ぼんやりと瞼を持ち上げる。
この数日のうちにすっかり見慣れた木の天井だ。
すでに部屋の中は明るくて、開け放たれた窓からはそよそよと気持ちの良い風が吹き込んできている。
朝だ。
気持ちの良い朝だ。
だというのに龍馬の気持ちはやっぱりどこか塞いだままで、ブランケットの中でごろりと寝返りを打って丸くなった。
終わりが近いからこそ、時間を有意義に使わなければという気持ちもある。
その一方で、迫り来る終わりと向かい合いたくないからこそこのままずっとブランケットの中でごろごろしていたいとも思ってしまう。
起きなければ、一日が始まらなければ、このままこの時間が続くのではないかなんて、そんなあり得ないことを考えてしまうのだ。
こんなことをしている場合ではないのにという焦燥と、時間を進めることへの恐怖が腹の底でぐつぐつと混ざりあって気持ちが悪くなる。
「…………、」
ばふりと枕に顔を埋めた。
いっそこのまま窒息してしまえたら良いのになんて馬鹿なことを考える。
枕の中にはため息ばかりが詰め込まれていく。
結局目を覚ましてからたっぷり30分以上はウダウダとしてから、それから龍馬はのたのたと身体を起こした。
台所に顔を出すと、以蔵がぱらぱらりと朝刊のページを捲っているところだった。
「おはよう、以蔵さん」
「おはようさん」
ちらりと視線をあげた以蔵から、龍馬はなんとなく視線をそらす。
あまり良い顔をしていないだろうなという自覚ぐらいはあった。
「…………、」
何か言われるかと思ったものの、以蔵はすぐにふいと視線を新聞へと戻した。
そっけなく、しゃんしゃん顔洗ってこいと手を振られる。
それに救われたような、気にかけてもらえなかったことが寂しいような複雑な甘えた気持ちを抱えながら、龍馬はとたとたと洗面所へと向かう。
最初のうちは軋んで開け閉めが出来なかった横戸が、今はスッと音もなく滑る。
改めて家を見渡せば、最初龍馬がきた時と随分と様変わりしていることに改めて気づかされる心地がした。
廊下はもう軋まない。
畳からはもう古く湿った匂いはしない。
以蔵が毎朝窓を開け、戸をあけ放ち風を入れるから、家の中はからりと居心地よく乾いている。
窓か差し込む日差しは暖かで、なんだか改めて龍馬はここが『家』なのだと実感した。
ここは『家』だ。
人が暮らし、生きていくための『家』。
ここには人の生活がある。
ほとんど寝るためにしか使われていなかった龍馬の東京の部屋とは大違いだ。
あの部屋にはここにはない便利なものがたくさんある。
上等な珈琲豆も、美味い日本酒も、5分も歩けばたどり着ける何でもそろう便利なコンビニも。
けれど、龍馬はそんな自分の部屋よりもたった1週間足らず過ごしたこの場所に強い思い入れを抱くようになってしまった。
帰りたくない。
そう、強く思ってしまった。
以蔵が手入れをした引き戸も。
二人で汗を流して入れ替えた畳も。
たった1週間だというのに、こんなにも思い出深く、離れがたい。
向かい合った洗面台の鏡に映る坂本龍馬という男は、なんだか今にも泣きだしそうな子どものような顔をしていた。
「………………はあ」
ため息をついて、じゃばじゃばと顔を洗う。
憂鬱な気持ちも、情けない顔も、全部一緒に洗い流してしまいたい。
顔を洗って少しはマシになった己と見つめ合い、それから髭を当たって、龍馬は台所へと戻った。
「今日の朝飯は手抜きじゃ」
「手抜き?」
首を傾げて見やれば、テーブルの上には深皿が一つ。
中にはすでに牛乳を注がれたたっぷりのコーンフレークが入っていた。
確かにこれは手抜き飯かもしれない。
が、思えばコーンフレークなど食べるのはいつぶりだろう。
かりかりとしたフレークの表面に薄く糖衣のかかったタイプは、子どものころは休みの日の朝の定番だった。
「なんだか懐かしいねえ」
「おかわりもあるがよ」
がさがさ、と以蔵がコーンフレークの箱を弾ませて見せる。
がたりと椅子を引いて席につき、龍馬はさっそくコーンフレークを食べる。
最初は牛乳とコーンフレークとしてそれぞれ違う味をしていたそれが、食べ進めていくうちにコーンフレークの糖衣が牛乳に溶けて味わいに調和がとれていく。
子どものころは、コーンフレークを食べ終わった後の甘くなった牛乳を飲むのが好きだったのを思い出して自然と龍馬の口元が柔い笑みを描く。
「ああ、これはオマケじゃ」
ことん、と皿の傍らに何か黄緑色の塊を転がされた。
「なあに、これ」
「ばんしるーじや」
「ばんしるー?」
「ばあやんがそう言っちょった」
「へえ、ばあやんからもらったの?」
「庭にばんしるーがなっちょるきもってけち」
庭からもいできたものであるらしい。
手に取ってみる。
大きさは掌に収まる程度だ。
しっとりと固いが、ほのかな柔らかさもある。
色合いは明るい黄緑で、てっぺんに向かって次第に黄色みが増していく。
くんと匂いを嗅いでみると、ふわりと甘い香りが鼻先をかすめていった。
どこかで嗅いだことのある匂いだ。
匂いは、知っている。
けれど、その姿を見たことはない。
「これ、皮は剥かないでも食べられるのかい?」
「いけた」
すでに以蔵が実践済みだったらしい。
食べなれないものに以蔵の方から先に手を出しているのは少し珍しいが、きっとおばあに勧められてチャレンジすることになったのだろう。
お年寄りからの厚意を無碍にはできない人の良いところが以蔵にはある。
きゅ、きゅ、と黄色く色づいた部分を親指の腹で何度かぬぐって、それからがぷりと歯をたてた。
皮は固くはない。
手で触った感じは固いようにも感じられたが、ぐ、と顎に力を入れてかみしめてみれば龍馬の歯列はやすやすと果肉に食い込んだ。
固めの桃に似た食感とでもいえば良いのだろうか。
ただし味わいはもっとねっとりと甘ったるい。
他のどの果物に似てるとも言い難い味わいだ。
もぐもぐと咀嚼しながら齧った断面を覗けば、鮮やかな朱色の果肉が覗いているのがわかった。
そしてこの味も匂いも、龍馬はやはり知っている。
「……なんだろう、ここまで正解が出てきてる気がするんだけど」
さすさす、と喉を撫でる。
知っているはずのものが、出てこないのがなんだか酷くもどかしい。
なんだっけ、なんだっけ、と考えながらまた一口。
がり、と何か固いものを噛んだ。
もにもにと舌で果肉の中から押し出して、手の中に吐き出す。
種だ。
引き出したティッシュの上に乗せる。
種の形にも、見覚えはなかった。
前にも一度どこかで食べたことがあるのなら、種があるのかどうかぐらいは覚えていそうなものなのだが、それすらも龍馬は覚えていない。
いや、それとも知らないのか。
うーんうーんと首を捻りながら齧っているうちに、あっというまにばんしるーはなくなってしまった。
後にはティッシュの上に並べられた種がいくつかだけ残っている。
「…………」
す、と以蔵が手を伸ばす。
なんだなんだと思えば、龍馬が傍らに置きっぱなしにしていた端末を手に取った。
暗証番号を打ち込む式のロックがかけてあるので、使うならロックを解除してやろうと龍馬が手を差し出すよりも先にするすると以蔵の指先が実になめらかに画面をなぞって、当たり前のようにネット画面を開き始めた。
「なんで???」
思わず声が出た。
教えた覚えはない。
なのにどうしてさも当然のように以蔵が龍馬の端末の暗証番号を知っているというのか。ちらっと龍馬に向かって視線を擡げた以蔵がふひひと不吉なドヤ顔をして見せた。
「おまん、いっつもわしがそばにおっても気にせんで解除しちょったろう。わしは天才やきな。見て覚えた」
「こわい」
「おまんのことだからどうせ暗証番号は使い回しちょるんろう?」
ニチャア、と以蔵の口角が吊り上がる。
「カードの類には気をつけえよ」
「やめてめっちゃこわい」
ふひひひと心底楽しそうに笑いながら、以蔵はなおも好き勝手に龍馬の端末を操作している。それから、何かお目当てのページにたどり着いたのか、ずいっと龍馬の目の前へと端末を突きだした。
後で一応ネットバンクの預金残高確認しとこ、なんて思いながらも龍馬は以蔵の突きだしてきた画面に視線を落とし、あー!と納得の声をあげた。
沖縄の言葉で「ばんしるー」。
その正体は、グァバだ。
通りで味を知っていると思った。
ジュースでなら、何度か飲んだことがある。
健康に良いのだとかで、一時期流行ってコンビニなどにも並んでいたものだ。
とろみのある濃厚な甘さが、疲れた身体に染み入るような心地がして、しばらくの間見かける度に買っていたものだ。
いつのまにか見なくなり、そのうちすっかり忘れてしまっていた。
「そうかあ、ばんしるーってグァバのことだったんだねえ」
そうか、この島では庭になる類の果物だったのか、と改めて思う。
一週間近く滞在して、いろんなことを知ったと思っていたのに、まだまだ驚かされることがある。
グァバを食べている間に牛乳を吸ってふよふよと柔らかくなってしまったコーンフレークを食べきって、最後に残った甘い牛乳を飲み干した。
ごちそうさま、と手を合わせる。
さて皿を洗うかと立ち上がったところで、座ったままの以蔵が龍馬の背に向けて口を開いた。
「龍馬」
「うん? なんだい、以蔵さん」
「今日はな、沖縄そばを作るぜよ」
「沖縄そば?」
「こん島の名物料理じゃ」
「いや、それは知っているけども」
沖縄といえば沖縄そばだ。
観光案内でも美味しい沖縄そば屋特集なんていうのを見かけるし、都内でも沖縄料理を
扱う店には必ずといって良いほどその名前が並んでいる。
「良いけれど……突然どうしたの?」
「今日が最後じゃきな」
「―――――」
あっさりと言われた言葉に、手にしていた深皿を流しに落としそうになった。
以蔵に背を向けていて良かった、と龍馬はひそやかに息を吐く。
きっとそろそろ終わりが近いだろうとは思っていたし、覚悟も決めつつあった。
けれどそれをいざ以蔵の口から切り出されるのは、やっぱり堪えた。
今日が、最後なのだ。
明日にはこの家を後にする。
一週間かけて『家』にしたこの場所を離れて、以蔵は高知へ戻り、龍馬は東京へと戻る。
楽しかった夏休みが、終わってしまう。
自然と肩が落ち、背がしょぼりと丸くなる。
そんな龍馬を、以蔵は椅子に座ったまま片足を持ち上げてげしりと蹴とばした。
「あいた」
「ぼうっとしな、しゃんしゃん皿を洗わんか。おまんの仕事はまだまだこじゃんとあるんじゃ」
以蔵の声は呆れを含みつつもからりと明るい。
その声に沈みかけていた気持ちを掬われるような心地で、龍馬は眉尻をへにゃりと下げて笑った。
「うん、ちょっと待っててくれ。すぐに終わらせるから」
先に流しに置かれていた以蔵の分の食器と一緒にさっさと洗ってしまう。
この穏やかな日々が終わってしまうことへの寂しさから目を背けることはできない。
けれど、やっぱり以蔵と過ごせる残された時間を無為にしてしまうわけにはいかないと思ったのだ。どうせなら、最後まで楽しく過ごしたい。
よし、と気持ちを切り替えるべく気合いを入れながら、濡れた手を下げられていたタオルで拭って以蔵を振り返る。
「で、僕は何を手伝ったらいいのかな」
「おん、そうじゃな。ほいたらおまんは庭でガジュマルを焼け」
「なんで???」
沖縄そばを作るといっていなかったか。
それがどうして庭でガジュマルを焼く話に繋がるのか。
ちなみにガジュマルというのは沖縄では一般的によく見られる樹木で、枝から垂れた髭根が地面に潜り、育ち、太くなっていくというちょっと珍しい特徴がある。
その結果個でありながら、多くの木々が密集し、絡み合い、一つとなって緑々と葉をつけているように見えるのだ。
大きなものになると、一本でまるで森のように広がっていることがあるほどだ。
それを、焼けと。
「ええと、その以蔵さん」
「なんじゃ」
「さすがに山に火を放つのはまずいと思うよ」
「誰がまるごと焼けちいうたがか」
真顔で突っ込まれてしまった。
何を馬鹿なことを言っているのか、というような顔をしている以蔵だが、そんな途方もない勘違いをさせるぐらい突拍子もないことを先に言い出したのは以蔵の方である。
「庭に端材が積んであるき、えいからしゃんしゃん焼いてこい」
「ええええ……」
そばを作るという話で、どうして木を焼かなければいけないのかがわからない。
もしや沖縄そばには、沖縄で育った木を使って起こした火で調理しなければならないというような縛りでもあるのだろうか。
首をひねりひねり、龍馬は裏庭へと出る。
以蔵に言われた通り、少し探せば軒下の雨に当たらぬ位置に、適度なサイズにぶつ切りにされたガジュマルの枝が積んであるのが目に入った。
細かな枝葉は落とされており、大人の男の二の腕ほどもあろうかという太さの皮付きの丸太のような状態だ。
「以蔵さあん!」
「なんじゃあ!」
「本当にただ焼けばいいの?」
「灰を使うきに、綺麗に焼きい!」
「はあい!」
灰を使う、と言われてますます龍馬の頭にはクエスチョンマークが浮かぶものの、やれと言われたことをやるまでである。
焚きつけには紙を使いたいところだが、以蔵は灰を使うと言っていた。
それならばガジュマルの木の灰以外が混じるとまずいかもしれないと判断し、龍馬は以蔵が草刈りにつかっていた鎌の刃を使って薄くガジュマルの木の皮をこそいでいく。
以蔵ほど器用には剥けないが、細かな木くずをある程度作れればそれで十分だ。
指先で混ぜてふわふわと空気をたっぷりと含ませ、それから適当に乾いた土の上に石を集めて敷いて簡単な火床を拵える。
そこで一度台所に戻り、以蔵からライターを借りてきた。
火床の上に木くずをセットして、ライターで着火する。
乾いた木くずはすぐにめらりと燃え上がって小さな火種を灯した。
はたはたと指先で風を送りながら、ふうふうと呼気も吹きかけ、炎が大きくなるタイミングを見計らってどんどんと木くずを食わせていく。
しばらくその作業を繰り返しているうちに、少しずつ火種は大きくなり、ある程度まで育ったところでぼッと音がして木くず全体が炎に包まれた。
ここまで育てれば後は大丈夫だ。
空気の通り道を残すようにしながら、少しずつガジュマルの枝を組んで炎を大きくしていく。
南国の沖縄で、まだまだ夏の残暑も厳しい中何故焚き火をしているのか我に返りそうにもなるが、ガジュマルを焼けというのが以蔵からの指示なのだから仕方が無い。
てらてらと炎に照らされる龍馬の額にはふつふつと汗が浮く。
炎から目をそらして顔をあげれば、汗ばんだ首元をふいと涼しい風が撫でていった。
青々とした夏の空の下、黙々と理由もわからないままにひたすら木を焼く。
心頭を滅却するための新手の修行だろうかと思い始めたところで、台所から以蔵が草履をつっかけてほてほてとやってきた。
以蔵は焚火の具合を見ると、満足そうに双眸を細めた。
一度台所に戻っていき、今度は手にバケツをぶら下げて戻ってくる。
どうやら中にはたっぷりと水が入っているようだった。
消火用かな、と思いきや。
「灰ができたらその灰、こん水に入れえ」
「お、おん」
ますます使い道がわからなくなった。
まさか灰を捏ねて麺を作るわけではないだろう。
龍馬が食べたことがあるのは東京にある沖縄料理居酒屋の沖縄そばぐらいで、決して本場のものだとは言えなかったかもしれないが、それでも灰で作られているような感じはしなかった。
「ええとその、よくわからないけど灰はどれぐらいいるのかな」
「……そんくらいでえいろう」
「そう」
「おん」
以蔵は一つ頷いて、また台所へと戻っていく。
謎は深まるばかりだ。
今火にかけている分は焼ききってしまおうと、龍馬は時折長めの枝でつつくようにして火にくべられた枝の形を崩す。
それほど力を入れずとも、ほろほろと枝の形は崩れ、さらさらとした灰へと変わっていった。
燃やすべき燃料が尽きるのにあわせて、炎が次第に小さくなる。
やがてちろちろと熾火が揺れる程度になり、それすらもしばらくすると虚空に溶け込むようにふッと消えうせた。
後に残るのは細く立ち上る白い煙だけだ。
本当ならこのあたりで水をかけて火の始末をしたいところなのだが、それでは綺麗に灰を採取することができないのでおとなしく待つことにする。
時折灰の表面をかきまぜて、火が消えていることを目視で確認しながら灰が冷めるのを待つ。
ある程度触れるぐらいの温度になったところで、土を巻き込まないように気を付けながら灰を表面から掬ってバケツの中へと投入していく。
一通り放り込んだあと、残った灰交じりの土には念のために水をかけておいた。
消えたと思っていても見えないところに残った火種が後々勢いを取り戻したことが原因での小火というのはよく聞く話だ。
例え見た目では完全に鎮火したように見えたとしても、やはりトドメには水をかけておくべきなのだろう。
きっちりと火の始末をしてから、龍馬は灰の浮いたバケツを手にひっかけて台所へと戻る。
「以蔵さん、こっちはできたよ」
「おうおう、ご苦労さん」
よっこいせ、とバケツを三和土に下ろす。
以蔵はそんな龍馬のバケツとほぼほぼ大きさの変わらないような大きな寸胴鍋を火にかけているところだった。
こちらも火を使っている分やはり暑いのか、以蔵の額にもふつふつと汗の玉が浮いている。
ひょいと中を覗くと、鍋の中にはたくさんの肉の塊がぐつぐつと煮えていた。
どうやら骨付き肉だ。
「以蔵さん、これは?」
「ソーキじゃ。豚のスペアリブじゃな」
「へえ」
「これをな、ひたすら煮る」
「ひたすら」
「煮る」
時折かきまぜ、アクを掬って捨てたりしながらも以蔵はことこととソーキを煮ている。
その合間合間に端末を覗いて何かを確認しているのが気になって、龍馬は以蔵の端末の画面も覗きこむ。
「それは?」
「島袋のおんちゃんの奥さんが教えてくれたレシピじゃ」
「へえ」
A4程度の紙にこまこまと鉛筆書きで料理の手順が書いてある。
それを写真に撮って送ってきてくれたものらしい。
もうしばらくぐつぐつと肉を煮たところで、以蔵は「よし」と呟いた。
寸胴鍋の取っ手をしっかりと握り、慎重に肉の茹で汁を流しに零していく。
もうもうと白い湯気が台所に立ちこめ、ボコンとの下で音が鳴る。
これで肉の方は準備ができたのかと思いきや、以蔵は一度肉をザルに移動させると、再び寸胴に水を注ぎ、コンロにかけてまた湯を沸かし始める。
その間にザルに取り分けた肉を流水で濯ぎ、くつくつと煮えた湯の中に再び肉をそっと沈めていった。
「すごいねえ、二度も茹でるの?」
「三回じゃ。あと一回は茹でるぞ。そうするとな、余計な脂や臭みが抜けるきに」
そんなことを言いながら、以蔵は一度鍋の前を離れて三和土に置かれていたバケツの中を覗く。
「そろそろ良さそうじゃな。龍馬、おまんの出番じゃ」
以蔵はバケツをそっと揺らさないように台所にあげるとテーブルの脇に下ろした。
それからテキパキと大きなボウルの中に小麦粉や塩を測って放り込み、それから静かに計量カップを足元のバケツに沈めて上澄みの綺麗な水を掬う。
どうやらガジュマルの木を燃やした灰そのものを使うわけではなく、灰と混ぜた水の上澄みだけを使うらしい。
きっちり測った水をボウルの傍らにおき、深皿の中に卵を一つ転がす。
そこまで用意を整えてから、以蔵は場所を龍馬に譲った。
「おまんは麺の担当じゃ」
「うん」
「まずは卵を割って、溶け」
「はあい」
以蔵の指示に従って、卵をぱかりと割る。
ちょっと卵の殻が混じってしまったので、それはコンロの前に戻った以蔵に見つかる前にそそくさと箸で取り除いた。
証拠隠滅だ。
「そしたらそれをボウルに入れてな、混ぜえ」
「はあい」
卵液をとろとろっと小麦粉と塩の混ざったボウルの中に注いでいく。
が、量としては全然足りていない。
粉の量に対して液体分が全く足りていない。
ぱっさぱさのぱっさぱさだ。
まだまだ全然粉だ。
「以蔵さん、これ、すごい粉のままなんだけど。この水もいれていいの?」
「えいけんど、一気にいれるなよ、ちょっとずつじゃ」
「ちょっと、ずつ」
言われた指示を復唱しながら、龍馬は以蔵が予め分量を量っておいてくれた水を少しずつ注いでいく。
「手で捏ねてもいい?」
「捏ねろ捏ねろ、おまんの馬鹿力の活かしどころじゃ」
よおしと袖をまくり、それから「あ」と思い出して今更ながら流しで手を洗う。
それから粉の中に手を突っ込み、水を加えたことで少しだけもちゃっとした生地を捏ね始めた。
ボウルの中に注いだ水分が粉をからめとり、そこを捏ねて生地としてまとまりが出始めたら水を追加し、また周囲の粉を取り込む。
それを何度か繰り返していくうちにやがてコップの中にあった水は全て加え終わった。
「以蔵さん、水、加え終わったよ」
「そいたらにゃあ、表面がつやつやになるまで捏ね続けぇ」
「はあい」
もっちもっちねっちねっちと生地を捏ねる。
時々べちんとボウルの底に叩きつけるようにしてボウルにこびりついた小麦粉をしっかりと絡めとり、もっちりもっちりと捏ね続けている。
そうしているうちに以蔵に言われていたように次第に表面がつやりと光沢を帯び始めた。
「以蔵さん、これでいいかな?」
「お、よくできちゅう」
よくできました、と褒める以蔵の言葉に龍馬は得意げに胸を張る。
龍馬が生地を捏ねている間に、以蔵は二回目の水の入れ替えを済ませ、今は三度目のための湯を沸かしている。
生地の様子をみにきた以蔵も汗みずくだし、これまでべっちんべっちんと麺をこねあげていた龍馬も同じく汗をかいている。
「しばらく寝かせとき」
生地が乾燥しないようにラップでくるりと包んだ後、以蔵は冷蔵庫から取り出したさんぴん茶を二人分のコップに注いだ。
二人で椅子に腰かけ、だらりと足を投げ出して冷たいお茶で喉を潤す。
「あー……、生き返るぅ」
「ひやいのう……」
少しの間、二人であーだのうーだの唸る。
それから、ふーと息を吐いて、ことりとコップを置いて以蔵はまた熱気立ち込めるコンロ前へと戻っていった。
くっくっく、と煮立った湯を中火に変えて、その中に静かに肉を戻していく。
こうして作る過程を見ていたり、実際に体験してみると、普段無造作に口にしているものを作るのにも思いがけない労力が要るのだということを思い知る心地だ。
そうして三度目が終わったところで今度は以蔵は茹で汁は零さずに肉だけをザルにとりわけ、その残った茹で汁は寸胴鍋ごと脇に寄せた。
ばたりと戸棚を開いて、別の鍋を取り出す。
「鍋、変えるの?」
「おん。そっちは後で出汁を作るのに使うきに」
「何か手伝う?」
「えいえい、おまんの担当は麺じゃ」
新しく出した鍋の中に肉をごろごろと入れ、寸胴鍋から掬った茹で知るを肉がひたひたに浸かる程度に注ぐ。
端末を覗きながらとはいえ、以蔵の手際は良い。
再び肉を煮込んでいる間に、調味料の準備を終わらせ、鍋がくつくつと言い始めたところで火の勢いを落として用意しておいた調味料を次々と鍋の中へと入れていく。
とたんにふわりととんでもなく良い香りが台所に広がった。
これまではただただ肉を茹でる匂いと、小麦の匂いしかしていなかったのに、調味料を加えたとたん一気に料理の良い匂いに変わる。
それがなんだか魔法のようで、龍馬は思わずぱちぱちと瞬いた。
「こらめった……、えいかざがしゆう……」
「まだ匂いだけじゃき我慢せえ」
ふらふらと引き寄せられるよう鍋を覗きこんだ龍馬に、つれなくそう言いながらもそんな以蔵もどこか得意げだ。
鍋の中では美味しそうな肉の塊がくつくつと煮えている。
思わず手がでてしまいそうな、そんな魅力的な匂いだ。
「にゃあ、味見は」
「駄目じゃ」
さくっと却下される。
龍馬のもの欲しそうな視線を遮るように、以蔵はぱこりと鍋に蓋をすると火を止めた。
そして、寸胴鍋と肉の鍋との位置を入れ替える。
「? それで完成じゃあないの?」
「まだ出汁がのこっちょる。おまんの仕事もまだ終わっちょらんきにな」
「次はどうしたらいいの?」
「さっきの生地を伸ばして切る」
「あー、テレビで見たことあるよそれ」
肉のゆで汁の入った鍋を火にかけてから、以蔵はごとりとテーブルの上に大きな木の板と麺棒を置いた。
「均等に薄くしてから斬るんやぞ」
「……善処します」
少しの間寝かしてあった生地を台の上に乗せて、龍馬はおそるおそる前に一度テレビで見た光景を思い出しながら麺棒でもちもちみちみちと伸ばしていく。
「畳んで斬るんだよね?」
「おん、薄くして……あ、打ち粉を忘れんなよ」
「あ、そうか。そうしないとくっついちゃうもんね」
良かった。
以蔵が言ってくれなければ、打ち粉をしないままに伸ばした生地を畳んでまたひと塊にしてしまうところだった。
打ち粉を振って生地同士がくっつかないようにしながら、龍馬は丁寧に生地を伸ばしていく。
まずは横に細長く伸ばし、次に厚さがなるべく均等になるようにバランスを取りながら縦に生地を広げていく。
「以蔵さん、薄さってこれぐらいで平気かな?」
「どれどれ、見せてみぃ」
コンロ前を離れて、以蔵が龍馬の手元を覗きこみに来る。
そして生地を指先でつまんで、ふひ、と唇から笑うような呼気を漏らした。
何も言われずとも、その笑いだけで以蔵の言いたいことがわかってしまった龍馬だ。
「……はいはいもうちょっと頑張らせていただきますよ」
「ふひひひ」
龍馬的にはなかなか上手に薄くできたと思ったものの、以蔵から見たらまだまだであったらしい。悔しさと気恥ずかしさに口元をもにもにとさせながら、龍馬は再び麺棒を転がしてより薄く生地を平たく伸ばしていく。
これならどうだと改めて以蔵を呼べば、今度は「上出来じゃ」と褒めてもらうことが出来た。
薄く伸ばした生地を破いてしまわないように気を付けながら、丁寧に折りたたむ。
生地と生地が重なるところに打ち粉を振るのは忘れない。
それからスッと包丁をいれて、麺を細く切り分け始めた。
「均等に、なるべく細く、同じ太さで……」
注意するポイントを声に出しても呟いてみるのだが、気が付くと切り口が斜めになっていたり、途中でがズレて太さが変わってしまったりしてなかなか思うようにいかない。
太いものなど、平たいタイプのパスタほどもある。
「…………」
ぺろん、と太くなってしまった麺の端っこを指先でつまんで持ち上げて、龍馬はしょもりと眉尻を下げた。
これだけ良い匂いがしているのだ。
ソーキはきっとさぞ美味しく仕上がっているだろう。
出汁だって、以蔵に任せておけば間違いない。
それなのに、麺がこの出来だというのはどうにも残念に過ぎる。
何度も湯を変え、汗みずくになりながらも丁寧な下茹でを繰り返していた以蔵を想うと申し訳なさに襲われる。
「……よし」
もう一度生地をまとめて練りなおし、最初やり直そうかと不格好な切れ端をまとめようとしたところで、えいえいと穏やかな以蔵の声がかかった。
「どうせ腹に入れば同じじゃ、こんままでえいよ」
「でも」
「こればあでやり直しちょったら時間がどんだけあっても足りんろう。わしを飢え死にさせる気かえ」
そこまで言われると、さすがに無理を通してやり直すわけにもいかない。
実際時計を見てみれば、いつの間にか時計の針は12時を過ぎている。
いつもならそろそろ昼食にしようか、という時間だ。
そう思えば急になんだかお腹が空いてきて、龍馬はうんと頷いて再び麺を切り分ける作業に戻った。
少しでも美味しく食べられるように、まっすぐに、次こそは良い感じの細さに、と心込めて麺を切り分ける。
そうしているうちに、次第に先ほどのこってりとした食欲をそそる肉の香りとはまた違う、こちらはどちらかというと優しい出汁の香りがふわりと台所に広がった。
なんだろう、と顔をあげると、以蔵がざばざばと出来上がった出汁をペーパータオルで濾しながら別の容器に移しているところだった。
ペーパータオルの上には、ちょっと驚いてしまうほどの鰹節の山が残る。
「出汁も出来たき、あとは麺だけじゃ」
「はあい、こっちもあと少しだよ」
「ほいたら湯を沸かしちょくきに」
以蔵が手際よく使い終わった鍋を洗い、また水を張ってコンロにかける。
その湯が沸く頃には龍馬も麺を切り終えていた。
「……こればあでえいか?」
「いいんじゃない?」
一人分なら大体これぐらいか、と目分量で以蔵が麺を鍋に投入する。
ゆらゆらと湯に広がった麺は一度鍋の底に沈み、しばらくするとぷうかりと浮いてきた。そこをひょいと箸で掬い、軽く湯切りしてどんぶりへと移し出汁を注ぐ。
「龍馬、おまんはネギも要るじゃろ。庭から取ってきぃ」
「了解」
草履をつっかけ、庭に出て植わってるネギを1、2本摘む。
以蔵はネギのような匂いの強い野菜を嫌うため、龍馬の分だけだ。
以蔵が二杯目のそばを茹でている間に、龍馬は軽く濯いだネギをトントントンと細かく刻んでおく。
「ン。こっちがおまんの分じゃ」
そういって差し出されたどんぶりの上にネギを散らせば完成だ。
完成した沖縄そばのどんぶりを抱えて、二人で居間に移動する。
熱気の籠った台所での作業が続いていたこともあり、爽やかな風が縁側から吹き込む居間は随分と涼しく感じられた。
いただきます、と手を合わせて、箸を手に取る。
まずは箸でつつくだけでほろりと身の崩れる柔らかなソーキからだ。
もぐりと口に運べば、丁寧に調理された豚肉は蕩けるようにほぐれて肉とタレの旨味だけを口の中に広がっていく。
ぎゅ、と噛めば噛むほど旨味が染み出してくる。
肉の臭みは全くといっていいほど感じられない。
以蔵の丁寧な下茹でのおかげだ。
飲み込むのがもったいないと思ってしまうほどに美味だった。
ほう、と龍馬の唇から感嘆の息が零れる。
「美味いか」
「うん、すごく美味しい。たぶん、世界一だと思う」
「ほたえなや」
くっくっくと以蔵は笑っているが、悪い気はしていなさそうだ。
ずるると以蔵が麺を啜る音がする。
麺を担当した龍馬としては緊張の一瞬だ。
「…………どう?」
ちらりと以蔵が龍馬に視線を流す。
それからニィと口角を持ち上げた。
「悪くはない。おまんも食うてみぃ」
「う、うん」
太さの不揃いな麺を箸で掬い、ふうふうと冷ましてからずるりと啜る。
もちもちとした小麦の味わいに、肉の旨味とカツオの風味が混ざり合ったスープが絡んでこれまた絶品だった。
出汁を少し濃ゆめに作ってあるからか、太めの麺との相性が良い。
「どうじゃ、美味いろう」
「本当だ、ちゃんと美味しい」
良かった、と龍馬は安堵に口元を緩める。
それからはもう夢中だった。
無心で麺を啜り、肉を食み、どんぶりを手で持ち上げてスープを味わう。
あっという間にどんぶりの中身は空になってしまった。
「にゃあ、以蔵さん」
「どいた」
「おかわり、えい?」
「えいよ、こじゃんと食べえ。残った分はタッパーに詰めて持たせちゃるきな。ソーキは一晩寝かした方がもっと味が染みて美味くなるがぞ」
「……うん、ありがとう」
持たせちゃる。
それは龍馬が東京に戻る際に、ということだろう。
この楽しかった南国生活の終わりを示唆するような言葉には、やっぱりぎゅうと龍馬の胸は締め付けられる。
まだまだ帰りたくない。
もっと一緒にいたい。
そんな我儘が油断すると口から突いて出てしまいそうになる。
だから、少しだけ反応が遅れた。
以蔵が、空になった龍馬のどんぶりをひょいと手の中に攫い、台所に向かったのだ。
「あ、あの以蔵さん、大丈夫だよ、僕自分でもおかわりぐらいできるから」
龍馬は慌てて腰を浮かす。
以蔵はずっと火の前に付きっ切りでこの美味しい沖縄そばを作る上で大変なところを担当してくれていたのだ。
その以蔵にそこまでして貰うわけにはいかない。
そう思うのに、
「えいよ、おまんは座っとき」
なんて答えて、以蔵はひらりと手を振って見せた。
二人で過ごす南の島の愉しくも穏やかな日々の終わりを意識させられたのと重ねて、こんな風に優しくされてしまうとなんだかじんわりと目頭すら熱くなったような気がした。
そんな甲斐甲斐しい姿に、気づいたら龍馬はその背に向かって呼びかけていた。
「…………あの、以蔵さん!」
鍋に火をかけ、ぐつぐつと新しく麺を茹でながら、なんじゃ、と以蔵が返す。
「どいて……、どいてこがあにわしに良くしてくれゆう」
それは、ずっと聞きたかったことだった。
思えば、以蔵はずっと優しかった。
龍馬をこの島に連れてきてくれたことだってそうだし、この島に着いてからもずっとだ。
何かと世話を焼き、龍馬のことを気遣ってくれていた。
口を開けばいつもの憎まれ口が飛び出してくるものの、それでも確かに以蔵は優しかった。
「――――」
龍馬の問いに、以蔵は振り返って、驚いたようにぱちりと瞬いた。
それから、その口元にどこかどうしようもないなあ、と呆れたような、それでいてどこか優しい笑みが広がった。
「おまんはげにまっことべこのかあじゃ」
それはきっと、以蔵の中では答えになっていたのだろう。
けれど、龍馬には納得できない。
「以蔵さん」
どうして、というさらなる追求の意味を込めて名前を呼ぶものの、以蔵はひょいと肩を竦めただけでもう龍馬に背を向けて、おかわりのそばを茹で始めてしまった。
「ソーキとなあ、麺はタッパーに入れて持たせちゃる。出汁はペットボトルに入れちゃるき、家に帰ったら全部まとめて冷蔵庫にしまうのを忘れな。食べるときには麺を茹でて、スープとソーキを温めて適当に盛り付けりゃあえい」
どこか歌うような、柔いリズムで以蔵の語る声音が台所から響く。
その言葉に、なんだかそれ以上は聞けなくなってしまって龍馬は小さく唇を噛んで視線を伏せた。
■□■
沖縄そばを食べ終えた後は、二人で片付けを行った。
「明日の朝、島袋のおんちゃんが迎えにきてくれるきに。おんちゃんの車で空港に向かって、まあ、土産なんかはそこで買うことになるにゃあ。ああ、おまんの分は乗り継ぎの航空券も手配してあるき、安心せえ」
「そうかい」
残った分の麺やソーキ、出汁をそれぞれ先ほど言った通りにタッパーやペットボトルに入れて冷蔵庫にしまいながら以蔵が語る。
二人分の食器や、沖縄そばを作る際に使った鍋などを洗いながら龍馬は静かに頷いた。
いよいよ、最後の時が近づいてきている。
台所の片づけを済ませたら、そのまま二人で家の掃除を行った。
もともとそれほど散らかしてはいないが、立つ鳥後を濁さずという言葉もある。
その作業は、この家に残る自分たちの痕跡を消していく作業のようで、龍馬はなんだか名残惜しさにやっぱり次第にしょんぼりとしてきてしまった。
台所の片隅に置かれていた灰皿の中身が空っぽになっている。
傍らに転がされていたライターも、以蔵の煙草の箱もなくなった。
洗面所に置かれていた洗濯機の中が空っぽになった。
今庭で揺れているのが最後の洗濯物だ。
もう、明日の朝には庭に干された二人分の洗濯物が風に揺れる様を見ることもないのだろう。
ここでの生活が、終わろうとしている。
家の掃除を済ませ、それぞれ荷物の整理をして。
夕方頃には、近所のお世話になった人々へとの挨拶回りも済ませた。
皆名残惜しそうに「もっといたらいいのに」「また遊びにおいでねえ」なんて温かな言葉を口々にくれるものだから、ますます龍馬は泣いてしまいそうになった。
少しずつ陽が落ちていく。
一日が終わる。
終わってしまう。
この家で過ごす最後の日が過ぎ去ろうとしている。
最後の夜の食事は、質素なものだった。
食材を明日以降に持ち越すことが出来ない分、仕方がない。
以蔵が作ってくれたのは、ヒラヤーチーという沖縄のコナモノだった。
小麦を卵と水で溶いたものを塩と出汁で味をつけて、シーチキンを混ぜたものを焼いたものだ。
龍馬の分にはそこにさらにニラが加わった。
韓国料理のチヂミにも似ているが、具材がシンプルな分こちらの方が素朴な味がする。
もちもちとしたヒラヤーチーはそのまま食べても美味しかったが、天ぷらの時と同じようにソースにつけて食べても美味しかった。
以蔵が焼いてくれるヒラヤーチーをもちもちと囓る。
美味しいのに、胸がいっぱいでそれほどたくさんは食べることが出来なかった。
食事の片付けが終わる頃には陽は完全に沈んでしまい、藍色に染まった庭からは涼しい風が吹き込んでいた。
「………………」
「………………」
後は、風呂に入って寝るだけだ。
寝れば朝がきて、朝にはここを去らなければならない。
そう思うと風呂に行かねばと思うのに、まるで尻から根が生えたように動くことが出来なくなってしまった。
以蔵も、同じように胡座をかいて座ったままだ。
少しは、以蔵も名残惜しいと思ってくれているのだろうか。
そんなことを考えていたら。
「――よし」
何か思いきったように以蔵が口を開いた。
「龍馬」
名を呼ばれる。
なんだなんだと視線を持ち上げれば、以蔵はまっすぐに龍馬を見つめて口を開いた。
「海に行くがぞ」
それは唐突な宣言だった。
■□■
暗くなった夜道を、二人でてくてくと歩く。
向かう方角は、共同売店に向かって、だ。
街灯がところどころぽつぽつと灯ってはいるものの、その光の届かぬ範囲はとっぷりと闇に沈んでいる。
とっくに閉まっている共同売店の前を通り過ぎ、そのまま与那道に入るのかと思いきや与那道に入る直前で以蔵は進路を変えた。
そのまま道なりに進んでいけば与那道であるのだが、そこから右手に続く細い道に入ったのだ。
車一台が走るのがやっとのような細い道で、舗装もされてはいない。
タナガーグムイを訪ねた際に龍馬はその細い道の存在には気づいていたのだが、おそらく誰かの畑に通じる私道なのだろうとばかり思っていた。
思えば初日に大きな魚と海老を貰ったのだから、この村にも海辺があると気づくべきだったのだ。
そもそも、沖縄といえば海だ。
青く美しい、南国の海。
だというのに龍馬はこの島にやってきて、まだ一度も海を見てはいなかった。
それが気にならなかったのは、以蔵が昔からあまり海を好まなかったからだ。
海水浴だなんだと海に誘っても、以蔵はあまり乗り気な顔はしなかった。
プールや川遊びには誘えばついてきたし、以蔵の方から誘うこともあったぐらいなので水が怖いだとか、泳ぎが苦手というわけではないだろう。
それでも海に誘うと以蔵はいつもどこか物憂げな顔をした。
何か、海だから厭だと思うような理由があるのだろうと一度聞いたことがあったものの、以蔵は俯いて目をそらすだけで答えを教えてはくれなかった。
だから以蔵と過ごすことを前提にした際に、自然と龍馬の中には海という選択肢が浮かばなかったのだ。
だというのに、今龍馬は以蔵の先導で海に向かっている。
道の右手には、あの村の中を蛇行する川がある。
ここは河口なのだろう。
水の匂いに潮の匂いが混じり始めている。
「ねえ、以蔵さん、本当にいいのかい? 海、得意じゃないだろう」
「えい」
答える以蔵の言葉は短くて、そこからはうまく感情を読み取ることが出来なかった。
どうして今になって、最後の夜になって、以蔵は龍馬を海につれていこうとしているのだろう。
しばらく細い一本道を歩いていくと、やがて強い海風が吹き抜けて目の前が開けた。
目の前に広がるのは黒々とした海だ。
その向こうにぽっかりと白々とした月が浮かび、海の上に光りの道を投げかけている。
月明かりに照らされた砂浜はそれ自体がうっすらと光を帯びているのかと思ってしまうほどに白く、足を踏み入れるとさらさらと細かく島草履の足指にまとわりついた。
以蔵はさっさと島草履を脱ぎ捨てると、裸足で波打ち際へと向かっていく。
龍馬もそれを真似て、その後を追った。
足の指の間をさらさらとした砂がすり抜けていくのがくすぐったい。
波打ち際で足を水に浸す程度かと思いきや、以蔵はそのままじゃぶじゃぶと海の中へと足を踏み入れていった。
「以蔵さん」
「えいえい、どうせ朝には乾きゆうよ」
それなら、と龍馬の足も波を踏む。
夜であることもあって、タナガーグムイの水のような冷たさを覚悟していたものの、ぴちゃりと足下を濡らした波はどこかぬるく、温かい。
二人はじゃぶりじゃぶりと波に逆らうようにして沖へと歩く。
結構進んだはずなのに、未だ水深は龍馬の腰の辺りまでしかない。
「結構遠浅なんだねえ」
「ほうじゃなあ」
じゃぶり、じゃぶり。
打ち寄せる波が龍馬と以蔵の身体に当たって小さな音をたてる。
水は澄んでいて、きっと明るければ海底まで見通すことが出来たのだろう。
時折足下を黒い影がすり抜けていくのは、魚だろうか。
以蔵は、じゃぶじゃぶと進んでいく。
どこまでいくつもりなのか、だんだんと気になってくる。
とぷんと突然沈んで、そのままその姿が波間に消えてしまうのではないかなんていうよくわからない不安まで湧いてくる始末だ。
以蔵さん、と呼び止めようとして息を吸い、「い」まで言ったところで龍馬の足下でぶにりと何か妙な感触がした。
「い、ひえっ」
珍妙な声をあげた龍馬に、流石に以蔵も立ち止まって振り返る。
「どいた」
「な、なんかちんなもん踏んだ…………」
ぶにっとしたものだ。
微妙に足の裏の下で動く気配を感じるので、生き物かもしれない。
そうなると足を持ち上げてしまえば怒りの反撃を喰らう可能性があるため、踏んだ足を持ち上げることも出来ず龍馬は硬直する。
「ちんなもん……?」
「……ぶ、ぶにっとしゆう……」
泣きそうな龍馬に、以蔵は首を傾げ。
すぅと息を吸うと、どぷんと水中に身を沈めた。
「い、以蔵さん!?」
暗い夜の海だ。
そのまま以蔵を見失ったらどうしようと焦るものの、月明かりの下以蔵の影が水中で龍馬の足下に接近するのが見えて少し安心した。
そして以蔵はそのまま龍馬の足下でごそごそと海底の砂をかき分けるようにして、ずるりと勢いよく龍馬の足の下にあったものを引きずりだした。
ぷは、と息を継ぎながら、握ったものをずいと突き出される。
それはでろりとした黒いものだった。
ナマコだ。
真っ黒で、でろんとしている。
太さは指三本分ほどで、長さは30㎝を超えるか超えないかというところだろうか。
そんなものを突然目の前に突き出されたものだから、龍馬はびくりと肩を震わせて後退りかけて、砂に足を取られてそのまま背後に引っ繰り返った。
ばしゃん!と派手な水音が響く。
一度ざぶんと頭まで海に沈んで、慌てて龍馬は水中で手を掻いて体勢を立て直した。
「ひひ、おまん、ナマコが怖いがか」
「怖いっていうか驚いたんだよ」
怖いわけではない。
不気味だとは思う。
ナマコなんて滅多に見る生き物ではないし、どこが頭なのだかもよくわからない。
以蔵の握られたナマコがびくびくと戦慄くように蠢いて、その尻だか頭だか分からないところからどろどろと何か白い粘液を吐き出した。
ますます不気味さが増した。
というか、以蔵はどうしてそんな謎の白い粘液を吐き出す物体Xじみたナマコを握っていられるというのか。
「…………」
「…………」
うへえ、という顔をした龍馬と、以蔵の目が合う。
あ、これはまずいと気づいたのは、ニチャアと以蔵の口角が持ち上がったのを見た瞬間のことだった。
じり。じりり。
以蔵がナマコを握ったまま龍馬へと距離を削る。
「まって。まちぃや以蔵さん、話し合おう」
「話し合うことなんぞないき」
「いやいや話せばわかるって、なんでそれ持って近寄ってくるの!」
「おまんががいにするからこんなことになちゅう。可哀想やち思わんのか」
「思わんよ!」
いや、本当のところ多少は思う。
ナマコにしたって突然龍馬に踏んづけられたのだから災難だっただろう。
そりゃあ口か尻かよくわからないが得体の知れない白いドロドロしたものを吐きたい気持ちにもなるかもしれない。
だが、龍馬だって悪気があったわけではないのだ。
ここは平和的に話し合って解決といきたい。
「にゃあ、龍馬、触ってみい、ぶにぶにぬるぬるしゆうがぞ」
「いやじゃあ、持ってこんとおせ!」
悲鳴をあげて、龍馬はナマコを握りしめて悪魔のような笑みを浮かべる以蔵から逃げるべく背をむけて――――ぬばちっ、と厭な音が背中で破裂した。
そう。
それはまるで。
びったんびったんのナマコを背中に叩き付けられたならそんな音がする、というような音だ。
「…………以蔵さん」
ゆらあと以蔵を振り返ってはは、と龍馬は笑った。
低音が震えるような笑い声だ。
月の下、以蔵を見据える龍馬の目は若干スワっている。
それには流石の以蔵も、少しだけ怯んだように後退る。
だが、以蔵は龍馬を逃がしてはくれなかったのだから、以蔵だけ逃げようというのはずるい。
「りょ、りょおま」
「わしは、厭じゃち言うたろう!」
吐き出す呼気とともに低く怒鳴って、龍馬は水の中で大きく一歩を踏み出して以蔵へと飛びかかった。
「そがなわりことしはこうじゃ!!」
踏み込んだ右足を柔らかく撓めてそのまま身を沈める。
ざぶんと頭が海中に沈むほど低く頭の位置を落としてのタックルだ。
レスリングの要領で組み付いた以蔵の股の下に素早く腕を差し入れ、足下を掬うように担ぎあげ―――そのまま腕力に物を言わせてぶん投げた。
流石の以蔵も受け身を取る余裕がなかったのか、背中から海面に落ちてざっぱあああんと派手な水飛沫があがる。
がぼげぼっと少し噎せる声がして、すぐに「何をしゆうがか!」と怒鳴られるので、「仕掛けてきたんは以蔵さんやが!」なんて怒鳴り返す。
そこから先はもういつものプロレスだ。
水中というだけあってお互いに遠慮なく、投げたりどついたりの大暴れ。
投げたり投げられたり、ばっしゃんばっしゃんと水を蹴立てて二人でどつきあいに興じる。
三十手前の大の大人の男が何をやっているのだと思わなくもないが、たまにはこうして童心に返っても悪くはないだろう。
お互いぜいぜい息をつくようになるまで散々じゃれあって、最終的に相打ちめいて二人ともざぱーんと水面に仰向けに倒れてぷかあと波間に漂った。
波は穏やかで、おとなしくしていれば沈むようなこともなく、波が顔にかかるようなこともない。
暴れて火照った身体に、ほどよくぬるい海水が心地良かった。
見上げた空では、無数の星がチカチカと瞬いている。
地上に明かりの多い都会では見られぬ星空だ。
しばらく息を整えながらぼんやりと星を眺めていたところで。
「にゃあ、龍馬」
以蔵の声がした。
耳が時折波間に沈むせいで、その声は近くからしたようにも、くぐもってどこか遠くから響いたようにも聞こえた。
「なあに、以蔵さん」
自分の声すら、ぼやぼやと響く。
ぱしゃりと小さな水音がして、ぷかぷかと漂う龍馬の上に影がさした。
立ち上がった以蔵が、龍馬の傍らまでやってきたのだ。
仰向けに見上げる龍馬の額に、以蔵の手が触れる。
海水に濡れそぼった前髪をかきあげるように撫でつけて、露出した額の上に残る、少しだけ色の違う、引き攣れた疵痕を以蔵の指先がすりりと辿った。
「おまんは……、おまんにとっちゃなんちゃあないことやったんかもしれんけんど。わしはな、おまんに恩があると思っちゅう」
告白するように告げる声音が、静かに響く。
見上げた以蔵の顔もまた、そお声と同じぐらい穏やかで、無防備だった。
暗い夜の温かな海の中で、以蔵は普段は隠しがちのやわらかな本心をただただ素直に龍馬へと差し出している。
「わしな」
「おん」
「なんでかはようしらん。自分でもわからん。けんど、こんまい頃からずっと、おまんはわしを置いていきゆう男じゃと思っちょった。おまんはいつか、海の向こうに行く男なんじゃと。わしは、同じ場所にはいけん。わしをおいて、おまんは一人で海の向こうに行ってしまうんじゃと」
「――――」
以蔵は、やわりと目を伏せる。
それは以蔵にとっては一種の託宣にも似ていた。
何故そう思うのかも、何を切っ掛けにそう思い始めたのかもわからない。
ただただその予感はいつか真実になるものとして、以蔵の心の中に随分と長い間あったのだ。
「やき、わしは海が好かんかった」
海に遊びにいけば、そのまま龍馬がいなくなってしまうような気がした。
大好きな幼馴染みが自分を置いてどこか遠くに行ってしまう、その時が来てしまうのではないかと怖くて仕方がなかった。
「高校を卒業して、おまんが東京に行くち言ってきたときには、ついにそん時が来たんじゃと思うた」
もう二度と龍馬は戻ってこないのだと思った。
以蔵を過去の人にして、龍馬は都会で暮らしていくのだと。
子どもの頃から抱えていた得体の知れない不安と懸念がついに現実のものになったのだと思った。
今まで当たり前のように隣にいた男がいなくなってしまったことが寂しくて仕方が無かった。
それは、誰にも共感してはもらえない寂しさだった。
他の皆にとっては、幼馴染みが進学して故郷を離れただけの話だ。
けれど、以蔵にとってはそれは永遠の別れに等しかった。
坂本龍馬という男は、岡田以蔵を置いていくのだ。
そんな予感と、確信があった。
だから以蔵は、誰にも理解されない寂しさを埋めるために悪い仲間とつるみ始めた。
彼らは腕っ節の強い以蔵を今までも仲間に引き入れたがっていたし、以蔵はもう傍にいてくれるなら誰でも良かった。
これまで当たり前のように隣にいてくれた男が欠けたことを誤魔化せるなら、誰でも良かった。
その日も、誘われるままに学校をサボってそんな仲間たちと合流して、特に意味もなく上っ面をなぞるだけの会話を交わしながら適当に街中を歩いていた。
そしたら。
『以蔵さん、いかんよ』
そう、声がして。
いるはずのない男の声がして、ぐいと手首を捕まれて、以蔵は背後に引き戻された。
あまりの力強さに以蔵は蹈鞴を踏んで、体勢を立て直したときには隣に龍馬がいた。
その瞬間の、どうしてこの男がここにいるのだろうという驚きを以蔵はきっと生涯忘れることは出来ないだろう。
子どもの頃から抱えていた得体の知れない不安がほろほろと崩れていくのを感じた瞬間でもあった。
帰るぜよ、と手を引いてくれたのが、気恥ずかしくも酷く嬉しかった。
龍馬は、以蔵を捨ておかなかった。
置いていったまま忘れたりなどはしなかった。
あの時の会話は、今でも昨日のことのように思い出せる。
『どいて、……どいて、おまんがここにおるがじゃ』
『以蔵さんがグレたち以蔵さんくのおかやんが言うきに、放っちょけるわけないろう』
龍馬は、以蔵に怒られると思ったのだろう。
余計な世話を焼くなと怒鳴られでもすると思っていたのだろうし、それを覚悟してもいたのだろう。
口をへの字にきりりと結び、頑固そうな面持ちで「わしは謝らんきにな」なんてぽそりと小さく呟くのが聞こえてきたけれど、きっと龍馬は気づいていなかった。
あの時以蔵は、怒るどころか泣きたかったのだ。
幼馴染みが自分のことを気にかけて、互いの親を通して聞いたきっと細やかな日常の愚痴の延長でしかない話を聞いて、すぐにこうして戻ってきてくれたことが、とてもとても、嬉しかったのだ。
ありがとにゃあ、と小声で言った以蔵に、龍馬はどこか怒ったような声音で続けた。
『以蔵さんはな、わしの大切な人じゃ。そん人が道ばあ間違えようしゆうなんて聞いたら飛んでくるのは当然じゃ。当然なんじゃ』
それは、まるで自分自身に言い聞かせているような声でもあった。
そうして龍馬は心の底からほっとしたように、安心したように、以蔵に向かって間に合ってよかった、と眉尻を下げて微笑みかけたのだ。
「……、覚えちょるか」
「覚えちゅうよ」
以蔵の言葉に、龍馬が頷く。
良い思い出を懐かしむような色がその双眸に浮かぶのに、以蔵は口元をぐっとへの字にした。
「…………、そん後、おまん、額を割られたろう」
「そんなこともあったねえ」
まるでなんでもないことのように龍馬はやっぱり笑っている。
ちょっとした子どもの頃のやんちゃエピソードであるかのように、のんびりとした笑みを浮かべている。
龍馬が、以蔵の手を引いて連れ帰った後のことだ。
龍馬はせっかく戻ってきたのだからと数日地元に滞在することになり、その間に以蔵はあっさりと悪い仲間との付き合いを絶った。
もとより何か惹かれるものがあって始まった関係ではなく、以蔵にとっては欠けたものを埋めるために、ずるずると誘われるままにただ一緒に行動していただけのものだったのでそれは自然な流れだった。
けれど、それに納得しなかったのは相手方の方だ。
メンツを潰されただの、義理を通せだのと押しかけてきたそいつらに、以蔵は面倒な連中と付き合った自業自得と諦め、適当にボコられてやるつもりですらいた。
それで縁が切れるのなら、まあ仕方ないと思っていたのだ。
けれど運が悪いことに、そこに龍馬が出くわした。
『以蔵さん!』
そう声をあげて駆け寄ってきた龍馬に、連中は色めきだった。
龍馬さえ戻ってこなければ以蔵はそのまま彼らの仲間であっただろうし、そう考えれば彼らにとって本当に制裁すべきは余計な手出しをしてきた龍馬の方だった。
龍馬相手に詫びをいれろだの、有り金を出せだの絡み始めた連中と以蔵はもみ合いになって……、何が切っ掛けかそのまま大乱闘になった。
龍馬は、以蔵を助けにきてくれただけだ。
そんな龍馬に怪我をさせてたまるかと思っていたはずなのに、気づいた時には以蔵を庇った龍馬が相手が脅し半分で振り回した木刀に殴られていた。
瞼の上からだくだくと血を流して顔を濡らす龍馬の姿に、もとよりそこまでするつもりはなかった連中は怯んで蜘蛛の子を散らすかのように逃げていき、以蔵は泣きそうになりながらも大慌てで救急車を呼んだ。
結局、龍馬は額を五針縫った。
病室ですまざった、巻き込んで悪かったと泣く以蔵に、龍馬はなんでもないことのように笑って、以蔵の手を包むように握ってくれた。
『えいよ、これで以蔵さんが大丈夫になるなら、これぐらいなんちゃあない。こんぐらい、男の勲章じゃき。にゃあ、以蔵さん、泣かんで』
傷が痛むだろうに、龍馬はそう言って以蔵の背を撫でてくれた。
そのときに以蔵は、いつか絶対にこの恩は返そうと思ったのだ。
いつか龍馬が困った時には、以蔵が助けてやろうとそう決意したのだ。
だから、温かな海水の中で以蔵はそっと龍馬の手を握った。
包みこむように、ぎゅ、と。
そうして、海の向こうに浮かぶ月と同じ色をした双眸を優しい笑みに細めて、何か眩しいものを見るように目を細めて自分を見つめる龍馬をまっすぐに見据えた。
「なんちゃあないぜよ。これで、おまんが大丈夫になるなら、これぐらいなんちゃあない」
あのとき、龍馬がくれた言葉だ。
それが、どうしてこんなにも良くしてくれるのかという龍馬の問いへの答えだ。
龍馬は、以蔵に着せた恩のことなどすっかり忘れていたのだろう。
自分がしたことはすっかり忘れている癖に、以蔵から寄せられる優しさだとか親切だとかに戸惑ったように眉尻を下げる姿を、本当に阿呆だと思った。
だから、あんな風にくたびれ果てるまで頑張ってしまうのだ。
龍馬は知らないのだ。
生気のない顔で、へらりと笑って玄関先に立ったこの男の顔に以蔵がどれだけ肝を冷やしたかなんて。
「以蔵さん」
自分の手を包み込むように握る以蔵の手指に自らの手指を絡めるように握り返しながら、龍馬はぐいと以蔵を引き寄せた。
近くなった以蔵の身体を、ぎゅうと抱きしめる。
海水で濡れてべちゃべちゃになった衣服がまとわりつくのはあまり良い感触だとは言えなかったけれど、それでも伝わってくる以蔵の体温に龍馬は酷く龍馬を落ち着かせる。
ぺっそりと濡れた以蔵の髪から、それでも陽向の匂いがするような気がした。
「……わしな」
「おん」
「帰りとうない」
「ふはは、やっと言いよった」
以蔵が耳元で楽しげに笑う。
人の泣き言を聞いてどうしてそんなに嬉しそうなのかと龍馬は思わず半眼になるものの、子どもでもあやすように持ち上がった以蔵の手がぽんぽんと頭を撫でてくれたので、結局面はゆさに口元をむにむにさせるだけに終わった。
ぐりすりと以蔵の頭に自分の頭を懐かせる。
大型犬めいた所作で甘えながら、龍馬はやわりと目を伏せる。
「わしも、同じじゃ」
ほとんど吐息のような声で、小さく呟く。
どうして、忘れていたのだろう。
以蔵が龍馬において行かれるのではないかという懸念を抱き続けたように。
龍馬はいつだって以蔵の手を離してしまうことが怖かった。
手を離して、目を離して、次に振り返ったときにはもう以蔵がいなくなってしまっているというような怖い夢を子どもの頃は何度も繰り返し見たものだ。
だから、最近以蔵の素行が悪くてねえ、なんて岡田母の愚痴を自身の親伝いに聞いた時に、すぐに会いに行かねばと思った。
厭な予感がしたのだ。
自分がいない間に、いない場所で、以蔵が決定的に道を違え、もう二度と龍馬の手が届かないほど遠くにいってしまうような気がしたのだ。
これを見過ごしたら、もう二度と並んで一緒に笑い合うことができなくなると、そんな焦燥に突き動かされて、龍馬は新生活が始まって早々ゴールデンウィークまで待つことなく、学校を休んでまで地元に引き返した。
それで、良かったのだと思っている。
結果ちょっとした怪我をすることにはなったけれども、龍馬は何一つ後悔などしてはいない。
それぐらい、龍馬にとって以蔵は大事なひとだった。
大好きな幼馴染みだった。
それなのに、龍馬はこの半年以蔵と連絡をとっていなかった。
忙しくて会えていなかっただとか、連絡を取れていなかった、ならまだ良い。
龍馬にはその自覚すらなかった。
日々に忙殺されて、龍馬は以蔵のことを忘れていたのだ。
それが、龍馬には恐ろしいし、寂しい。
もしもあの日、取引先の相手がドタキャンをしなかったら龍馬は一体いつ以蔵のことを思い出しただろう。
自分でも知らないうちに、気づかぬうちに、大事だったはずの人から龍馬はあんなにも遠ざかってしまっていた。
何もなかったからこそ良かったものの、龍馬の知らぬうちにもしも以蔵の身に何か起きていたりなどしたらと思うと石でも呑んだかのように腹の底がずんと重苦しくなる。
「……東京に戻ったら、わしはまた、以蔵さんのことを忘れてしまうんじゃろうか」
以蔵と過ごした南の島のきらきらと輝く美しい宝石のような思い出を全て過去のことにして、また自分の食べたいものすら分からなくなるような日々に戻るのだろうか。
また、以蔵のいない日常に慣れて。
以蔵がいないことが当たり前になって、以蔵がいなくてものらくらと生きていけるようになってしまうのだろうか。
こんなにも好きで、大事で、忘れたくなどないのに。
「いぞうさん」
べそをかくような声で、呼ぶ。
すんすんと鼻を啜る。
いぞうさん、ともう一度呼んだところで、
「しわい」
ごいん、と頭突きを喰らった。
目の前でちかちかと星が散る。
いたい、と呻けば、痛くしたんじゃこんべこ、と半眼を向けられた。
「おまんはほんにどうしようもない甘えたやの」
「だってえ」
「えいか、龍馬」
低い声に、これはこれ以上だってだのなんだの言ったら二発目の頭突きを喰らうやつだと悟って龍馬はしんみょうな面持ちでむぐりと口を噤んで以蔵の次の言葉を待つ。
「おまんがまたおかしゅうなったらな」
「うん」
「おまん自身に自覚があろうとなかろうとな」
「うん」
「また―――わしが攫っちゃる」
ぽかんと、龍馬の目が丸くなる。
それから、以蔵の言葉の意味を理解するにつれて、じわじわと口元に柔い笑みが広がった。
「ほんとに?」
「わしは嘘はつかん」
「ぼくが仕事仕事で、おかしくなってたら今度は迎えにもきてくれる?」
「えいぞ、おまんの会社に殴り込んじゃるわ」
「殴りこんじゃうの」
「おうおう、ここに坂本龍馬がおるんはわかっちゅうんじゃ、怪我したくなけりゃあしゃしゃん出しいや!」
「それ完全に借金取りでは?」
二人視線を重ねて、ふは、と緩んだ笑い混じりの呼気が零れたのはほぼ同時だった。
先ほどまで龍馬の中にあった重苦しい不安がゆるゆると解きほぐれていくのがわかる。
もしもまた龍馬が日々の多忙に呑まれて以蔵のことを忘れてしまったとしても。
また以蔵が攫ってくれるのなら何も怖くないと思った。
怖くないどころか、今度はどこにつれていってくれるのだろうなんて思ってしまったのだから現金だ。
ふふ、と龍馬の唇が笑う。
へは、と以蔵の唇も笑う。
自然と二人の距離がゆるゆると削られて、やがてこつんと額と額が触れ合った。
潮の匂いに包まれた中、温かな海の中にひたひたと漬かって笑い逢う。
「ねえ、以蔵さん」
「なんじゃ」
「……また、来ようね」
「今度は、昼の海も見せちゃるきな」
「そいつは楽しみだ」
至近距離で視線を重ねて、また笑みを交わす。
今日は終わる。
楽しかった夏休みが終わる。
明日から二人はまたそれぞれの日常に帰る。
けれどそれでも、頑張れそうな気がした。
「そろそろ戻るか」
「そうだね」
二人、ざぶざぶと砂浜に向かって歩き出す。
月明かりの下、びちょびちょに濡れそぼったままてくてくと家まで歩いて帰った。
誰かに見つかったならば新手の心霊現象の類いに認定されてしまいそうな風貌だったものの、無事に誰に見つかることなく帰ることが出来た。
それから、二人で風呂に入った。
狭いだのシャワーが当たらないだの押し合いへし合い、じゃれるように小突きあいながら風呂を済ませた後は、互いの髪を乾かしてやったりなどし、それから二人仲良く布団を並べてくっついて寝た。
なんせ、今日は夏休み最後の日なので。
■□■
そうして、坂本龍馬の夏休みは終わった。
□■□
「坂本さん!」
そう声をかけられたのは、ちょうど帰り支度を終えた龍馬が席を立ったタイミングでのことだった。
振り返れば、部下でもある青年が申し訳なさそうに眉尻を下げて立っている。
「どうかしたかな」
「あの、ちょっと見てもらいたい書類があって」
「あれま」
今度は龍馬の眉尻が下がる番だった。
ちらりと時計を見る。
時計の針は定時を少し過ぎたところをさしている。
別に急ぐ用事もないのだし、少しぐらい残っても、と思わなくもないが、一度そうして例外を作ってしまえばずるずると龍馬は会社に残ってしまう。
だから、定時で帰る日は定時で仕事を切り上げるというのを徹底しようと決めていた。
「どうしても今日じゃないと駄目なやつかな。僕、今日は定時上がりの日なんだ」
「ちょっと見てもらうだけで良いんです。ええとその、自分じゃその明日でも良い書類なのかどうかもまだ判断がつかないので」
「ああ、なるほど。それぐらいなら構わないよ」
まだまだ仕事を始めたばかりの頃には、仕事の優先順位を決めるのも難しかった。
慣れるまではその辺りの判断を手伝ってやるのも確かに龍馬の仕事のうちだろう。
もしも急ぎのものであるのなら、龍馬の代わりに書類を見てやれるような人を探してやれば良い。
「ええっと」
受け取った書類にざっと目を通す。
「ああ、これなら明日でも大丈夫だよ。ここの数字だけ、調整してくれるかな。そしたらそれ、僕の机に出したら君も帰ってしまって大丈夫だからね。書類は明日の朝見るよ」
「はい! 帰りがけに捕まえてしまってすみませんでした!」
ぺこりと頭を下げる青年に、これくらいならと笑って頷いて、龍馬はフロアを後にした。
エレベーターでエントランスまで降り、ICカードと連携したタイムカードを読み取り機に翳して打刻を済ませ、会社を出る。
もう夏の終わりも近く、吹き抜ける風には少しずつ秋の気配が滲み始めている。
それでも定時ともなるとまだまだ空が明るいのに自然と龍馬の唇に笑みが乗った
ふんふんと鼻歌交じりに電車を乗り継ぎ、るんるんと輸入食品を多く取り扱うちょっとお高いスーパーに寄ってスパムを買った。
あとついでに、ルートビアも。
別に癖になったわけではない。
なんとなく懐かしくなって、見かけると飲みたくなるだけだ。
家に帰ると、朝、家を出る前に仕込んだタイマーのおかげでもうご飯は炊けていた。
広げたラップの上に海苔をしき、その上にご飯をのせて薄く広げる。
それからスパムと卵を焼いた。
冷蔵庫から取り出すのは、タッパーに入った油味噌だ。
先日、以蔵から送られてきたものだ。
以蔵が油味噌を送ってきてくれたからこそ、龍馬はポークタマゴを作る気になったわけなのだが。
ごろごろとしたポークタマゴを四つほど作って、そのうちの一つを早速もぐもぐと囓りながら残った三つとルートビアの缶を並べて写真をとって以蔵へと送った。
まだ仕事をしている時間かな、とも思ったものの以蔵からの返事は早かった。
『げえ』
シンプルなそんな一言に龍馬はくっくっくと喉を鳴らして笑う。
ルートビアはすっかり以蔵の天敵となってしまったものらしい。
『油味噌はどうじゃ』
『すごく美味しい!』
『ほうか』
甘辛い、肉の旨味の溶けた味噌は相変わらずおにぎりとても良く合う。
もぐもぐとスパムにぎりを囓りながら、そういえば、と龍馬は再び以蔵へとメッセージを飛ばした。
『以蔵さん』
『なんじゃ』
『ぼくね』
『おん』
『あの村に家買った』
古馴染みのともから、鬼電が鳴るまであと三秒。
