではくれるだろうが、どうせならあの男がこれまで貰った何よりも喜ぶようなものが良い。
わざわざカルデア内でスキルを使い、気配を殺した上でひっそりと男の様子を観察する。
常に男の傍らにいる女には、また何をやっているんだ、という呆れを含んだ眼差しを向けられたものの、賄賂としてまるまると肥えたカエルを五匹ばかり献上することで手を打って貰った。あの女は過保護であり、男を害しようとするものに対しては過敏なまでに苛烈に振る舞うが、無害なものに関してはわりと寛容だ。
だから、女が以蔵のすることを黙っていてくれたのは、もはや以蔵にあの男を害するつもりなどないのだということがすっかりわかられてしまっていたからかもしれなかった。
それはそれでなんとなく面白くないもので、ことが済んだら不意打ちの一つか二つでもしてやって、べそべそ泣かしてやろうとは思った。
まあ、そんなことは良いのだ。
バレンタインの話で持ちきりのカルデア内だ。
ほんの数日のリサーチで、以蔵は男が欲しがりそうなものに心当たりをつけていた。
ずばり、地球儀チョコだ。
チョコレートばかりを取り扱った華やかな雑誌をマスターがどこからともなく持ち込み、それを囲んで食堂で盛り上がっているのを以蔵はひっそりと観察していたのだ。
その中で男がわあ、と感嘆の息を零したのは、色とりどりのチョコレートで精巧に再現された地球儀の形をしたチョコレートだった。
元より世界のあり方への興味が抑えられず、外へ外へと飛び出し、進み続けた男にはぴったりの、相応しい贈り物だと思った。
だから、以蔵は今度はひっそりとカルデアキッチンの面々に地球儀の形をしたチョコレートが作りたいのだと頼み込んだ。
以蔵が誰の為にそれを作ろうとしているのか、なんていうのはあんまりにもわかりやすかったらしい。
キッチン組はなんだか微笑ましそうに頬を緩め、以蔵へとの協力を惜しまないと約束してくれた。
バレンタインに向けての連夜、以蔵は夜になるとひっそりとキッチンを訪ね、特訓を重ねた。
一番難しかったのは、土台となる球を作ることだった。
半球ずつ型に塗り重ねるようにして冷やし、割らぬようにそっと型から抜き、それぞれを溶かしたチョコレートで断面を塗り固めて球にするのだ。
薄すぎれば型から抜く段階でぱりんと砕けてしまうし、厚すぎても接合が上手くいかない。そのほどほどの加減を身をもって学ぶまでに以蔵はすっかりチョコレートに嫌気がさしてしまうぐらいの量を食べることになった。
以蔵の身体からチョコレートの香りがふわふわと漂うようになった頃、ようやく以蔵の地球儀チョコの土台が完成した。
その間際、地球儀の中にぽいと文を放り込んだのはちょっとした悪戯心だった。
ぱりんと割った地球の中から出てくる文だなんて、面白いんじゃないかと思ったのだ。
中には、正直な以蔵の気持ちを書き綴った。
自分の気持ちに名前を付けかねていること。
なんならお前が名前をつけてくれ、と書いた。
大事なところで他人任せにするのは以蔵の悪い癖でもあるが、これに関しては、きっとこれで良いのだ。
以蔵がわからないことは、あの男が決めてくれたら良い。
それが嫌だと思ったら、以蔵は軽軽とあの男の尻でも蹴飛ばしてやれば良いのだ。
それが、以蔵とあの男の関係だ。
それが、以蔵には許されている。
さあ、その関係に、なんと名前をつけようか。
■□■
そうして迎えたバレンタイン当日。
連日連夜カルデアキッチン組との猛特訓を経て、そろそろ店でも構えられるのではというほどにデコレーションの腕をあげた以蔵は、その技術を尽くしてあの例の雑誌にのっていたのと遜色ないほどの地球儀チョコレートを完成させていた。
チョコレートだけではなく、飴細工も駆使して作り上げた美しく煌めく掌から少しはみ出るほどの大きさの地球儀は、本物の星のようにきらきら艶々と煌めいていた。
それを以蔵が渡してやったときのあの男の顔ときたら!
目を零れ落としそうな勢いで瞠って息をのみ、それを作ったのが以蔵なのだと知った瞬間感極まったように以蔵の背骨をそのままへし折るつもりなのではないかと言わんばかりにぎゅうぎゅうと抱きしめてくれた。
うれしい、うれしいちや、以蔵さん、うれしい。
子どものように繰り返される言葉に、これまでの苦労も報われるようだった。
その日は寝るまで男は大変幸せそうに掌サイズの地球儀を眺めていた。
次の日には、ダヴィンチに頼んで専用のケースを拵えてもらっていた。
それ以降、男の部屋の一等良い場所に、そのチョコはキラキラと飾られ続けている。
「……………………」
やまった。
これは、以蔵のミスだ。
あの男の性格上、なかなか手を付けられないだろうことを見越しておくべきだった。
男は、以蔵からの贈り物がチョコレートであることを理解しているし、きっといつかは食べるつもりではあるのだろう。
けれど、その美しさと、以蔵が手ずから苦労して作ってくれたものであること、そして数少ない以蔵から贈られたものだと思うと、食べるために崩してしまうことを、食べてしまえばなくなってしまうということを酷く恐れているのだ。
もっと普段からいろいろやっておくべきだった。
そんなわけで、以蔵の恋文は未だ宙ぶらりんのままである。
ふわふわとした気持ちは未だ名前がつかぬまま。
まあ、それはそれで。
そういう、肝心な時ほど格好がつかないのもあの男らしくて良いんじゃないか、なんて思ってしまったもので。
なんだかんだ、以蔵はどうにも絆されている。
■□■
明日には食べよう。
明日こそは食べようと。
そんな風に毎日のように明日こそは、と誓い続け、それでも結局以蔵がくれたチョコレートに手がつけられないまま、やがて二月ほどが経過しようとしていた。
専用のケースに飾られた地球儀は、今日も艶々ぴかぴかと美味しそうに輝いている。
バレンタインが近づくにつれて、以蔵の姿を見かけなくなった。
いつもであれば姿が見つけられるような場所でも以蔵の姿を見かけなくなって、もしや避けられているのではと龍馬は大変に心細い思いをした。
一度は憎まれた相手だ。
愛情の反対は無関心などという言葉がある通り、何も思われないよりはまだマシであったかもしれないが、それでもかつては信頼と思慕を湛えて己を見つめてくれていた蜜色の瞳が、爛々と燃えるような憎悪に彩られて己を見るのは大変に堪えた。
そこから、カルデアで陣営を同じくし、少しずつ、少しずつ、距離を詰めて彼のひとの心を蝕む蟠りを少しずつ解いていき、やがては共に酒を呑むところにまでなったのだ。
否。
それどころか、かつてよりもなお、違いの距離は縮まった。
以蔵は、龍馬が触れても嫌がらなかった。
頬に触れ、くちびるを寄せても、驚いたように微かに目を瞠ったぐらいで、やがて口づけても殴られることも罵られることもなかったし、ついにはその身体を暴いても、以蔵は龍馬を斬り捨てようとはしなかった。
それどころか、違いの熱を交わす関係はゆるゆると今も続いている。
続いていた。
そんな以蔵が、ふッと龍馬の前に姿を現さなくなったのだ。
酷く、心細かった。
以蔵が、龍馬に触れることを許したのは気まぐれだろう。
以蔵にはそういうところがある。
気持ちを大事にする男なのだ。
そこに理屈を添えると、言葉にしてしまうと、とたんに以蔵は萎えてしまう。
言葉にすることが得意でもなければ、好きでもない男なのだ。
だから、龍馬は以蔵との関係を言葉では縛らぬようにし続けた。
手に入れようと定義してしまえば、その息苦しさを嫌って以蔵が逃げ出してしまうのがわかっていたからだ。
けれど、気まぐれにより始まった関係は気まぐれに終わったとしてもおかしくはない。
何か以蔵の気持ちを変えるような出来事があって、以蔵は「その気」ではなくなってしまったのかもしれなかった。
どうして避けるの、と喉元まで込み上げる言葉を呑み込んだ。
いつかは以蔵が自分から告げてくれるのではないかという思いもあったし、そうして確認することで全てが終わったことを知るのが怖いという気持ちもあった。
そわそわと落ち着かないまま、バレンタインなどという華やかなイベントを迎え――…そうして以蔵から贈られたのが、地球儀のチョコレートなのだ。
本当に、美しいチョコレート細工だった。
とても手が込んでいることが一目見ただけでもわかるしろものだった。
いくら以蔵が天才だとはいえ、これだけのものを作るにはさぞ苦労しただろう。
その苦労を、以蔵は龍馬のためにしてくれたのだ。
龍馬を喜ばせようと、ずっと準備してくれていた。
その気持ちが何よりも嬉しくて、避けられていたわけではないということがわかって安心もして、ついぎゅうぎゅうと力任せに抱きしめてしまった以蔵の身体からは、まるで芯まで染みついてしまったかのように甘くほろ苦いチョコレートの香りがした。
今ならその肌も、甘く蕩けるのではないだろうかなんて夢想のままにそっと口づけたら、汗のしおの味がした。
久方ぶりに肌を重ねて、それだけで胸が一杯になって、以蔵から貰ったチョコレートは大事に机の上に飾ったまま眠りについた。
次の日、以蔵からそこはかとなく期待の眼差しを向けられているのはわかっていたのだけれども、どうにも掌サイズの星を崩してしまいたくなくて、ダヴィンチに頼んで専用のケースを作ってもらった。
それから、龍馬は、そのチョコレートを明日こそは食べよう、明日こそは、と思いながら今日までずっと手を出すことが出来ないままにきてしまった。
以蔵が、龍馬に食べてもらうために作ってくれたのだということはわかっていたのに。
手が出せないまま時間だけが流れて―――…、ぴかぴかと龍馬の机の上で輝き続けていた美しい星は、ふとした他愛もない衝撃で、ぽろりと土台から落ちてへしゃげてしまった。
「あ…………」
何か、とてつもなく大事なものを失ってしまったかのような喪失感に胸が潰れそうに痛んだ。
こんなことになるのなら、まだつやつやぴかぴかと星の形をしているうちに食べてやれば良かった。こんな風に崩れてしまう前に、ちゃんと食べてやれば良かった。
そんな後悔に泣き出しそうに眉尻を垂らして、龍馬はそうとケースを開けて形の崩れたチョコレートを取り出す。
土台から落ちた衝撃で地球はへしゃげ、罅が入ってしまっている。
そこから手に少しだけ力をいれて、ぱきりと割る。
二ヶ月ほどが過ぎてようやく覚悟を決めて口にする以蔵からのチョコレートは大変に美味しかった。
見た目だけでなく、味にもこだわって作ってくれたのだということを二ヶ月遅れで思い知る。
ぺきり、ぺきりと星を少しずつ崩して、以蔵の想いごと腹にしまってしまうような心地でチョコを食べ進めていって。
ふと、星の中央、空っぽのはずのそこに何か丁寧に折りたたまれた紙が入っているのに気付いた。
■□■
この気持ちはなんだろう。
この気持ちに、お前ならなんと名前をつける。
■□■
「いぞッ、……いぞ、ッ、いぞおさあああああああん!!!!!!!!!!」
その日、カルデアでは甘やかなチョコレートの香りを帯びた維新の英雄が半泣きで全力疾走する姿が見られたし。
べそべそ泣きながら返事が遅くなってごめんねえ、と泣きつくそのひとの背を、呆れたように、それでも優しく撫でてやる人斬りの姿が見られたりもしたのだという。
