龍馬が寝かされていたのは、壁際に箪笥が一つあるきりの何もないがらんとした和室だった。
 布団を敷くでもなく、畳の上に直接転がされていたらしい。
 豆電球だけがぽっちりと灯り、開け放たれた窓から吹き込む涼やかな風にわずかに揺れている。龍馬が寝かされていた畳はわずかに湿気を含んでひやりとしていたものの、汚れてはいなかった。よく手入れされた、しかし古い家、といった印象だ。
 子どものころ訪れた祖父母の家とよく似ている。
 だがここは、決して龍馬の祖父母の家ではない。

「え、ええと」

 額に手を添えて、一生懸命に記憶をたどる。
 夜のうちに荷物を纏め、飛行機のチケットを手配し、朝から高知に飛んで以蔵を訪ねたところまでの記憶は確かだ。
 その後どうしたのだったか。
 玄関先に出てきた以蔵は、ちょうどどこかに出かけようとしていたところで。
 がっかりしつつも離れがたくて、以蔵が行くぞ、といったからそのまま一緒についていって。
 そうだ。
 刷り込みされたひよこのように以蔵の後をついていった結果、何がどうしてそうなったのか全くもって見当もつかないが、飛行機に乗ったのだ。
 よく冷えたビールの味わいに舌鼓を打って、懐かしい古い友と近況を語らって――
 その後の記憶は酷く曖昧だ。
 半分ぐらい夢の世界に足を突っ込んだままゆらゆらと飛行機を降りたのは、なんとなく覚えている。
 夏の終わりだというのに不思議と熱気のこもった空気と、通路の両脇に惜しげもなく並べられた彩る白と紫の華やかな蘭の花に珍しいなあと思ったような気もするし、自分の荷物ぐらい自分で持ちい、と叱られて荷物を受け取ったような気もする。
 その後は何か高台からモノレールに乗り込んで、そこでもまたうとうとと微睡んでしまったせいで何もかもが夢の中の出来事のようで現実感が薄い。
 空調が効いて涼しい車内、窓の外にはもくもくと入道雲と青い空、そして見たこともないどこか異国めいた街並みが覗いていた。
 巨大なブロッコリーのような樹木が街並みの中に唐突に現れるのが異世界の景色のようで、あれなに、と夢うつつにも呟いた龍馬に、隣の以蔵がその木の正体を教えてくれたようにも思うが、残念ながらその名前を思い出すことはできなかった。
 もしかしたら、それは現実で起きたことではなく夢の中での出来事だったのかもしれない。
 それから、やっぱり龍馬が聞いたこともないような駅で降りて、迎えにきたのだという男相手に一言二言挨拶を交わして、車に乗り換え、今に至る。

「えええ……」

 記憶を懸命に辿ってもなおわけがわからなかった。
 その引き換えに、たっぷりと眠ったからだろう。
 ようやく頭がまっとうに働き始めたような気がするが、ここに至るまでがポンコツすぎてせっかく思い出した内容がヒントらしいヒントにもなっていない。
 ゆっくりと立ち上がる。
 ここがどこにしろ、以蔵が連れてきたからには以蔵がいるはずだ。

「以蔵さん、」

 明るい方を目指して部屋を出る。
 廊下は板張りで、龍馬が一歩を踏み出す度にきしきしと音を立てて軋んだ。
 龍馬が普段生活している部屋のようなフローリングではない。
 本当に板を張っただけ、というような態だ。
 木肌はなだらかに磨き上げられているが、フローリングの床にようにコーティングはされていない。
 廊下の壁がふつりと途切れ、居間らしき部屋に出る。

「なんじゃ、おまん、ようやく起きたんか」

 居間から繋がる縁側で涼んでいた以蔵がちらりと龍馬へと視線を向けた。
 片隅に設置された厚みのあるテレビからは、何かニュースのようなものが抑えた音量で流れ続けているが、特にそれを見ていたといった風ではない。
 いろいろと聞きたいことがあったはずなのに、そんな疑問は喉につっかえてしまった。
 以蔵の背後に広がる闇の深さに、目を奪われてしまったのだ。
 それは、都会では久しく見たことのないような闇だった。
 ぬっとりと暗く、それでいて生き物の気配に満ちている。
 明るいのはこの部屋だけで、外の世界はもうすべてとろりとろりと蕩け落ちてしまったかのような錯覚を抱かざるを得ないような昏々とした闇だ。
 すべてを呑みこみ、すべてを溶かし、すべてを内包するような。
 そんな暗闇の中からは、リー、リー、と虫の声やら、ぎぃ、ぎゅう、と何か龍馬には想像もつかないような生き物の鳴き声が響いている。
 ますますもって、ここがどこなのかがわからなくなってしまった。
 未だ夢を見ているかのような現実感のなさに、思わず龍馬はこめかみに手を押し当てようとして――その右斜め後ろより響いたけたましい「ケッケッケッケ!!」という音にビクッと全身を撥ねさせた。

「ひょあ!?」

 間の抜けた声が出る。
 そんな声を出してしまってから、めった、と思う。
 間違いなく以蔵に笑われる。
 そろりと視線を持ち上げてみれば、案の定縁側で寛いでいた以蔵の口元ににんまりと意地の悪い笑みが広がるところだった。

「なんじゃあ龍馬。おなごみたいな悲鳴あげよって」
「いやいや驚くよ、っていうか今の何……?」

 振り返っても、特に音の原因になりそうなものはいない。
 白い壁に、ちょろりと小さなヤモリが這っているぐらいだ。
 一体何の怪奇現象が、と龍馬が顔をしかめていれば、以蔵は楽し気にくっくっくと喉を鳴らして笑った。

「そいつじゃ、そんヤモリじゃ。そいつが鳴いたがよ」
「えええ、ヤモリは鳴かないでしょ」
「ここのヤモリは鳴くぜよ。こんまい癖に、声だけはふとい」

 なかなかに信じられなくて、龍馬は振り返って壁を這うヤモリへとじっ、と疑惑のまなざしを注ぐ。
 ヤモリは、「自分何もしりませんけど?」というよいうな顔をしたままちょろちょろと壁を這って逃げていった。
 それを見送って、とりあえず先ほどの鳴き声の声はおいておくことにした龍馬は以蔵の側へと歩みよった。
 さあ、と湿り気を帯びつつも涼しい風が窓の外から吹き込んでくる。
 寝起きでまだ少し熱を持った身体には心地良く、自然と黒の双眸がほそりと細くなった。

「あの、それで以蔵さん」
「なんじゃ」
「ええと、その。ここはどこで、ぼくはどうしてここにいるの」

 口に出してみると、随分ととんでもない疑問だった。
 まるで記憶喪失の人間めいている。
 だが実際ここにいる理由も、ここがどこなのかもわかってはいないのだ。
 ちらりと龍馬を見上げる以蔵の双眸が悪戯に瞬く。
 それから、以蔵はまるでとっておきの秘密を教えてくれるかのように口を開いた。

「ここは国頭村の安波じゃ」
「クニガミソンノアハ」

 以蔵の隣に腰を下ろしながら、龍馬は神妙な顔で復唱する。
 望んでいた答えを得たはずなのに、やっぱり何一つわからなかった。
 クニガミソンノアハというのは一体どこにあるのか。
 
「クニガミソン、ち言うんは村の名前じゃ」
「ああ、クニガミ村」
「おん」
「じゃあアハは?」
「集落の名前じゃな。山の中にこんまい集落が点在しておってな、それをまとめて国頭村、ちわけじゃ」
「なるほど」

 国頭村の安波。
 
「で、そのクニガミ村はどこにあるの」
「沖縄じゃ」
「えっ」

 沖縄。
 沖縄と言ったか。
 思わず龍馬は周囲を見渡してしまっていた。
 うっすらと赤みを帯びたあかりに照らされる室内は酷く質素で古びている。
 今の中央には平たい大きな机が設置してあり、それ以外には部屋の片隅に厚みのあるテレビが一つ置かれているきりだ。
 がらんと何も置かれていない床の間が寂し気な印象を際立たせている。
 そして、縁側の向こうに広がる生き物の匂いの濃厚な暗がり。
 龍馬が沖縄、と聞いてイメージする華やかな蒼さからはかけ離れた光景だった。
 沖縄といったら驚くほどに蒼い空と青い海がつきものなのではないのか。
 そしてそれに付随するのはこうした古民家ではなく、白壁に緑の椰子の映える南国リゾートだ。
 ますます龍馬の頭上には「?」が飛び交う。

「そ、それでどうして僕はここに?」
「どうせおまん、働きすぎて頭がおかしゅうなっちょるんじゃろ。優しい幼馴染が息抜きさせちゃろってわけじゃ。ああ、旅費は後でしゃんしゃん請求するきの」
「そ、そんな押し売りってあるかい」
「どうせ予定もない癖にほたえなや」
「ぐう」

 ぐうの音しか出なかった。
 確かに以蔵のいう通りなのだ。
 何が食べたいのかすらわからなくなっていた龍馬には、以蔵に会いたい、ということ以外に休暇の目的はなかった。
 もしも以蔵にここに連れてこられていなければ、もぎ取ってしまった十日近い休暇をどうしていいか持て余してしまっていたことだろう。

「でも、どうしてここなの?」
「ちっくと伝手があっての。前に仕事で組んだおんちゃんがここの家主なんじゃ。さっき会ったろう」
「ええとそれは、あれだ、駅まで迎えにきてくれた人のことかな」
「おん。よく覚えちょったな。立ったまま寝てるかと思ってたわ」
「ははは」

 半笑いで、うろりと視線を逃す。
 実際半分くらいは寝ていた。
 なので、一度会った人の顔は忘れない、を心がけている営業職であるはずなのに龍馬の記憶におけるその男の顔はひどく曖昧だ。
 陽に焼けた太い腕と、豪快な笑い声をなんとなく覚えている。

「ここはいわゆる僻地での。畑ぐらいしかありゃあせんド田舎じゃ。やき、こん家は仕事でこの村に来た人に貸すための家らしい」
「そんな僻地なのに仕事で来る人なんているの?」
「学校の先生なんかが多いち言うちょったぜよ」
「ああ、なるほど」

 さらに詳しく話を聞いてみると、国頭村は那覇市の管轄であるらしい。
 那覇市といえば、沖縄の県庁所在地であり、メイン都市だ。
 那覇市の管轄である以上、那覇市に所属する公務員にとっては僻地である安波も職場の一つであるらしく、そうして派遣されてきた公務員のために那覇市が用意しているのがこうした家であるらしかった。
 空き家を那覇市が借り上げ、それを良心的な価格でもって安波で務めることになった公務員たちに提供するのだ。
 とはいえここは家族向けの一軒家で、最近は単身赴任や単身者用に新しくできた方のアパートが人気で、この家は使われなくなって久しいのだとか。
 人の住まない家は荒れるのも早い。
 そのために、以蔵はしばらく前から家の手入れと引き換えに遊びに来ないかと誘われていたのだそうだ。
 家の手入れをしてくれるのなら、無料でどれだけ滞在してくれても構わないというあたり太っ腹だ。
 改めて、室内を見渡してみる。
 きぃきぃと軋んだ板張りの床もそうだし、見下ろしてみればたった今龍馬と以蔵が腰掛けている縁側も風雨にやられたのか随分と木がやせ細り、分解しかけた木琴のような態になってしまっている。
 確かに手入れは必要そうだ。

「以蔵さんは、ここには前にもきたことがあるの?」
「うんにゃ、ここはわしも初めてじゃ。前はもうちっくと南の方におった」
「へえ」
「島袋のおんちゃんともそん時からのつきあいじゃ」

 聞けば、何年か前に沖縄の歴史ある古民家の一つを改修する仕事があり、その時に宮大工として古い木造建築に造詣の深い以蔵にも声がかかったらしい。
 ひとしきりそんな事情を聞きながら、龍馬はふうと息を吐いて縁側の向こうへと視線を流す。
 明るい室内から見ていた外はただただ暗く、ぬっとりとした闇のように見えていたが薄暗い縁側に座っていると次第に目が闇に慣れてくる。
 縁側の下はうっすらと白く、どうやら砂が敷き詰められているらしいというのがわかった。そんな庭の正面には、立派な木が生い茂っている。
 そしてそんな木の枝々に、まるで実るかのようにちかちかと光るものが瞬いていた。
 一瞬星かとも思うが、それにしては随分と距離が近い。
 
「……………、以蔵さん、あれ、なに」
「コウモリがようけ出るち言うちょったきに、コウモリじゃな」
「コウモリかあ……なんかわんさかいるね???」
「わんさかおるな」

 星のように暗い木々をちかちかと彩る小さな瞬きの一つ一つが、小さな生き物の目玉なのだと思うとなんだか尻の座りが悪くなる。
 別段害などないというのはわかっているのだが、馴染みのない動物の群れがすぐ近くにいるのだと思うとそわそわと落ち着かなくなってしまうのだ。
 そんな龍馬の気持ちを察したのか、ゆっくりと以蔵が立ち上がった。

「以蔵さん?」
「おまん、腹は減っちょらんか」

 言われて、そろりと腹を手で撫でてみる。
 言われてみれば、朝から寝てばかりでろくに食べていない。
 そう意識したとたんに腹がぐう、と鳴った。
 あまりにも現金な自分の腹具合にうっすらと目元を染めた龍馬に以蔵はからからと笑った。

「カップラーメンでえいか? ここに来る前に店によって買うてきちょるき」
「食べる」

 すっくと縁側から立ち上がって、以蔵の先導の元に台所に向かう。
 こちらも板張りの、古い造りの台所だ。
 中心には小さなテーブルが置かれており椅子が二脚向かいうあうように収められている。その上には龍馬の見たことのないような調味料が片隅にごちゃりとまとめて置かれており、足元には何か大きな緑色の塊がごろりと無造作に転がされていた。
 縞模様のないスイカのような、巨大化したズッキーニのようにも見える。
 他には何かないかと視線をさまよわせてみれば、お歳暮との熨斗の巻かれたままの米の箱がどどんと鎮座しているのを見つけた。

「以蔵さん、これ」
「ああ、島袋のおんちゃんが置いていきおった。二人で食えじゃと」
「そうなの、ありがたいねえ」

 炊飯器はある。
 かがんで確認してみれば、5キロの箱が三つ重ねられていることがわかった。
 ので、適当なおかずさえ用意できればここにいる間、食べるものにだけは困らずに済みそうだ。
 以蔵がヤカンに水をたっぷりと注いでコンロにかける。
 なんだかそれを珍しいな、とぼんやりと思った。
 東京暮らしの長い龍馬にとって、お湯というのはポットのボタンを押すと出てくるものだ。ヤカンを火にかけて、水から沸かす、という当たり前のことが随分と新鮮に思える。

「龍馬、どっちがえい」
「僕味噌がいいな」
「えいぞ」
「えいの?」
「えい」

 すッ、とリクエストした通りのラーメンのカップを目の前に滑らされる。
 昼間のつまみの時のように意地悪されるのではないかと思っていたもので、若干拍子抜けしつつもつい口元が緩んだ。

「ありがとう、以蔵さん」
「フン」

 会話はそれきりで終わった。
 何をするでもなく、二人ぱちぱちと時折撥ねる火の音を聞きながら、湯が沸くのを待つ。
 特別なことは何もない、どちらかというと無為なひと時だ。
 だというのにそんな時間にひどく安心感を覚えたし、なんの特徴もない至って普通のカップラーメンがここしばらく食べたものの中で一等美味しく、久しぶりに味のあるものを食べたように思えた龍馬だった。

■□■

 
 基本的に、坂本龍馬は寝汚い。
 平日の朝ともなればそりゃあもう念入りに仕掛けた目覚ましのアラームによってどうにか起床し、人としての形を整えて出社していくわけだが、休みの日なんかはもう駄目だ。
 自堕落に昼過ぎまでベッドの住人になっている。
 腹の空き具合が限界を迎えて、ようやくベッドから這い出るのだ。
 だというのに。

「龍馬ァ! しゃんしゃん起きんか客がきゆうぞ!!」

 びりびりと空気を震わせるような大きな声で叩き起こされて、龍馬は眠たげに目をしょぼしょぼと瞬かせた。
 枕元に置いてあったスマホを確認する。
 まだ七時前だった。
 ああこれは二度寝していい時間だ、と判断して、再びもそもそとブランケットの中に潜り込む。が、追撃のように再び「龍馬ァ、起きんか!」と以蔵の声が響く。
 その声がなんだかただ起こすだけ、というよりもどこか助けを求めるような、切羽詰まった響きが籠もっているのに気づいて、龍馬はしぶしぶとブランケットの中から這い出ることにした。
 普段はコンタクトを入れているが、今は寝起きなので枕元においてあった眼鏡をひっかける。着ているのは部屋着のだらっとしたTシャツにだらっとしたトレパンだが、こんな時間に人様を訪ねておいて正装で迎えてもらえると思っているほうが悪いのだ。多少だらしのない格好で出たって、寝起きなのだから仕方ない。
 そんな風に自己弁護しつつ、それでもTシャツの裾を引っ張って皺を伸ばし、ずり落ちかけてたトレパンのゴムを引っ張りあげて正しい位置に戻し、寝癖で乱れた髪に手櫛を通してざっくりとまとめてから声のした方向へと向かう。
 以蔵はどうやら台所にいるらしかった。
 龍馬がのそりと台所に顔を出すと、わかりやすく以蔵が助かったというような面持ちで寄ってくる。
 そして、龍馬の背後に回るとぐいぐいと背中を押して勝手口へと押し出した。
 そこに立っていたのは、一人のおっさんだった。
 白の、肌が透けて見えるような薄いTシャツの裾からは赤黒く日に焼けた肌がにゅっと伸びている。太い眉に、ぱっちりとした二重のどんぐり眼。外国の人なのでは、と思ってしまうほどに濃い顔立ちをしている。
 そんなおっさんが、片手にスーパーの袋をひっかけて立っている。
 寝起きで相対するのには多少レベルの高い相手だった。

「………………」

 思わず言葉が出てこなくなってしまった龍馬に向かって、おっさんは懐こく笑って口を開いた。

「やったーらがしまぶくろぐぁーの客やさ? ないちゃーが来てるっていうからよお、うり! まーさんどー!」

 完全に呪文だった。
 なんだ。
 何を言われたんだ。
 がさり、と音をたててスーパーの袋を差し出されるわけだが、その差し出された袋をどうしたらいいのかがわからない。
 受け取れ、ということなのか。
 それとも何か他のアクションを求められているのか。
 かろうじて「しまぶくろ」というのが聞き取れたが、それは確かここの家主の名前ではなかったか。
 営業職の条件反射めいて口元になんとか笑みを浮かべつつも、龍馬はどうしていいかがわからずに立ち尽くしてしまう。
 おっさんは、そんな龍馬に向かって「うり!」だとか「だあ!」などと言ってくるわけだが、やっぱりどうしていいのかがわからない。
 そうしているとやがて焦れたようににゅっとおっさんの腕が伸びてきて龍馬の手を取った。そして、スーパーの袋を握らせてくる。どうやら受け取る、というのが正しい選択であったらしい。
 持たされたスーパーの袋はずっしりと重く、
 
「動いた!?」

 動いた。
 ごそりとスーパーの薄い袋の中で何かが蠢く感触が掌に伝わってきたもので、龍馬はびゃっと髪の毛を逆立てる勢いで驚いてしまって、思わずスーパーの袋を取り落とした。
 どしゃりとコンクリートの三和土に落ちた袋の中から、ざらっと細かく砕かれた氷が広がり―――その奥から、龍馬の掌より大きい青黒い海老と、見たことのないような鮮やかな色をした魚が出てきた。
 無数にある海老の足がわしわしと蠢く。
 生きている。
 
「「」」

 龍馬と以蔵が言葉を失っているというのに、おっさんの反応は随分とのんびりとしたものだった。

「あいあい、もったいないさァ」

 ゆっくりと屈んで、無造作な手つきで海老やら魚をスーパーの袋に戻す。
 氷もざらざらと手で掬って、袋へと入れる。
 
「そんなしかまんけえ」

 再び、袋を龍馬の手に握らされた。
 今度は落とすなよ、というように、おっさんの分厚い掌がスーパーの袋を受け取った龍馬の手を一度包みこむようにぎゅっと握っていく。
 それからおっさんはにこにこと満足げに笑いながら手を振ってのしのしと去って行った。後に残されたのは、呆然と手からビニール袋をぶら下げて立ち尽くす龍馬と、その後ろに逃げ込んだ以蔵だけだ。

「……い、いぞおさん」
「なんじゃ……」
「今の、しりあい?」
「しらん……」
「しらんの!?」
「しらん……」

 知らない人が早朝にやってきて生きた海老と魚を押しつけて去って行くとは何事なのだ。沖縄ではこれが普通なのか。というか、この持たされた生きてる海老と魚をどうしたら良いのだ。

「……い、いぞおさん~~」

 龍馬の助けを求めるような情けない声に、以蔵がしんみょうな顔でビニール袋の中をのぞき込む。
 たっぷりの氷の中で、びち……と微かに海老と魚が蠢く。

「……まあ、たぶん島袋のおんちゃんの知り合いじゃろ。なんかな。こん島の人ち言うんは、人にモノを食わせるのが好きなお人が多いんじゃ」

 ぽりぽりと後ろ頭をかきながら、以蔵がひょいと龍馬がぶら下げていたビニール袋を取り上げる。

「そうなの?」
「わしが前に来た時もあれ食えこれ食えとこじゃんと持ってこられたきにな。なんていったか。ああ、そうじゃ。かめえかめえ攻撃」
「かめえかめえ攻撃」
「おん。こっちの言葉で食べろっていう意味なんじゃと。年寄り連中が『かめえかめえ』って際限なく食べ物を寄越してくることをそんな風に言うんじゃと言っちょった」
「へえ……じゃあこれもそれかな」
「かもにゃあ」
「で、以蔵さん、それ、どうする……?」
「わしもさすがに海老は捌いたことないがぞ……ちゅうかこがあちんな色した魚、まことに食えるがか……?」
「わからん……」
「わからん……」

 二人して、じっと袋の中をのぞき込む。
 龍馬はてんで料理に関するスキルを持ち合わせていないが、自炊をある程度こなす上に趣味で釣りもする以蔵は簡単な魚ぐらいなら捌くことが出来る。
 魚は最悪他の魚と同じ要領で捌けば刺身で食べられるだろうし、火を通して焼き魚にしてしまえばもっと無難に食べることが出来るだろう。
 だが、海老はどうしたものだろう。
 焼けばいいのか、茹でればいいのか。
 それともこちらも生で行くべきなのか。

「まあ考えるのは後回しじゃ。朝から食う気にゃあならんろ」
「そうだねえ、朝から海鮮はちょっと」

 無造作に以蔵が袋の口をきゅっと結んで冷蔵庫の中に放り込む。
 それから、ぐぐっとノビをして、以蔵が龍馬を見た。

「おまん、もう少し寝るがか?」
「うーん、そうしたい気持ちはやまやまなんだけど、眠気がどっか行っちゃったよね。以蔵さんは?」
「わしはちっくと買い物に行くつもりじゃ。村のな、入り口んとこにこんまい店があったきに」
「へえ、それなら僕も一緒に行くよ。ちょっと待ってて」

 以蔵に待っててもらって、龍馬はぱたぱたと洗面所へと向かい顔を洗い、コンタクトを入れてから着替えを済ませる。
 それから、縁側から外にぽんと放り出した靴を突っかけて外に出た。
 昨夜見た通り、足下に広がるのはさらさらとした砂だ。
 貝を砕いたような不思議な光沢が時折混じっていて、白々とした朝の光の下でちかちかと瞬いている。
 そして、目の前には昨夜コウモリが集まっていた立派な木が庭の空を覆うようにして枝葉を広げている。
 もしかすると日よけの意味合いもこめて植えられているのかもしれない。
 深い緑の葉が茂る中に、よく見るとぽつぽつと小さな実がついてるのが見えた。
 興味を誘われて、比較的低い位置に実っていたそれに手を伸ばして、一つもぐ。
 ふわりと甘い香りが龍馬の鼻先を掠めていった。
 桃だ。
 これは、桃の香りだ。
 ふさふさとした産毛に包まれ、陽に当たる側だけが薄赤く色づき、柔らかくなっている。昨夜のコウモリはどうやらこの果実が目的で集まってきていたらしい。足下をよくよく見ると、食べかけの実がいくつも落ちている。どうやらコウモリたちは熟して甘くなった柔らかな部分だけを食べて、まだ青い半分は食べずに捨てていっているらしかった。
 贅沢だなあ、と少し笑って、それから龍馬は以蔵を振り返った。
 
「以蔵さん、すごいよ。これ、桃だ」
「食えるんか?」
「うーん、どうだろう。匂いは桃なんだけど」

 ごし、と掌で軽く桃の表面を拭ってから、歯を立てる。
 ふかりと柔らかな皮が舌を迎える感触はあまり良いものではなかったものの、ぐっと歯を押し込むとぐじゅりと柔らかく実が潰れてほんのりと甘い桃の味わいが腔内に広がる。
 ただ、普段龍馬が食べるような桃に比べるとその味わいは随分と薄味だ。

「……、ちょっと水っぽいかも」
「ほおん。わしにも一口よこしい」
「ほら」

 龍馬が差し出した桃の果実を、以蔵もがじゅりと一口囓る。

「はは、寝ぼけた味がしゆう」
「本当そんな感じだね。でも、すごいなあ。食べられる実が庭になってるのって、なんだかわくわくするね」
「おん」

 視線を交わして、ふふふと二人で笑いあう。
 なんとなく二人分の歯形の残る桃を手にしたまま、のんびりと歩き出す。
 まだ朝の早い時間だからか、白みの強い日差しは南の島だというのにそれほどキツいとは思わなかった。
 庭を出ると、すぐに道路に出る。
 特に歩道のない道路をてくてくと歩き出すものの、車が通る気配はない。
 どこかで聞いたことのない鳥の鳴き声が響く。
 道の左手には小学校と運動場が。
 右手には畑が広がっている。
 一体何を育てているのだろうと眺めていれば、畑仕事をしていたおばあと龍馬の視線がばちりとぶつかった。

「あんせえ、みかけんにーせーたーやさ、まーかいめんせーが」
「――――」

 やっぱり何を言われているのかは全く分からなかった。
 どう返事をしたものかと顔を見合わせていれば、おばあは二人が自分の言葉を理解していないということに気づいてくれたものらしかった。
 
「やまとんちゅやいびーしが」

 一つ呪文のような呟きを挟んで、

「あんたたち、どこのひとねえ?」

 今度は二人にもわかる言葉だった。
 多少訛ってはいるものの、十分意味はとれる。

「ええと僕たちはその」
「高知から来ゆうがよ、島袋のおんちゃんの客ちや」
「ああ、島袋さんとこの! 話は聞いてるさあ。散歩ねえ?」
「いや、買い物にいこうと思いまして」
「そうねえ」

 と、何気なく言葉を続けようとしていたおばあの視線が、ぴたりと龍馬が手にしたままの桃にとまった。
 きりりと眉尻がつり上がっていくのにまずい、と思った龍馬が誤魔化そうと口を開くよりも、おばあが動き出す方が先だった。

「はっさびよい、キーモモぐぁなんて食べてからに、はっし、そんなにおなかすいてるならこれ持って行きなさい」
「エッ」

 おばあは手にしていたまだ土もついたままの大根を、どっしと龍馬の手に乗せる。
 それだけでは済まなかった。
 まちなさいよ、さっきとったのがあるからね、なんていいながら長靴をかぽかぽ言わせて歩きだし、畑の畦道においてあった籠の中からわっさりと表面の開いた大玉のキャベツなんかも渡してくる。
 はいこれにんじん、とこれまた土のついたままの、いかにも家庭菜園で育てましたといった風な細長い人参まで龍馬の腕の隙間にぐりぐりとねじ込まれてしまった。
 
「うちにバナナとかパパイヤもあるからね、あとで持って行ってあげようねえ!」
 
 トドメにそんな風に言って、おばあはてんこもりの野菜を両腕に抱えることになった龍馬にようやく満足したように口元を緩めた。
 おばあの勢いにたじたじになっていた龍馬と以蔵も、ここまできてようやく我に返って慌ててお礼の言葉を口にする。

「あの、ありがとうございます!」
「ありがとうございます!」

 野菜を抱えて身動きのとれない龍馬の分も、傍らの以蔵がぺこりと頭を深々と下げる。
 ぱっと見は気性荒く、粗雑な男に見えがちな以蔵だが、存外に礼節に関してはしっかりとしているのである。
 そんな二人の反応におばあはぱちくりと一度目を丸くした。
 こうした田舎において、野菜のおすそ分けはよくあることだ。
 むしろ、自宅では消費できない分をもらってもらう、という意味合いすら強い。
 だから、こんなにもしっかりとお礼を言われるのは随分と久しぶりだったし、そんな以蔵の傍らで新鮮な野菜にきらきらと瞳を輝かせる龍馬の様子にはお年寄りならではの世話焼き魂がこれでもかというほどに擽られる。
 その結果、おばあの鋭い視線が畑をぐるりと見渡した。
 そして、これもイケると判断し、真っ赤に熟したトマトを茎からぷつりぷつりとハサミで切り離すと、龍馬のバランス神経の限界に挑むかのように追加して積みあげた。

「これももっていきなさい」

 あああれも、と忙しく縦横無尽に畑を動き回りかけたおばあを、以蔵と龍馬は慌てて制止する。
 
「いやいやもう十分ですきに!」
「本当に! 本当にありがとうございました!!」

 さすがにこれ以上は、持ち切れない。
 すでに腕の中で野菜つむつむと化しているのだ。
 頂上のトマトは今にも転がり落ちてしまいそうになっている。
 おばあは「そうねえ?」なんて残念そうにしているが、これ以上はいけない。
 というわけで改めてお礼を言ったあとは、まるで逃げるように若干速足でその場をあとにする二人だ。
 ずっしりと重い野菜を抱えて、おばあから離れたところでまた少し歩調を落として二人はてくてくと歩き出す。
 以蔵は、今にもぽろりと零れ落ちてしまいそうなトマトだけを助けだし、手の中でぽんぽんと弾ませている。
 畑を過ぎると、大きな橋が見えてきた。
 村をほぼ真ん中から横切るように大きな川が流れている。
 橋を越えながら、ふと龍馬は小さく呟いた。

「ねえ、以蔵さん」
「なんじゃ」
「野菜って、意外と重いものなんだねえ」

 未だ土に汚れ、不格好に広がった葉に包まれたキャベツは、普段龍馬がスーパーで見かけるような艶々ピカピカしたものとは随分と違って見える。
 けれどビニール越しに触れるそれよりもしっとりと柔らかで、みっちりと重い。

「ばあやんが手塩にかけて育てた野菜じゃき」
「うん。うん。そうだね」

 誰かが毎日世話をし、育てあげた野菜だ。
 スーパーで見かける野菜たちだって、もちろんそうだ。
 だけれども、それを龍馬はいつしかスーパーに並んでいる食材、としてしか見れなくなっていた。その野菜を育てる人を、想像することをしなくなっていた。
 だから、おばあの育てた野菜というのが随分と特別なものに思える。
 この野菜はどんな味がするのだろう。
 そう思うと、ごくごく自然にぐぅと龍馬の腹の虫が鳴いた。
 
 
 
 
 ■□■

 その店は、橋を越えて少し歩いたところにあった。
 村の入り口近くに構えられた、小さな店だ。
 ほぼ真四角のコンクリート製の平屋で、入り口にはでかでかと「安波共同売店」などという木製の看板が掲げられている。

「共同、売店」

 思わず読み上げる。
 スーパーやコンビニではなく、共同売店。
 ほわー、と看板を見上げていれば、見慣れぬ顔をいぶかしんだのか店の奥から若い女性の声が響いた。

「どうしたの、なんか困ってる?」
「ああ、いえ、共同売店って初めて見たなあと思って」
「まあ小さな村だからねえ。村の連中でお金を出し合ってやってる店であるわけさ」

 なるほど、と龍馬は納得する。
 確かに純粋な商売として店を出すには、この村は規模が小さすぎるように思える。
 外に比べると少し薄暗くも感じられる店内に足を踏み入れると、レジの向こうに座った女性の姿ははっきりとわかるようになった。
 年は高校生ぐらいだろうか。
 黒のタンクに、ジーンズ生地のホットパンツというちょっと目のやりどころに困る格好だ。にゅっとホットパンツのすそからは陽に焼けた形の良い脚が伸びている。
 だが、不思議と下心をそそられるような印象にはつながらなかった。
 野生の美しいいきものを見たような感慨に近い。
 龍馬たちから彼女がよく見えるようになった、ということは彼女の方からも龍馬たちがよく見えるようになったということだ。
 彼女は店に入ってきた二人に驚いたように目をぱちぱちさせると、きょろきょろと周囲に視線を巡らせて何かを探し始めた。

「?」
「?」

 龍馬と以蔵は顔を見合わせる。
 ひとしきり周囲をうかがってから、彼女はきょとりと首を傾げた。

「にいにいたち、テレビの人じゃないの?」
「テレビのひと?」
「芸能人」
「違うよ!?」
「なんだ、違うば~、テレビ映れるかと思ったのに」

 あはは、と彼女は残念そうに唇を尖らせながらもあっけらかんと笑う。
 高校生ぐらいだろうか、と思っていたもののそうやって笑う顔は最初の予想よりもずっと幼げに見える。
 接客というだけでなく、彼女と比べれば幾分か年長にあるであろう龍馬や以蔵に対しても敬語ではなく地元の訛り交じりの言葉をそのままぶつけてくるあたり、普段から敬語を必要とするような外部の人間との接触がないのだろうことが窺える。
 そのひどく邪気のない言動に、龍馬も以蔵も思わず小さく口の端に笑みが乗った。
 
「にいにいたちしかイケメンだから、絶対芸能人だと思ったのにな~。あ、なんか買いにきたの?」
「うん、朝ごはんになりそうなものをね」

 身軽に店の棚を覗きにいった以蔵に代わり、龍馬は応える。
 そんな龍馬の返答に、彼女はわかりやすく気の毒そうな顔をした。

「???」
「朝ごはんになりそうなやつっていったらパンとかそういうやつでしょ? たぶんもう売り切れてるはずよ~」
「売り切れ?」
「あんま入れんからねえ」
「そうなの?」
「共同売店だからさあ。基本はなんか日持ちするやつとか、ないと困るやつぐらいしか置いてないわけ」
「あー……」

 村の人たちの共同出資で成立しているのが共同売店だというのなら、確かに村で売れるものしか置かないのも道理だ。
 手近の棚を覗いてみれば、そこにはごみ袋やら、農具の類やら、割りばしや紙皿、虫よけスプレーや蚊取り線香といった日用品が雑多に並べられていた。
 スーパーやコンビニというよりも、品揃え的にはホームセンターに近いような印象を受ける。

「食べられそうなものは置いちょらんのか?」
「この時間だとあんまりないなあ。昼すぎに仕入れの車が来るから、そしたらちょっと増えるけど。今あるのは缶詰と卵とアイスぐらいだはず……」
「じゃあ、昼過ぎにきたら食べ物を買えたりするのかな」
「ううん……」

 龍馬の問いにも、彼女は渋い顔のままだ。

「この村の人はさ、皆自分たちの食べる分は一週間に一回名護のスーパーとかで買ってくるわけよ。だから、この店に置いてるのは買い忘れて困ったりしたやつとか、名護に出るほどじゃないけどまああったら便利だよね、みたいなものばっかりだばあよ」
「あー……」

 またしても龍馬は納得の声をあげてしまう。
 この店を食料品を買うために利用する客、というのは最初から想定されていないのだ。
 皆各自自宅で食料はやりくりしていて、たまに買い忘れなどで困ったときにふと利用する、ぐらいだからこそここには日持ちする缶詰や米といったものぐらいしか置かれていない。

「参ったな……名護、っていうのはここから歩いていける距離かい?」
「名護までは車でも二時間かかるよお!」

 最寄りのスーパーまで、車で二時間。
 龍馬が思っていた以上に、ここは田舎であるらしかった。
 それでははてさてどうしたものかと顔を曇らせていれば、少女は名案とでも言うようにポンと手を鳴らした。

「野菜あるんだし、チャンプルーでも作ればいいさー」
「チャンプルー?」
「麩もあるから、フーチャンプルーにしたらいいやんに?」

 ひょいと彼女はレジの中から出てくると、すたすたと陳列台に向かう。
 そして、何やら手に取ったものをずいっと以蔵へと突きだした。
 何かおせんべいでも入っていそうなパックが一つと、缶詰が一つ。
 パッケージの中には、フランスパンのような薄茶の棒が二本ほど収まっている。

「スパムと一緒に炒めたら味クーターで美味しいよー」
「ほにほに」
「にいにいたち、塩とか胡椒とか出汁の元とかあるね?」
「あったと思うちや」
「それなら大丈夫!」

 彼女は適当なチラシの裏に、すらすらとレシピを書いていってくれる。
 野菜を抱えている龍馬に代わり、以蔵が手際よくそのレシピを元に、買い物を済ませる。
 何か食べられるものを、と手軽に朝食を済ませるために買い物にきたはずなのに、何故だかてんこもりの食材を手に入れて帰ることになった二人だ。
 ちなみに家までの帰り道、待ち構えていたおばあにぱんッぱんに膨らんでずっしりと重いスーパーの袋を追加で渡されたのは言うまでもない。
 
 
 
 
■□■
 

 
 台所の机の上に、買ってきたものと貰ったものをずらりと並べていく。
 キャベツ、大根、ホウレンソウ、トマト、ニンジン、バナナ、シークワーサーに、パパイヤ、そして何か得体のしれない塊。
 食材だけでも壮観なのだが、一際目を引くのは帰りがけにおばあに渡された袋の中に入っていた謎の物体Xである。

「……これ、なんだろう」
「なんだろうにゃあ……」

 固そうな表皮が大振りの鱗のように表面を包む、卵型の何かだ。
 とげとげと外向きにわずかに開いた表皮は、鮮やか赤地にその先端だけが緑といった色合いをしている。未だかつて二人が見たことのない植物だ。
 くん、と匂いを嗅いでみると、わずかに甘酸っぱいような香りがするもので、食べられる果物ではあるのだろう。

「おまん、これが何なのか調べちょき。わしは朝飯の用意をするきに」
「うん」

 大きさとしては、片手の平からははみ出るほど。
 南国フルーツの王様であるマンゴーより一回りほど大きいぐらいだろうか。
 特徴的なのはやはり鱗状の表皮だろう。
 「沖縄 珍しい果物 うろこ とげとげ」を検索ワードに放り込む。
 答えはすぐに出た。

「以蔵さん、これ、ドラゴンフルーツって言うんだって!」
「ドラゴンフルーツ? 食えるんか?」
「うん、あっさりとした味で美味しいみたい」
「まことか……?」

 洗った米を炊飯器にセットしていた以蔵が、明らかな疑惑の眼差しをテーブルに乗ったままの謎の物体Xへと向ける。
 その警戒心の強い野生の生き物のような目つきに思わず笑ってしまいながら、龍馬は検索結果の画面を以蔵にも見せる。

「サボテンの実の一種で、中はこうなってるみたいだよ」

 縦に二つに切られた断面図には、白い果肉に黒い小さな粒が細やかに散っている。
 いかにも南国の果物といった感じだ。
 ほうん……と、未だ信用しきれないように頷いた以蔵に、食後のデザートにでもしようか、なんていって龍馬はドラゴンフルーツを冷蔵庫にしまう。
 冷やして食べるとより美味しいらしい。
 それから二人で野菜を洗ったり、シークワーサーやトマトのつまみ食いをして米が炊けるまでの時間をのんびりまったりと過ごした。
 朝目を覚ましてから結構ゆっくりとしたように思うのに、時計の針はまだ九時にさしかかったばかりだ。
 小一時間ほどたって、しゅうしゅうぷすぷすと炊飯器から漏れる蒸気の音が賑やかになったところで、以蔵がフーチャンプルーなるものを作り始める。
 手伝おうかと申し出てはみたものの、おまんはえいから座っちょき、と戦力外通知を出されてしまったので、龍馬はおとなしく椅子に座って台所に立つ以蔵の後姿を眺めることにした。
 時折傍らのレシピを覗きこんだりしながら、以蔵は危うげなく包丁を操り、料理を進めていく。とんとととん、とのリズミカルな包丁を使う音が耳に心地よく、さらには次第に出汁と醤油のあわさったような大変良い香りが広がり始める。

「龍馬」
「なんだい、以蔵さん」
「そろそろ米も炊けちょるろう、よそい」
「はあい」

 戸棚の中からどんぶり茶碗を二つ取り出し、ほかほかと湯気を上げる炊き立ての白米をもりもりと盛る。

「以蔵さん、どこで食べる?」
「居間じゃ、居間」
「はあい」

 居間の低い食卓に二人分のごはんを向い合せに用意し、箸と、冷蔵庫で冷えていたお茶の容器を取り出してコップに注ぐ。
 色合いからして麦茶かと思っていたそれから、ふわん、と花にも似た香りが鼻先を掠めて龍馬は思わず目をぱちくりとさせた。
 全く知らぬ匂いというわけではない。
 確かこれは。

「以蔵さん、これ、ジャスミンティー?」
「おん。こっちじゃ麦茶替わりにジャスミンティーを飲みゆう。戸棚にパックがあったき、作っちょいた」
「そうなんだ。いい匂いだね」
「さんぴん茶、ち言うらしいぞ」
「へえ」

 さんぴん茶。
 家庭で麦茶替わりにジャスミンティーが出てくると思うとなんだかとてもお洒落なのに、さんぴん茶、と言われると急にローカルな匂いがしてくる。
 ふふふ、と思わず龍馬が小さく笑っていると、どん、と目の前にフーチャンプルーがどかんと盛られた大皿が置かれた。
 見た目は、野菜炒めによく似ている。
 キャベツやニンジン、玉ねぎは先ほどおばあから貰ったものだろう。
 その中に、何かたっぷりと汁気を吸った薄茶のものが混じっているのに、龍馬はゆるりと首を傾げた。

「以蔵さん、この白っぽいのなあに?」
「麩じゃ」
「麩?」
「おん。喰うてみ」

 いただきます、と一度手を合わせてから、早速その麩とやらへと箸を伸ばしてみる。
 龍馬だって、麩が何なのかを知らぬわけではない。
 よくお味噌汁や煮物などに入っているやつで、スポンジのような食感の、どちらかというと出汁を美味しく味わうための、それ自体にはこれといって味に特徴のない食材だ。
 と、思っていたのだが。

「ん、んん?」

 舌で潰すと出汁を吐きながらそのままぺちゃんとなる至って普通の麩を想定していた龍馬の舌先に、意外なほどにもちりとした弾力が跳ね返る。
 出汁を吸ってふっくらとしたその弾力は、どちらかというと豆腐や卵のそれに近い。
 舌と口蓋の間でぎゅっと圧を加えても汁があふれる、というようなことこそないもの、柔らかな弾力の中に様々の野菜と出汁の合わさった旨味がたっぷりと閉じ込められている。
 濃いめの味付けにすぐにごはんが欲しくなって、龍馬はもぐりと大きく白米を頬張った。予想通り、大変ごはんに合う。

「おいひい!」
「口の中のもん飲み込んでからしゃべりい」

 ぴしゃりと叱られて、龍馬は慌ててもぐもぐと咀嚼して、口の中にあったものを飲み込んだ。

「以蔵さん、これ、すごく美味しい!」
「ほうかえ、そりゃあ良かった」

 言葉自体はそっけないものの、以蔵の口元を彩るのも大変満足げな笑みだ。
 ドヤドヤとしている。
 昔から龍馬は、この顔をした幼馴染のことは褒め倒すことにしている。

「以蔵さんはげにまっこと料理上手やにゃあ。天才ちや。レシピがあってもわしにはできん。すごいにゃあ、さっすが以蔵さんじゃ」
「ふふん。褒めてもなんも出んぞ」
「おかわりは?」
「出る」

 出た。
 ふへへと口元を緩めながら、野菜も口に運ぶ。
 しっかりと火が通ってしんなりとしつつも、歯ごたえのあるキャベツは噛めば噛むほど素材の甘味が染み出してくるようだし、細く短冊に切られたニンジンも柔らに出汁の味わいを吸いながらも素材の甘味を損なってはいない。
 炊き立ての白米も、粒がたってもちもちと美味い。
 舌を焼きそうな熱感すら、作り立てなのだと思えば贅沢だ。

「わしにゃあ」
「おん」
「こんなに美味いもん食うの、久しぶりかもしれん」
「…………、」

 本当に、心の底からそう思った。
 あり合わせの野菜を炒めた、きっとなんてことはない家庭料理だろう。
 高級な食材なんて使ってはいないだろうし、特別なメニューでもないはずだ。
 けれどそれでも、このフーチャンプルーが龍馬にとっては世界で一番の御馳走であるかのように美味しく思えたのだ。

「龍馬」
「ん?」
「やる」

 向かいから身を乗り出した以蔵が、龍馬のどんぶりの上にどどんと大きな麩の塊を乗せてくれた。
 ふへへ、と口を緩めて、早速大口を開けて頬張る龍馬を横目に以蔵の傾けたコップの中で、氷がからころと涼し気に鳴った。
 
 
 
 ■□■
 

 
 

 食後の片づけは龍馬だ。
 以蔵に食事の用意を任せてしまっている以上、片付けぐらいはさせてもらわないと釣り合いがとれない。
 二人分の食器を流しに運び、洗って乾燥棚の中に並べておく。
 そこでふと、冷蔵庫の中で冷やしたままになっているドラゴンフルーツのことを思い出した。

「以蔵さん、ドラゴンフルーツ食べる?」
「………………」

 とたとたとた、と以蔵の足音が背後から寄ってくる。
 食べる、と即答するほどドラゴンフルーツが食べられる果物であるという事実を信用しはしていないものの、要らんと拒絶しない程度には好奇心が擽られているものらしい。
 口の端に小さく笑みを浮かべて、龍馬は冷蔵庫の中からよく冷えたドラゴンフルーツを取り出す。
 確かネットで調べたところによると、縦に真っ二つにして、あとはスプーンで掬って食べても良いのだそうだ。
 下手に切り分けたりするよりは、その方が楽なので、そうすることにする。
 じゃぷじゃぷと軽く流水でドラゴンフルーツの表面を洗って、ごろりとまな板の上に転がす。
 見れば見るほど食べられる果実だとは思えないような形をしている。
 すいっと包丁で軽く切れ込みを入れて、そこからぐっぐ、と体重をかけてドラゴンフルーツを二つに切り分けていき――

「え」
「ひえ」

 二人の、ひッ、と息を呑むような声が重なった。
 ぷしりと龍馬の入れた切れ目から溢れた果汁は、毒々しいほどに鮮やかな赤い色をしていた。否、赤というよりもショッキングピンクに近いかもしれない。
 こんな色がはたして自然界に存在していて良いのか、と思ってしまうほどに鮮やかなピンクだ。そんな汁がとぷとぷと果実の裂け目からあふれ出してきたのである。
 これは、さすがの龍馬も想定外だった。
 ネットで調べたドラゴンフルーツという果物は見た目こそ龍馬の目の前にあるものと同じだが、その中身は白かった。
 龍馬はドラゴンフルーツという果物に対する知識は全くないが、とりあえずあの白い果実からこんな凄まじい色の果汁が出てくるはずがないということだけはわかる。

「な、なんじゃあ……」

 背後からのぞき込んでいた以蔵が、完全に怯みきった声をあげる。
 そんな弱気の滲んだ声に、逆にぼくがやらねば、と龍馬は決意を固め、ぐいぐいとさらに包丁を押し込むようにして、ドラゴンフルーツを真っ二つに切り分ける。
 ぱかりと開いた鮮やかな切り口はやっぱり目に痛いショッキングピンクをしていて、かろうじて龍馬がネットで見たドラゴンフルーツとの共通点をあげるのなら、果実中に散った黒く細かい胡麻のような種は同じであるようだった。
 白かったまな板が、真ッピンクに染まっている。

「以蔵さん」
「わしは食わんぞ」

 即答だった。
 食べてみないか、と皆まで言うより早い拒絶だった。
 龍馬だって、さすがにこの色をした果物を口に入れるのは勇気が要る。
 だが、あのおばあが食べられないようなものを寄越してくるとは思えなかったし、思いたくもなかった。
 せっかく貰ったものなのだ。
 美味しく食べたい。
 スプーンを握りしめ、龍馬はごくりと喉を鳴らす。
 それからそろそろとスプーンを果実に差し込んでいく。
 しゃりり、と微かになる果実とスプーンの擦れる感触は、梨や柿に近いような気もする。
 ほんの一口分、スプーンの半分にも満たない量を掬って、恐々と口に運ぶ。
 もぐ。もぐもぐ。

「……あ、意外と美味しい」
「…………」

 以蔵からは正気かおまん、というような目を向けられているが、至極正気である。
 見た目はなかなかにアクの強いドラゴンフルーツだが、その味わいはあっさりとしていた。食べやすいほのかな甘みと、さっぱりとした酸味の味わいは、例えるならばキウイによく似ている。決してまずいものではない。

「見た目はともかく、味は良いよ。さっぱりしてて食べやすい。以蔵さんが食べないなら、僕食べちゃうけど」

 うん、美味しい。
 そんな呟きを挟みながら、龍馬は半分に切ったドラゴンフルーツを手に乗せてもぐもぐと食べ続ける。
 以蔵はしばらくそんな龍馬の様子を眺めた後、おそるおそるというようにもう半分のドラゴンフルーツへと手を伸ばした。

「不味かったり、腹壊したりしたらおまんのせいじゃからな」
「なんでも僕のせいにするの良くないと思うよ」
「じゃかあしい」

 ぎゅむりと足を踏まれた。
 理不尽、と言い返しはするものの、互いに素足なので痛くも痒くもない。
 じゃれ合いの範疇だ。
 厭そうに眉間に皺を寄せつつ、それでも覚悟を決めた面持ちで以蔵がショッキングピンクの果実を口に運ぶ。
 極々少量を、念入りに吟味するようにもむもむと味わう様子は酷く警戒心の強い小動物のようで微笑ましい。

「………………」
「どう?」
「……わりと、イケる」
「でしょ!」
「……おん。見た目のわりに、さっぱりしゆう」
「うんうん、食べやすいよね」

 味わいがくどくないので、さらりと一つぐらい食べられてしまいそうだ。
 二人台所で立ったままドラゴンフルーツをいただく。
 あまり行儀の良いことではないが、ここは南国で、一緒にいるのは互いに気ごころの知れた幼馴染なのだ。
 食べ終わった中身の繰りぬかれたドラゴンフルーツの皮を生ごみの袋の中に放り込み、ピンクに染まったまな板をじゃぶじゃぶ洗う。
 が、何度洗っても染み付いたピンクが落ちないことには閉口した。
 キッチン用洗剤を使っても駄目で、湯で洗っても駄目で、とりあえず最後の手段として漂白剤を混ぜ込んだ洗剤の中に漬け込んでみているが果たして落ちるかどうか。
 以蔵がどこからか持ってきた金盥の中にまな板を漬け込んで、漂白剤特有のツンとした匂いを放つそれを勝手口の外に置く。
 ふう、と息を吐いて台所に戻ると、以蔵がジャージのズボンのポケットからくしゃりと潰れた煙草のパッケージを取り出しているところだった。

「おまんも吸うか」
「あー……、」

 少し、迷う。
 社会人になってしばらく、煙草は辞めていたのだ。
 ここ最近はめっきり嫌煙家が増えたし、営業職としては顧客に厭な印象を与えるのは避けたかった。
 それに何より、ゆっくりと煙を吹かす時間などなかったように思う。

「いいの、かな」

 小さく呟く。
 誰に、なんの許可を得ようとしているのか、自分でもよくわからなかった。
 それを以蔵は、人の家で煙草を吸っていいのかどうかの許可を求められていると受け取ったようだった。
 おん、とそっけなく言いながらも、煙草を摘まんだままの指先がすっと流しの片隅を指す。そこには、だれかの手作りなのか、不器用にこねられた焼き物の灰皿が置かれていた。

「……………」
「要らんならえい」
「や、もらうよ」

 流しに体重を預けて立つ以蔵が、すいと煙草のパッケージを高く擡げる。
 何を言われたわけではないものの、意図を察して龍馬は軽く屈んで端から飛び出していた煙草の端を唇で咥え取った。

「火も貰えるかい」
「ン」

 ぴこりと以蔵が咥えたままの煙草の端が揺れる。
 ははと笑って、顔を寄せた。
 咥えた煙草の端と端がじじりと音をたててふれあい、すぅと吸う龍馬の呼気に合わせてやがてぽっと火種が移る。
 ふわりと紙の焼けるどこか香ばしい匂いがまずは鼻先を擽って、やがて本格的な煙草らしい濃厚な煙が咥内を満たしていった。
 少し、喉にいがらっぽく感じられるのは随分と久しぶりだからだろう。
 濃い煙の味に、頭の芯がくらくらとするような酔いにも似た感覚を覚える。
 それが心地よくて、龍馬の双眸がすぅと細くなった。
 煙が、美味しいなんておかしな表現だとは思うけれど、長閑な日差しが差し込む台所で、立ったまま、だらりと椅子の背に腰をひっかけて煙草を吹かすなんて日常の中におけるちょっとした悪さがなんとも言えず贅沢で、煙の味わいを惹きたてる。

「結構重いのやってるんだね」
「煙草も随分と高くなったきの」
「なるほど」

 質をあげて量を減らす作戦に出ているらしい。
 ふぅ、と吐き出した紫煙が、以蔵の吐き出したそれと混ざってふわふわと空気に溶け込んでいく。
 すいと手を伸ばせば、以蔵が灰皿を差し出してくれた。
 トン、と指先で軽く煙草を叩いて灰を落とす所作は龍馬自身が驚いてしまうほどにスムーズだった。
 三つ子の魂百までというわけではないだろうが、一度癖付いた所作というのはそう簡単には抜けないようだった。
 煙草の味なんて忘れたと思っていたのに、吸い方だけは今も覚えている。

「昔さ」
「おん」
「夜中によく二人で吸ったよね」
「ああ、ベランダでな」
「玄関先でっていうのもあったよね」
「あったあった」

 二人でくつくつと喉を鳴らして笑い合う。
 賃貸の部屋に煙草の匂いがつくのは避けたくて、でも吸いたくて、二人でベランダやら玄関先やらで吸ったものだった。
 大体そういうのは真夜中で、龍馬の記憶の中の煙草の味わいというのは大体夜の印象と根強く結びついている。
 しんしんと暗い夜の、明かりが絶えて眠りに沈んだような住宅街の片隅で、二人で小さな火を分け合って、紫煙をくゆらせるのだ。
 今は明るい昼前の時間で、室内とはいえ決して暗いわけではない。
 けれど、外が白むほどに明るいもので室内は対照的に暗く沈んでいるように思えた。
 ほの暗い水底にいるような、そんな気になる。
 外は明るく、健全な昼なのに龍馬と以蔵のいる台所だけが薄暗く、それがいつかの夜に似ているような気がしてしんみりと郷愁にも似た懐かしさに胸が締め付けられる。

「懐かしいなあ」

 しみじみと呟く。
 たった数年前のことなのに、もう随分と昔のようだ。
 二人の秘密だけのような夜を重ねた日々は、きっともう取り戻すことはできない。
 他愛のない話に二人で馬鹿みたいに笑って、思い立ったらコンビニまでてくてく歩いて、結局何も買わずに戻る道すがら朝焼けを見上げて「おーの」と呟くような日々は、きっと。

「おい」

 と、そんな切なさを蹴とばすような無造作さで、以蔵が口を開いた。

「おまん、これからどうする」

 過去に飛びかけていた意識を引き戻されるような心地で、龍馬は一度ゆるりと瞬く。

「特に予定はないけれど……以蔵さんは?」
「わしは仕事があるき」
「仕事って?」
「こん家の手入れじゃ」
「手伝おうか」
「えいえい、おまんがおっても邪魔なだけじゃき」

 ひらひら、と犬猫でも追い払うような手つきでしっしと手を振られてしまった。
 煙草一本分の時間を共有して、以蔵はさっさと仕事の支度を始める。
 龍馬に手伝わせるつもりは全くもってないらしく、ちらりの視線すらくれない。
 すっかり所在がなくなってしまって、はてさてどうしようかとぼんやり立ち尽くしていれば、散歩にでもいってくりゃえいろう、と呆れたように言われた。
 そうか、散歩か。
 ゆっくりこの村を見て回るのも良いかもしれない。

「それじゃあ以蔵さん、僕、ちょっと出てくるね」
「おん」

 そっけなく手を振られて送り出されて、龍馬は靴をつっかけててくてくと歩きだす。
 まずは朝と同じルートをたどって道に出て、それから今度は売店があったのとは逆の方向に向かって歩き出してみた。
 横手にはこじんまりとしたグラウンドが広がっている。
 こんな小さな村にも学校はあるのだな、なんて若干失礼な感慨を抱きつつ、さらに進むと校舎の裏手に大きな川が流れているのに出くわした。
 こちらもまた、村を横切るようにだくだくと流れている。
 どうやら朝も通った橋の下を流れて村を横切った川がぐるりとまた曲がって、ここで再び村を横切るような形になっているらしい。
 橋の向こうに続く道は大きく蛇行していて、その先がどこに続いているのかは伺うことができない。
 ただ、両脇がジャングルのような木々に覆われているので、人が住む村の領域はこの橋で終わっているのだということが龍馬にもわかった。
 共同売店があったあたりから、ここまでは安波という村なのだ。
 川を覗き込んでみる。
 水は澄んでいて、浅瀬では水底に沈む石まで数えられそうだ。
 深いところは緑がかった色合いをしていて、時折ちらつく銀色はどうやら魚影らしかった。

「そういえば」

 売店では、釣り竿も売っていた。
 子どものおもちゃのような釣り竿で、本格的に魚を狙えるようなものとはとても思えなかったが、幸いながら龍馬には時間だけはたっぷりとある。
 釣りにいそしんでみるのも悪くはない。
 2、3匹でも釣り上げることができれば、以蔵への土産話にもなるだろう。
 いつもの癖でジーンズのポケットには長財布が捻じ込まれている。
 そうと決まればと龍馬はふふんと鼻歌混じりに売店に向かって歩き始めた。

 ■□■

 2、3匹でも釣れれば、なんて思って始めた釣りだったわけなのだが。
 釣りを始めて数時間もしないうちに龍馬が用意したバケツは銀色の鱗の光る魚でみちみちになっていた。

「……うわあ」

 どう考えても、釣りすぎた。
 最後の一匹など、バケツから尻尾がでろりとはみ出ている。
 びちりと撥ねた拍子にでも零れ落ちてしまいそうだ。
 その下にもみちりみちりと折り重なるように魚が詰まっていることを考えると、とてもではないが人道的な環境とは言い難い。
 釣り糸を垂らすそばから面白いように食いつかれるもので、夢中になって釣りを楽しんだ結果がこれである。
 一匹一匹は龍馬の掌と同じぐらいか、それより一回りほど大きいぐらいの大きさだ。
 平ぺったく、龍馬が知っている魚の中では鯛に似ているような気もする。
 が、あれは海にすむ魚で、これは川魚だ。
 食べられる魚かどうかよくわからないが、せっかく釣ったのだから以蔵にも見てもらおうと龍馬は釣り竿を肩に乗せると、ずっしりと重くなったバケツを片手にぶら下げて帰路につく。
 ふと見上げた空は驚くほどに真っ青で、水平線に近いところではもくもくと濃い白の雲が凝っている。
 午後にさしかかり、日差しは南国らしく随分ときつくなっていた。
 日向で釣りに勤しんでいたせいで、首の裏がじりじりと熱を持っている。
 売店では麦わら帽子も売っていたっけと思い出して、明日はそれも買おうなんて決意した。
 家につくと、勝手口から台所に上がる。
 三和土に魚が溢れそうなバケツを下ろして、以蔵を探す。
 以蔵はどうやら軋む廊下の床の張り替えをしているところだったらしい。
 床板を剥がしてその下にいるせいで、床から上半身だけが生えているようにも見えて一瞬ギョッとする。

「なんじゃ、幽霊でも見たような顔しおって」
「だって以蔵さんが床から生えてるんだもん」
「人が床から生えるかよ」
「だから驚いたんだよ。それより以蔵さん、ちょっと見てほしいものがあるんだけど」
「なんじゃ」

 と、言いつつ以蔵が手を伸ばしてくるもので、その手をつかんでぐいと龍馬は以蔵を床下から引き上げてやる。
 そのまま以蔵の手をひいて台所に向かい、ドヤ顔で魚に満ち満ちたバケツを披露した。

「すごくない?」
「龍馬にくせにやるのう」
「えへへ」

 以蔵の素直ではない褒め言葉に、龍馬の眉尻が嬉し気に垂れる。

「それ、食える魚なんか?」
「川魚だし、たぶん食べられるんじゃないかな。ちょっと調べてみるよ」

 要領は、先ほどドラゴンフルーツを調べた時と同じだ。
 沖縄に生息する川の魚で検索をかけて、その中から一番特徴が似ている魚を探せば良い。端末をポケットから取り出して、五分もしないうちに正体が判明した。
 ティラピアだ。
 もともとはアフリカのあたりの魚だが、繁殖力が強く美味だということで食用にすることを目的に日本に持ち込まれたものであるらしい。
 最近では養殖場から逃れたものが暖かな地域の川で大量に繁殖し、生態系上の問題にもなっているとのことだ。

「もともと食用の魚だから、食べられるみたい。鯛みたいな上品な味がするんだって」
「ほにほに」
「あ」
「どいた」
「でも、野生、というか。川にいるやつは泥臭くてあまり美味しくないかもしれないって書いてる」

 釣っても美味しくない魚だからこそ誰も釣らず、そして誰も釣らないからこそあの川の魚たちは警戒心もなく、龍馬が投げ込む釣り針についた餌にいともたやすく食いついてきたのだ。
 みちみちと魚の詰まったバケツを見下ろして、龍馬はしょぼりと肩を落とす。
 大漁だと喜んだものの、美味しくもない魚ならば釣らない方がまだ良かった。
 まだ死んでいなければ川に逃すこともできるだろうか。

「ごめんね、以蔵さん。美味しくないみたいだし、僕、これ川に返してくるよ」
「えいえい」
「え」
「せっかく釣ったんじゃ、食わんと罰が当たるわ」
「でも、美味しくないって……」
「おまんは試しもせんで諦めるんか、カ――ッ、呆れた軟弱もんやのう!」

 小馬鹿にしたように、以蔵は半眼で龍馬を睨みつける。
 態度や言葉尻こそ龍馬をけなすようではあるが、その意図は龍馬の釣った魚を無駄にはしないぞということだ。
 そんな以蔵のぶっきらぼうな優しさが嬉しくて、龍馬の口元が緩む。

「そうやね、そいじゃ僕、食べ方調べてみる」
「そうせえ。わしはちっくと床の始末をつけてくるき。したら、えい時間じゃ、おまんの釣ってきた魚で昼飯にするぞ」
「うん」

 とたとたと以蔵が廊下に出ていくのを見送って、食べ方を調べるついでに時間を確認する。
 13時を少し過ぎた頃合いだった。
 朝食を済ませたがのが10時頃だったことを考えると、昼ご飯を食べるにはちょうど良い時間帯、ではあるのかもしれない。

「…………」

 無言で、そっと腹を撫でてみる。
 普段の龍馬は、朝食をとらない。
 朝食を食べる時間があるならば、その分寝ていたいと思ってしまうからだ。
 駅の売店でクッキータイプの栄養食などを買って始業時間前に齧るぐらいだし、忙しい時はそれすらしないことも多い。
 だから、朝からあれだけしっかり食べてしまうと果たして昼ご飯を食べるほどお腹がちゃんと空いているかどうかが少し不安だった。
 せっかく以蔵が作ってくれるのなら、残したりはしたくない。

「龍馬ァ、なんぞわかったか!」
「ええと、あー、捌き方に気を付ければなんとかなるかも!」

 『ティラピア 食べる』などで検索してみれば、同じように釣ったティラピアを食べることに挑んだブログや、企画ページを見つけることができた。
 インターネット万歳だ。
 どこにいても、先人の知恵に触れることができる。
 
「なんかね、この魚、内臓に傷つけちゃうと臭みが出るみたい」
「ほおん」

 台所に戻ってきた以蔵が、バケツからはみ出ていた魚の尾びれを摘まんで持ち上げる。
 それを、未だうっすらとピンクみの残るまな板の上にびたんと乗せた。
 ざりざりと包丁を使って鱗を落とし始める。

「三枚におろすんじゃなくて、食べられる部分を削ぐようにして取った方がいいんだって。あー……そうすると、一匹あたりの食べられる部分って結構少なくなっちゃうんだね……って」

 言っているそばから、以蔵は鱗を落とした魚を一度流水で濯ぐと、魚の身に包丁を入れてずるりと内臓を引き出してしまう。
 そこの過程で内臓を傷つけると臭みが出てしまうらしいので、三枚におろすのは非推奨だったわけだが。
 以蔵は気にした様子もなく、魚の頭を落とし、アッというまに三枚におろしてしまった。
 後に残されるのは艶々とした綺麗に白く透けた白身のサクだ。

「ふん、どうじゃ、匂うてみい」

 ずいっと指先に摘まんだそれを突き付けられて、龍馬はくんくんと鼻を鳴らす。
 ドブ臭いような、厭な泥の匂いはちっともしなかった。

「すごいにゃあ、以蔵さん、さすがじゃ!」
「わしは天才じゃきの」

 ドヤドヤと胸を張って、以蔵は次々とバケツの中からティラピアを摘まみあげると三枚におろしてはまな板の片隅にどんどん白身のサクを積んでいく。
 思えば、以蔵は昔から包丁の扱いが上手かった。
 大根のかつら向きやら、リンゴの皮むきなど、不器用な龍馬からするとまるで魔法のようにこなして見せたのを思い出す。
 一度など、悪ふざけの延長でカービングなどという果物の彫刻に挑んでいたこともある。フリルがみっちりと刻まれたスイカは、いっそ食べるのが勿体ないほどだった。
 料理人の道に進んではという声もあったが、以蔵が好きなのは切る過程だけで調理にはそれほど気を惹かれなかったらしく、結局は宮大工に落ち着いた。

「龍馬、それ洗って塩を擦り込んどき」
「はあい」

 以蔵がこしらえた白身のサクを流水で濯いで、キッチンペーパーで水気をとってから塩をふって擦りこんでおく。
 こうしておくと、身に残ったわずかな臭みも抜くことができるのだ。
 インターネットの受け売りである。
 以蔵はティラピアを捌き終えると、鍋にぐつぐつと油を煮立て始めた。
 どうやらフライにすることに決めたらしい。
 油がチリチリと鳴り始めたところで、以蔵は一口サイズに切り分けた白身魚の身に小麦粉をまぶして鍋の中に投入する。
 じゅうじゅう、と揚がる音だけでもすでに美味しそうだ。
 キッチンタオルを敷いた皿の上に、次々とこんがりときつね色に揚がった白身魚が乗せられていく。味付けはシンプルに塩コショウだ。

「冷蔵庫にマヨネーズはあったき、ピクルスか漬物でもありゃあタルタルソースが出来たんやが」

 以蔵は少し残念そうにしているが、龍馬にしてみれば川に返さなければならないかとも思っていた魚たちが、こんな美味しそうなフライになっただけでも十分だ。
 いそいそとフライの山を抱えて居間へと運ぶ。
 二人分のごはんをよそい、さんぴん茶のボトルを冷蔵庫から出してきたら食卓の用意は完了だ。
 二人向かい合わせに座って、いただきます、と手を合わせる。
 以蔵が作ってくれた白身魚はサクサクに揚がっていて、かみしめるとじゅわりと魚の旨味が染み出してくる。
 塩と胡椒のシンプルな味付けが魚の旨味を惹きたててくれる。
 心配していたような臭みはほとんどなかった。

「美味しいね、以蔵さん」
「おん、美味い」

 以蔵も、もぐもぐとフライと白米を交互に口に放り込んでいる。
 朝ごはんをしっかり食べたばかりだし、昼ごはんも食べられるだろうか、なんて考えていたのが嘘のように龍馬はしっかりとフライを平らげてしまった。
 何なら、もうちょっと食べたいな、なんて思ってしまうぐらいだ。
 以蔵が、テレビをつける。
 いつかの試合の再放送なのか、テレビでは野球の中継が流れていた。
 以蔵はさんぴん茶を啜りながら、ぼんやりとそれを眺めている。
 食休みのつもりなのだろう。
 少し休んだら、またきっと廊下の張替に戻るに違いない。
 以蔵に食事の用意をほとんど任せてしまっているから、後片付けぐらいはやらないとな、と龍馬は思う。
 二人分の食器を台所に運んで、洗い物に取り掛かるのだ。
 油はまだ置いておいても大丈夫だろうか。
 そんな算段をつけつつも、食後の幸せな余韻にもう少しだけ浸っていたくて、龍馬はテーブルの上に手を組んで、顎を乗せた。
 外から吹き込んでくる風が気持ち良い。
 日差しは暖かだ。
 お腹は幸福に満ちていて、なんだか段々と眠くなってくる。
 うと、うととまどろんでいるとすっと以蔵が立ち上がるのが見えた。
 立ち上がった以蔵が食器に手を伸ばすものだから、「あらいものはぼくが」とむにゃむにゃ主張する。
 以蔵は「ほうか」と頷いて、少し笑ったようだった。
 仕方のないやつだなあ、というような、優しく、甘やかすような声だ。

「ぼく……いぞうさんの、てつだいも、するから……」
「おんおん」
「ちょっとだけ、やすんだら、ちゃんと、するから……」
「おんおん」

 聞き流されているような気がして、む、とする。
 けれど、えいから休んじょき、と伸びてきた手指がくしゃくしゃと龍馬の頭を撫でてくれたものだから、眉間に寄せた皺などあっという間にへにゃりと伸びてしまった。
 トントン、かんかん、しゃ、しゃ、と以蔵の働く音がする。
 リズミカルに響く音が心地良い。
 それから少し時間が飛んで、うっすらと開いた瞼の向こうにこちらを覗きこむ以蔵の顔が見えた。

「寝るなら横になりぃ」
「ねてない、もん……」
「寝ちょるわ」

 くっくっく、と笑う声がして、ゆっくりと身体を起こされてそのまま畳にそっと転がされた。ばさりとかけられたのは夜寝る時に使っているブランケットだろう。
 それからまた、トントン、カンカン、しゃっしゃ、と以蔵の奏でる音が響き始め――そこから先は、全く覚えていない。
 気づいたら、夕方だった。
 真っ赤な夕焼けが縁側から差し込む居間は、赤々と暗い。
 むくりと身体を起こして、龍馬は呆然と瞬く。
 さっきまで、昼だったはずだ。
 まるでタイムスリップでもしてしまったような心地でぽかんとしていれば、木材を担いだ以蔵が廊下を通りかかった。

「起きたんか」
「う、うん」
「寝ちょる間に汗かいたろう」

 よく冷えたさんぴん茶のコップが、ことりとテーブルに置かれる。
 ぐびぐびとそれを飲み干して、冷たい液体が胃に流れ込む感覚でようやく意識がはっきりとした。
 慌ててテーブルを見る。
 二人分の食器など、もうどこにもない。

「あっ、洗いものは」
「阿呆、とっくに済んだわ」
「ご、ごめん……」

 なんだかすっかり身の置き場がなくなってしまって、龍馬はしょんぼりと肩を落とす。
 以蔵が家のことをしてくれて、働いている間に龍馬がしたことといったら魚を釣ってきたぐらいだ。
 情けない。

「なあにしょぼくれとんじゃ」
「だって、僕、なんの役にもたてなくて」
「ハア? おまんは阿呆か。わしは仕事できゆうが、おまんは休みじゃろうが。休みの日ぐらいゆっくりせえ。おまんは働いとらんと死ぬんか」
「いや、死なないけど」
「そいたらそがな顔しな。第一、手伝いが必要になったらおまんが嫌がってもさせちゃるきの」
「うん。任せてね」

 ふふふと嬉しそうに口元を綻ばせた龍馬に、以蔵は気持ち悪そうに眉間に皺を寄せる。

「こきつかっちゃるち言われて、どいて嬉しそうにするんじゃおまんは」
「だって、以蔵さんにばっかりしてもらってちゃ恰好がつかないでしょ。僕の方が年上なんだし」
「たった二つ先に生まれただけで年上ぶるなや」

 へ、と以蔵は厭そうに舌を出す。
 確かにたった二つの差だ。
 けれどそれでも、その二つの差が龍馬にとっては、以蔵を守ってやらねば、助けてやらねばと思う立派な理由になるのだ。
 現状、どちらかというとその二つ年下の以蔵におんぶにだっこ、面倒をみられてばかりであるという事実は綺麗に棚上げしてしまうことにして。
 それから、二人で夕食の支度をした。
 朝にもらった魚は刺身にし、エビは縦に真っ二つにしてシンプルに焼くことにした。
 大きなエビと、刺身と、ごはんと。
 豪華なんだか質素なんだかよくわからない食卓だ。
 というか、僕はなんだか食べるか寝てるかしてないな、と思ってしまう龍馬である。
 起きている間は、ひたすら食事の用意をして、食べてばかりいるような気がする。
 見たことのない色をした魚は、刺身にするとなかなかに美味しかった。
 少しばかり身が緩いような気もしたが、南国の魚なのでそういうものなのだろう。
 エビは焼いてもなおぷりぷりとした歯ごたえが残り、驚くほどに甘かった。
 野菜も、魚介も、新鮮な素材には不思議なほどに甘味がある。
 食後、今度こそ洗い物をしようと決意を固めて立ち上がったものの、洗いもんはわしが済ますきおまんはすっと風呂に入ってこいと台所から追い出されてしまった。
 風呂に入るための支度をして、はたと気づく。

「そういえば……この家、風呂場なんてあったっけ?」

 首を傾げる。
 わざわざ探したりなどはしていないが、今日一日ここで生活して風呂場を見かけていない。洗面所はトイレと一緒になっていて、二人が寝室として使っている部屋の他にはもう一つ大きな畳間があるぐらいだった。

「以蔵さん、お風呂どこ?」
「外じゃ」
「そと????」
「窓から見えるじゃろ、あの小屋じゃ」
「嘘でしょ!?」

 まさか風呂場が外付けなどということがあるのか。
 えええええ、と呻きながら龍馬は靴をつっかけ、外に出る。
 まさか沖縄に来るとは思っていなかったせいでいつもの靴だが、ここでは靴をきっちりと履くよりも気軽につっかけられる草履のようなものの方が良いな、そいういえば売店では島草履などというものも売っていたので明日麦わら帽子と一緒に買ってこようなんて考えたのはある種の現実逃避だったのかもしれない。
 庭の片隅に、以蔵いわくの風呂はぽつねんと立っていた。
 ブロック塀を積んで作りました、というような、なんとも手作り感漂う掘っ建て小屋だ。場末の海水浴場などにあるような感じ、といえばイメージがしやすいだろうか。
 屋根はトタンだ。
 雨がふったら、間違いなく雨漏りする。
 というか。
 雨など降った日には風呂場と家の往復のために傘をささなければいけない、というようなよくわからない事態になる。
 どう考えても、欠陥住宅だ。
 何故風呂場を外付けにしようと思ったのか。
 何を考えていたからこの間取りで家を建ててしまったのか。
 家主の首根っこをつかんでがくがく揺すりながら問いただしたい欲求にかられながらも、龍馬はぺたぺたと砂の敷かれた庭を歩いて風呂場の前までやってくる。
 ぎぃ、と軋む音をたてて扉を開く。
 中は真っ暗だ。
 明かりぐらいはあるのだろうな、と壁のあたりをぺたぺた探せば、電気のスイッチらしきものを見つけた。
 ぱちり、と明かりつける。
 ちかちか、と幾度か瞬いた豆電球が風呂場の中央で灯り―――次の瞬間、龍馬が絹を裂くような悲鳴を上げていた。

「きゃああああああああああああああ!!!」

 間違いなく近所迷惑だろうが、許してほしい。
 何故ならば。
 龍馬が明かりをつけたとたんに、壁をうぞうぞと這う虫やら、床をかける鼠やらがわさわさと逃げていったからだ。

「どいたがじゃ!!」

 龍馬の悲鳴をききつけて、以蔵が台所からすっとんでくる。
 靴を履く間も惜しんだのか素足だ。

「い、いぞさん、むし、むし! ねずみもおった!!」

 龍馬は半泣きである。
 明かりをつけた瞬間、ごぞりと闇がうごめくようにして小さな生き物たちが逃げまどっていった光景は本当に怖かったのだ。
 が、対する以蔵は半眼だ。
 虫なんぞが怖いんか、と目が口よりも雄弁に物語っている。

「……ここで待っちょき」

 そう言って、以蔵は風呂場前に置かれていた竹ぼうきを装備すると、すたすたと風呂場の中へと足を踏み入れる。
 人の気配に怯んだのか、虫やら鼠やらはもうほとんど逃げてしまっていて、以蔵ががさがさと箒を動かして音を立ててれば、残っていたものも渋々といったように窓の隙間などから外へと逃げていった。
 
「これでえいろう」
「ええと、その」
「なんじゃ」
「念のために、その、バスタブの中も、見てくれる?」
「…………」

 以蔵は心底呆れたように龍馬を見たが、それでもお化けがいないかどうかベッドの下を確認する父親のような慈愛でもってバスタブの中も覗いてくれる気になったようだった。
 ひょい、コンクリートの打ちっぱなしの小屋の片隅に設置されたバスタブの中を覗き――……

「龍馬、下がりぃ」

 その声は、酷く固かった。

「以蔵、さん?」
「ハブじゃ」
「ハブ」

 確か、沖縄に生息する強い毒性と荒い気性を持つ蛇だ。
 それが、風呂場にいる。
 バスタブの中に、いる。
 なんだか気が遠くなってくる。
 
「い、以蔵さん、誰か呼んだ方が」
「こいつはここで殺す」
「なんでえ……」

 思わず泣きそうな声が漏れた。
 何故この龍馬の幼馴染は戦闘民族スイッチが入ってしまっているのか。
 
「誰ぞ呼んでる間に逃げられた方がまずいろう」
「っ……」

 冷静な以蔵の言葉に、龍馬は小さく息を呑む。
 確かに、その通りだ。
 今回は以蔵が先に見つけたから良かったものの、物陰から先制攻撃でも仕掛けられた日には大事になる。
 最寄りのスーパーまで車で二時間かかる、なんて言われているのだ。
 病院だってきっと同じぐらいには離れていることだろう。
 ハブはバスタブの中でシューシューと威嚇の音を発している。
 戦闘態勢に入っているのは以蔵だけではなかったらしい。
 以蔵のいう通り、これはここで逃す方が後が怖い。
 
「以蔵さん、僕が代わる」
「わやにすんなや」

 龍馬は以蔵に代わって前に出ようとするが、あっさりと却下された。
 にぃと以蔵の口角が好戦的に持ち上がる。
 これはわしの獲物じゃ、とうそぶいて以蔵が竹ぼうきを片手に一歩前に出るのと、バネのように撓んだハブの身体が鋭く飛び出してくるのはほぼ同時だった。

「ちぇい!」

 気合い一閃、以蔵の横に振り抜いた竹ぼうきの柄が強かにハブの胴を打ちすえ、びたんと長くうねる蛇の身体がブロックの壁に叩きつけられる。
 うぞりとコンクリの床に落ちたハブに体勢を立て直す隙を与えず、以蔵はそのままハブが動かなくなるまで滅多打ちにし、最後には竹ぼうきの端でぐしゃりとその頭を潰した。
 ぴくぴくと、頭を潰されてもなお痙攣するように動くハブの身体が完全に動かなくなるのを見届けて、ようやく龍馬は詰めていた息をほろりと吐きだした。

「以蔵さん、大丈夫かい」
「フン、蛇風情がわしとやろうなんぞ百年早いわ」

 動かなくなったハブの尻尾を摘まんで、以蔵がでろりとのびた蛇体を持ち上げる。
 それからにんまりと意地悪く笑って、龍馬を見た。

「ハブ酒にでもするか?」
「冗談でもやめて」

 泣きそうだ。
 以蔵は龍馬の嫌がる顔が面白かったのか、ひひひと笑いながらハブの死骸をぷらぷらと揺らしている。

「それ、どうするの」

 ハブ酒の手作りに挑むのはなんとしてでも止める、という強い意思を滲ませつつ問えば、以蔵はひょいと肩を竦めた。

「川にでも捨ててくる」
「以蔵さん、たくましすぎない?」
「おまんが軟弱なんじゃ。しゃんしゃん風呂済ませえよ、後がつかえちょるんじゃ」
「今の今でよくこの恐ろしい風呂場を使えなんて言えるね……」
「ハブはもうおらんきの。もしまた出てきよったら悲鳴でもあげりゃあえい。わしがすっと始末しちゃるきの」

 おまんの悲鳴ときたら、と思い出し笑いにきひきひ笑いながら以蔵はハブの死体を引きずって去っていく。
 それを見送ってから、改めて龍馬は風呂場を見渡した。
 コンクリで打ちっぱなしの小屋には脱衣場などというようなエリアも設けられていない。棚一つない。シャワーの足元に直接シャンプーやボディソープのボトルが置かれているだけだ。
 下手なところに着替えを置けば、濡らしてしまうことだろう。
 なるべく入り口に近いところに着替えを置いてから服を脱ぎ、なるべくシャワーを弱めに使って風呂を済ました。
 さすがに、先ほどまでハブが潜んでいたバスタブに湯をためて浸かる気にはなれなかった。
 濡らさないようにと気を付けたつもりだったのに、結局寝間着代わりのスウェットの裾はしっかり濡らしてしまった。
 濡れた裾をまくりあげて、靴をつっかけて家へと戻る。
 明るく安全な室内に戻ると、ようやく文明社会に戻ったような妙な安心感があった。
 濡れ髪をタオルでぬぐいながらやってきた龍馬に、洗い物を済ませてテレビを見ていた以蔵がひょいと眉を跳ね上げる。

「早かったの。湯は溜めんかったんか」
「さすがにさっきの今じゃそんな気にもならなくて」
「まあにゃあ。それにここは暑すぎて湯に浸かろうって気にもならんきに」

 なんてのんびり言いつつ、以蔵も風呂の支度をして立ち上がる。
 それがあんまりにも身軽で、龍馬は思わずぱちくりと瞬いた。

「以蔵さん、着替えは?」
「持って行っても濡れるだけじゃき」
「エッ」
「どうせ家まですぐじゃ、だれも見んろ」
「いやいやいや下手したら捕まるよ!?」
「パンツ履いてりゃ大丈夫じゃ」
「大丈夫なの? ねえ、それ本当に大丈夫???」
「うるっさいわ!」

 最後にはげしりと座ったままの背中を蹴られた。
 結局下着とバスタオルだけを持って外の風呂場へと向かった以蔵を見送って、龍馬はほうと息をつく。
 以蔵が適当につけたままだったテレビからは、何かバラエティらしきものが流れている。見るとはなしにその音声を聞きながら、喉が渇いていたのを思い出して冷蔵庫からさんぴん茶のボトルを取り出した。
 風呂上がりの以蔵も飲むだろう、と以蔵の分も入れて置く。
 そうすると、すっかり手持無沙汰になってしまった。
 時計を見る。
 20時を少し回った頃合いだった。
 東京にいた頃ならまだまだ仕事をしていた時間だ。
 宵の口といってもいい。
 これからもう少し仕事をしてから帰るか、取引先の誰かと合流して食事にでも赴く時間帯だ。
 それなのに、ここではまるでもう深夜のように外は静かで、ひたひたと暗い。
 縁側の向こうからは謎の生き物たちの声がやっぱりギューギューと聞こえているし、時たま家のどこかからはケッケッケッケとヤモリの鳴く声が響く。
 それにびくりと小さく背を揺らしたタイミングで、がちゃりとドアの開く音がした。
 以蔵が風呂から戻ったらしい。
 ぺたぺたと濡れた足音が響き、玄関先に用意しておいたらしい着替えのTシャツを着こみながら以蔵が居間へとやってくる。

「お茶、いれといたよ」
「ありがとさん」

 ごっごっご、と喉を鳴らして以蔵が一息にさんぴん茶を飲み干す。
 それから以蔵は洗面所にあったドライヤーを居間に持ち込み、髪を乾かし始めた。
 もともと癖のある以蔵の髪の毛は、きちんと乾かしてから寝ないと次の日の朝にえらいことになるのだ。
 龍馬の髪にも多少そのケはあるが、以蔵に比べたらまだおとなしい方だ。
 ごうごうとドライヤーを鳴らして髪を乾かす以蔵を眺めていれば、ちょいちょいと犬猫でも呼ぶような気軽さで手招かれた。
 なんだなんだ、と寄っていけば、ぐしゃりと以蔵の手が龍馬の髪に差し入れられる。

「なんじゃ、乾いとらんやないがか」
「自然乾燥でいいかなと思って」
「ついでじゃ、乾かしちゃる」

 ごうごうと耳元でドライヤーが鳴る。
 テレビの音が遠くなる。
 熱いくらいの温風が地肌にふきつけて、節のある男らしい大きな掌がざかざかと乱暴に龍馬の髪を掻きまわしていく。
 それがうっとりするほど心地良くて、自然と瞼が落ちた。

「なんじゃ、眠いんか」
「……ぅ、ん。どうしてかなあ。なんだか、ここにきてから、すごいねむい……」

 仕事をしている時には、こんなことはなかった。
 食後に眠くなるようなことはあっても、耐えられないほどではなかった。
 それなのに、ここにきてからの龍馬は眠ってばかりいる。

「疲れとるんじゃろ。おん、これでえい」

 すっかり乾いた頭をおまけのようにわしわしと撫でられる。
 
「眠りたく、ないなあ」

 ぽつりと小さく呟く。

「どいてじゃ、眠いなら寝ればえいろう」
「だってさ」

 龍馬の頭を抱え込むようにして乾かしてくれていた以蔵の胸元にこてんと後頭部を預けて、龍馬は以蔵を見上げた。

「せっかく、以蔵さんと一緒なのに。もっと、話をしたり、したいのに」

 一瞬、以蔵は龍馬の言葉に面食らったように瞬いた。
 それから、ふひひとその口元が緩んで、ぺしりと龍馬の目を覆うように一度軽く叩かれた。

「まだしばらくはおまんが厭じゃいうても一緒じゃ。ほれ、布団敷くの手伝えや」
「はあい」

 二人で戸締りを済ませてから、寝室へと向かう。
 窓は開けたままだが、網戸と格子がついているので侵入者に怯える心配はないだろう。
 ばさりばさりと布団を敷いて、ブランケットの中に潜り込む。
 窓からは涼しい風が吹き込んでくる。

「以蔵さん」

 暗がりの中、小さく呼んでみる。

「なんじゃ」

 思ったより近くから聞こえた以蔵の声に、ブランケットの中で龍馬はふふふと口元を緩めた。

「また、あしたね」

 返事はなかった。
 代わりに隣から伸びてきた脚がげしりと龍馬の脚を軽く蹴っていく。
 それにやっぱりふふふと小さく笑って、大層幸せな気持ちのまま龍馬は目を閉じた。

 

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