それは、ある日のことだった。
雑誌の撮影が終わって事務所に顔を出した龍馬に向かって、たまたまいた社長がふと話を向けたのだ。
「そういえば龍馬くん」
「はい、何でしょう」
「明日ね、連続時代劇ドラマのオーディションがあるんだけど龍馬くんも出てみないかって話が来てるんだよ。どうかな」
「オーディション、ですか?」
随分と大きな話だな、と龍馬は思う。
自分で言うのもなんだが、現在の龍馬はいわゆる売れっ子といっても過言ではない。オーディションなどすっとばしてメインキャストとして龍馬をキャステイングしたいと直接言ってくる企画も多い中、オーディションへの案内が来るというのはそれだけ大きな企画であるという証左だ。
龍馬の考えていることは社長にもわかったらしく、うん、と頷きながら社長はそうなんだよね、と言葉を重ねた。
「結構大御所使って、有名な監督が撮ることになってるらしくてね。これに出られたら龍馬くんの名前にも箔がつくし」
それにね、と社長がくしゃりと顔に柔らかな皺を刻んで悪戯っぽく笑う。
結構な年齢でありながら、そういう顔をするとどこか子どもめいていて、そのアンバランスさがとても魅力的な人だ。
その魅力的な顔で、社長が言葉を続けた。
「そのオーディション、『坂本龍馬』役のなんだよね」
「ぶッ」
思わず龍馬は噴き出す。
さかもとりょうま、役。
確かに今をときめく人気若手俳優である坂本龍馬が、同姓同名の偉人『坂本龍馬』を演じるというのはきっと世間的にも大いに話題になって良い宣伝にはなるだろう。
ただ問題は。
龍馬はその『坂本龍馬』本人だということだ。
正確には当時の肉体で現世までずっと生き続けているわけではないもので、『坂本龍馬』の記憶を引き継いだ生まれ変わりというところだが。
そんな当人を捕まえて本人役を演じろというのはなかなかにしんどい話だ。
本人による当時の再現VTR的なものであればまだ良い。
けれど演ることになるのはかなり美化されて現代まで語り継がれている英雄『坂本龍馬』の物語であるわけなので、それはさすがにどうにも気恥ずかしい。
「え、えええ……」
「あ、あんまり乗り気じゃない?」
「まあ、その。この名前で結構揶揄われたりもしてきたので」
「それなら余計にいいんじゃない? ほら、これでコンプレックスを乗り越えました、みたいな。坂本龍馬が『坂本龍馬』に成った日、とか。メディア受けすると思うんだけどなあ」
「………………」
じ、と。
飴玉を強請る子どものような目で見つめられて龍馬はうろりと視線を彷徨わせる。
普通に考えれば断る理由などないはずの話だ。
役者のキャリアとしても美味しい仕事であるし、龍馬個人の事情ともマッチしている。
今のところその甘く整った優しげな風貌でトレンディドラマの需要ばかりを満たしている龍馬だが、子どもの頃から殺陣を学んできているのはは業界の人間なら知っていることだし、本当は時代劇やアクションといった身体を張った演技を好んでいるということもこの社長にはよく知られている。
今も龍馬が髪を伸ばし続けているのはファッションや個性という意味合いだけでなく、いつ時代劇系の話が来ても良いようにだし、身体をしっかりと鍛えているのも何もスタイルを保つため、というだけではないのだ。
野望としてはいつか再び、以蔵と共演がしたい。
がしがしと二人で斬り合って、一歩間違えばどちらかが大怪我をしかねないようなひりつく緊張感を共有したい。
坂本龍馬という男は、基本的には平和主義者だ。
争いになる前に、会話で物事を解決できたならばそれが一番だと思える理性を持ち合わせている。
だけれども。
それでも。
以蔵と刀を交える際の、相手の一挙手一投足に全神経を集中させて、世界に相手と自分しかいなくなるようなあの緊張感自体を嫌っているわけではないのだ。
爛と燃えるような以蔵の目が、龍馬だけをまっすぐに見つめている。
緊張に乾いた唇を無意識の所作でぞろりと舌でなぞる様は飢えた獣にも似ているが、それでいて振るう刀は人の命を絶つだめだけに極限まで研ぎ澄まされている。
少しでも目を反らしたら次の瞬間には死んでいるだろうというようなスリルの中、生きようと足掻く肉体が全身の末端にまで血流を行きわたらせる。
そんな刹那が、龍馬はわりと気に入っている。
怪我をさせたいわけでも、いわんや殺したいわけでもない。
ただ純粋に、剣を交えたい。
それが一番の以蔵との対話であることを龍馬はよくわかっている。
だから、その野望への一歩として時代劇への出演が決まるのはとてもとても、ありがたい話ではある、の、だ。
が。
だからといって本人役を引き受けられるかといったらまた話は別なのである。
ここで社長にとって良かったのは、これが龍馬側の一存で決められる問題ではなかった、ということだろう。
もしも龍馬の方に決定権があったのなら、龍馬はこの話を断っていたはずだ。
けれど、これはあくまでオーディションの誘いだった。
決定権はあちらにある。
いくら龍馬が歴史上の『坂本龍馬』本人だとしても、だからといって現代にまで語り継がれた『坂本龍馬』の英雄譚を演じるに相応しいと眼鏡に適うかどうかはわからない。
そんなわけで、龍馬は世話になっている社長への義理と、自らの心情を天秤にかけて、まあ、オーディションに参加するだけなら、と妥協することにしたのだ。
「選ばれるかどうかはわかりませんけども……オーディションだけなら受けるだけ受けてみますね」
そう言って、龍馬は社長のデスクの上に置かれていた案内状と薄っぺらい台本を手に取る。まだきちんと脚本が仕上がっているというわけではないのだろう。ぱらぱらと捲ってみた台本の中には、いくつかのシーンの注釈とセリフが乗せられていた。
「――……」
ぱっと見ただけで、ああこれはあの時の、とわかってしまったのはやはり龍馬が歴史で語られる『坂本龍馬』本人だからだろう。
ほんの少し中を覗いただけだというのに、とんでもない気恥ずかしさに襲われて龍馬の目元に朱色が滲む。その理由を追及されるより先に、龍馬はそそくさと逃げるように事務所を後にしたのだった。
■ ■
現在、龍馬と以蔵が暮らしているマンションは事務所からはそれほど離れてはいない。
朝に弱い龍馬がぎりぎりまで寝ていても間に合う距離、というのが部屋を探す上での条件の一つだったのは同居人である以蔵には内緒だ。
単純に近い方が便利でしょ、ということにしておきたい。
途中、何か買うものはあるかと端末を確認する。
以蔵が夕飯を用意してくれているときにはその旨の連絡があるが、今日は何も連絡がきていないので買って帰るか食べて帰るかしなければならない日だ。
途中、龍馬はコンビニに寄って適当な弁当と缶ビールを購入する。
明日のオーディションに向けて台本を読み込むなどの用意をしなければいけないが、缶ビールの一本ぐらいなら酒に強い龍馬にとっては飲酒のうちには入らない。
オートロックの入り口を抜けて、高層階に位置する部屋につながるエレベーターへと乗り込む。
龍馬が選んだこのマンションは比較的セキュリティがしっかりしていて、よくあるマンションやアパートのように外側から部屋を特定されるというようなことがないように各部屋への出入り口が外には面しないように作られている。
万が一後をつけられるなどしても、このマンションに住んでいる、というところまではわかっても誰がどの部屋に住んでいるのかというところまではわからないようになっているのだ。
別段以蔵と一緒に暮らしていることをことさら隠す気はないが、スキャンダル、という歪な形で取り沙汰されるのは龍馬の望むところではない。
後ろポケットから取り出した鍵で開錠して部屋に入る。
「ただいまあ」
一応声をかけてみるが、ぼんやりと暗い室内に人の気配はなかった。
今日は以蔵の方も仕事があると言っていたので、まだ帰ってきていないのだろう。
適当に荷物をソファの上に放り出して、買ってきた弁当とビールの缶の入ったコンビニ袋だけを指先にひっかけて自室に向かう。
以蔵が留守だったことに救われたような、残念なような複雑な気持ちだ。
きっと、以蔵に話したならば腹を抱えて笑ってくれたことだろう。
いつぞやの、龍馬が坂本姓になると打ち明けたときと同じだ。
もしかしたらそれ以上の笑いが取れるかもしれない。
へにゃりと眉尻を下げつつも、つい龍馬の口元にも笑みが浮かぶ。
なんだかんだ、以蔵が笑ってくれると嬉しいのだ。
部屋に入り、暖めて貰った弁当をつまみながら貰った台本を広げる。
ぽつぽつと、台本に付随していた脚本の全体的なプロットから目を通し始めて――しみじみとうわあい、というような妙な声が零れた。
「―――ぼくの生涯って、この時代にはこんな風に伝わってるんだなあ……」
じっとりと熱くなる頬の熱を感じながら、さりと指先でこめかみを掻く。
思えば、カルデアの書物庫であったり、今生でおいても調べようと思えば『坂本龍馬』という歴史上の人物についての情報はいくらでも得ることが出来た。
それをしなかったのは、正直恥ずかしいからだ。
自分の生き様がどのように後世に伝わっているのか、なんていうのに全く興味がなかったと言えば嘘になる。だが、そんな細やかな好奇心は、カルデア所属時のマスターによる、「そういえば龍馬さんがお姉さんに書いた手紙なんかも結構残ってるみたいですよ」なんていう無邪気な言葉によって粉砕された。
何で残ってるの、というのが正直な感想だ。
物持ちが良すぎやしないか乙女ねえやんと呻きたくもなったし実際頭は抱えた。
親しい身内へと綴った気安い言葉が、ウン十年、百年以上も残ってしまっているというのはもはや黒歴史だ。なかったことにしたい。
けれど、それと同時に。
決して短くはない時を超えて現代まで大事に残されてきたあの手紙は、それだけ龍馬の家族が龍馬を大事に想っていてくれた証でもある。
だから、どうして捨ててくれなかったんだと拗ねる気持ちはかつての家族に向けた一種の愛情でもあるのだろう。
懐かしさと郷愁と気恥ずかしさとともに台本のページをめくりめくり、龍馬の夜は静かに更けていく。
■ ■
ドン、とえらい音を立ててドアが鳴るのに、龍馬はびくりと飛び起きた。
すわ襲撃か、とベッドサイドの武器を手に取ろうと弄ってしまうのは長年の癖だ。
当然今となっては愛刀も愛銃も持ち合わせてはいないので、そんな龍馬の手はむなしくシーツの上を彷徨うだけに終わった。
扉の外から、威勢の良い以蔵の声がする。
「龍馬ァッ、朝じゃぞ、しゃんしゃん起きぃ! ちゅうかおまんの目覚ましが五月蠅いんじゃ!」
「え、あ、ごめ……」
反射的に謝りながら、のっそりと周囲を見渡す。
気づくと、窓からは朝の白々とした光が差し込んできていた。
朝である。
台本の読み込みを終え、以蔵が帰ってくるまでは起きていようと思っていたはずなのに気づいたら龍馬は眠りこけてしまっていたらしい。
あまり覚えてはいないものの、アラームをセットしてちゃんと布団に入って眠っていたあたりなかなか偉いのではないだろうか。
自画自賛しながら、けたたましい音をたてている端末のアラートを止める。
これだけ大きな音をたてるアラームでは目覚めない癖に、以蔵のドアドン一発で目が覚めるのは長年の条件反射だろう。
若干心配なのはドアの無事だ。
以蔵のあの腕っ節で毎朝殴られているドアは、そろそろ撃ち抜かれてしまうのではなかろうか。ドアが無事ではなくなる前には、なんとかアラームで起きられるようになりたいな、などと寝起きの頭でぼんやりと思う龍馬だ。
ぐしゃぐしゃと髪をかき混ぜ、時間を確認する。
まだ余裕はある。
シャワーを浴びて、朝食を食べてから家を出ても十分間に合う時間だ。
「いぞおさん、あさごはんなにかあるう?」
「トーストとコーヒならあるちや」
「めだまやきもつけてえ」
「甘えんなや!」
ぴしゃりと返ってくる以蔵の声にくつくつと喉を鳴らして笑いながら、龍馬は大きな欠伸を一つする。シャワーを浴びる時間がある、ということは頑張ればもう一眠りぐらい……なんて思いもするが、流石に今日はやめておく。
オーディションの時間までにはベストのコンディションに持っていっておきたい。
昨夜は結んだまま寝てしまったせいで、ゴムに絡んだ髪を手櫛で梳きながら下ろし、のっそりと立ち上がって部屋を出て風呂場へと向かう。
途中、じゅうじゅうと聞こえたのは卵を焼く音だ。
なんだかんだ、以蔵は優しい。
熱めのシャワーを浴びてしっかり目を覚ましてから風呂から出てくると、テーブルの上には目玉焼きの乗ったトーストとコーヒーが湯気をあげていた。
「ありがとうね、以蔵さん」
「ついでじゃ」
「あ」
思わず声が零れたのは、先にテーブルについていた以蔵の囓るトーストの上には目玉焼きだけでなく、ベーコンまで乗っていたからだ。
龍馬の声にふふんと笑って以蔵が得意げに視線を持ち上げる。
「最後の一切れやき、役得じゃ」
そう言われると龍馬としては何も言い返せない。
働かざるもの、喰うべからず。
目玉焼きとトースト、そしてコーヒーを用意してもらえただけでもありがたいのだ。
おとなしく席につき、目玉焼きの乗ったトーストを囓る。
塩胡椒のしっかりと効いた目玉焼きはトーストによく合う。
自分の分を先に焼いてから、以蔵は龍馬の分の目玉焼きをこしらえてくれたのだろう。
目玉焼きにはベーコンの脂と塩っけも乗っていた。美味い。
咬みきった先からとろりと溢れてくる半熟の卵の黄身を舌先で掬い、ちゅるんと啜る。
唇についた黄身を指先で拭い、その指先をべろりと無作法に舐めながら、何気なく以蔵へと話を振った。
「以蔵さん、今日仕事は?」
「オーディションが入りゆう」
「へえ、僕も今日オーディションなんだ」
「ほうか、ふとい企画じゃのう、おまんをオーディションとは」
「んん、結構大きい仕事みたい」
「ほうか、せいぜい気張りや」
「以蔵さんもね」
そんな会話を交わしながら、トーストを食べ終える。
実はぼく、『坂本龍馬』役のオーディションを受けに行くんだよ、なんて言葉が喉までこみ上げてはきたものの、以蔵もオーディション前だというのでやめておくことにした。
オーディションの途中で思い出し笑いでもしてしまおうものなら、受かる話も受からなくなる。
食べ終えた後の食器を片付けるのは龍馬の仕事だ。
その間に以蔵は出かける支度をしているようだった。
龍馬が片づけを終えるのと、以蔵が出かける支度を終えるのはほぼ同じタイミングだった。それならば、と二人一緒に家を出る。
駅までの道のりは一緒だ。
「以蔵さん、今日お夕飯どうする?」
「アー…、オーディション終わったら直帰するき、今日はわしが作る」
「なんか買うものとかあったら連絡してね」
「おん」
自他ともに生活能力のなさを認めている龍馬には、冷蔵庫の中にあるものを把握して買い物をする、なんていう高度なことはできない。
一人で暮らしていた頃は、部屋にある食べ物という食べ物がなくなったら買い出しに行く、というスタイルだった。
なので現在も冷蔵庫の中身を管理したり、日々の献立に合わせて食材を購入したりするのは以蔵任せだ。その一方で、荷が増えたり重くなりがちな買い置きや日用品の買い物は龍馬が担当している。
「そういえばベーコンがなくなったんだっけ」
「おん。トーストもあれが最後じゃ」
「それじゃあトーストとベーコン買わなきゃだね。卵は?」
「まだある」
「じゃあ僕帰りに買ってくるよ」
所帯じみた会話の終わるキリの良いところで駅についた。
流石にここからは別行動だろう。
ふ、と視線を交わして、
「それじゃあ、また夜に」
「おん」
軽く手をあげてひらりと振って、改札を潜って――…龍馬と以蔵は同じホームへと降りる雑踏の流れで再会した。短い別れだった。
「…………」
「…………」
「……なんじゃ、おまんもこっちか」
「はは、方向まで一緒とはありがたい」
他愛ない会話を交わしながら電車を待ち、到着した電車に乗り込む。
会話がまばらなのは、お互い相手がどこで降りるかを知らないからだ。
中途半端にならないよう、ぽつ、ぽつ、と短い会話を何度か挟む。
そうしているうちに、龍馬が降りる駅がやってきた。
「それじゃあ、」
「じゃあにゃ、」
二人同時に口を開き、はた、と見つめあう。
「…………」
「…………」
だんだん、互いを見やる眼差しに疑惑が滲み始める。
もしや。まさか。もしかして。
いやいやまさか。そんなわけがあるはずがない。
「…………」
「…………」
あえて龍馬は無言で歩き出す。
以蔵も同じ気持ちなのか、口をへの字にしたまま黙って歩き出す。
長躯の、体格の良い男が二人難しい顔で無言で肩を並べて歩く様は周囲から見たらなかなか威圧感のあるものかもしれないが、今だけはちょっと勘弁してほしい。
お互い特に行き先について話してはいないはずなのに、ホームから上がる階段も、使う改札も、改札を出た後に向かう方向までぴったりと一致した。
「…………」
「…………」
「……あのさ」
先に口を開いたのは龍馬だった。
同じ予感を察知しているのか、おん、と返してくる以蔵の声音がしんみょうだ。
「……以蔵さんが受けるオーディションってさ」
「……おまん、まさか」
「嘘でしょ……」
龍馬の力ない呻きにも似た言葉に、ついに確信に至ったのか、ぶっひゃ、と勢いよく以蔵が吹き出した。
歩む足は止めないながらも、苦しそうに腹を押さえ、ひぃひぃと声にならない声をあげて笑い悶えている。
龍馬もその隣で情けなく眉尻を下げつつ、こうなるともう笑うしかない。
「おまんが、坂本龍馬役、かよ!」
「そ、それ言うなら以蔵さんが坂本龍馬役なのも大概でしょ!?」
もう、と目元を赤く火照らせながらも、龍馬も込み上げてくる衝動のままにけらけらと笑う。大笑いしながら歩く男二人に、周囲が何事だというような視線を向けてくるものの、これまたやっぱり緊急事態なので見逃してほしいところだ。
「これはもうおまんの一人勝ちやか」
「いやいやもう僕は坂本龍馬やるの三度めだし、以蔵さんやりなよ」
「ほたえなや、おまんが自分で『ぼくのかんがえたさいこうにかっこいいさかもとりょうま』をやりゃあえいじゃろ」
「やめてよ!」
げたげたと笑い合いながら、途中で「道ここであってるの?」「こっちじゃろう」「次の角で右だって」などなど、お互いもはや隠す必要のなくなった案内状を広げてオーディション会場へと向かう。
以蔵が坂本龍馬役のオーディションの話がきたことを龍馬に言わなかったのは、龍馬が以蔵にその話をしなかったのと同じ理由だろう。
お互い、バカ受けするに違いない鉄板ネタは相手のオーディションが終わってからにしよう、なんて思っていたのである。
まあ、そんな気遣いはたった今無に帰したわけだが。
今だ目元に爆笑の名残ともいえる涙を浮かべたまま、それでもなんとか平静を装って二人そろってオーディション会場の入り口にて受付を済ませる。
多少怪訝そうな眼差しを向けられたものの「何か?」とよそ行きの笑顔を向けることでしれっと黙殺した。
面の皮が厚くなくては役者などやっていられないのだ。
龍馬が通されたのは個室だった。
壁際には大きな鏡が張られており、その向かいにはゆったりとくつろげるようなソファと、テーブルの上にはお菓子とお茶のボトルが設置されている。
ある程度売れている俳優ともなると、こういった特別待遇がされるものらしい。
が、龍馬としてはなんだか隔離されているような気もして寂しくなるというものだ。
指先にペットボトルだけひっかけるようにして持って、龍馬は持ち物を下ろすこともなく部屋を後にする。
向かうは以蔵がいるであろう大部屋の控室だ。
そちらの方は特に鏡があるわけでもなく、ごくごく普通の会議室を名目だけ控室にした、というような空間だった。
部屋の中央に□を描くように長机が設置され、そこに呼び集められた役者陣が思い思いに腰掛けて台本を読み込んでいる。
彼らは新たなライバルがやってきたのかと顔をあげ、そこに立つ人気俳優坂本龍馬の姿に怯んだように息を呑んだ。ざわざわと小さなざわめきが漣のように起こり、「あれサカリョじゃ……」「サカリョも呼ばれてるのかこのオーディション……」なんて小声での会話があちこちから零れる。
そんな中、悠々と台本に目を通し続けていた以蔵はちらりと視線を持ち上げて。
「なんじゃおまん、えい個室をあてがってもろうてたんじゃないんか」
「なんだか隔離されてるみたいで寂しくなっちゃって。こっちきてもいいでしょ」
「ダメですう」
「そんなケチくさいこと言わないでよ、飲み物はもってきたからさ」
壁際に畳んで凭せ掛けられていたパイプ椅子をよいしょ、と自ら開いて龍馬は勝手に以蔵の隣に腰掛ける。長机の上にお菓子と飲み物がおいてあるのは龍馬の控室と変わらない。龍馬はすすっと以蔵の目の前にあったせんべいへと手を伸ばした。
「おせんべいもらうね」
「勝手にせえ」
「うん」
周囲がさりげなく注目する中、龍馬はぱりぽりとせんべいをかじりながら台本を読み始める。あの坂本龍馬相手に親し気にタメ口をきくこの男はなんなんだ、というような視線が以蔵に集中するわけだが、坂本龍馬という男と幼馴染なんてやっていればこんなものはすっかり慣れっこになっている以蔵だ。
そしらぬ顔で、自分もまた台本を広げてオーディションに備える。
そうしているうちに先に呼ばれたのは龍馬だった。
一度個室の方に呼びにいき、そこに龍馬の姿がないことに結構焦ったのだろう。
大部屋を覗きにきたスタッフは、駆け出しの役者の中に紛れてせんべいをかじりながら台本を読む龍馬の姿に驚きつつも心底安堵したようだった。
「坂本さん、お願いします」
「はあい」
のんびりとした返事を返して、龍馬が立ち上がる。
「いってくるね、以蔵さん」
「気張りぃや」
「ありがとう」
いつものやり取りを交わして、龍馬が控室を後にしていく。
あの坂本龍馬はオーディションで一体どんな演技を見せるのだろうかとざわざわする周囲の声には耳を傾けず、以蔵は龍馬が残していったせんべいを一枚手に取る。
ぱり。ぽり。ぱりぱり。
水を飲む。
ごくん。
そうして十分ほど経過したところで、龍馬が戻ってきた。
やはり、個室の控室を使うつもりはなさそうである。
「あ、僕のおせんべい」
「おまんのじゃなかろうが」
「まあそうだけど」
机の上に載ったおせんべいの空になった包装紙に悲し気な声をあげる男に、以蔵はちらりと視線を向ける。
「どうじゃった」
「なんか微妙な顔された」
「ふは」
思わず笑いが込み上げる。
「ちっくと詳しく話してみい」
「えー、いやだよ」
なんてじゃれるようなやりとりを交わしているところで、先ほどのスタッフが再び控室へとやってきた。うろうろと彷徨った視線が以蔵の隣でお菓子を探す龍馬の上に止まる。やっぱりこの人はここにいたのか、という微妙な諦めの滲む眼差しで、「坂本さん、監督が呼んでいるので」なんて口にする
「…………」
「…………」
その言葉に、思わず顔を見合わせてしまう龍馬と以蔵だ。
え、うそ、なんだろ、と言いながらも再び立ち上がり部屋を出ていく龍馬の背後で、その場に残された役者たちの間にはもはや負け戦の空気が滲み始める。
それは以蔵も同じだ。
こうして演技を終えた後でわざわざ呼ばれるということは、やはり『坂本龍馬』役は龍馬で決まりなのだろう。
早かったな、などとぼんやり思う。
せめて全員分の演技を見てから決めればいいものを、と思わなくもないが、それだけ龍馬が良いものを見せたのだろう。
さて帰る支度でもするか、なんて思っていると、しんみょうな顔をした龍馬が静かに控室へと戻ってくる。
「どいた。やっぱりおまんで決まりか」
「いやいや、その逆だったよ」
「逆って」
ぽかんと以蔵の目が丸くなる。
「『坂本龍馬にしては洗練されすぎてる』だって」
「ぷひゃ」
さすがに堪えられずに、以蔵は全力で噴いた。
大勢の目がある中、げたげたと大声で笑い倒すのはいくら以蔵でも気が引けて、それでも腹の底から込み上げてくる笑いの衝動は抑えきれなくて、結局以蔵は机に突っ伏すことで声を殺す。
ひぐひぐと震える背が、笑いの発作の強さを表している。
そんな以蔵を見やる龍馬の双眸には複雑な色が滲んでいる。
『坂本龍馬』本人であるはずなのに、イメージが合わないと落とされるとはこれ如何に。確かに、『坂本龍馬』役をやりたかったか、と言われるとそうでもないのだが、だからといってこうして落とされても素直に喜べないのだから男心というのは複雑だ。
ひいひいと苦し気に息を継ぐ以蔵に、龍馬はその隣にがたりと椅子を引いて腰掛けながら言葉を続けた。
「それでね、以蔵さん、まだ続きがあるんだよ」
「や、やめえ、これ以上笑わせんとおせ、腹がみしくれゆう」
「いいからいいから」
にこにこと笑いながら、龍馬は話を続ける。
その追い打ちといった風情に以蔵はなんだか少し厭な予感を覚える。
人のよさそうな顔をして、この男は腹をくくるとえげつない追撃をしてくることに定評がある。
絶対また何か腹筋にクることを言いだすに違いない、とわずかに身構えつつ龍馬の言葉を待つ。
「坂本龍馬とはちょっとイメージが違うけど、できれば別の役で出てほしいって話になってね」
「おん」
そこまでは、まあよく聞く話だ。
坂本龍馬ともなれば、現状最もテレビでの露出率の高い人気俳優だ。
それをわざわざ逃す手はないだろう。
主役でなくとも、キャスティングしたいという気持ちはよくわかる。
「勝さんかアギの役を勧められたんだけど」
「おん」
「あえての『岡田以蔵』役に挑戦することにしました」
「ハア!?!?!?!?!?」
思わずがったんと椅子を蹴倒して以蔵は立ち上がった。
その大声に周囲の視線がザッと二人の元に集中するが、今はそれどころではない。
「お、おまん、馬鹿やないがか!?」
「えええ、そうかなあ。勝先生やアギの物真似よりは以蔵さんの方が身近に見本がいるわけだし、まだやれるんじゃないかなって思ったんだけど」
「見本通り演じてそれが正解ならおまんが『坂本龍馬』役で落とされるわけがないろう!」
「! それもそうだね!?」
それは盲点、というような顔を本気で龍馬がしたものだから、以蔵は頭を抱えてへたりこみたいような気持ちになった。
頭が良いようでいて、変なところで抜けているのが坂本龍馬という男だ。
だがそのうっかりをこんなところで発揮してはほしくなかった。
もしかすると以蔵が『坂本龍馬』役のオーディションを受けるなどと言いだしたことへの意趣返しか何かなのだろうか。
身近な人間に大真面目に自分の物真似をされるなんて、前世で一体どんな悪さをしたというのか。ああ天誅か。数々の暗殺沙汰か。それとも博打の方か。前世での悪さを数えようと思うと思い当たる節が多すぎて困る。
「おまん……」
「あ、岡田さん、次最後岡田さんです」
小言めいた恨み言を並べようとしたところでスタッフに名を呼ばれ、以蔵はぐうと喉までこみあげた言葉を噛み殺すように唸った。
なかなか呼ばれないと思ったら、どうやら以蔵は一番最後だったらしい。
「頑張ってね、以蔵さん」
「おまん、後で覚えちょけよ」
大事なオーディション前に、とんだ爆弾を落とされた心地だ。
自分は一仕事終えたような顔でのんびりと手元でチョコレート菓子の包装を剥きにかかっている龍馬を射殺せそうな目で睨み付けた後、以蔵はフンと息を吐いて控え室を後にした。
それが、よくなかったのかもしれない。
ほんの少し、気合いが入りすぎていたのかもしれない。
気づいた時には以蔵は、「君が今回の坂本龍馬だ!」と監督やらディレクターやらに囲まれて絶賛されていたし、呆然としながら戻った控え室で報告したならば、今度はまんじゅうの包装紙をぺりぺり剥いていた龍馬は一言「おーの」と呟いたりしたのだった。
■ ■
『坂本龍馬』役が以蔵に決まったとの発表が正式に行われ、オーディションに集まっていた他の役者たちが三々五々に解散していった後。
控え室には龍馬と以蔵だけが残っていた。
未だ以蔵が頭を抱えているのは、勢いでオーディションで全力を尽くしてしまったものの、役を受けてしまった後のことはあまり考えていなかったからだろう。
わしがさかもとりょうま……、だのブツブツと途方にくれたように呟いているのが聞こえてくる。
そんな以蔵の呻きをBGMに龍馬は『岡田以蔵』役用の台本をぺらぺらと捲っていた。
とはいえ、まだ正式な台本が出来たわけではないらしく、そこにあるのは歴史上の岡田以蔵の情報をまとめた役作りのための資料、といった感じだ。
本来なら坂本龍馬役が決まった後にその役者の雰囲気に合わせて岡田以蔵含むその他のキャスト候補を考えていくつもりだったのだろう。そのため、未だ他の役柄の分の台本は出来ていないとのことだ。まあ、よく聞く話である。
メインキャストのオーディションが終わり、そこが決まってからその周囲を取り巻くキャラクターたちのキャスティングを決めていく、というというのが配役をする上での常套手段なのだ。メインキャストに若手が決まったのならば、周囲には大御所を。逆にメインキャストを大御所で固めるのならば、バラエティ豊かな脇役に若手や実力はあるものの認知度の足りないような役者を配置していくことでバランスを取る。
今回のオーディションに集まった役者たちの中でも、監督やディレクターといった制作陣の目にとまった者には、今後他の役のオーディションの案内が送られていくことになるだろう。
龍馬に関してだけ妙にスピード感が異なるのは、それだけ俳優坂本龍馬をそのまま帰すのが惜しかったからだろうと龍馬は冷静に把握している。
確かに制作陣のその判断は間違っていない。
この次のオーディションの案内が送られてきたとして、それまで龍馬のスケジュールが空いているかどうかは、龍馬自身であっても確約することができないからだ。
そんなわけで、龍馬は急遽『岡田以蔵』役のオーディションを受けることになったのである。
台本がない以上、演技はフリースタイルだ。
制作陣としては坂本龍馬のネームバリューが欲しいので、ある程度見られる演技さえしてくれたならば後はどうにでもなる、とでも思っているのかもしれないが。
それはほんの少し、やっぱりほんの少しだけ面白くない。
やはり評価をされるならば正当に評価されたい。
ネームバリューだって、これまでに龍馬のしてきたことに対する実績であり、実力のうちであるということはわかってはいるのだが。ちゃんと、坂本龍馬という俳優が演じる岡田以蔵を見た上で、岡田以蔵役には坂本龍馬しかいない、と決めて欲しいと思ってしまうのだ。
「坂本さん、用意できましたか?」
「ああうん、いいよ」
入り口の辺りから呼ばれて、龍馬はガタリと椅子を鳴らして立ち上がる。
行ってくるねと声をかけた龍馬に、ぐったりと机に突っ伏したままの以蔵がいってこい、と告げる代わりに無言で掌をひらりと力無く振る。が。
「あ、その。良ければ岡田さんも見に来ないかって監督が言ってるんですけども」
「アア?」
思わずガラの悪い凄むような声を出して身を起こした以蔵に、罪無きスタッフがひい、と小さく悲鳴をあげてびくりと背を震わせた。
龍馬はこらこら、とやんわりとした苦笑を浮かべながら、以蔵の背をぽんと叩いて宥める。
「たぶん、以蔵さんが坂本龍馬を演るなら、相性の問題だとかもあると思ったんじゃないかな。ね?」
こくこく、と無言で頷くスタッフに、以蔵はアー……とか厭そうに呻きながらもしゃもしゃと癖のある黒髪を掻き撫で、それから結局しゃあなきじゃ、とぼやきながら立ち上がった。そのままスタッフに先導されつ、二人して、オーディションの会場となる一室へと向かう。
「いやあ、それにしても以蔵さんの見てる前で以蔵さん演るの、やっぱり恥ずかしいなあ」
なんて龍馬が照れた様子でぼやくのに、隣を歩く以蔵はますますのげんなり顔だ。
これから一体自分は何を見せられることになるのかと、遠い目をしている。
辿り着いたオーディション会場では、先ほどと同じようにドラマの制作陣が入り口に向かって設置された長机に並んで待ち受けていた。
少し違うのは、その一番端に以蔵のための席が用意されており、岡田さんはこちらへ、なんて案内の声に従って以蔵が渋々のろのろといったようにその席についたことだろうか。龍馬だけが、その長机に対面する形で取り残される。
「それじゃあ坂本くん、坂本くんの好きなタイミングで始めて良いからね。ああ、台詞なんかも好きに作って良いから」
「はい、ありがとうございます。それじゃあ、」
そこで一度言葉をきって、龍馬はにこり、と人好きのする柔らかな笑顔と声音で笑って、ぺこりと頭を一つ下げた。
そして。
「始めさせてもらうきのう」
顔をあげた時には、もう別人の顔をしていた。
ごくり、と以蔵の横に並んだ制作陣の喉が怯んだように鳴る音が響く。
ひょろりとした長躯に優しげな笑みをたたえた坂本龍馬という男は、もうその場からは消え失せていた。
そこにいるのは、人斬りだ。
幕末の四大人斬りと恐れられた男、『岡田以蔵』だ。
先ほどまでは人懐こく柔らかな笑みの形に撓められていた双眸は今は斜に構えるように細く眇められ、寄るものすべてに噛みつきかねないような凶暴性がその眼光には宿っている。佇まいもそうだ。緩くひょろりと優男然として見えていたのが嘘のように、そのよく鍛えられた体躯はバネのような緊張感を孕んでいる。少しでも切っ掛けがあれば、唐突に凶行に及ぶのではないかという恐れを他人に抱かせるような危うさがその全身から匂い立つように滲み出ている。
それは、ちょっとした変身だった。
少し猫背気味に背を丸め、上目遣いに対峙する制作陣を睨み付ける男の姿に、先ほどまでの好青年の面影はない。
この場において絶対的な強者であるはずなのに、その男は決して己の敵となりうる相手を睥睨するようなことはない。あえて背を緩く丸め、野卑な野良犬のように上目遣いに睨めつけるのだ。まるで、常日頃小馬鹿にされている側の人間であるかのように。
「……、おまん」
低い、ざらりと乾いた声が零れる。
人の心にやすりをかけるような、不安を煽る声音だ。
「わしを笑うたな……?」
ぞわりと、背筋が怖気だつような感覚が制作陣を襲う。
普段は流暢な標準語を使う坂本龍馬だ。
そんな彼が、実は高知弁も達者である、というのは先ほどの『坂本龍馬』のオーディションでもよくわかっていたのだが。それとは全く異なる凄みが、『岡田以蔵』に扮する坂本龍馬には備わっていた。
空気がひりつくような圧が、息苦しさすら齎すかのようだ。
そんな緊張感を逃すように、ふ、と龍馬は笑みを浮かべて見せる。
だが、その笑みはその緊張感をますます増すだけのものだった。
にたりと上目使いはそのままに双眸を厭らしく三日月に細め、どこか引き攣るように口角をうそりと持ち上がて見せる笑みは見るものに不安しか与えない。
媚びを売るような、それでいて相手に対する信頼や信用が全く見えない不安定さの滲む笑いだ。
「せんせぇ」
熱の籠もった声音がとろりとここにはいない誰かを呼ぶ。
すっかり心酔したような、盲信に縋る狂信者の声だ。
「せんせぇの敵はわしの敵じゃ。わしが、全部始末しちゃりますき。えいんです。先生は、殺せともおっしゃらなくてえいんです。ただ、邪魔な人間の名前をだぁれもおらん場所に向かって呟いてくださるだけでえいんです。後は、……わしの仕事じゃき」
ふ、とそんな熱に浮かされていたような双眸の色が瞬きを挟んで急に冷める。
代わりに滲むのは鮮烈な殺意だ。
す、と一歩利き足を前に踏み出して、低く身を折るような前傾姿勢。
右の手がゆるりと腰に回る。
当然、そこに太刀はない。
けれども、制作陣は完全にそこにある太刀を幻視した。
くろぐろとした双眸を、ひとごろしへの興奮にギラギラと光らせて男が嗤う。
「お初にお目にかかります。じゃあ、死ね」
斬り捨てる動きは、居合いじみて素早かった。
まるで見えない刀で斬られでもしたかのように、制作陣の身体がびくりと跳ねる。
それから龍馬は、血払いの動まで挟んだ後に納刀の所作をして見せ――そこでふッと表情を和らげた。
「以上です」
ぺこりとの一礼が言葉に続く。
とたんに、急に室内の酸素濃度が上がったような気すらした。
急激に緩む空気の中、制作陣は盛大な拍手をしながら立ち上がる。
「やあ、驚いたな! さっきの坂本龍馬も悪くはなかったけれど、どこか上品さが抜けなくてどうかって思ってたはになのに! いやあ、これは随分と化けるものだねえ! 本当に斬られたかと思ったよ」
「はは、そう言ってもらえると光栄です。それで、どうでしょうか」
「やあもちろん決まりだよ! 君しかいない! 今ので完全に岡田以蔵のイメージが固まったよ! ねえ!」
「ええ!」
話をふられて、ぶんぶんと水飲み人形のように頭を縦に振ったのは確か脚本担当だ。
未だキャラクター像が定まっていなかったこともあり、龍馬の演じる『岡田以蔵』は脚本家に強い影響を与えてしまったものらしかった。
「岡田くん、岡田くんも問題ないよね!?」
「…………ええ、まあ、はい」
心なしぐったりとした面持ちで、棒読みのように以蔵が頷いた。
もはやこの状況ではそれしか言えないよね、と以蔵の心情を慮って生ぬるい眼差しを向ける龍馬だ。ぐったりと疲れた以蔵の目がしね、と言っているのがわかって龍馬はくくくと内心笑う。
そのまま制作陣は盛り上がったまま他のキャスティング会議に入るらしく、君たちは今日のところはもう帰って良いよ、とのお許しの言葉をいただいた。
「ではこれで失礼しますね」
「失礼しました」
二人揃って、部屋を出る。
「……………………」
「……………………」
しばらくの間、二人は無言だった。
荷物を置いたままになっている控え室に向かいながら、廊下を黙々と歩く。
控え室の扉が見え始めた辺りで、ぽそりと口火を切ったのは龍馬の方だった。
「ぼく、岡田以蔵だって」
「まだえい。わしなんて坂本龍馬やぞ」
「ちょっと。その言い方は酷くないかい」
まるで罰ゲームのような言われようである。
不満そうに軽く唇を尖らせて見せた龍馬相手に、以蔵はぴたりと歩みを止めるとくるりと龍馬へと向き直り、半眼で睨みつける。
「それを言うたら、おまんの演った『岡田以蔵』の方がよっぽど酷いじゃろうが。なんじゃ、おまんにはわしがああ見えちょったんか」
「似てたでしょ?」
「あそこまで獣じみちょらんわ」
「ええー……、絶対あんな感じだったって」
知ってる人が見たらそっくりだって太鼓判押してくれるよ、なんてなおも主張する龍馬に。以蔵は、ぐるると威嚇するように喉を鳴らし、全体重をかけてずだんと龍馬の足を踏み抜いた。
「あいたあ!」
龍馬の悲鳴が人気のない廊下に響きわたる。
「ひどいよ以蔵さん!」
「じゃかあしい! 龍馬ァ!」
「なんだい、もう、乱暴だなあ」
「今日はもう夕飯なんぞ作る気分じゃないき、飲みに行くがぞ!」
「いつもの店でいいの?」
「おまんの奢りでたっぷり飲み食いしちゃる」
「ええええ……」
―――かくして。
『坂本龍馬』役岡田以蔵と。
『岡田以蔵』役坂本龍馬という大変ややこしいキャスティングが成立したのだった。
