それはある日のことだった。
 小学校に上がって、少したったある日のこと。
 誰かに呼ばれたあような気がして立ち止まった人通りの少ない通学路、振り返った拍子にびゅうと強い風が吹き抜けて――
 ■■龍馬にいわゆる前世の記憶というものが蘇ったのはその瞬間のことだった。

 世界がぐるりと一回転をキメたような違和感に、ぐらりと足下が傾いで慌てて近くにあった民家の塀に手をついて身体を支える。

 急に身体が縮んでしまったかのような違和感と言うべきなのか。
 膨大な記憶を小さな身体に詰め込まれた違和感と言うべきなのか。
 びょう、と強い風が吹き抜けて、かぶっていた帽子を手で押さえて、次に顔をあげた時にはもうその双眸には子どもには似つかわしくない知性の色が宿っていた。

「――、」

 は、と小さく息を吐く。
 すべてを、思い出した。
 否、すべてではない。
 英霊としてカルデアで過ごした時間の結末は、記憶から欠けている。

 ふと周囲を見やる。

 龍馬が生きていた頃には見たこともないような、平坦に舗装された道。
 両脇にはコンクリートで作られた家々が並び、少し離れた大通りからは車の走る音が響いてくる。
 それは英霊としてカルデアで過ごす中で、マスターから聞かされ、記録媒体で見た2017年の日本の様子にとてもよく似ていた。
 こうして龍馬がただの人間としてこの時代に生まれ落ちたという事実から推測するに、もしかするとあの一連の人理を修復するための戦いというのはなんらかの結末を迎えた後になかったことにされたのかもしれないとふと思った。
 そうしてあの災害がなかったことにされた後で、一体何が起きたのか。
 記憶が一気に流れ込んだ弊害めいてずきずきと鈍痛を訴えるこめかみを小さな指先でするりと撫でて、龍馬は最期の記憶をあさる。
 覚えている最期の記憶は、

『リョーマ』

 女性にしては少し低い、ぶっきらぼうな、それでいて慈愛に満ちた声音が名前を呼ぶ音を思い出した。
 ああ、そうだ。
 龍馬が生前解放して以来、そして坂本龍馬という男が死んだ後も、ずっと半身として傍にいてくれた優しい神様。

「お竜さん」

 小さく、呟く。
 返事はない。
 気配もなかった。
 かつては当たり前のように傍らにあったまつろわぬ神の気配は、今はもう遠く。
 龍馬の傍らにはいない。
 透き通った青空の下、いつものようにぷうかりと虚空に浮かんだ彼女は、黒のプリーツスカートの裾を優雅にひらりと靡かせて龍馬を振り返って言ったのだ。

『今度は楽しく生きろよ』

 それはお別れの言葉だった。
 ちょっと悔しいぐらいに晴れやかな笑顔を向けた彼女に、龍馬はなんと答えたのだったか。

 たぶん、何も言えなかったのだと思う。

 彼女と過ごした長く、ひたすらに永い時間を思えば、来るなんて思っていなかった最期の時に言うべき言葉など見つかるはずもなかった。
 普段は子どものような素直な言葉と、我が儘をぽんぽんと紡いで見せる淡く色づいた唇が柔い笑みを浮かべて、彼女はゆらりと空を泳いで龍馬へとの距離を削るとその頬をするりとその白い繊手で撫でた。
 人とは異なるひやりとしたその体温が愛しかった。
 ずっと傍にいてくれたひとだ。

『リョーマはすぐにいろんなものを背負い込むからな。いいか、お竜さんとの約束だ。今度は楽しく、だ』

 えへんと胸を張って、まるで年上のお姉さんのように言う。
 何かを言おうとしたら、そんな言葉は情けない嗚咽に変わってしまいそうで、そうしたらきっと彼女をとても心配させてしまうのがわかっていたから、今にもわあわあ泣き出したいのを堪えて、「うん」なんて酷くシンプルな返事を返したのを覚えている。

 でも、本当は伝えたかった。

 きっと、伝わっていたとは思うのだけども。
 なんていったって、一心同体だ。
 つらいことも、苦しいことも、一緒に乗り越えてきた相棒だ。
 だから、きっと彼女には全部全部分かっている。

「僕は、お竜さんと一緒にすごした二度の人生、どちらもすごくたのしかったよ」

 小さく、呟く。
 ようやく、口にすることが出来た言葉だ。
 風に攫われるような小さな呟きだが、きっと彼女には届くだろう。
 彼女は長らく龍馬の半身だっだひとだ。
 今はもう分かたれて傍にはいないとしても。
 たとえそうであったとしても、その縁は消えたわけではないはずだ。
 縁、と言えば。
 ふっさりとした睫毛に乗った雫を払い落とすように瞬きをする。
 ぽろりと零れた涙を指先で拭って、記憶を辿る。
 確か、最期に。
 彼女は、もう一つ何か言っていたような気がする。

「以蔵、さん」

 そうだ。
 以蔵のことだ。
 生前の龍馬の未練と後悔を人の形に凝り固めたのならばその人の形になるだろう、というような男のことだ。
 
 名を、岡田以蔵。
 
 この時代には確か幕末の動乱における四大人斬りとして名が伝わっているはずだ。
 生前は幼馴染みとして拗れ、死後、英霊としてカルデアで再会した後はすったもんだの斬ったり斬られたりを経て一応の和解を遂げた男。
 友人、なんていうくくりではとても表しきれぬ腐れ縁の古馴染み。
 あの男もまた、この世に生まれ落ちているのだろうか。
 龍馬同様に、ただびととしての生を再び歩み始めているのだろうか。

『いいか』

 記憶の中で、まつろわぬ神が愉しげにわらう。

『ナメクジを探すのは簡単だ。ナメクジはナメクジだからな。どこにいたってナメクジであることに変わりはない』

 すごく、ナメクジを推している。

 まさか、ナメクジとして第三の生を歩んでいるとは言うまいな。
 いやまさか。まさか。まさかでしょ。

 思いついてしまったトんでもない発想を振り払うように小さく頭を振った。
 思わず、つい、身体を支えるべく手をついていたブロック塀の向こうに生い茂るアジサイの葉の上をかつての幼馴染みを探す視線で一撫でしてしまったのは彼本人には決して言えない秘密ということにしておきたい。
 いやいやいや、と小さく呟きながら、再び龍馬は伏し目がちに過去の記憶を探る。

 この感覚は、英霊として過ごした頃に聖杯から与えられた本来知るはずのない知識を脳内検索するときの感覚によく似ている。

 六歳の■■龍馬では知り得ぬはずの過去の記憶を、龍馬はその身に宿している。
 英霊として過ごしていた時間を含めれば、それは人としての人生を何十と繰り返しただけの記憶になるはずだ。
 そのすべてを一度に叩き込まれたならば、脆弱なただびとに過ぎぬ子どもの頭ではきっと狂ってしまっていただろう。
 感覚としては今の■■龍馬の脳みそとは別の場所にかつての『坂本龍馬』としての記憶を蓄積した空間があって、そこにある記憶を自由に引き出し閲覧出来る、といったようなところだ。
 あの時、最期にお竜はなんと言っていたのだったか。

『狙い目は小学生だ』

 随分と、ざっくりとしたアドバイスだった。
 なんとも、彼女らしい。
 はてさて、それはどういう意味なのだろう。
 龍馬が小学生の時分に出逢い安い、ということなのか。
 それとも、以蔵の方が小学生である時に出逢いやすい、ということなのか。
 後者の場合、年齢差によっては龍馬は小学校に執着する怪しい人になってしまいかねない。出来れば生前と変わらぬ二歳差あたりで落ち着いて欲しいところだが、それだって様々な誤差がありうる。
 生前と同じパターンで来るのならば以蔵は龍馬の二つ年下であるはずだし、享年が絡んでくるのならその逆で以蔵は龍馬の二つ年上ということになる。
 未だずきずきと鈍い痛みを訴えるこめかみを撫でて、思う。
 龍馬は、それなりに頭を使う方面においては器用な方だからこうして過去の記憶を受け入れることも出来たけれども。
 以蔵は、そういったことに滅法弱い。
 なんて言ったって、「わしは頭が悪いきに」が口癖だった男だ。
 幼い身体に人斬りとして生きた記憶やら、カルデアでの記憶なんてものを蘇らせてしまったならば、きっとパニックに陥ってしまうだろう。
 もしかしたら、とんでもなく怯えて泣いてしまうかもしれない。

「早く、見つけてあげないと」

 早く見つけて、怯えて泣いたりしないですむように、だいじょうぶだよ、と慰めて傍で支えてやるのだ。
 かつて、生前彼が泣きみそだった頃の龍馬によくやってくれたように。
 

 
      ■          ■        
 

 
 以蔵との再会は、龍馬がかつての記憶を取り戻してから二年後のこととなった。
 龍馬が三年生にあがったその年に、新入生の中に岡田以蔵はいたのだ。
 一目で、それが以蔵だということが龍馬にはわかった。
 ふわふわとした黒の癖ッ毛に、なだらかに陽に焼けた肌。
 ころりと丸い双眸は蜜を煮詰めたような色をしている。
 ピカピカのランドセルを背負って、普段よりもずっと上等な礼装に身を包んだ子どもに向かって、龍馬は大きく声を上げる。

「以蔵さん!」

 龍馬と同様に、彼が今生においても同じ名前をしているのかどうかなど知らない。
 ただそれでも、彼ならその名に反応するのではないかと思ったのだ。
 彼に記憶があるかどうかの試金石のつもりでもあった。
 果たして彼は龍馬の声に、ふと顔をあげ。
 子どもらしい所作でくるりと周囲を見渡し、その双眸に龍馬の姿を認めた瞬間―――この世の終わりでも覗きこんだような渋面を作って見せた。

 あ、これ覚えてるやつだ。
 
 速攻龍馬も確信に至る。
 以蔵さん、それ小学生のして良い顔じゃないからね、なんて内心ツッコミながら、龍馬はたたたたと軽やかな足音を立てて以蔵の元へと駆け寄る。

「以蔵さん」
「………………」

 渋面の子どもは、視線を足下に向けた。
 子どもらしいふっくらとした頬のライン。
 自然とくちばしのように尖る唇が愛らしい。
 たっぷりと沈黙を挟んだ後、

「人違いですぅ」
「名札に名前書いてるよ」
「…………」

 再びの沈黙。
 真新しい礼装の胸には赤いリボンで作られた花飾りのついた名札がついている。
 そこに書かれた名前は「おかだいぞう」だ。
 龍馬と違って、以蔵は前世とまるっと同じ名前であるらしい。
 なるほど、これはわかりやすい。
 お竜の言っていたナメクジはどこにいてもナメクジだというのはこういう意味であったのかもしれない。
 まあ、本人はどうにもしらばっくれたいらしいが。
 
「…………た」
「た?」
「確かにわしは岡田以蔵にかあらんが」
「うん」

 以蔵さんは今生においても土佐言葉が抜けないのだな、なんて妙なところに感動を覚えたりしながら、龍馬は以蔵の次の言葉を待つ。

「そちらがどちら様かは知らんちや」
「ああ、そういう?」

 ふむふむ、そう来るか。
 そのうろうろと彷徨う視線だったり、もじりとつま先をすり合わせるような所作はどう見ても龍馬が誰だかわかった上での挙動にしか見えないわけだが、どうやら以蔵は龍馬のことなど知りません、という態を貫きたいらしい。

 そうか。
 そう来るか。

 ふ、と龍馬は口元に小さく笑みを浮かべた。
 根比べといこうか、以蔵さん。

「えいよ。以蔵さんがそういうことにしたいのならそれでも。でも、それなら以蔵さんがわしと仲良くしてくれない理由なんかないよね? 良かったなあ。これから仲良くしてね、以蔵さん! ああ、以蔵くん、って呼んだ方がいいかな」

 にっこりと満面の笑みで言い切れば、以蔵はわかりやすくますます厭そうな顔をした。
 だからそれ小学生のして良い顔じゃないからね、とは内心呟くだけにしておく。
 以蔵が何も知らない無垢な子どもであるという設定でいきたいというのならば龍馬もそれに合わせてやるまでだ。
 いとけない子どもにするように、優しく気遣い、面倒をみてあげるだけだ。

「以蔵くん、自分のクラスはわかるかな? ああ、入学式はクラスごとに並ぶからね。ああ、そうそう体育館に行く前にトイレ済ませておこうか。ほら、式の途中でトイレに行きたくなったら困るからね。僕が連れていってあげるね」

 龍馬の慈愛に満ちたやさしい言葉に、以蔵は秒でキレた。

      ■          ■        

「なきにここまで来ておまんの顔を見ないといけんのじゃ……」
「そりゃあ腐れ縁だからじゃないかい。それはともかく以蔵さん、ピカピカの一年生の格好でヤンキー座りするのやめて。人生に疲れ切ったみたいな顔するのもやめて。親御さんが見たら泣いちゃうから」
「おまんのせいじゃろがァ。アー……、酒でも呑まんとやってられんぞ」
「やめて」

 そんなツッコミをこれまた秒で切り返しながら、龍馬は内心ふくくと笑い堪える。
 古馴染みの男は龍馬の知るままの男でやはり今生においてもその腐れ縁は途切れずに済んだものらしく、きっとここまで雁字搦めなのだから、きっとこれからだってニコイチ扱いでこの縁は続いていくのだろう。

 たとえ、繋がっていなかったとしても。
 もう、この手を離すつもりなどないのだけど。

 そんなことを思いながら人目につかぬ体育館裏、壁に背を預けてふてくされたようにヤンキー座りをする幼馴染みを同じく壁に背を預けた体勢で見下ろしてそのつむじの位置も昔と変わらないのだな、なんて他愛のないことに感慨を覚える龍馬だった。

 
 
       ■          ■       

 そうして歩み始めた三度目の人生はわりと順風満帆だった。
 現代日本における標準的な家庭に生まれた二人は、もう食べるものに困ることもなければ、身分制度に苦しめられることもない。
 平等に学校に通い、学ぶことが出来る。
 図書館には驚くほど多くの書物が並び、インターネットを駆使すれば海の向こうの人々とすら会話をすることが出来る。
 カルデアにいた頃だってそれは知識として知っていた事だ。
 だが「知っている」ことと「実際に経験する」ことの間にはやはり大きな隔たりがあった。
 その生活を日常として享受する側にまわってみれば、その豊かさは驚くほどに龍馬の胸を熱くした。
 かつての龍馬が駆け抜けた先の未来に、今の龍馬は立っている。
 もちろん、何もかもが満たされた楽園というわけではない。
 様々な問題は抱えているし、万人に幸福が約束されているわけでもない。
 けれど、それでも確かに龍馬が変えたいと思ったようにこの国は変化を続け、着実に良くなり続けている。
 今を生きる人々にはわからないかもしれないが、三度目の生を歩む龍馬にはその決して楽ではなかったであろう道のりがよくわかる。
 いつかの故郷では冬であろうと、身分の低いものは下駄をはくことが許されてはいなかった。寒い冬の日、ぬかるんだ雪道を水分を吸ってべちゃべちゃになった藁草履で歩く幼馴染の真っ赤になった足と自分の下駄を履いた足とを見比べてたたただ唇を噛むことしか出来なかったのはもう遠い過去のことなのだ。
 その幼馴染も今は冬となれば暖かなコートでもっふりと着膨れし、雨の日はぴかぴかの長靴を履いて傘を振り回しては親やら先生やらに叱られている。

 そんな日常のなんと愛しいことか。

 が、まあ。
 そんな素晴らしき日常にも落とし穴はある。
 例えば、唯一の取柄(だと本人は頑なに思いこんでいる)剣を取り上げられた人斬りだとか。

「…………」

 むっすりと黙り込んだ以蔵の横顔に、龍馬は小さく息を吐く。
 以蔵は今年で三年生になった。
 龍馬は五年生だ。
 龍馬と以蔵が通う小学校では、三年生から部活に入ることができるのだが。

 以蔵は当然のように剣道部を選び――そこでどうやら、夢が破れたらしいのだ。

 ようやっとわしの特技を役立てることができるようじゃのう! なんて意気込んで部活見学と決め込んだ以蔵だったのだが、そこで繰り広げられるあまりにも平和な光景にすっかり意気消沈してしまったのだ。
 元より以蔵は生前より道場で学ぶ剣を「道場剣法」などと呼び嘲る傾向にあった。
 以蔵が求めるのは実践における剣の腕であり、剣を武器としていかに相手を殺すかに技法を絞ったものだ。
 そんな以蔵が満足できる小学校の部活なんていう恐ろしいものがこの平和な世にあって良いはずがない。
 殺伐とした斬り合いを求めて剣道部の稽古を見学しにいき、仲良く型を覚えましょう、と素振りをする低学年の子どもたちの様子を見せつけられてきてしまったのだから、そりゃあまあ以蔵としては気落ちするというものだ。

 大体この結末を予想していたとはいえ、がっくりと肩を落とした以蔵を見ているとなんとか元気づけてやりたくなるのが龍馬の幼馴染としての習性だ。
 以蔵さん、と慰めを口にしようとしたところで、以蔵の方が先に口を開いた。

「……りょぉま」
「なんだい」
「ちっくと付き合え」
「…………またかい?」
「えいから付き合え!」

 ぐいと袖口を掴んで半ば引きずるようにして歩きだす以蔵に、はいはいと返事を返しながら龍馬はおとなしく引っ張られていく。

 向かうのは、学校の裏手にある神社だ。

 放課後、部活体験を終えてからなので現在の時刻は16時を過ぎた頃。
 めっきり冷え込んできたこの季節、暗くなるのも早い。
 そんな時間ともなれば、学校から最寄りの遊び場として人気のある裏山としてもすっかり人の気配は疎らだ。

 そんな裏山の中腹にその神社はある。

 管理人が時折顔を出す他は大人がほとんどよりつかない境内は、悪さをするにはうってつけだ。以蔵は慣れたように境内を外れると、こっそりと目立たぬ場所に隠してあった棒切れを二本手に取って戻ってきた。そのうちの一本を無造作に龍馬へと投げて寄越す。

「構ええ」
「手加減してくれよ」
「おことわり、じゃ!」

 じゃ、の部分で一息に踏み込んで、以蔵が腰溜めに構えた棒切れごと龍馬の懐に向かってすっ飛んでくる。
 構えろとか言っておきながら構える余裕はくれないのか、だとか内心突っ込みながらも龍馬は利き足を一歩後ろに引いて踏ん張って、以蔵の突撃を真正面から受けた。
 下手に避けるとそこからの薙ぎ払いやら何やらで以蔵のペースに呑まれ、その後一方的にひたすら回避に専念することを余儀なくされるのだ。

 によによと獲物を甚振る猫のような顔で追い回されたのは記憶に新しい。

 なので、今回は受ける。
 この年頃の年齢差というのはわりと絶対的だ。
 11歳と9歳の身長差、体格差は龍馬にとって有利に働く。
 だが、その余裕があってなお、龍馬はぎりぎりで以蔵と対峙している。
 これで以蔵が育ち、体格や腕力が龍馬と並ぶようになれば、おそらく純粋な剣の腕だけでは太刀打ちできなくなることだろう。
 今だって、全身の体重と勢いを乗せた以蔵の突撃を受けた腕はじんと痺れるような鈍痛を訴えている。

「こんなのッ、」

 力任せに、以蔵の打ち込むを振り払う。

「大人に見つかったら!」

 踏み込んで、以蔵の腹のあたりを狙って手にした棒切れを横に薙ぐ。
 当てる気はないし、そもそも当たるとも思っていない。
 龍馬が反撃に出た時にはもう以蔵は背後に飛びのいている。
 棒切れの長さの分だけ距離を保って、龍馬ははあ、と吐く息と一緒に言葉の続きを口にした。

「大騒ぎぜよ、わかってるんか、」

 以蔵さん!、と呼びかけるよりも早く、体勢を立て直した以蔵がチッと舌打ちを一つ鳴らして再びこちらへと踏み込んで来る。

 毎回こちらの言葉やら、用意が整うまで待たないあたりがいかにもアサシンらしい。
 おそらくアサシンのクラスのサーヴァントとして活動していた時期が長いから、というわけではなく、むしろその逆だろう。

 生前からこういった戦い方こそを好んでいたからこそ、岡田以蔵はアサシンのクラスで召喚されたのだ。つまり、どこまでも以蔵の戦い方というのは変わらない。
 変わらないからこそ年季が入って磨き上げられたその剣はとことん強いが、同時にだからこそ、難しい。
 どんな手を使ってでも勝ちを拾いにいく以蔵の剣の腕を生かす道を探すにはこの時代のこの国はあんまりにも平和すぎる。
 剣道家として名を成した高名な選手もいることにはいるが、清く正しくルールに守られたフィールド内で剣を交えるやり方は以蔵の飢えを完全には満たしきれない。

 だからこそ、こうして人気のない裏山の境内で棒切れをぶつけあうのは、そんな以蔵の鬱憤を晴らしてやるための息抜きだった。

 お互いに遠慮なくがしがしと打ち合いつつも、これぐらいまでならば相手が捌けるだろうとの信頼がその根にはある。
 これはどうじゃ、これならどうじゃ、おまんなら平気じゃろう、と試すように繰り出される以蔵の剣筋はなかなかに苛烈で、龍馬としてはそれに付き合うのは結構必死だったりもするのだけれども。
 それが以蔵なりの甘えだとわかっているものだから、つい甘やかしてしまうのだ。

「死にさらせ龍馬ァ!」

 吠えて、以蔵が必殺の一撃を繰り出す。
 いやいや殺しちゃまずいでしょ、なんて突っ込みは心の中だけで。

 大丈夫だよね、本当に殺す気はないよね?
 もう僕たちの間に殺し合いに発展するほどの遺恨は残ってない……よね????
 
 なんて、うっすら口元を引き攣らせながら龍馬は回避に移る。
 突き、というのは一撃必殺の威力こそあるものの、銃弾と同じでその軌跡は愚直なまでに直線的だ。警戒すべき打点も一に集中するため、ある程度目が良ければ避けるのはそれほど難しくはない。
 だから、その時だって龍馬はよくよくその軌道を見極めて避けようと思ったのだ。
 以蔵だって、龍馬が避けることを前提にその突きを放っている。
 いくら以蔵が子どもで、手にしているのがただの棒切れにすぎないからといっても、岡田以蔵の全力の突きだ。そんなもの、まともに当たれば死んだっておかしくない。
 
 が。
 
 その日は、少しばかり龍馬の方に運が足りていなかった。
 かつての幸運Aはどこへいってしまったのか。
 踏みしめた足元がずるりと滑る。
 へ、と視線を下ろせば石畳に張り付く枯れ葉が目に入った。
 しまった、と思う。
 不安定な足場では上手く避けられない。

「ッ、りょ、」

 引き攣れたような以蔵の声が耳を打つ。
 殺す気で突きを放っておきながら、それが龍馬に届いてしまうことを恐れるような声だ。いつかの帝都でどうして避けんがじゃ、と叫んだ以蔵を思い出してつい口元が笑ってしまいそうになる。
 が、笑っている場合ではない。
 もう龍馬はどんな深手を負っても魔力で修復できるような英霊ではないのだし、どんな傷でもその唾液で癒してくれる半身がそばにいるわけではないのだ。

「く……ッ、」

 致命傷を負いそうな直撃だけは避けようと、懸命に身体を捻って――次の瞬間、ガンッ、ととんでもない衝撃に頭が揺れた。正直な話、首が取れたのではないかと思った。それぐらいの衝撃だった。のけぞった頭の重みに負けて、そのまま背後にたおれる。
 閉じるのも忘れた視界に飛び込んでくる幼馴染の真っ青な顔が、濃い赤に塗りつぶされていく。どうやら流血しているらしい。だらだらと額のあたりからあふれる熱くて金臭い液体に視界を潰される感覚にはあまりにも馴染みがありすぎた。
 ぐらぐらと視界が揺れて、赤く染まって、意識が混濁する。
 自分がどこにいるのか、誰と一緒にいるのか、ここがいつなのかを見失う。

「中岡さ、」

 地面に倒れながらも、手が咄嗟に取り落とした刀を探そうと彷徨ってがりがりと畳を掻き毟る。

 刀?
 畳?

 果たして、この場にそんなものはあっただろうか。
 そんなまっとうな違和感を覚えたものの、すぐにそんな違和感は焦燥に塗り潰される。
 ここで意識を失ったら、止めを刺されてしまう。
 ここで、目を閉じたら、終わってしまう。
 二度と目覚めない。

「こんなところで、」

 吐き捨てるように呻いたところで、「龍馬!」と呼ぶ声がした。
 子どもの声だ。
 子どもなんていただろうか。
 その声音は道を違え、一足先に逝ってしまった幼馴染の幼い頃の声にとてもよく似ていて……、というか。
 
「――――いぞう、さん?」
「しっかりせえ、龍馬!」

 呼ぶ声に、ぱちりと瞬きを一度する。
 ぐじゃぐじゃと混ぜこぜになっていた記憶が、意識が、すっと浮上する。
 そうだ。
 ここは、あの時の近江屋ではない。
 身体の下に感じるのは畳の感触ではなく、畳は畳でも冷たい石畳だし、龍馬が必死に手に取ろうと足掻いていたのは愛刀ではなくただの棒切れだ。
 目に入った血が染みてほとんど効かない視界のぼんやりと霞んだ先に移る人影だって、暗殺者にしては随分と小柄ではないか。
 これは、以蔵だ。 

「龍馬、わしに掴まっちょけ、えいな!?」
「う、ん」

 腕を掴んで、身体を起こされる。
 ぐらりと頭が揺れる。
 身体に上手く力が入らなくて、人形にでもなったような心地だ。
 ぐてんぐてんと力の抜けた龍馬の腕を自らの首に巻き付けるようにして以蔵は龍馬を背負う。9才の以蔵には、2つ年上の龍馬を背負うのは随分な重労働だろうに、以蔵は決して泣き言を漏らさなかった。
 龍馬を担いで裏山から下りる間、以蔵はずっと龍馬へと声をかけ続けた。

 寝るなよ。
 起きちょるろうな。
 しゃんとせえ。
 龍馬。
 龍馬。
 返事せえ。

 龍馬は夢うつつにそんな声に応え続けた。
 
 おきてるよ。
 だいじょうぶだよ。
 うん。
 なに。
 なあに。
 おきてるんだってば。
 
 そんな会話を何度か繰り返して、龍馬の額からだくだくと零れた血液が以蔵の肩口までを真っ赤に染めた頃、二人は裏山を出たところで大人の目にとまり、救急車を呼ばれることになったのだった。
 

 
       ■          ■       
 
 

 
 結局龍馬は、額を四針縫った。
 かつて坂本龍馬であった頃の記憶やら、英霊として戦った記憶のある龍馬本人としては頭の中身に問題がなかったのならばこれぐらいの怪我は軽傷のうちだと思っていたのだが、平和な現代においては十分大怪我のうちに入るものらしかった。

 周囲の大人たちは血まみれの龍馬と以蔵に大変驚き大騒ぎになったし、両家の親はもちろんとして、学校にまで連絡がいき、二人の担任やら学校長までが病院に駆けつけることとなった。
 龍馬が怪我をしたのは、学校から家に帰るまでの帰路でのことだ。
 そうなると学校側としても知らんぷりをするわけにはいかないらしい。
 この時代の子どもに対する責任のあり方を改めて知って、その手厚さに感動したりする龍馬だったが、そんな呑気さが続いたのは精密検査が終わるまでのことだった。

 外傷がぱっくり割れた額だけだということがわかった後は、以蔵と二人して大人たちにこってりと絞られたのだ。
 両家の親――龍馬の家は片親だったので母親が駆けつけてくれた――と、担任と、学校長と、総勢六人もの大人たちに囲まれ、口々にお小言を並べられ、二人が解放されたのはたっぷり二時間以上たってからのことだった。

 今は、大人たちはそれぞれ謝罪合戦を龍馬の病室の外で行っている。
 怪我をさせてしまい申し訳ありませんでした、と以蔵の両親が謝れば、龍馬の母親がうちの龍馬の方が年上なのに危ない遊びを止められなくて申し訳ありませんと謝罪を口にし、それを聞いた担任二人と学校長が指導が及ばずと横合いから謝罪を挟み、それに対して龍馬と以蔵の親たちがそれぞれこんな時間にお呼びたてしまいと頭を下げる。

 そんな声音が廊下から響いてくるのを聞きながら、龍馬と以蔵は二人で顔を見合わせる。さんざん絞られたこともあって、以蔵の顔には疲れの色が濃い。おそらく、龍馬も似たような顔をしていることだろう。
 
「以蔵さん、大丈夫?」
「…………おん」

 げんなりとした息を吐きながら、以蔵が龍馬のベッド脇に腰掛ける。

「…………」
「……以蔵さん?」
「……今更じゃ」
「うん?」

 はあ、と深々としたため息を吐いて、以蔵が龍馬を見あげる。
 金色のくるりとした丸い双眸が、龍馬の額に巻かれた白い包帯を見て忌々しそうに眇められる。

「今更、わしがおまんを殺すなんぞ笑い話にもなりゃあせんぞ」
「……はは、本当そうだね」

 いつもの癖でこめかみを掻こうとして指先がさりと白く柔い包帯に触れた。
 触りなや、と注意する声に、うん、と頷いて龍馬は手を下ろす。
 
「これね」
「おん」
「痕、残るみたい」
「ほうか」

 抜糸は二週間後だと医者は言っていた。
 おそらく痕が残るだろうが、普段は髪で隠れる位置だからね、と慰めるような医者の言葉を思い出す。
 龍馬が女性であれば髪で隠れる位置だといえ顔に傷が残るともなればいろいろ思うところがあるだろうが、龍馬は男であったし、そもそも自分の顔にそんなこだわりや思い入れはない。
 ただ、唯一気になることがあるとしたならば。

「……なんか、こう。業が深いよね……」

 しみじみと、呟く。
 今回龍馬が額に負った傷は、不気味なほどにかつての死因と酷似していた。
 もちろん、今回の怪我は死に至るようなものではない。
 だがその位置が、厭になるほど同じなのだ。
 ついつい傷跡をたどるように手を持ち上げてしまって、また不機嫌そうな以蔵の声に触りなや、と叱られて手を下ろす。
 それから、ちょろりと視線を持ち上げて以蔵の首元に視線を向ける。
 子どもらしいすらりと細い華奢な首が、ふっこりとしたトレーナーの首元から伸びている。その首元にはかつて英霊になってもなお刻まれていたかつての死因となった断首の痕は見当たらない。

「…………………」

 龍馬は、視線を手元に落とす。
 シーツの上で手を組んで、もにもにと言葉に迷うように指を弄る。

「……なんじゃ」
「うん」

 なんとなく、厭な予感がしたのだ。
 これが、本当に前世の業と呼ばれるようなものであるのならば。
 以蔵だって、前世の死因を想起させるような怪我をすることがあるのかもしれない。
 龍馬は額だったおかげで、特に命に別状はなかったけれども、以蔵は頚だ。
 果たしてその場合、「痕が残る」なんて程度で済むのだろうか。
 そう思うと、急に怖くなってしまったのだ。

「あのね、以蔵さん」
「おん」
「以蔵さんの首、わしに切らせてくれんか」
「こわ」

 ドン引きされた。
 がたた、と音をたててベッドサイドに座っていた以蔵がわざとらしく椅子まで引いて遠ざかる。

「絞めるのでもいいんだけど」
「こわい」

 がたた。
 また以蔵が一歩遠のいた。

「いやだってさ……謎の前世の業的なやつで怪我させられるんだとしたら、加減ができる僕がひと思いにやった方が軽く済むし安全だと思わない?」
「やき、わしが首をやるなんぞ決まっちょらんじゃろう」
「そうなんだけど。わしのこれを見とおせ。偶然で片づけるにゃちっくと怖いんじゃ」
「ほうじゃのう……」

 さすさす、すりりと以蔵の小さな手が自らの首元を撫でる。
 そのすべらかで健全な肌に、かつての死因が刻まれるようなことなどなければ良いと龍馬は強く思う。
 特に、以蔵の場合死因が死因だ。
 過去の悔恨と、苦痛と、恥辱のすべてをぐちゃぐちゃに混ぜて塗りたくったような傷跡だ。それを、以蔵はかつてカルデアで自らその首を斬り落とすなんて手段でもってして無理やりに上書きをしたことがある。
 がたがたと歪んだじぐざくの傷跡は、剣の天才である以蔵自身の手によって、きれいな一筋の傷となった。
 こたびの以蔵の首に刻まれるのがそのどちらかは知らないものの、今度は彼自身によってされるようなことがなければ良いなんて龍馬は思ってしまったのだ。

「にゃあ、以蔵さん」
「……考えといちゃる」
「おん」

 ようやく謝罪合戦も終わりを迎えたのか、それぞれの保護者が病室に入ってきたのは二人がそんなさらなる不穏な企てを話し終えたタイミングだった。

 
 
       ■          ■    
 

 
 それからの数日は、なんとも平和に過ぎていった。
 変わったことがあったとしたならば、龍馬と以蔵の二人が殺陣教室に放り込まれたということだろうか。

 龍馬の負った怪我の原因が、剣道では満たされない以蔵の鬱憤をはらすためのチャンバラだった、ということを鑑みて、両家の親が話し合った結果そういう解決法を試すことになったのだ。
 以蔵にとって幸いだったのは、危ない遊びをするなと一方的に怒鳴り散らすような親ではなく、何故以蔵と龍馬がそんなことをしていたのかに耳を傾ける理解者に恵まれたということだろう。

 ルールに守られた型どおりの剣術だけでは満足できないのだと、とつとつと語られた以蔵の言葉を以蔵の両親は彼らなりに真剣に受け止めた。

 以蔵の両親から見ても以蔵の振るう剣筋が常人離れしているのがわかってしまったからだろう。今も昔も、以蔵はやはり剣の天才なのだ。
 以蔵の才をただただ抑えるだけでなく、それでいて問題行動を辞めさせるためには、と悩んだ結果以蔵の両親が見つけてきたのが殺陣の教室だった。

 とはいえ、殺陣でもルール無用の斬り合いが出来るわけではない。
 あくまでそれは緻密に演出され、再現される人斬りだ。
 けれど、剣道ほど型どおりでなく、緻密に実際の殺人であるように見せながら実際には決して怪我をさせてはいけないという二律背反の緊張感は、剣道よりはよほど以蔵の気に召したようだった。
 以蔵は熱心に殺陣の教室に通うようになった。
 長らく続いていた神社の境内での秘密のチャンバラがなくなり、代わりのように二人で稽古と称して打ち合うことが増えた。
 元々境内でのチャンバラと殺陣の練習はどこか似ている。
 あれだって、本来ならお互い相手を傷つけるつもりはなく、互いに相手ならこの程度は受けるだろう避けるだろうというギリギリを攻めあうような遊びだった。
 それがもう少しだけ計画的になったようなものだ。

「わしがな、こう振るき、おまんはこう避ければえいがじゃ」
「えええ、それは無茶じゃないかい」
「わしならできるがぞ」
「じゃあ以蔵さんやって見せてよ」
「えいぞ」

 顔をつきあわせてはそんな風に話し合い、実際に剣を振り、録画したそれを確認してお互いに問題点を洗い出し、また剣を交える。
 二人の殺陣は、周囲の大人たちも舌を巻くほどだった。

「以蔵くんも龍馬くんも、よくもまああそこまで思い切って刀を振れるなあ」

 殺陣の教師陣は驚嘆したようにそんな感想を漏らした。
 例え大人であっても、型通りの行動であり、手にしているのが模造刀であるとわかっていても人間に向かって凶器を振りぬくのには抵抗があるものだ。
 実際、殺陣の現場での事故というのは少ないとはいえ全く聞かないというものでもない。それなのに、この二人ときたら容赦なく、ためらいなく、お互いに向けて刀を振りぬくのだ。それは、きっと手にしているのが真剣であったとしてもそうだろうと思わせる本気度合だ。
 ただそれだけであれば怖いもの知らずの子どもだからこその思い切りであると片付いたかもしれない。だが、二人がそういった思い切りの良さを発揮するのはお互いが相手の時だけで、それ以外においては相手がたとえ教師陣であっても二人は注意深く己の手にした得物を取り扱った。それは手にしたものが模造刀であっても人の命を刈り取り得るものだとよく心得た熟練の人間の仕草にも似ていたし、互いに向ける本気具合はその両者の間にある強い信頼をありありと浮かび上がらせた。

「龍馬くんと以蔵くんは本当に良いコンビだ。二人でぜひ舞台に出てほしい」

 そんな声が寄せられるようになるのに時間はかからなかった。
 出し物として、演武として、二人は人前で殺陣を披露することが増えた。
 そのうち役を得て舞台に上がることも増えた。
 二人が共演した舞台で最も話題になったのは、武蔵と小次郎だ。
 二人を主役の据えて、巌流島での決闘を芝居仕立てで見せたのだ。
 龍馬演じる宮本武蔵と、以蔵演じる佐々木小次郎。
 かつての生前から、以蔵がどれほど二天様こと宮本武蔵に憧れていたのかを知っている龍馬としては、宮本武蔵役は以蔵にした方が良いのではと申し出たりもしたのだが、神妙な顔をした以蔵本人に、わしなんぞが二天様の役を演じるのは役者不足にもほどがあるき、と丁寧に辞退されてしまった結果がこの配役である。
 二人の演じる武蔵と小次郎は大変話題になった。
 テレビの取材まで来たほどである。

 それ以来二人はちょくちょく天才子役として茶の間に話題を提供するようになり――そんなある種平和な日々は、二人が中学生になるまで続いた。

 それは以蔵が中学に初めて最初の、龍馬は高校受験を控え始めたある日のことだった。

 龍馬は、さっさと帰ろうとする以蔵を呼び止める。
 すでに周囲には人の気配は薄い。
 がらんとした放課後の廊下で二人足を止めて向き合う。
 なんじゃ、と以蔵が促しても、龍馬はなかなか口を開こうとはしなかった。
 視線が、以蔵の足元のあたりをうろうろと彷徨っている。
 その様子からして、とても言いにくい話題なのだということがわかってしまった。
 
「あのね、以蔵さん。ちょっと、話があるんだけど」
「ウワア」
「……僕まだ何も言ってないんだけど」
「絶対悪い話ちや……」
「いやまあ、そうなんだけども」
「その」
「おん」
「実は、家庭の事情で東京の方に引っ越すことが決まって」
「ウワア」
「その家庭の事情っていうのが母さんの再婚でね」
「おおう」

 今世における龍馬の母親は、龍馬の父親である夫と死別して以来、女手一つで龍馬を育ててきたという大変愛情深い女性だ。

 そんな龍馬の母親に新たに想う相手ができたというのはなんとも喜ばしいことだ。
 そしてそんな彼女の想いが実り、その相手が龍馬の父親として家庭に入るというのも、決して悪い話ではないのだろう。
 だがそれでもやはり、あまり認めたくはないものの龍馬が東京に行ってしまうというのはなんとも寂しく、多少の心もとなさも覚えてしまう以蔵だ。
 それでも、ここは祝福して見送るぐらいの度量の広さを見せてやるべきところだろうと以蔵はぐっと口を引き結び、情けない顔を見せてしまわないように表情を引き締めつつ龍馬の次の言葉を待ったわけだが。

「その、新しく旦那さんになる人の苗字がね」
「おん」
「坂本なんだよね」
「ブッハッハッハッハッハッハッハ」

 せっかく引き締めていたはずの口を開いて、以蔵は盛大に噴き出した。
 おまん、ついに坂本龍馬になるがか、とゲッタゲタと腹を抱えて大声で笑い飛ばす。
 対する龍馬は苦虫でも噛み潰したような顔だ。

「以蔵さん、笑いすぎ」
「これが、笑わずに、おられるか!」

 ひいひいと苦しげに笑いながら、以蔵は目元に浮いた涙を擦る。
 思わずああえい気味じゃ、なんて言葉が漏れた。
 ますます目の前の龍馬の眉尻が下がるものだから、ふひひ、と以蔵の笑いはますます止まらなくなる。

 以蔵は、岡田家の長男として生まれた。

 そして、母親の言葉によると神様のお告げにより以蔵という名前を授けられたのだという。長い黒髪のうつくしい、少女のような神様だったというのだから、以蔵は十中八九お竜の仕業だと睨んでいる。きっと、龍馬が自分を見つけやすいようにと気をまわしたのだろう。

 そんなわけで、以蔵は今世でも岡田以蔵だというのに、龍馬の方はといえば■■龍馬である。お竜よ何故そこで妥協した、とふてくされた気持ちにもなるというものだ。

 が、これで龍馬も心身共に坂本龍馬になるわけである。

 知名度でいえば断然維新の英雄坂本龍馬の方が高い。
 今後は龍馬も名乗る度に「あ、あの坂本龍馬と同姓同名なんだね。ご両親が好きだったの?」なんて反応をされるに違いない。なおも意地悪くげたげた笑っていれば、ヘッドロック気味に龍馬の腕が以蔵の首に絡められた。
 ぎっちりと絞めあげられて、以蔵は笑いながらもその腕をタップしてギブアップのサインを送る。なんだかんだ、ひょろりとした優男のように見えて馬鹿力なのは今世でも変わらない。以蔵のタップに応えるようにくたりと龍馬の腕から力が抜ける。だが、首元に絡みついた腕はそのままだ。

「……、りょぉま?」

 いつもであれば、以蔵がギブアップを告げれば龍馬はあっさりと手を引く。
 だが今日に限っては ぎゅむりとしっかりと以蔵の首根っこを抱えたまま、龍馬は何か言葉に迷うように黙りこくっている。
 なんじゃあ、と以蔵が訝しげにしていれば、ぽつりとようやく龍馬が口を開いた。

「わしな」
「おん」
「以蔵さんを置いていきとおない」
「――……、」

 は、と以蔵の唇からも小さく呼気が漏れる。
 弱音にも似た龍馬の声を笑い飛ばすような、驚いたような、そんな小さな呼気だ。
 あの坂本龍馬が。
 かつて以蔵をおいて未来だけを見据えて土佐を出て行った男が。
 今はこうして以蔵の首っ玉にぎゅうぎゅうとしがみついて置いていきたくないと泣きごとを漏らしている。

「前も、そうじゃった。わしが、いなくなった後に以蔵さんは……っ」
「…………」

 言葉にするのも耐えられないというように龍馬は途中ではくりと息を呑んで言葉を途切れさせた。
 そうだ。
 以前、前の世で。
 以蔵は龍馬が土佐を離れた後、土佐勤王党の一員として暗殺を繰り返し、最後は無宿人として首を落とされたのだ。
 龍馬は、その繰り返しを恐れている。
 自分がこの地を離れ、以蔵の傍を離れている間に何か恐ろしいことが起きてしまうのではないかと、恐れている。

「こんまま、以蔵さんが怪我もせんと健やかにふとうなってくれたら一番ええ。けんど、わしは怖いんじゃ。わしのおらんところで、以蔵さんに何かあったら」
「りょぉま」

 ぽん、と以蔵は首に絡んだままの龍馬の腕を叩く。
 離せと訴えるような仕草に、龍馬は眉尻を下げたまましおしおと腕を解く。
 たとえ前世の記憶があろうと、かつて維新の英雄と呼ばれた男であろうと、今世においては龍馬は未だ未成年の子どもでしかない。
 親元を離れて一人で暮らしていけるわけもなく、逆に以蔵を連れていくことだって出来やしない。ただの子どもでしかない龍馬はどうしたって春になれば以蔵をおいてこの地を離れざるを得ない。
 だから。

「にゃあ、以蔵さん」

 甘えるように、龍馬は上目遣いに以蔵の名を呼ぶ。

「……あの話、考えてくれんか」
「…………、おまんがわしの首を斬るち話か」
「おん」

 渋面で、以蔵は息を吐く。
 わしわしと癖のある黒髪をかき混ぜて。

「そんことならもう大丈夫じゃ」
「え」
「おまん、今日わしんくに泊まっていけるがか」
「えいの?」
「えいよ、うちの親もおまんのことは気にいっちょるきに」
「うちに連絡してみるき」

 龍馬は早速懐から取り出した端末を操って母親へと連絡を取る。
 ちょうどタイミングが良かったのか、すぐに既読マークがついて返事が返ってきた。
 曰く、岡田さんちの両親の許可は出ているのか、などなど。
 その辺りは以蔵さんが連絡してくれたから大丈夫、とか返事をしつつ、龍馬は泊まりの方向で話を進めていく。
 最終的に、岡田さんちにご迷惑をかけないようにね、なんていうお決まりの文言でやりとりは終わった。
 母親が少しばかり龍馬に甘いのは、母親の都合で龍馬を幼馴染みである以蔵や、馴染んだ故郷から引き離してしまうことへの罪悪感だろう。

「OKだって」
「うちんくもえいち言うちょる」

 龍馬が母親と言葉を交わしている間に、以蔵の方も親と話をつけたようだった。
 こうして急遽、龍馬は以蔵の家に泊まることになったのだった。

       ■          ■    

 以蔵の両親は、いつも龍馬に対してとても良くしてくれる。

 その日も、以蔵の母は龍馬くんが来るってわかってたらもうちょっとご馳走にしたのに、なんてからからと気持ち良く笑って龍馬のことを迎えてくれた。

 龍馬が三年生、以蔵が一年生の頃からの付き合いだ。
 これまでにも何度も岡田家に泊めてもらったことがある。
 龍馬の家が片親で母親しかいないこともあり、どうしてもその母親の仕事が長引いたり帰れなかったりする夜は、自然と岡田家に泊まることも多かったのだ。

 最近は龍馬が大きくなったこともあり、そんな機会は少しずつ減っていたのだけれども……久しぶりなのを感じさせないほど当たり前のように温かく迎えいれられた。

 先ほどの連絡の際にすでに以蔵は龍馬が来春引っ越すことを伝えていたのか、夕食の間寂しくなるだの、離れても以蔵のことを忘れないでやってくれだの、いつでも好きなときに遊びにきてほしいだの、たくさんの優しい言葉まで貰ってしまった。

 そのことがかえって龍馬の胸に一抹の寂しさを宿らせる。
 この優しい人たちからも、龍馬は来春から離れることになるのだ。
 もしかしたら、来春以降はこうして以蔵の実家で食卓を囲むようなことはもうなくなるのかもしれない。
 そう思うとなんだか切なくて、岡田家の味を覚えるように龍馬はじっくりといつも以上に時間をかけて以蔵の母の手料理を味わう。
 それが伝わったのか、以蔵の母にまで「この味、忘れないでね」なんて冗談めかして言われてしまえばうっかり涙腺が緩みそうになってしまった。
 それを誤魔化すように慌てて龍馬は味噌汁を啜る。
 なんとなく切なく寂しげの漂う、それでいて暖かな食事を終えた後は以蔵の母の「さっさとお風呂に入っちゃいなさいよ!」なんて威勢の良い声に急き立てられて食卓を後にする。

「龍馬、おまんから入り」
「いいの?」
「おん」
「じゃあお言葉に甘えて」
 
 着替えを抱えて龍馬は早速風呂に向かう。
 雀の水浴び、とは行かないまでも、さっさと髪と身体を洗って風呂から上がり、すれ違って風呂に向かう以蔵を見送ってドライヤーでざかざかと髪を乾かし始める。
 夏であれば放っておいても良いのだが、冷え込みが増し始めたこの季節、そんなことをしたならばすぐに風邪を引いてしまう。
 一通り髪を乾かして、ほう、と龍馬が一息ついたタイミングで風呂上がりの以蔵が戻ってきた。

「龍馬」
「ぅん?」
「見てみぃ」
「見るって何を―――」

 ひょいと顔をあげる。
 以蔵は、そんな龍馬に見せつけるようにぐいとパジャマ変わりのトレーナーの襟元をぐいと指で引き下げ、その首元を見せつける。
 そこに一体何がと目を凝らした龍馬の息が「ッ」と引き攣ったように撥ねた。
 以蔵の首には、ぐるりとまるで強く締め上げたような赤い痕が痛々しくも浮かび上がっていた。

「い、以蔵さん、それ」

 しなやかな少年の首を赤く彩る赤黒い痣はあまりにもむごたらしい。
 サアアアアア、と顔色を紙のように白くした龍馬の顔を見て、以蔵がフンと小さく鼻を鳴らして龍馬の目からその痕を遮るように襟元の布地をぐいと引き上げた。

「以蔵さんそれどうしたの、何が」
「落ち着けや、おまん、顔色最悪じゃぞ」
「いやもう、そりゃそうもなるでしょ……本当どうしたの、それ」
「痣みたいなもんちや。わしな、生まれてくるときに逆子だったみたいでな。へその緒が首に巻き付いて、死にかけたらしいんじゃ。わしも気づいちょらんかったけんど、こうして風呂上がりとか、血色が良くなるときなんかに浮かぶんじゃと」
「うっわあ……」

 呻いて、龍馬は絶句する。
 龍馬の心配は的中していた。
 前世からの記憶を引き継いだ代償なのか、龍馬と以蔵はその業すら今世に持ち越してきてしまっているのだ。
 龍馬は額に、以蔵は首に、それぞれかつての死因を象徴するような痕を残している。
 まだ少しだけマシだったのは、以蔵が物理的な怪我としてそれを負わずにすんだ、ということだろうか。

「…………、僕たち、ほんっと業が深いね……」
「おん…………」

 ぼやくように呟いた龍馬の言葉に、以蔵も頷く。
 龍馬は腰掛けていたベッドより立ち上がって、以蔵へと歩み寄るとその襟元に指をひっかけて首元を覗き込む。
 以蔵の首元に浮かんでいた赤黒い痣は、今はもうほとんどその健康的な色合いをした肌に溶け込むように見えなくなっている。
 本当に風呂上がりなどの、肌が上気したわずかな間にしか浮かばないものなのだろう。
 だからこそ今まで以蔵本人も、そしてその身近にいた龍馬も気づいていなかったのだ。

「ちゅうわけじゃ」

 以蔵はぐいと龍馬に湿ったバスタオルを押し付ける。
 それが髪を乾かせという無言の要求であることを重々承知している龍馬は、とすりとベッドに腰掛ける。呼ばずとも以蔵の慣れた様子でストンとその足の間に収まるように床に直接座り込んだ。
 龍馬はわしゃわしゃと以蔵の濡れ髪をバスタオルで拭い始める。
 ぐりんぐりんと頭ごと揺さぶられながら、以蔵は言葉を続けた。
 
「これでおまんも、安心したろう」
「いやいや余計心配になったからね」

 即答で返す。
 むすりとしたように、以蔵がバスタオルの下から龍馬を見上げてくる。
 まだ子どもらしさを残したころりとした金の瞳は鼈甲の飴のようだ。

「どいてじゃ」
「だって、まるで前の繰り返しみたいじゃないか」

 龍馬は額に怪我を負い、以蔵は生まれてくる際に首に痕を負った。
 そして今、龍馬は以蔵を残して故郷を去ろうとしている。
 もちろん些細な枝葉に違いはある。
 それでも、奇妙な符号の一致に龍馬の心はざわざわと不安に苛まれてしまうのだ。
 また、自分がいない間に取り返しのつかないことが起きてしまうのではないか、と。
 そして。

「…………」

 そっと身体を折って龍馬はこつんと自分を見上げる以蔵の額に自分の額を触れさせた。
 まるで祈るような、懺悔でもするような所作だ。

「にゃあ、以蔵さん」
「なんじゃ」
「……………、」

 へにゃりと眉尻を下げて、龍馬はそっと問う。

「また、わしんことを怒るがか」

 わしを置いていったと。
 裏切りものと、怒るだろうか。
 おそるおそる、まるで内緒話のようにそうと問われた言葉に以蔵はひくんと片眉を跳ね上げる。それから、きっと眉を吊り上げて口を開いた。

「――ド阿呆。おまんに置いていかれるんにはもう慣れたき。いちいち怒りゃあせん」
「ほうか」

 ほう、とほっとしたように龍馬は息を逃す。
 かつて、龍馬は自らの夢を追って土佐を出た。
 その背後に幼馴染である以蔵を残して、土佐を出た。
 それを以蔵は、置いていかれたのだと思ってしまった。
 龍馬に捨ておかれたのだと、思ってしまった。
 そのわだかまりを解くのに一体どれだけの時間がかかったことか。
 今世ではきっとそれだけの時間は与えられていない。
 もはや英霊ではなくなった二人にあるのは、人としての一生だけだ。
 その長いようでいて短いひとときを、互いを傷つけあって過ごしたくはないのだ。

「……良かった」

 しみじみと零れた龍馬の言葉に、以蔵は呆れたように鼻を鳴らす。
 それから勢いよく立ち上がるとぐるりと向きを変えて、ごちんと頭突き気味に正面から龍馬の額に自らの額を重ねた。

「あいたっ」

 小さく呻く龍馬の眼前で、以蔵は笑う。

「そこはにゃ、龍馬」
「お、おん?」
「置いてくわけやがないち言うところじゃぞ」
「……、」

 は、と小さく龍馬の唇から呼気が漏れた。
 それは何度も何度も、龍馬がかつてカルデアで再会した折に繰り返した言葉だった。
 置いていったつもりなどなかったのだ。
 龍馬は龍馬の道を征った。
 龍馬は龍馬の人生を、生きた。
 以蔵は、以蔵の人生を生きた。
 悲しくもすれ違い、いつしか道を違え、二人のその後の人生は交わることもなく、以蔵はひとり首を落として果ててしまった。
 けれど龍馬に以蔵を見捨てたつもりなどなかったのだ。
 その、何度も龍馬がわかってほしくて繰り返した言葉を、今世において以蔵の方が口にしてくれたということがどれほど尊いことか!

「以蔵さん」
「なんじゃ」
「ありがとにゃあ」
「おん」

 すりり、と額をすり合わせて。
 視線を重ねて、二人はふふりと緩んだ笑みを交わし合ったのだった。
 冬の初めの、暖かな夜のことだ。

       ■          ■       

 そうして、その年の春。
 ■■龍馬は坂本龍馬となって中学を卒業すると同時に東京へと出て行った。
 以蔵は中学二年生になった。
 今までは龍馬と肩を並べて通った殺陣教室への道を、以蔵は今は一人で通う。
 放課後、教室まで以蔵を迎えにきてくれた幼馴染はもういない。
 隣にぽっかりとできた空白はずいぶんと寂しいような気がした。
 それは、かつて龍馬が土佐を出たと聞かされた日の朝を彷彿とする寒々しさだった。
 傍にいたはずの人間が、いなくなる。
 胸の中にまで空虚な、自分が取るに足らない人間だからこそ置いていかれてしまったのだというような昏い気持ちがふつふつと沸いてくることもある。
 けれど、以蔵はもうあの頃の以蔵ではないのだ。
 だから。

「おい、岡田」
「おん?」
「お前の幼馴染、東京に行っちまったんだってな。寂しくないか?」

 そんな風に聞いてきたクラスメイトに、以蔵はひょいと肩を竦めるのだ。

「まあにゃ。でもあいたあとの腐れ縁はこじゃんと深いき。そう簡単には切れやせん」

 何せ、こちとら人生三度目だ。
 その三度の生において、岡田以蔵は坂本龍馬と腐れ縁を紡ぎ続けているのだ。
 だから、以蔵は口角を釣り上げて晴れやかに笑って見せた。

       ■          ■       

 ―――龍馬が故郷を離れて、十年近くもの時が過ぎた。

 場所は変わって、東京駅。
 がやがやと人のざわめきが途切れることなく響き続ける駅の片隅、大きなポスターの下に顔を隠していても一般人とは異なるオーラを放つ長躯が一人人待ち顔で佇んでいた。
 目深にかぶった帽子に、サングラス。
 ちょっと怪しいぐらいだが、男の身なりの良さと、常人離れしたスタイルの良さがそんな恰好をファッションの域に止めていてくれる。
 男は、次々と改札を出てくる人の群れの中に待ち人を探してうろうろと視線を彷徨わせ続け――…やがて目的の人物を見つけて嬉し気に声を張り上げた。

「以蔵さん!」

 男ののびやかな、それでいて低いやわらかな声音に改札を出てきたばかりの男がゆっくりと視線を持ち上げる。
 こちらは一目でよそ者だとわかる大きなスーツケースを転がしている。
 癖のある長い黒髪を少し高めの位置で結いあげ、顎には無精ひげが疎らに散っている。
 その蜜色の双眸が声の主を見つけてばちりと瞬き、その背後にでかでかと掲げられたポスターとの間で視線が揺れて、にんまりと意地の悪い笑みが口元に浮かぶ。

「おう、龍馬久しぶりぜよ!」
「ッ、以蔵さん声が大きい!」

 堂々と名を呼んでやれば、想像通り男は情けなく眉尻を下げて慌てたように口元に手をやって「しぃ」のポーズをして見せた。

「ふは、さっすが国民的俳優サマは違うのう」
「もう……目立つと厄介なのは以蔵さんも一緒でしょ」
「まあのう」

 龍馬が東京に出てから正確には八年。
 その八年で、坂本龍馬は知らぬものがいないほど有名な国民的俳優にまで上り詰めていた。二人が待ち合わせた東京駅のポスター下だって、そこに飾られているのは坂本龍馬本人による時計の広告ポスターだ。
 シャツの袖をラフにめくりあげ、腕にはまった銀色のいかつめの時計を見せつけるようにそれでいて柔く笑って見せる男のポスターは店頭に買い取り希望の客が殺到したとも言われている。

「……もう、なんでこんな恥ずかしい場所を待ち合わせに指定するかな」
「わかりやすかろ」

 拗ねたようにぼやく龍馬に、以蔵はちろと舌を出して笑ってやる。
 東京に出ても殺陣は続けていた龍馬だったのだが。
 本人の意向とは裏腹に、その端正で甘い顔立ちは時代劇よりもトレンディドラマにおいて起用されることが多く、今では様々なドラマや映画で引っ張りだこの人気ナンバーワン若手俳優ということになっている。

 一方の以蔵とはいえば、こちらも殺陣を続けた結果すっかり「人斬り以蔵」の名を欲しいままにする知る人ぞ知る舞台役者だ。

 抜群の運動神経を生かして、スタントとしてテレビに出演することも増えてきている。
 そんな以蔵が大学卒業を期に声がかかった様々な芸能プロダクションや一座の中から、東京を主体に活動するものを選んだのはごくごく自然のことだったし。
 それなら僕と一緒に暮らすでしょ、と龍馬が当然のように以蔵をルームシェアに誘ったのも極々自然な流れだったし、以蔵もそれに当たり前のように「おん」と頷いた。
 かくして、二人は東京にて共に暮らすようになったのだ。

「以蔵さん、もう成人したんだっけ」
「わしはもう二十四やぞ。何年前に成人したと思いゆう」

 顰め面の幼馴染に、龍馬は小さく笑う。
 かつてと同じように顎先にまばらに散った無精髭が、童顔を誤魔化すためのものだということを龍馬はよくよく知っている。
 髭がなければ、中高生と言い張っても通ってしまうのではないだろうか。
 そんなことを言ったら良くて蹴り倒されるのがわかっているので、口に出すつもりはないのだが。

「うちの近所に行きつけの美味しい小料理屋があってね。以蔵さんがこっちに来たら連れていこうってずっと思ってたんだ。つきあってくれる?」
「おまんの奢りならつきおうちゃる」
「はいはいわかりましたよ」

 笑って、よいしょと龍馬は以蔵のスーツケースに手をかける。
 がらがらと音をたてて歩き始める龍馬の隣には以蔵。
 以蔵の隣には龍馬。
 今生においても二人の腐れ縁はまだまだ続いていく。

 

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