翌日の目覚めは、とても穏やかなものだった。
 窓から差し込む日差しの強さに促されるようにして、龍馬の瞼がぼんやりと持ち上がる。隣の布団はすでに片づけられており、以蔵の姿はない。
 日差しの具合から見て、どうやらすでに日は高く上った後であるらしい。
 すっかり寝過ごした。
 ふわあ、と大きな欠伸をしながら龍馬は身体を起こす。
 ほとんど蹴とばしてしまっていたブランケットはそのままに、廊下へと出る。
 昨日までは龍馬が歩くたびに軋んでいた廊下は、今はしっかりと龍馬の体重を受け止めつつも悲鳴めいた音をあげることはない。
 以蔵が廊下の張替を終わらせたのだ。
 龍馬には知識がないため、大工仕事の良し悪しはわからない。
 だが、試しに少し身体を弾ませてもしんと静かに耐える床にやっぱり以蔵さんはすごいなあ、などとしみじみと思う。

「いぞおさあん」

 寝起きの少し掠れた声音で、呼ぶ。
 なんじゃあ、とすぐに声がして、台所から以蔵が顔を出した。
 すでに本日の仕事に取り掛かっていたのか、以蔵はすでに作業着だ。
 ぴったりとした黒のインナーの上から、青のTシャツを着こんでいる。
 二枚も重ねて厚くはないのかと昔聞いたことがあるのだが、黒のインナーがしっかりと汗を吸ってくれるおかげで汗を木材に落とすなどせずにすむのだと聞いて、なるほど職人なのだなあと思ったことを思い出した。

「起きました」

 申告する。
 以蔵は呆れたように双眸を眇めた。

「もう昼やぞ」
「面目ない」

 と、言いつつ龍馬は以蔵が顔ほどには気を悪くしていないことをよく知っている。
 昔からの古い付き合いだ。
 以蔵はいざ起こそうと思ったなら、何としてでも龍馬を叩き起こす術をいくらでも知っている。
 けれど、それをしなかったのだ。
 だから、これは寝かしておいてくれたということで、甘やかしてもらっているのだ。
 面目ない、と謝りつつも口元がふにゃりと緩んでしまう。

「腹は減っちゅうか」
「おん」
「もうちっくと我慢せえ、もうすぐ昼じゃ」
「はあい。顔、洗ってくる」

 ふわあと頭の芯に残る眠気を吐き出すような欠伸をして、龍馬はとたとたと洗面所へと向かう。
 冷たい水で顔を洗い、髭をあたり、コンタクトを入れると随分と気持ちがしゃっきりとした。
 特に予定は決まっていないものの、着替えも済ませておこうと寝室に戻れば、抜け出したままにされていたはずの龍馬の布団が忽然と消えていた。
 おや、と思って窓の外を見やれば、以蔵が布団を干してくれているところだった。

「以蔵さん、ありがとねえ!」

 声をかければ、なんちゃあない、なんて返事が返ってきた。
 着替えを済ませて居間に向かうと、以蔵が冷たいさんぴん茶を入れてくれているところだった。
 なんだか、不思議な気がする。

「……なんじゃ、ちんな顔しおって」
「や、さっきほら、以蔵さん、窓の外でお布団干してくれてたでしょう?」
「おん」
「それなのに、着替えて戻ってきたらお茶をいれてくれてるから。なんだか、魔法みたいだなあって思ってしまって」

 ハア? と何言ってんだこいつという顔をされる。
 おまんがとろこいだけじゃ、とそっけなく言われるものの、ふいとそっぽを向いた口元がほんの少し嬉しそうに緩んでいるのがわかるので、龍馬の口元もまた幸福そうに緩やかな曲線を描いた。
 言葉よりも、態度や表情の方が龍馬の幼馴染はとてもとても素直だ。
 よく冷えた花の香のするお茶を啜りながら、龍馬は以蔵の本日の予定を問う。

「以蔵さん、今日はどうするの?」
「廊下の張替は済んだき……、ああ、洗面所の戸の立て付けやらが悪いち言うちょったな……」
「そうなんだよね、途中でひっかかっちゃって」

 洗面所の入り口は引き戸になっているのだが、それを閉めようとしたところ途中で動かなくなってしまったのだ。
 湿った木々が擦れ合うようなきゅいきゅいという音を立て、前にも後ろにも動かなくなってしまった引き戸を前に途方にくれたのは記憶に新しい。
 散々がたごとと揺らして、ようやく元に戻すことができたのだ。
 たまたま半開きの状態で止まってしまったからまだ良かったものの、完全に閉めてしまった状態で動かなくなってしまったらと思うと少しばかり肝が冷える。

「やき、その辺のこまごまとした手入れじゃな。午後には島袋のおんちゃんが新しい畳を持ってくるち言うちょったき、そいたら畳の入れ替えじゃ」
「手伝ってもえい?」
「えいけんども……おまん、せっかくの休みなのにえいんか」
「やることがなさすぎるっていうのも、ちょっと持て余しちゃって」
「難儀な性分やのう。ああ、ほいたらちっくと手伝え。わしは昼の用意をするき、おまんは裏庭の草を集めてこい。さっき刈るだけ刈っちょるきにの」
「はあい。ごみ袋でいいの?」
「おん」

 以蔵が手にしていた軍手を無造作に脱いで龍馬へと放る。
 それを受け取って、未だ以蔵の体温の残る軍手に手指を通す。
 ぐ、ぱ、と何度か握りこんで馴染ませ、それから龍馬はごみ袋を片手に庭へと出た。
 人が通る分だけのスペースはぎりぎり確保して、その両脇には雑草が生い茂っていたものだが、それがすっかり綺麗に刈られている。

「以蔵さん、精が出るねえ」
「仕事やき」

 台所にいる以蔵と窓越しにのんびりと言葉を交わしながら、龍馬は中腰になって以蔵の刈った草をごみ袋の中へと詰め込んでいく。
 ぎゅむぎゅむと圧縮しながら詰めたのに、それでも以蔵の刈った草はごみ袋3袋分にもなった。
 ほとんどの雑草が刈られ、後に残ったのは何かトゲトゲした植物と、地面につきたてられた柵に絡むように伸びたつる性の植物だけだ。
 わざわざこの二種類を残したということは、何か意味があるのだろうか。

「以蔵さん、この辺のはなんで残してるの?」
「それはアロエとへちまじゃ。アロエは軟膏替わりになるきの。へちまは食用らしいぞ」
「へちま、食べるの」
「食べるち言うちょった」

 龍馬の頭の中に思い浮かぶへちまというのはからからに乾いてスポンジにされた姿であるのだが、この南の島においては食料として育てられているらしい。
 スポンジになる前の姿は想像がつかないし、だからといってスポンジを食べるというのも想像の範疇外で、龍馬は首を傾げる。
 一体どんな味がするのだろうか。

「バナナがあったらもっと苦労したろうが、なくてまっこと良かったぜよ」
「バナナ、ない方がいいの? 庭にバナナ生えてたら食べられてよくない?」
「おまんはバナナの底力を知らんのじゃ」
「バナナのそこぢから」

 思わず復唱する。
 会話の合間にごみ袋をどうするのかなどの指示を仰ぎ、龍馬は以蔵に言われるままに庭の端に雑草の詰まったごみ袋を積んだ。
 そのうち村の誰かが適当に回収し、堆肥に利用するらしい。

「バナナはほんに厄介でのう。なんじゃあ、株で増える? らしくての。一本生えるとそこからどんどん増えていくがじゃ」
「へえ、バナナってそういう感じなんだね」
「親株は一度実をつけて子株を増やすとそこからは実をつけなくなるき、子が育つと親が死ぬ縁起の悪い植物やちいうて、庭に植えるのを嫌うもんらしいぞ」
「へえ」
「……やけんどあいつら死ぬほどしぶといき、親も子も死にゃあせん」

 心底うんざりしたというような以蔵の声を聞きながら、龍馬は室内へと戻る。
 以蔵は昼食の支度の前に一息ついていたようだった。
 ふわりと煙の香りが鼻先を掠めていく。
 薄暗がりの台所で、以蔵の咥えた煙草の先だけがちりちりと赤く光っている。
 美味しそうに双眸を細め、ふー、と煙を吐く以蔵の姿はひどく様になる。
 ずりと蒸れた軍手を脱ぎながら、龍馬は首を傾げた。

「以蔵さん、経験があるの?」
「前の仕事でも沖縄にきたことがあるち言うたろう」
「うん、言ってたね」
「そん時にな、庭のバナナをなんとかしてくれち言われて、仲間と一緒に根元から切り倒したんじゃ。で、バナナがしぶといち話は島袋のおんちゃんからも聞いちょったきに、根っこも丁寧に掘り返してな。土もひっくり返す勢いで混ぜて、さらにはその上でたき火までやった」
「そりゃあ……随分と丁寧にやったもんだねえ」

 絶対にバナナを根絶やしにしてやるという強い決意を感じる処置である。
 しかし、やけんど、と続けた以蔵の声はひどく渋い。

「またすぅぐ芽が出よってな……」
「うわあ……」

 そこまでして駄目なら、もはや除草剤やらに頼るしかないのではないだろうか。
 バナナをひっこぬいた後に、何か別の植物を植えたいなどと考えていたのなら、非常に残念な結果である。
 ふう、と短くなった煙草の最後の一息を吐き出して、以蔵が灰皿にぐじりと捻じ込むようにして火を消す。
 それからううんと唸るような声を漏らしてノビを一つした。
 ぐぐうと背筋を伸ばす姿はしなやかな獣ようだ。

「昼飯は適当に握り飯にするぜよ。近所のばあやんが油みそをくれゆう」
「油みそ?」
「わしもようはしらん」
「なんだろ」

 ポケットからスマホを取り出して、慣れた所作で龍馬は検索をかける。
 わからない言葉をわからないままにするよりは、便利な道具をつかって調べてしまうのは龍馬の癖のようなものだ。
 いつもであれば連れがいるときにはあまり端末をいじるようなことはしないのだが、相手が以蔵であれば話は別だ。
 長々と誰かと話をしたりするわけでなく、単にその場で知りたいことを調べているだけだということがわかっているので、以蔵もそんな龍馬に目くじらを立てたりはしない。

「へえ、油味噌って、豚の脂で炒めた味噌のことなんだって。こっちの言葉では、あんだんすー、って言うみたい」
「ほにほに」

 以蔵がうなずきながら、冷蔵庫の中から小さなタッパーを取り出す。
 中に入っているのがそのあんだんすーとも呼ばれる油味噌なのだろう。
 ぱかりと蓋を開けて中を覗き込む。
 味噌と聞いて思い浮かべる色合いよりも、随分と黒々としている。
 一度火を通しているからなのだろう。
 ごつごつと角ばった輪郭をしているのは、どうやらただ味噌を炒めただけではなく、細かく刻まれた具材が含まれているからのようだった。
 少し前に流行った食べるラー油に近い気がする。

「昨日買うたスパムも使っちょらんきにな」

 ごとり、と以蔵がテーブルに置いたのは昨日の朝売店で買ってきた缶詰だ。

「こっちじゃあ肉の代わりに使う安い食べもん、ちゅう感覚らしいにゃあ。前に来たときにな」
「うん」
「食わせてもろうたのが美味かったき、安いならちょうどえいと思ってわしんく戻ってからも買おうと思ったら高くて驚いたわ」
「うん、僕もわりと高級な輸入食材だと思ってた」

 一般のスーパーなどではほとんど取り扱いがないし、たまに見かけても珍品扱いで結構な値がついていることが多い。
 それがここでは肉の代用品扱いなのかあ、と缶詰を手に取ってみる。
 手に伝わるずっしりとした重みを、ぽんぽんと手の中で弾ませる。

「わしは卵を焼くき、おまんはスパムを用意せえ」
「はあい。以蔵さん、缶切りある?」
「―――……」

 何気ない一言だった。
 つるりとした缶のボディには、プルタブのようなものはついていない。
 だからこれを開けるためには缶切りがいるだろうと思ってかけた言葉だったのに、振り返った以蔵は何かとてもとても面白いことを聞いたとでも言うようにニチャァと笑って見せた。
 なんだなんだ。
 
「へっへっへ、頭のえいおまんにもわからんことはあるんじゃのう」
「いやいや、僕、こっちに来てからはわからないことだらけだよ。むしろわからないことしかないよ」
「えいから貸してみい」

 以蔵が手を突きだしてくるので、龍馬はおとなしく以蔵へとスパムの缶を渡す。

「にゃあ、ここに、なんぞ鍵みたいな形をしゆうのがついちょるじゃろう」
「おん」

 缶の上の部分だ。
 普通の缶であればプルタブがついていてもおかしくない蓋の上部分に、何かつるんとした鍵のような形をしたものが確かについている。
 つるりとしたそれはギザギザのない鍵というか、丸い持ち手に中央に穴の空いた細長く平たい棒がついたような形をしている。
 
「これを、取る」

 きこきこと何度か曲げたり伸ばしたりをすると、ぷつりとそれがとれた。
 それから以蔵は、缶の本体をごろりと横に倒す。

「で、ここにちっくと切り取り口みたいなもんがついちょるろう」
「あ、本当だ」

 お菓子の開け口の形をしたようなものが、少しだけ飛び出している。
 いわゆるジッパー加工の施された開口ポイントとでもいえばいいのだろうか。
 ただし、缶詰は金属でできている。
 紙箱のように簡単にぺりぺりと切り取っていくわけにはいかない。
 以蔵はぐいとその細く平たい金属の端っこを起こした。
 そこに先ほど切り取った部分の、先端にあいた穴に通す。
 そして、きこきことねじを巻くようにして丸い取っ手の部分を回し、金属の切り取り線を巻き取るようにして缶を開け始めた。

「!」
「すごいろう? 知恵じゃ」
「知恵じゃね!? わしにもやらせてくれんか!」

 一体どれほどの力で巻けるものだろう。
 こうして商品化されているということは、女性や子どもの力でも開けることができるのだろうか。
 プルタブ式でもないのに、缶切りを使わずに開けることができる缶というのが衝撃的で、龍馬の双眸はわくわくと好奇心に煌めいている。
 そんな子どものような龍馬に、ふふんと以蔵は得意そうに笑って、ほんの数センチだけ開けてみせた缶をひょいと龍馬へと渡してやった。

「えいぞ、後はおまんがやれ」
「ありがとお!」

 わあ、すごいなあ! と歓声をあげながら、龍馬は早速くるくるねじねじと以蔵から引き継いだ缶の開け口を巻き取って開けていく。

「以蔵さん、見てみい!」

 綺麗に一周あけきったスパムの缶を以蔵につきつけて報告する龍馬に、以蔵はふへ、と楽しそうな笑い混じりの呼気を漏らす。
 今でこそ大人の男然としてなんでも知っているような龍馬だが、昔はこうして以蔵の方が教えてやることも多かったのだ。
 まな板の上にぬぽりと缶から取り出したスパムの塊を置いて、龍馬が首を傾げる。

「以蔵さん、これ、どれくらいの厚みで切ったらえい?」
「好みにもよるにゃあ。カリカリにしたかったら薄目に、表面カリカリ中しっとりが良けりゃあ厚めじゃな」
「うーん」

 大真面目に思案する龍馬を横目に、以蔵はフライパンに油をしいて温め始める。
 その間にボウルにいくつかの卵を割り入れ、ちゃっちゃと混ぜる。
 悩んだ結果、龍馬は厚めに切ることに決めたようだった。
 1㎝ほどの厚みで切られたスパムを、以蔵はよくよく熱されたフライパンの上にひょいひょいと乗せていく。
 じゅうじゅうと美味しそうな音が響き、時折ぱちりと油が爆ぜる。
 スパムはすでに味がついているので、改めて味をつける必要はない。
 ただ焼くだけで十分だ。
 こんがりと焼き目がついたころにひっくり返し、反対側も同じように焼く。

「龍馬」
「なあに」
「そこにラップがあるじゃろ」
「うん」
「ラップに海苔を広げて、その上にご飯をのせえ」
「??? おにぎりじゃないの?」
「沖縄の握り飯は握らんがよ。四角い海苔の上に……ほうじゃな、これも1㎝ぐらいの厚みで米を敷けばえいじゃろ」
「はあい」

 完成図のイメージがわかないのか、首を捻りながらも龍馬は言われた通りにラップの上に海苔を置き、その上に薄くごはんを乗せていく。
 以蔵はその間にもこんがりと焼き終えたスパムを皿の上に移した。
 次は卵だ。
 スパムの旨味の蕩けた油を使って、卵焼きをこしらえていく。
 こちらも少し厚みを持たして、平たく焼き上げる。
 それもまたスパムの隣に移す。
 適当なサイズに卵焼きは切り分けて、それから以蔵は龍馬が用意したごはんの上に油味噌を適当に塗り広げた。
 全面ではなく、およそ半分程度だ。
 そしてその上にスパムを乗せ、さらにその上に卵焼きを乗せ、それからラップを上手に使って海苔とごはんで出来た土台をぎゅむりと二つ折にした。
 ぱっと見た感じは大きさ的にも折財布めいている。
 それをラップの上からぎゅむぎゅむと軽く握れば完成だ。

「ポークタマゴと言うがじゃ。食うてみい」

 先に作った一つを龍馬へと差し出して、以蔵は次を作りだす。
 龍馬は早速あーんと大口をあけてポークタマゴにかぶりつく。
 しっかりと握られたわけではないからか、米粒がほろほろと口の中でほどけていく。
 表面をかりっと焼かれたスパムの香ばしい香りが鼻先を掠めていく。
 スパムのしっかりとした塩っ気の強い味わいはそれだけでも十分にごはんに合うが、油味噌もなかなかに主張が強い。
 細かく刻まれた具材はおそらく豚肉だろう。
 甘辛い味噌の味わいの中に豚の旨味が溶けていて、これだけで立派なおかずになってしまいそうだ。
 スパムも油味噌もなかなかに味が濃い中、それを包み込んで中和するのが卵だ。
 ふわふわと柔らかく焼き上げられた卵焼きは特に味がつけられてはいないのだが、その優しい味わいが油味噌やスパムの濃い味をちょうど良い具合に整えてくれる。
 美味しい。
 とても美味しい。

「美味しいねえ!」
「ほうかほうか」

 もぐもぐと立ったままポークタマゴを頬張る龍馬に、以蔵はくつくつと喉を鳴らしながら次々と卵焼きをこしらえ、追加のポークタマゴを握っていく。
 最終的に、握りこぶし大はありそうなポークタマゴは五つになった。

「おまんのノルマは三つじゃ」
「えいの?」
「わしは朝も食うちょるきの」
「わ、いいなあ、朝は何食べたの?」
「茶づけに油味噌乗せて食うた」
「あ、それも美味しそう」
「龍馬、茶を持ってきい」
「はあい」

 こしらえたポークタマゴを乗せた皿を持って、以蔵は居間に向かう。
 外から吹き込む涼しい風にあたりながら、二人で並んで座ってポークタマゴを食べる。
 燦燦と降り注ぐ日差しは厭になるほどに強いが、木陰を吹き抜ける風は意外に思うほどに涼やかだ。
 東京で経験した猛暑の方がよっぽど暑かったな、などと龍馬は思う。
 しっとりとどこか水の匂いを含んだ風はとても爽やかだ。

「で」

 ぺろりと指腹についた米粒を舐めとりながら、以蔵が口を開く。

「おまんは、今日も飯の後はお昼寝か?」
「そんな子どもに聞くみたいに」

 もう、と目元を赤らめつつも、昨日実際に食後に爆睡してしまった龍馬としてはそう強く否定することもできない。

「今日はちゃんと起きてるし、以蔵さんのお手伝いするからね」

 念を押すように主張する龍馬に、以蔵は面白がるようにひひと意地悪く笑った。

「午後には島袋のおんちゃんが来るき、寝るなら邪魔にならんとこにせえよ」
「だから寝ないんだってば。それでその島袋さんが来るのは何時頃なの?」
「…………」
「なんで目をそらしたの以蔵さん」

 ふいと流された以蔵の眼差しは、どこか遠くを見ている。
 負けずに以蔵さん、ともう一度名前を呼べば、以蔵はもごもごと口を開いた。

「一時過ぎには来ると言うちょったき……」
「えっ、一時? もうすぐじゃないか」

 ちらりと龍馬が目をやった先の古めかしい壁時計の短針はそろそろ1にさしかかろうとしている。
 顔を洗って着替えも済ませたとはいえ、人が来るなら心の準備もいると言うものだ。
 龍馬は慌てて支度をしようと腰を浮かせかけたものの、どっかりと縁側に腰掛けたままの以蔵が待ちい、と声をかける。

「でも以蔵さん、島袋さんが来るなら少しは片付けをするなりしといた方がいいんじゃないのかい?」

 以蔵にとっては親しい相手かもしれないが、家主でもあるのだ。
 別段見られて困るような使い方をしているわけではないが、念のためということもある。

「…………」
「以蔵さん?」
「……三時じゃ」
「え?」
「一時過ぎに来るち言うちょったなら、おそらく到着は三時じゃ」
「おかしくない???」

 思わず真っ当な突っ込みが龍馬の唇から零れ落ちた。
 一時過ぎに来ると言ったのなら遅くても二時前には到着するべきではないのだろうか。
 確かに「一時過ぎ」なんていうのは曖昧な時間表現で、人と何かを約束するには随分とざっくりした目安ではあるが、それでも。
 一時過ぎに、と言っておいて三時に到着するのはいくらなんでも時間にルーズなんていう表現を逸脱しているのではないだろうか。
 ええええ、と戸惑いの声をおあげる龍馬に、以蔵はため息交じりにわしゃわしゃとその癖ッ毛をかき混ぜる。

「えいか、龍馬」
「はい」

 まるで、何か大事なことをお前にだけ打ち明けてやる、と言うような以蔵の佇まいに、釣られたように龍馬も居住まいを正す。

「こん島の人間はな」
「うん」
「うちなータイムで生きちょる」
「うちなーたいむ」

 おん、と重々しく以蔵が頷く。

「一時に約束するろう?」
「うん」
「するとな、一時に家を出るがじゃ」
「おかしくない???」

 渾身の突っ込みだった。
 一時に待ち合わせをしているのに、一時に家を出る意味がわからない。
 それでは絶対に一時には落ち合えないし、待ち合わせ場所への到着時間は自宅からそこまでの距離によって変わってくる。
 それでは待ち合わせの意味がない。

「えっ……、えっ、えええ……、それ、待ち合わせ、成立するの……?」
「せん」
「駄目じゃない!」

 駄目だった。

「まっことふわっとしちゅう」
「ふわふわしすぎでしょ……」
「まあ、遅れたらまずい約束ん時には大体一時間以内には揃うき……」
「それでも一時間以内なんだ……?」
「……三十分以内に揃ったら早い方じゃな……」
「のんびりさんが多いんだねえ……」

 なんとか、そんなフォローの言葉を絞り出す。
 きっと以蔵も最初は戸惑ったに違いない。
 私生活では多少だらしないところもあるが、以蔵は仕事に関しては几帳面なところがあるのだ。
 なかなか人が揃わぬ現場でイライラしたりやきもきしたりする以蔵の姿は、簡単に思い描くことができた。
 きっと、今こうして比較的穏やかに語ることが出来ているのは、慣れだ。
 おそらく前回の沖縄滞在のうちに否が応でも慣らされたのだ。

「……やき、島袋のおんちゃんも着くのは三時頃やないかと」
「なるほど」
「それまではちっくと時間があるき、食休みじゃ」

 そう言って以蔵はごろんと縁側に横になりかけ、中途半端な姿勢でぴたりと止まった。

「以蔵さん?」
「いや、そん前に米も炊いておかんといけんと思い出したがよ。さっきのポークタマゴで米を使い切ったきに」
「ああ、それなら僕がやっておくよ。以蔵さん、朝から草刈やらで疲れたでしょう。少し休んだ方が良いよ」

 休んでてよ、と言い置いて龍馬はどっこいせと立ち上がる。
 基本的に料理に関するスキルを持ち合わせていない龍馬は、台所のことになると以蔵に任せっぱなしだ。
 出来てせいぜいお手伝い程度でしかないのだが、米を炊くぐらいなら出来ないこともない。

「以蔵さん、お米三合でえい?」
「えいよお」

 のんびりとした返事を聞きながら、龍馬は三合きっちりはかった白米を炊飯釜にいれて、じゃこじゃこと何度か研ぎ汁が薄くなるまで洗う。
 それから水をはかりながらひたひたと注いだ。
 米が水を吸うことを考えて、ほんの少し、気持ちの分だけ多めにしておく。
 龍馬一人であれば、面倒を省いて洗い終わった米はそのまますぐに炊飯器にセットしてしまいがちだし、本当に面倒臭いときには洗わずにただ水を注いで炊くだけのことだってある。
 だが、今は一緒に食べる以蔵がいる。
 それならば少しでも美味しいものを食べたいし、そのための手間はそれほど億劫だとは感じなかった。
 たぷたぷと水面の揺れる釜を炊飯器の中にいれて、タイマーをセットする。
 
「よし」

 タイマーがきちんとセットできていることを指さし確認し、龍馬は満足げに頷いた。
 これで、夕飯時にいざごはんをよそおうとしたところで炊けてない生の米と対面するなどという悲劇は避けられるはずだ。
 縁側に戻ると、以蔵はごろりと横になって目を閉じていた。
 そうした横顔は起きているときよりも随分と柔らかで幼げに見える。
 ふふ、と小さく口の端に柔い笑みを浮かべて、龍馬は以蔵の隣に腰を下ろした。
 桃の葉から零れる木漏れ日は柔らかく、吹き抜ける風は涼やかで気持ちが良い。
 
「米」
「うん?」
「炊けたか?」
「後は仕上げととくとご覧じろ、ってね。ちゃんとタイマーもセットしてきたよ」
「おまんでも米ぐらいは炊けるんじゃのう」

 くっくっく、と喉を鳴らして以蔵が笑う。
 一体どれほど生活力がないと思われているのかと唇を尖らせたくもなる龍馬だが、まあ、おおむね生活力がないということに関しては紛れもない事実である。
 そのまま二人、静かに風に吹かれてぼんやりと過ごす。
 いつの間にか以蔵の頭が龍馬の膝に乗っており、龍馬は手慰みのようにもさりもさりと撫でてやる。
 癖の強い髪はくりんくりんと跳ねているわりに指通りは滑らかだ。
 くわあ、と欠伸をする姿が日向で微睡む猫のようで微笑ましい。
 小一時間ほどそんな穏やかな食休みを堪能して、それから二人は午後の仕事に取り掛かり始めた。
 まずは奥の部屋から畳を上げていく。
 真新しい畳が届く前に、古い畳を除けて床下の掃除を済ませておくのだ。
 畳を外していくのは以蔵の仕事だ。
 きっちりと綺麗に嵌めこまれていた畳を器用に持ち上げては、龍馬へと渡す。
 それを龍馬は次々と庭へと運んでいく。
 適当にまとめておけば良いと言われたので、庭の片隅に並べて立てかける。
 畳の撤去が終わった後は、床下の掃除だ。
 箒でざかざかと掃き清めていく。

「ぼく、不思議なんだけど」
「なんじゃ」
「普段こう、畳があるのにさ。なんで床下、こんなに汚れてるんだろう」

 不思議だよねえ、と龍馬はしみじみと呟く。
 土塊のようなぼろぼろとした黒っぽい塊や、何か得たいの知れない襤褸切れのようなものが所々に転がっている。
 一体これらのゴミはどこから入り込むのだろうか。
 箒を片手に首を傾げていれば、何でもないことのように以蔵が答えた。

「そいたあネズミの仕業じゃ。巣を作っちょったんろう。あの襤褸切れの塊が巣じゃな。ほれ、これが糞じゃ。ああ、もしかしたらその変に死骸もあるかもしれんのう」
「ひえ」

 小さく悲鳴をあげた龍馬に、くひひと以蔵が笑う。
 怖がらせて面白がっているだけだと思いたいものの、昨夜の風呂場の惨状を思うとネズミの死体ぐらい転がっていてもおかしくはない。
 ゴミだと思ってつまみ上げたそれがネズミのなれの果てだったらどうしようと内心怯みながらも、龍馬は床下の掃除を続ける。
 そうして一通り床下が綺麗になったところで、外から車のクラクションがプッと短く鳴る音が一つ響いた。

「来たな」

 以蔵が呟いて、身軽にひょいと床下から床に上がる。
 龍馬もそれを追って二人で庭に向かえば、庭には車が乗り入れられていた。
 荷台には青々とした畳が積まれている。
 出迎えに庭に降りかけつつ、ちらりと龍馬が壁時計を確認したところ二時半を過ぎた頃だった。
 なるほど。
 以蔵の予想はおおよそ当たっていたということになる。
 これがうちなータイムというものなのかと内心納得しながら、靴をつっかける。
 にこにこと笑いながら車から降りてきたのは、背丈こそ龍馬よりも小柄ながら、がっしりと横幅のある壮年の男性だった。
 太っている、というよりもがっちりと筋肉がついた体格の良さだ。
 日ごろから身体を動かす仕事についているのだというような風格がその見た目からも滲んでいる。
 よく陽に焼けた肌に太い眉、くりりと大きな目に彫りの深い、いっそ異国情緒漂う顔つきが特徴的だ。
 ちゃんとは覚えていないものの、その姿にはなんとなく龍馬にも見覚えがあった。
 モノレールから降りた先で、龍馬と以蔵を車に乗せてくれた男だ。
 この人が家主の島袋なのだろう。

「ええ、頑張ってるなあ!」

 すでに一通り庭に出された古い畳を見て、島袋がからからと豪快な声を上げる。
 一時すぎに来るといっておいておおよそ一時間近く遅れてきているわけなのだが、それに対する気おくれは全くないようだった。
 というかおそらく、遅刻した、という認識すらないのだろう。
 その態度に、なんだか龍馬はすっかり気が抜けてしまった。
 龍馬の常識において、一時間の遅刻は相手の時間を無為にする酷い行為だ。
 礼を失する行為だ。
 龍馬の常識の通用する東京などでこんな目にあったならば、流石に普段は温厚で通る龍馬だって内心腹の一つも立てたことだろう。
 もしかしたら、会社で参ったよ、と笑い話半分に愚痴ったりなどしたかもしれない。
 逆に龍馬が待たせる立場になってしまったのならば、きっと待たせる相手への申し訳なさに身も世もないほどに胃をキリキリと痛ませていたことだろう。
 だというのに島袋と来たら、一時間も遅れてきておいて何も気にした様子がない。
 あっけらかんとにこにこと笑っている。
 嗚呼本当に文化が異なるのだと思い知ってしまえば、龍馬の肩からもゆるぅく力が抜けた。
 
「奥の部屋は掃き掃除まで終わっちゅうき、すっと入れられるぜよ」
「おうおう」
 
 上機嫌に頷いた島袋が、ちらりと龍馬へと目を向ける。
 そういえば初対面の折にはきちんと挨拶ができていない。
 慌てて改めて挨拶をしようとしかけた龍馬に、まるで先制をキメるようにして島袋が口を開いた。

「ええ、以蔵よ、そっちのにいにいにまで手伝ってもらっていいばあ?」
「えいですえいです」
「あんたもいいば?」
「えっ」
「手伝わせても」
「ああ、はい。いいです。ぜひ、手伝わせてください」
「にふぇーでーびるにふぇーでーびる」

 朗らかに謎の呪文を唱えられた。
 そのまま島袋は以蔵とともに作業を開始する。
 名乗ってないけど良いんだろうか、と少しだけまごついたものの、どうやら島袋の中で以蔵は以蔵、龍馬のことは「にいにい」で呼び分けが完了しているものらしかった。
 最初は戸惑ったものの、「ええ、にいにいこっち側運んでくれんか!」だとか、「ええ、にいにい、こっちも任せたからよお!」なんて言われているうちにすっかり気にならなくなった。
 古い畳を剥いだり、真新しい畳を入れるのは以蔵と島袋に任せて、龍馬は畳の出し入れに専念する。
 三人がかりともなれば作業は早い。
 あっという間に奥の部屋と寝室の畳の入れ替えが終わり、最後に残るは居間だけとなった。
 そこで少し一息いれるかという話になり、龍馬は三人分のグラスと冷えたさんぴん茶のボトルを縁側に座る島袋のもとへと運ぶ。
 以蔵はどうやらゴミをまとめに裏手にまわっているらしい。

「これどうぞ」
「ありがとなあ」

 島袋の手にしたグラスにとっとっと、とさんぴん茶を注ぐ。
 とーとーとー、と謎の掛け声に戸惑っていれば、これぐらいでいいさあ、と言葉でも伝えられてそういう意味なのかと納得する。
 ふは、と楽しそうに笑った島袋が、ぐびぐびと喉を鳴らして一息にグラスをあける。
 そのグラスに再びさんぴん茶を注ぎ、今後は「とーとーとー」と言われたところで注ぐのを止めれば島袋が悪戯っぽくにんまりと笑った。
 秘密の暗号を共有したようなくすぐったさに、龍馬も口元を緩める。
 今度はちびりと啜るようにして唇を湿らせた島袋が、龍馬にちらりと視線を流してその目元をやわらげた。

「にいにい、顔色もよくなって良かったさあ」
「え?」
「なんかこの前にあったときにはあんた幽霊みたいな顔してたからよお」
「ええ、そんな顔してました?」
「してたさあ!」

 ばしん、と軽く背中を叩かれる。
 肉厚の大きな手から伝わるのは、懐こい親愛だ。

「以蔵もでーに心配しててよお。わんぬところに電話かけてきて、ドゥシぐぁも連れて行っていいかなんて真面目な声で言うからよお。わんもしかんでよ。どんな奴を連れてくるんあと思ってたら幽霊みたいな白い顔したにいにいだったからさあ」

 少し意味がとれなくてぱちぱちと龍馬が瞬いていれば、島袋は気を悪くした風もなくこの島の言葉の意味を教えてくれた。
 
「ドゥシぐぁっていうのはよ、友達のことだばあよ」
「はい」
「で、しかむ、っていうのが驚くとかビビるとかそういう意味だな」
「でーに、って言うのは?」
「とても、だな。でーに、とかでーじ、とかしか、とも言うなあ」
「へえ、いろんな言い方があるんですね」

 度合を表す言葉だけで、三種類もあるらしい。

「こんな何にもないところにナイチャーが来ても退屈するだけだはずよ、ってわんは言ったんだがよお。以蔵がな、にいにいには休みが必要だって言ってさあ。ええ、にいにいよ」

 かしこまった調子で呼びかけられて、龍馬は島袋へと視線を向ける。
 ぎょろりとしたどんぐり眼がまっすぐに龍馬を見つめている。

「あんた、良いドゥシぐぁもったなあ!」

 しみじみと零れたというような言葉に、龍馬の口からほろりと呼気が零れる。
 はい、と頷く声は少し震えてしまった。
 そうだ。
 そうなのだ。
 以蔵は最初からずっと、龍馬のことを心配してくれていたのだ。
 ここに連れてこられたのも事後承諾で、龍馬は気づいたらここにいた、なんていう状態で、以蔵は正面から龍馬を大丈夫か、なんて気遣うようなことはなかったけれど。
 いつもと変わらぬ軽口と、憎まれ口ばかりの以蔵だけれども。
 それでも以蔵は、美味しい食事を作り、龍馬が眠そうにしていれば寝かせてくれた。
 せっかくの休みなんだから好きなことをしろと、口酸っぱく言ってくれている。
 心配、されていた。
 ずっと、優しくしてもらっていた。
 その事実に龍馬の胸はじわじわと暖かくなり、口元がてれてれと緩む。
 とても、人には見せられない顔をしているような気がするなあ、と思いながらも、表情を引き締めることができない。
 口元に手の甲を押し付けるようにして取り繕い、ようやく落ち着いた頃に今度は龍馬の方から島袋へと語りかけた。

「あの」
「ぬ?」
「島袋さんは、さっき、この村のことを何もないところだって言ってましたけど」
「ああ」
「僕ね、昨日釣りをしたんです。あんなにたくさん魚が釣れたの、初めてでした。以蔵さんがそれを捌いてフライにしてくれて、すっごく美味しかったんですよ。ああそうそう、あの橋のふもとの畑のおばあちゃんから、野菜や果物をたくさんもらいました。ドラゴンフルーツ食べるのも初めてでした。ああ、野生のコウモリも初めて見たなあ」

 にこにこと、この島で初めて見たもの、食べたもの、経験したことを語る龍馬の言葉を島袋はぱちりぱちりと瞬きながら聞いている。

「ここには、僕の慣れ親しんできたものは確かにないかもしれないけれど、僕の知らないものがたくさんあって、僕、今すっごく楽しいんです」

 そんな風に〆た龍馬に、島袋はぼんやりとの瞬きを数度重ねて。
 それからぽぽぽ、とその目元に朱色が滲んだ。
 すぅ、と深呼吸めいて息を吸い、

「いぞおおおおおおおお!!!」
「なんじゃああああああ!!!」

 突然の大声にびくっと龍馬は肩を揺らすものの、間髪入れずに裏手から以蔵の声が返ってきた。
 すぐにとたとたと足音がして以蔵がやってくる。
 島袋は興奮したように傍にやってきた以蔵の背中をバシバシと叩いた。

「やったーのドゥシぐぁ、でーにいいやつやっさー!」
「お、おん?」

 以蔵の、おまん何をしゆう、という視線に龍馬もまた無実を訴える視線で応じたりもするわけなのだが。
 その間も島袋は嬉しそうに目元を赤らめたまま、ばしばしと以蔵の背を叩き続けている。

「以蔵、わんはちょっと出かけてくるからよ、後は任せてもいいか?」
「えいですけんど」

 そうかそうか、と嬉しそうに頷いた島袋はそそくさと荷台に積んだままだった畳を庭におろすと、そそくさと車を発進させて去っていった。
 それを見送ることしかできなかった龍馬と以蔵は、呆然とした面持で視線を交わし合う。

「龍馬」
「はい」
「おまん、おんちゃんに何を言いゆう」
「何も特別なことは言ってない、と、思う、ん、だけど……」

 ただちょっと、この村のことを褒めただけだ。
 否、褒めるというほど特別な美点をあげたわけでもない。
 ただ龍馬はこの村で過ごした中で楽しかったことを話しただけだ。
 そう説明すると、以蔵は諸々を察したらしくはあ、と息を吐いた。

「おんちゃん、嬉しかったんやろうにゃあ……」

 しみじみと以蔵が呟く。
 こうして家を持っているということは、家主の島袋にとってこの地はきっと馴染みの深い土地に違いないのだ。
 そんな地を褒められて厭な気がする者などそういない。

「喜んでもらえたなら良かったけど」

 その結果が、突然の出奔ともなるとどう反応したら良いものなのか。
 結構な勢いで発進していった車はもうとっくに見えなくなってしまった。
 ぽりと頬をかく龍馬に、以蔵はさんぴん茶のグラスを手に取り一息に飲み干してから仕方ないというように言葉を続けた。
 
「まあえい。後は居間だけやき、しゃんしゃん済ませるぞ」
「はあい」

 奥の部屋と寝室の畳の入れ替えをこなしてきた分、そろそろ龍馬にも多少は勝手がわかってきたところだ。
 それなりに手際も良くなったおかげで、一番広い部屋ではあったわりに二人でも思ったより早く終えることが出来た。
 ふうと額の汗を拭って外を見やれば、いつの間にかすっかり陽が暮れかけていた。
 先ほどまで縁側から赤々とした西日が差し込んでいたはずなのに、あんなにも強烈だった赤は今やもう桃の木の枝葉の向こうの空の裾にわずかに滲む程度になってしまっており、庭の底はくらぐらとした藍に沈み始めている。
 
「暗くなる前に終わって良かったの」
「そうだねえ」

 ブロロロロ、と聞き覚えのある車の音が近づいてくるのに気づいたのは、二人がそんな会話を交わしながら真新しいイグサの香りがたちこめる居間に家具を運び込んでいる時の事だった。
 ばたんと車のドアを開閉する音がして、それからすぐに庭先に島袋が姿を現した。
 両手に何やらたくさんの袋ををぶら下げている。
 
「あいえー、しっか上等になってるさあ!」

 島袋は真新しい畳がきっちりと敷き詰められた居間の様子ににこにこと破顔して嬉しそうな声をあげた。

「二人ともお疲れさん、よく頑張ってくれたからよお、これ、わんからのお礼さあ」

 うり、と突きだされた袋を以蔵が縁側の上から受け取る。
 重たげに伸びたビニールの中から、がしゃりと物音がする。
 龍馬が隣から覗きこめば、どうやら袋の中には缶ビールやら酒瓶の類が無造作に突っ込まれているようだった。

「こっちはてんぷらとヒージャーの刺身だから二人で食べるといいさあ」

 酒類とは別に、腕にぶら下げていた袋を今度は龍馬に向かって突き出される。
 受け取るとふわりと油の甘い香りが鼻先を掠めていった。

「おんちゃんは飲んでいかんがか?」
「わんは明日も仕事があるからよぉ……今から那覇に戻らんといけんばあよ」
「おお……大変じゃなあ」
「あんまり遅くなってからだと与那道も危ないから、わんはもう帰ろうねえ」

 はあ、と島袋は残念そうに息を吐く。
 それから三人がかりで古畳を車の荷台に積み込み、とろとろと名残惜しげに車を走り出させる島袋を見送った。

「……おんちゃん、げにまっこと残念そうだったのう」
「ふふ」

 以蔵の言葉に龍馬は小さく笑う。
 この島の人というのは皆己の感情に素直で、好意を好意としてわかりやすくぶつけてきてくれる。
 その純粋さが龍馬にとっては酷く好ましかった。
 もちろん、それが一面に過ぎないというのはよくわかっている。
 彼らは龍馬や以蔵が旅人だからこそ良くしてくれているのだ。
 二人はこの島の人間ではない。
 しばらく滞在はするものの、去って行く者だと、過ぎ去るものだとわかっているからこその親切であり、向けられる素直さであることはよくわかっている。
 島袋の差し入れの袋をぶら下げて、二人仲良く家に戻る。

「今日のお夕飯、これで良さそうだねえ」

 そう言った龍馬に、先にひょいと身軽に縁側に上がっていた以蔵が少し面白がるような眼差しを流した。

「ほうか。へちまの味噌煮でも作っちゃろうかと思っちょったんやが」
「えっ」

 へちまの、味噌煮。

「草刈りのついでに収穫したきに」

 以蔵が軽く足を振ると、ぺいんぺいんとその足からつっかけられていた靴が跳ねて落ちて、庭で引っ繰り返る。
 それからまた、以蔵は龍馬へと流し目をくれた。
 龍馬を唆す目だ。
 日頃抑えこみがちな慾を引きずりだす目だ。

「―――どうしたい」
「食べたい」

 欲望は酷く素直にぽろりと口をついて出た。
 この機会を逃せば、へちまなど食べる機会は今後なかなか巡ってこないかもしれない。
 島袋の差し入れのおかげで食べるものはある。
 米なら昼のうちでセットしておいたし、今頃ほかほかと炊きあがっているだろう。
 これだけで夕飯にしたって、きっと問題はない。
 それに、以蔵は朝から働き通しだ。
 龍馬が起きるより早くに布団から抜け出し、草刈りを済ませ、二人分の昼食を用意し、そして畳の入れ替えでも中心となって働いた。
 きっと疲れているだろう。
 島袋からの差し入れだって、きっと二人が今から夕食の準備などをしなくて済むようにとの心遣いだ。
 だから、これは龍馬の我侭だ。
 知らず、龍馬の手が以蔵へと伸びる。
 くいと以蔵のTシャツの裾を引っ張って。

「以蔵さん、いけん……?」

 ぽつりと零れたおねだりの言葉は龍馬自身が戸惑ってしまうほどに弱々しい甘えを帯びていた。
 振り返った以蔵が面食らったように瞬く。
 ああそうだ。
 これではまるで子どものようだと自覚して龍馬が赤面するより早く、以蔵がぶはッと派手に吹き出した。

「おま……っ、食い意地の張ったやっちゃのう!」

 けたけたと笑う以蔵に、龍馬は眦がぽっぽと火照るのを感じる。
 良い年をした大人の男のして良いことではない。
 何か言い訳をしようと思うのに、仕事であればつらつらとそつなく回る舌はもつれるばかりで、以蔵の上着の裾を掴んだ指を解くことすら出来ないでいる。

「ええと、その、あの」
「えいえい、兄やんが作ってやろうにゃあ」

 くっくっくと笑いの名残に言葉尻を揺らしながらも、わざとらしく年長ぶる以蔵は戸籍上は確実に龍馬よりも年下である。
 居たたまれなさにうううう、と呻きながら龍馬も以蔵に習って靴をぽいと放り出すようにして縁側に上がった。
 どうしてだか昔から以蔵には頭が上がらないのだ。
 以蔵自身が龍馬に対しては兄のように振る舞いがちだということもあるのだろうけれど。

「わしはへちまの味噌煮を作るき、おまんはおんちゃんの差し入れの盛り付けじゃな」
「あの、その」
「何じゃ」
「……以蔵さんも疲れてるのに、ごめんね」
「――――」

 しおらしく謝ったところ、立ち止まった以蔵はぎゅうと眉に皺を寄せた。

「あの、以蔵さん?」

 返事は無言のローキックだった。
 あいたあ!? と悲鳴をあげる龍馬をおいて、以蔵はさっさと台所に向かってしまう。

「しゃんしゃん手ェ洗えよ!」
「ねえ今なんで僕蹴られたの!?」
「知らんわ!」
「知らんのに蹴ったの!?」

 そんな賑やかな会話を交わしながら、龍馬も以蔵を追って台所へ。
 二人並んで肩をのしのしとぶつけ合うようにしながら手を洗って、以蔵がそのまま料理を始めるのを横目に、龍馬は島袋から渡された包みを一つ一つテーブルの上に丁寧に広げていく。
 まず一つはプラスチックのパックに入った赤身の刺身だ。
 うっすらと表面に霜が降りているように見える。
 凍っているのだろうか。

「以蔵さん、これ、このまま常温で解凍しても良いものなのかな」
「あー、そいつは冷蔵庫にしまっちょけ。出すのは食べる直前じゃな」
「はあい。これ、なんのお刺身なんだろう。凍らせて保存するってあんまり聞かないよね。なんだっけ。ヒージャー? だっけ?」

 聞き慣れぬ音だった。
 きっとこの島の言葉なのだろうけれど、その響きからは正体が全くわからない。
 冷蔵庫の中に刺身のパックをしまいながらの龍馬のそんな言葉に、以蔵はぴくんと片眉を跳ね上げて見せた。

「なんじゃ、おまん、ヒージャーを知らんのか」
「知らないよ。以蔵さんは知ってるの?」
「前に汁で食った」
「美味しかった?」
「まあ、悪くはなかったな。ちっくと獣くさいが」
「へ? 獣くさいって……」

 予想外の言葉にぱちくりと瞬いた龍馬に、以蔵はもったいぶるようにフフンと笑って。

「ヒージャーち言うんは山羊のことがじゃ」
「山羊!? えっ、山羊!?」

 まじまじと、刺身のパックに視線を落とす。
 馬刺しや鶏刺しのように、本来火を通して食べるのが一般的な獣の肉を刺身で食べる文化があるのは龍馬だって知っているし、食べたことがないわけでもない。
 だがそれでも、山羊の肉をそのようにして食べるのだということは今まで聞いたこともなかった。

「山羊って刺身で食べるものなんだ……」
「おんちゃん、よっぽどおまんに褒められたんが嬉しかったんろうにゃあ」
「え?」
「こン島じゃ山羊はご馳走じゃ」
「そうなの?」
「おんちゃんが言っちょった。昔はどの家でも山羊を飼っているのが当たり前で、何か祝い事があるとそん山羊を潰して近所にも振る舞ったもんやち」
「へええ……」

 祝いの席でしか食べられなかった山羊肉。
 今ではそう限られたものではないのだろうが、それでも刺身で食べられるほどの新鮮な山羊肉ともなればそう出回っているものでもないだろうことはこの島の事情に詳しくない龍馬でも簡単に想像がついた。
 きっと島袋は探しまわってくれたのだろう。

「わしも刺身は初めてやき、楽しみじゃ」
「うん、そうだね」

 口の端に幸福の笑みを滲ませ、龍馬はいそいそと冷蔵庫に刺身と酒類をしまっていった。
 

 ■□■
 
 
 
 
 それから半刻後。

「かんぱーい!」
「かんぱーい!」

 二人は缶ビールの縁を軽くぶつけて乾杯と決め込んでいた。
 食卓には大きめの深皿に入ったへちまの味噌煮と、天ぷらの盛られた大皿、そして山羊の刺身の皿とか並んでいる。
 ごごびと喉を鳴らして、まずはビールをあおる。
 銀色の缶に鮮やかな☆が描かれたデザインのこのビールは、オリオンビールといって沖縄の地元のビールであるらしい。
 味わいはあっさりとしていて軽やかだ。

「はー……、美味しい。今日も一日お疲れ様」
「おまんもな、今日も一日よう働いた」

 はーと吐き出す息には充足が満ちている。
 そうしてひとまず喉を潤してから、龍馬は料理へと箸を伸ばしていった。
 最初は以蔵が作ってくれたへちまの味噌煮だ。
 汁気たっぷりに煮込まれたへちまを大きなスプーンで掬って、自分のご飯の上にかける。これだけのスープのほとんどが、へちま自身から出たものだというのだから驚きだ。
 ふにふにくったりと柔らかく煮込まれたへちまを箸でつまんで、口に運ぶ。
 まず口の中に広がったのはやわらかな味噌の風味だ。
 ふにゃふにゃと柔らかいヘチマは咬まずとも舌と口蓋の間で潰してしまえるほどで、そうして圧を加えるとたっぷりと含んでいたスープの味わいが口の中に広がる。
 時々ぷちぷちとした歯ごたえがあるのは、へちまの種だ。
 噛みつぶしても特に苦みがあるわけでもなく、ただ食感のアクセントになっている。
 全体的に、優しい味だ。
 おかずにするには少し物足りないようにも感じられる。
 食感は柔らかに煮込んだ茄子に近いような。
 へちま自体の味、というほどその味わいに個性はなく、咀嚼するごとに口の中に広がるのは素朴な味噌の風味ばかりだ。
 ほんのりと感じられる青さの混じった甘みこそがへちま自身の味わいなのだろうか。
 へちまよりもスープの方がやや味が濃いので、煮込まれたへちまをおかずにご飯を食べるというよりもスープをご飯にかけて実も一緒に食べる、という感じの食べ方がしっくり来るのかもしれない。

「……どうじゃ」
「すごく美味しい」

 少しばかり伺うような気配を滲ませた以蔵の問いに、龍馬は即答で答えた。
 美食、というような華やかな美味しさとは異なるものの、ほっとするような、安らぐような、家庭料理ならではの暖かな美味しさがたっぷりとこもっている。
 そのままもぐもぐとへちまばかりを食べていれば、呆れたようにこっちも食え、とひょいと箸でつまんだ天ぷらをご飯の上にのせられた。
 さくさくと揚がった龍馬のよく知るてんぷらと違って、今白米の上に鎮座しているそれはぽってりと厚めの衣に包まれている。

「これ、このまま食べるの?」
「味はついちゅう」
「へえ」

 がっぷりと齧り付く。
 以蔵の言うとおり、もちもちとした衣からは出汁をきかせた塩っ気の強い味がする。
 衣の内側には下味のついた肉厚の白身魚が潜んでおり、じゅわりと魚の旨味が口の中に濃く広がる。

「味が足りん思うたら、ソースつけても美味いぞ」
「ソース? 天つゆじゃなくて?」
「ソースじゃ」
「へえ」

 見れば以蔵は小皿にソースを取り分けて、それに天ぷらをちょんちょんとつけて口に運んでいるようだった。
 そういえば食卓に料理の数々を運んでいる際に、ソースの瓶を運ぶ以蔵の姿に何に使うのかと不思議に思ったのを今思い出した。
 真似て、囓りかけの魚天ぷらの端っこをソースにつける。

「……、……」

 もぐ。
 もぐもぐもぐ。

「これはまた」

 面白い味わいだ。
 ソースなんてとんかつのような揚げ物に使うイメージしかなかったのだけれども、ぽってりとした厚めの衣にソースの強烈な味わいがよく合う。
 単品で食べるならば何もつけずに食べても美味しいが、ごはんのとも、おかずとしていただくならばソースも捨てがたい。

「イカもあるぞ」
「わ、食べたい」
「ほれ」

 ひょいと以蔵が箸でつまんだイカの天ぷらを龍馬のご飯の上にのせる。
 そうして甲斐甲斐しく世話を焼かれていると、島袋の言葉を思い出してついつい龍馬の口元は緩んでしまう。
 口では素直ではないが、いつだって以蔵の振るまいからは龍馬への温かな気遣いが溢れている。

「あ」
「どいた」

 ちょっと待って、と言うかわりに箸を握ったままの手の掌を以蔵に向けて、龍馬はイカの天ぷらにソースをちょんとつけて口に運び、もちもちの衣と一緒にがぶりとイカを囓って咀嚼、呑み込んでまだ余韻の残るうちに缶ビールを流し込んだ。
 しゅわしゅわとした炭酸の喉越しにくぅ、と目を閉じて。

「あー、やっぱり」
「なんじゃ」
「このビール、脂ものとすっごく合うね」
「へえ」

 ビールとしては淡泊な味わいだろう。
 ホップの苦みは控えめで、やもすると物足りなくも感じるが味の濃い、脂っこいものとの相性は抜群だ。
 すっきりと口の中の油分が抜けて、またひとくち、と箸が進む。
 ひとしきりへちまと天ぷらで空腹を満たしたところで、さてと二人は山羊の刺身へと向き直った。
 お互い、山羊を刺身でいただくのは初めてだ。
 小皿にちぃ、と醤油をたらして山葵を溶く。

「龍馬、おまんからでえいぞ」
「まーたそうやって僕を生贄にして」

 わざとらしく半眼を作って見せるものの、別段本気で気を悪くしたわけではない。
 以蔵は食に関してはわりと保守的なところがある。
 匂いのきつい野菜は好かないし、薬味の類いも嫌がる。
 赤身の、うっすらと溶けてとろりと潤んだような刺身の表面を箸に掬い、ちょんと山葵醤油に浸して口に運んだ。
 ひやりとした冷たさが舌の上で急速の蕩けて、肉の味わいが口の中に広がった。
 覚悟していたほど獣臭くもない。

「……、普通に美味しい。馬刺しなんかとそんなに変わらないような気がする。あ、こっちはちょっと厚めだ」

 山羊刺しは切り方を変えて何種類かあるようで、今龍馬が口にしたのはしゃぶしゃぶで使うような限りなく薄く切られた一枚だった。
 その分、口の中で蕩けるように消えていったように思う。
 今度は少し厚めに切られた肉を箸に取る。
 こちらは二層に分かれていて、上の方に1㎝ほど淡く白身がかった部分がある。
 なんだろうと考えて、あ、もしかして皮かと思い当たって少しだけ神妙な顔になった。
 普段から牛やら豚やら散々肉を食べておいてなんだが、生きていた頃の姿が想像できてしまうと少しばかり身構えてしまう。
 それでも、美味しければ食べてしまうのが人の業だ。
 あーんと口をあけ、肉厚な分先ほどよりもしっかりめに山葵醤油に浸してから口に運んだ。

「…………」

 もにゅもにゅ、と柔らかな肉の味わい。
 少しだけ、先ほどよりも獣の風味が強い。
 だが、それはそれほど厭なものではなかった。
 肉を食べているのだ、という実感がより強くなる程度だ。
 そして先ほど龍馬が皮ではないかと疑った部分は他とは食感が異なった。
 こりこりとしている。
 軟骨、というほど堅くはない。
 柔らかな肉質と、こりこりとした食感が面白い。
 咬めば咬むほど肉の旨味が口の中を満たしていく。
 そこで缶ビールを一口啜れば、肉の脂身がさっと流されていくような爽快感だけが残った。

「どうじゃ」
「美味しいよ、これ。馬刺しとか平気なら大丈夫なんじゃないかな。あんまり獣臭くもないし、食べやすい部類だと思う」
「…………ほぉん」

 おそるおそる以蔵が箸を伸ばして山羊刺しに手を伸ばす。
 以蔵用に、小皿に醤油を出してやる。
 山葵の溶けた龍馬の醤油では、以蔵の口には合わないだろう。
 ちょんと醤油をつけて、まずは薄切りを一口。

「…………」
「どう?」
「悪くはない」
「厚い方もどうぞ。ビールが合うよ」

 今度は厚切りをつまんで、口に運ぶ。
 もぐもぐとしばらく咀嚼して、それから以蔵もビールをぐびりと飲んだ。

「……美味い」
「美味しいよねえ」

 しみじみと二人で感想を零し合う。
 へちまの味噌煮を味わい、天ぷらをもちもちと囓り、山羊刺しをビールで流し込み。
 ビールの缶が少なくなれば、島袋が差し入れてくれた泡盛の瓶もあけた。
 強い酒精にかっかと目元を火照らせ、二人で他愛もない言葉を交わしてはけらけらと笑いあう。
 その缶を見つけたのは、そろそろテーブルの上のつまみが尽きかけた頃合いだった。
 濃い茶色の缶には、「A&W」なる文字がでかでかと描かれている。
 缶チューハイの類いかと手の中で転がすようにして表示を探すが、全部が英文で書かれている。
 思わず眉間に皺が寄った。

「以蔵さん、これ、何じゃろう」
「…………ビールやないがか?」
「全部英語で書かれちょるき、ようわからんにゃあ。あ……、でも、これ、ビアって書いちゅう」

 酔いが回り始めてふわふわとした頭でも、それぐらいの英単語の意味はわかる。
 ビア、つまりはビールだ。

「ほおん。海外のビールかえ?」
「そうやないがか?」

 ルートビア、と書いているように読める。
 はてさて、ルートビアとはどんなビールなのか。
 いそいそと龍馬はそのプルタブをぷしりと押し開ける。
 とたん、ふわふわと鼻先を掠めていったのは――――
 
「湿布……?」
「湿布じゃ」
「湿布やねえ」

 鼻にツンとくるような独特の薬品臭だった。
 どれだけ食品に近づけようと言葉を探してみても、湿布の匂い、以外の表現が見つからない。
 だが、それがビールだと思わしき飲み物からしているという現実がうまく飲み込めない。
 何故だ。
 何故この缶からは湿布の匂いがするのだ。
 解せぬ。
 もう一度、龍馬は中身を零さぬように気をつけながら缶の表面を改める。
 薬品、とはどこにも書いていない(ように思える)。
 そして、このフォルム。
 どう見てもドリンクとしての形状をしている。
 いくらなんでもこの形の薬品は海外由来だとしても販売を許可されないのではないだろうか。誤飲事故が大量発生しかねない。
 いやまあ、これだけ強烈な湿布の香りを漂わせている謎の液体を果たして口に運ぶのに躊躇わないものがどれぐらいいるのか、というような話になってくるわけなのだが。

「…………」
「…………」

 以蔵の、泡盛のグラスを傾ける手も完全に止まっている。
 じぃと警戒心の強い野良猫のような目つきで龍馬の手の中にある缶を注視している。

「…………」

 おもむろに龍馬はその缶へと唇を寄せた。
 以蔵が自分の口元に缶を突きつけられたかのようなぎゃあだとかひぎゃあだとかの悲鳴をあげるより先に缶を傾けて、一口啜る。

「…………」

 香りから想像していたようなメンソール系の刺激は全くなかった。
 しゅわしゅわとした炭酸の喉越しと、厭になるほどに甘ったるいクリームソーダのようなこってりとした味わいが口の中に広がる。
 味だけならば、決して不味いものではない。
 だが、呼吸する度に鼻から抜けていく湿布の香りには流石の龍馬も複雑な面持ちになった。クリームソーダ味の液体湿布を飲んでいる、という表現がしっくりくる。

「…………お、おい、龍馬、なんか言えや」
「アルコールは入ってないみたいだよ」
「そうやないろう!?」

 悲鳴みたいな突っ込みが響く。
 じゃあ一体どんな感想が聞きたかったというのか。
 これはもう以蔵も飲んだ方が早かろうと、龍馬はすいと手にしていた缶を以蔵の方へと滑らせた。

「……………………」

 心なしか、以蔵がテーブルから距離を取る。
 
「そこまで凄い味はしなかったよ」

 匂いはすごいけども。

「無理強いはしないけど、以蔵さんも飲んでみたら?」

 百聞は一見に如かずなんて言葉もある。
 あれこれ想像して怖がってるよりも、一口味見してみた方が、なんて言えば別に怖がってなんぞおらんわ、と以蔵がけたましく吠えた。
 別段龍馬に挑発するつもりはなかったのだけれども、以蔵の方はそれを龍馬による度胸試しの誘いだと認識したようだった。
 むっつりと眉間に皺を寄せ、唇をへの字にし、飲み物とは思えぬ香りを当たりにまき散らす缶を睨み付けている。

「………………」

 渋々といったように手が伸びる。
 眉間の皺がますます深くなる。
 目までぎゅっと閉じて、まるで薬を飲まされる子どものような面持ちで以蔵は少しだけ缶を傾け、次の瞬間ぶへッと口に含んだ分を全て吐き出した。

「いけん、これはいけん!」
「いけるよ、多少癖はあるけど」

 げほげほと咳き込む以蔵が汚した分、テーブルを手近にあったふきんでくるくると拭き取り、ついでに手を伸ばしてティッシュで以蔵の口元も拭ってやる。

「お、おまんこれは飲みもんじゃながぞ、絶対薬かなんかじゃき」
「クリームソーダっぽいよね」
「人の話を聞いちょるか???」

 すいと龍馬は茶色の缶を手元に引き寄せる。
 あまり美味しいものだとは思えないが、せっかく島袋が差し入れてくれたものだ。
 排水溝に流し込むのは気が引ける。
 匂いは凄いが、慣れれば味わい自体はそれほど酷いものではない。

「以蔵さん飲まないなら、僕が貰うね」

 くぴりくぴりと飲んでいるうちに、だんだんその独特の香りにも慣れてくる。
 そういう飲み物なのだと思えば、そういうものだと割り切ることが出来るような気がした。が。以蔵はといえば、何かバケモノでも見るような目で龍馬を見ている。

「なに」
「よんなこんべこ、湿布臭がするがじゃ」

 しっし、と犬猫でも追い払うように手を振られる。
 つれない仕草だ。
 つれなくされるとかなしくなる。
 なので。

「そがなこと言う以蔵さんはこうじゃあ!」

 だん、と片手で真新しい畳を叩くようにして前のめりに飛びかかり、がばちょっと龍馬は以蔵を押し倒した。
 本来であれば以蔵の方が普段から身体を動かしている分こういった戯れでも強いのだが、何分今のは完全な不意打ちである。
 上背とウェイトでは多少龍馬の方に分があるもので、反撃されるよりも先にしっかりと組み敷いて抑え込んでしまう。
 そのまま子ども時代によくしたようにもちもちと頬を寄せ、子ども時代とは違ってちょびちょびと無精ひげが生えてざらつく頬にむちゅうと情熱的な口づけを送ってやった。

「ひえええ、わしの顔からも湿布臭がしゆう!!」
「これで揃いじゃ!」
「このようたんぼが! 重い! 離れんかこんべこ! 死ね!」
「いやじゃ!!」

 どったんばったんと組み合って、上下がくるくると入れ替わる。
 しばらくの間そんなプロレス遊びに興じて、酔いやら目やらがすっかり回ってやがて二人はぐったりと畳の上に揃って四肢を投げ出した。
 真新しい畳からはイグサの良い香りが立ち上っている。
 はー、と息を吐いて、龍馬はふすふすとその良い香りに鼻を鳴らした。

「えい匂いがするにゃあ」
「……おまんのせいで湿布臭もするけどな」
「あははは」
「笑い事じゃないがじゃ」

 げしりと足を軽く蹴られた。
 以蔵の細やかな反撃に、龍馬はくつくつと小さく喉を鳴らして笑う。
 開け放したままの縁側から吹き込む夜風が気持ち良い。
 
「にゃあ、以蔵さん」
「なんじゃあ」

 きっと、以蔵にはわからないだろう。
 どれほどの幸福を今この瞬間龍馬が噛みしめているのかなど。
 どれほど満たされているのかを。
 少しでも伝わればいいと思いながら、龍馬は小さく呟く。

「……ありがとうね」

 この島につれてきてくれて。
 心配してくれて。
 優しくしてくれて。
 万感を込めた感謝の言葉に、返事はなかった。
 ただ、げしりともう一つ追加された蹴りだけが、素直ではない幼馴染みの答えじみていた。

 

前へ ■ 戻る ■ 次へ