やがて撮影が始まった。
主役でもある以蔵は、日々忙しそうにスタジオに詰めていることも多い。
龍馬の方は脇役であるものでそれほど出番も多くない――はず、だったのだが。
以蔵と龍馬の関係を面白がった監督と脚本家の意向により、当初想定されていたよりも結構出演シーンが増えてしまった関係で、スタジオに足繁く通う羽目になっている。
とはいえ、それは龍馬にとっては嬉しい誤算だ。
以蔵の演じる『坂本龍馬』を間近で見られる機会があるに越したことはない。
そんなわけで龍馬は自分の撮影がない日でも、タイミングさえ許せばドラマの撮影現場を訪ねて以蔵の撮影風景を眺めるのが日課となっている。
今日もまた龍馬はチェーンのコーヒーショップで買った一番大きいサイズのコーヒーの紙カップを片手にスタジオへと入る。
もう片手にぶら下げている大きな包みは、同じく途中で立ち寄ったドーナツショップで買いこんだ差し入れである。スタッフの分を含んでいるので何箱も重ねてかさばるそれを近くの机にどさりと乗せて、龍馬は近くを通りかかったスタッフへと声をかける。
「これ、差し入れだから皆で食べてね」
「わあ、坂本さん良いんですか? ありがとうございます!」
「今日も皆、お疲れさま」
撮影でもなく現場に入り浸る人気俳優の姿に最初は戸惑っていたスタッフたちも、龍馬の気遣いが通じたのか最近ではそれほど訝し気な顔をすることもなく受け入れてくれるようになった。
彼らにとって負担になりかねないのは気を遣わなければいけない相手が増えることであり、大した我儘を言うわけでもなく、手のかからないどころか心遣いと称してよくよく差し入れを持ってきてくれる龍馬の存在は歓迎するところであったらしい。
「岡田さんなら、屋内Cセットの辺りで撮影してますよ。あ、これ椅子です。どうぞ」
「ああ、ありがとう」
渡された折り畳みの椅子を片手に、龍馬はのんびりと屋内Cセットの方へと向かう。
ちなみに。
普段は「龍馬さん」と下の名前で呼ばれることも多い龍馬であったが、この現場ではすっかり「坂本さん」呼びが定着していた。
何故ならばこの現場において「坂本龍馬」は二人いるし、「岡田以蔵」も二人いるからである。
一度スタッフが「龍馬さん」と呼び、以蔵と龍馬の二人が「おん?」「なあに?」と反応してしまった時などは大変だった。主に龍馬が。例によって例によって照れまくった以蔵が、その照れを誤魔化すべく龍馬の足をげしげしに踏みまくったからである。
逆も当然あった。
「以蔵さん」とのスタッフの呼びかけに、やはり龍馬もつい反応してしまったのだ。やっぱり足はめためたに踏まれた。
そんな惨劇を経て、すっかり苗字呼びが定着した現在だ。
龍馬さん、であれば以蔵をさしていることが多く、坂本さん、であればそれは龍馬のことだ。以蔵に関してもそれは同じことで、以蔵さん、であれば龍馬が呼ばれている可能性が高く、岡田さん、であれば間違いなく以蔵の方だ。
互いが互いを演じるなどというカオスのささやかな弊害である。
何人かのスタッフとすれ違い、口々に挨拶を交わしながら龍馬は屋内Cセットを目指す。いくつものセットがその場のルールによって、しかし傍目にはでたらめに並ぶ様子はなんだか異世界にでも迷い込んでしまったかのような錯覚すら覚える。
そんなスタジオの片隅の、カメラや機材が集中したあたりに屋内Cセットはあった。
中ではちょうど以蔵が――否、以蔵演じる『坂本龍馬』が高杉晋作を説得しているシーンを撮影しているようだった。
以蔵が、きりと引き締めた顔でのびやかに国を守るための手段についてを熱く語り聞かせている。
嗚呼以蔵さん恰好良いなあ、なんて思いながら龍馬はもってきた椅子を広げて、撮影の邪魔にならない、それでいて以蔵や共演者の姿が見える位置に腰を下ろす。
以蔵が演じているのは確かにかつての坂本龍馬が行ったとされる出来事だ。
龍馬自身の過去の再演だ。
けれども、それはあくまで演出され、後世まで伝わった『坂本龍馬』のものであるためか、自分の書いた手紙がそのまま現存していると言われた時ほどの羞恥には襲われずに済んだ。それに何より、以蔵の演じる『坂本龍馬』はめちゃくちゃに男らしくて恰好良いのだ。実際の僕より『坂本龍馬』してるんじゃないかな、なんて龍馬が自分でも思ってしまうほどだ。
なので、龍馬は以蔵の演じる『坂本龍馬』を見るのが好きだ。
以蔵には自分がこのような男に見えているのだろうか、なんて思うとなんだか腹の底がくすぐったいような気持ちにもなるのだ。
が、それは見られる側の以蔵としてはたまったものではないらしい。
今日もまた、長台詞に魂を込めて朗々と高杉晋作を説得していたはずの以蔵がふと視線を持ち上げ、暗いスタジオの片隅にてにこにこと撮影風景を見守る龍馬の姿を見つけたとたんにカッと耳まで赤く頬を染めた。
「あ」
監督が小さく声をあげて、龍馬を振り返る。
龍馬は眉尻を下げてでかい図体を小さくするようにして頭を下げる。
そう。
以蔵はどれだけ役に入っていても、龍馬に見られているということに気づくとすっかり素に戻ってしまうのだ。
周囲はそれを昔からの幼馴染に見られていると思えば集中力が途切れるのも仕方ない、と好意的に解釈してくれているようだが、事実はもっとひどい。一番近いのは不意打ちでご本人が登場する物真似ショーだ。
「おまん、どいてここにいるがじゃ!!!」
セットの中から吠える以蔵に、龍馬はひらひらと手を振って笑う。
「時間ができたから様子を見にね」
「見んでえい、しゃんしゃん去ね!!」
塩でも撒かれそうな勢いである。
共演者である高杉晋作役の方はといえば、大して気にした様子もなく鷹揚に笑っている。それでも龍馬が撮影の邪魔をしてしまったのは事実なので、一度腰を浮かせてセット内へと歩みより、挨拶することにする。
「すみません、お邪魔してしまったみたいで」
「いいですよ、これぐらいじゃないと龍馬さんNG出したりしないですもん。いっつも俺ばっかりNG出しちゃって悔しいぐらいだから、坂本さんが来てくれて助かりました」
なんて、茶目っぽく笑われて龍馬も口の端に笑みを浮かべる。
自分の名前で呼ばれる以蔵にも、そろそろ慣れてきた。
龍馬だって、服を着替えてしまえば現場内では以蔵と呼ばれている。
普段はほとんどNGを出さない以蔵がこうして演技の途中で集中力を切らすのが珍しいのか龍馬による不意打ち本人ご登場回は、共演者の間ではわりと好評だ。
耳まで赤くして恥ずかしがる以蔵を、スタッフも含めて可愛らしい生き物を見るような目で見守っている。そんな柔らかな眼差しが余計に以蔵を照れさせていたりもするわけなのだが。
龍馬と年齢の近い好青年然とした高杉晋作役の青年もまた、面白がるような笑みを口元に浮かべてにこにことしている。
「このまましばらく見学していってもいいですか?」
もちろんですよ、という声と、さっさと帰らんかばあたれ、と吠える声とが綺麗に重なった。龍馬と高杉とで視線を交わしてふくくと笑い合う。
メイクを直されながらも、今にも噛みついてきそうな顔でぐるぐる唸る以蔵にひらりと手を振って、龍馬は再びセット脇の暗がりへと戻った。
龍馬に帰る気がないとわかって、以蔵はますます苦虫を噛み潰したような顔をするが、無理やり龍馬を追い払う術がないというのも事実だ。
すーはー、と深い深呼吸をしてきりと表情を引き締めて、監督へと「やれます」と短く続行を告げる。
龍馬の登場によって一度は集中が切れてしまったとしても、こうしてすぐに気持ちを切り替えて役に戻れる以蔵の強かさには毎回驚かされる。
もう一度シーンの始めから撮りなおすことになったのだろう。
龍馬が見始めた時には以蔵の方からにじりよるように距離を詰めていた二人の間には、差しで飲むのに適切な距離が置かれている。
そして、よおい、アクションとカチンコが鳴らされるのと同時にシーンが始まった。
以蔵演じる『坂本龍馬』が腕を伸ばして、とっとっとと徳利から高杉の持つ杯へとなみなみと透明な清酒――に見せてはいるが実際には水だろう――を注ぐ。
二人の間に漂うのは互いに気を許し合ったが故の気安さと、大事の前の静けさのような緊張感が複雑に混ざり合った空気だ。
先に口火をきったのは『坂本龍馬』の方だった。
「海の外から大国が攻めゆうち時に、わしらは狭いこん国の中で争いおうちょる。それじゃあいかんのじゃ。わしらは協力して、立ち向かわんといかん。このままじゃまずいゆうのはおんしもよおくわかっちょるろう」
厳しくも熱のある声で、以蔵が語る。
それを聞く高杉は、以蔵の語る言葉に耳を傾けつつもその顔には今だ迷いがある。
薩摩と長州の間にある因縁というのはそれほど浅いものではないのだ。
今更長州と手を組むなどといえば、藩内からも大きな反発が上がるだろう。
それを抑えることができるのか、というのは難しい問題だ。
それ故に高杉としてもそう簡単には以蔵演じる『坂本龍馬』に対して簡単に頷くわけにもいかないのだ。
これは、『坂本龍馬』の見せ場だ。
武力ではなくその弁舌でもって人の心を動かし、時代を変えようという戦いだ。
新たな時代の戦い方を魅せるシーンだ。
果たして以蔵はどんな形でそれを演じてくれるのか、と龍馬はドキドキと胸を高鳴らせながらその様子を見守っていたのだが。
次の瞬間、思わず手にしていたコーヒーのカップを取り落としそうになった。
以蔵は。
否、以蔵演じる『坂本龍馬』は。
ず、と膝を前に滑らせて、高杉晋作へとの距離を削った。
だがそれは無理強いを迫るような圧迫感を伴ってはいない。
むしろその小さくはない図体をちぢこめるように小首を傾げて、『坂本龍馬』はへにゃりと眉尻を下げて見せた。
そうすると、先ほどまでの凛々しい顔立ちや声音が嘘のようにあどけない子どものような顔になる。自らの童顔を盾に取ったような振る舞いだ。端的に言って、あざとい。
ちょろりと上目使いに高杉を見上げる。
「にゃあ、わしに力を貸しとおせ。おまんの力が必要なんじゃ。にゃあ、えいろう……?」
子どもが飴をねだるような声だった。
低く、柔い声音に無垢な甘えが滲んでいる。
思わず口にしていたコーヒーを噴きかけて、龍馬は慌てて口元に手をやる。
それでもごふッと変な咳が出て、近くにいたスタッフに心配そうな眼差しを向けられた。差し出されたティッシュを受け取って、口元を拭う。
なんだあれ。なんだあれ。なんだあれ。
大事なことなので三回心の中で叫びました。
口元を抑えたまま悶絶する龍馬の傍らで、ティッシュを渡してくれたスタッフが隣に立つ別のスタッフと言葉を交わすのが聞こえてくる。
「いやあ、岡田さんの坂本龍馬って普段はキリってしてるし、男臭くて恰好良いのに人に頼るときだけ妙に可愛くなるよなあ」
「わかる。可愛いし、変な色気があるよな。あのギャップがやばい。あんな風に頼まれたらそりゃあ断れないよ」
なんだか頭を抱えたくなった龍馬だ。
普段は以蔵の演じる『坂本龍馬』を見て楽しんでいるし、以蔵に演じられることにそれほど抵抗のない龍馬ではあるのだが、これはちょっと、キた。
龍馬の演じる『岡田以蔵』を見て、わしはそこまで獣じみちょらんわと動揺した以蔵の気持ちが初めてわかってしまった。
ぼくは!あそこまで!かわいこぶってない!
そんな強い気持ちで悶えていた龍馬の耳に、シーンの終了を告げるカチンコの音が届く。赤くなった顔に手を当て、熱を冷まそうと試みていればすたすたとセットの中から出てきた以蔵がこちらにやってくるのがわかった。
「なんじゃ、おまん何を顔を赤くしゆう」
「……以蔵さん」
「おん?」
「さっきのあれ、なに」
「さっきのって……ああ、アレか」
にんまりと以蔵の双眸が弧を描く。
『坂本龍馬』役の以蔵はいつもよりも低い位置で髪を一つに結び、前髪を全部後ろに撫でつけているもので、普段は隠れがちな左の目が見えるのが新鮮だ。
「上手いもんじゃろ、おまんの真似じゃ」
「僕あんなことしてないでしょ!?」
「しちょるわばあたれ」
「してないってば!」
「おおこわ、無自覚なんか」
大げさに両腕で身体を抱いて、身震いされてしまった。
「してないよ!」
「してるじゃろう。何か人に頼み事しゆう時にはぎっちり上目遣いに小首を傾げゆうのはおまんの癖じゃ」
ドきっぱりと言い切られる。
そこまで言われると若干自信がなくなってきて、龍馬はしみじみと自分の言動を思い返してみる。そういえば今朝も朝からスクランブルエッグが食べたいと駄々をこねた気がする。なあえいろう以蔵さん、以蔵さんの作るスクランブルエッグが食べたいんじゃあ、お願いやき、作ってくれんか、なあ、なんて。
両手をすりすりと合わせて、以蔵を上目遣いに見上げて、首を傾げて、
「―――やってた」
「じゃろう」
無くて七癖、とでもいうべきだろうか。
ふふんと以蔵が鼻で笑い飛ばす。
龍馬が純粋にスクランブルエッグが食べたい一心でおねだりを敢行している間、以蔵は冷静に役で使おうと思って観察していたのかと思うとそら恐ろしい。
まあそこは同じように以蔵を観察している龍馬も人のことは言えないのだが。
例えば普段の振る舞いはがさつな癖に、ふとした日常の所作がやたら綺麗なところだとか。以蔵の器用に綺麗な箸使いや、丁寧に角ばった筆跡などはとても『以蔵らしい』。
「でもさあ」
「なんじゃ」
「ぼく、以蔵さんがやるほどあざとくないと思うんだけどなあ」
「ばあたれ、おまんがやる方が千倍あざといわ」
「えええええ……」
解せぬ。
そんな憮然とした顔をしていた龍馬にちらりと視線を投げて、以蔵が話題を変える。
「おまん、午後は撮影か?」
「うん。以蔵さんは午前だけだっけ?」
「うんにゃ、おまんとの共演シーンがあるろう。それまではおまんの演る『岡田以蔵』をたぁっぷり見させてもらきのう」
「げえ」
ニチャアと意地悪く脅すような笑みを浮かべた以蔵に、反射的に呻いて龍馬は渋い顔をして見せた。
以蔵ほどの拒絶反応は出ないものの、それでもやはり龍馬だってご本人参観はできれば避けたいと思うだけの神経は持ち合わせている。
それに。
以蔵に限っては、単に見られるのは恥ずかしい、という意味合い以上の懸念もある。
龍馬が演じるのは以蔵にとってはあまり良い思い出のない以蔵の人生だ。
恩師を信じ、道を踏み外し、その果てに落ちぶれて破滅する物語だ。
それを龍馬が演じる様を以蔵にはあまり見られたくないな、とも思ってしまうのだ。
だというのに、以蔵本人はそんな龍馬の心配など知ったこっちゃないという風に悪辣に笑う。
「下手な演技なんぞ見せたら叩き斬っちゃるきの」
「物騒なこと言わないでね」
はあ、とため息交じりに宥めつつ。
再び撮影に戻っていく以蔵の背を見送る龍馬だった。
■ ■
以蔵と一緒に昼食をとった後、龍馬もまた撮影の支度に入る。
衣装自体のベースは龍馬も着慣れた袴であるので、着替えるだけならそう時間はかからない。だが、『岡田以蔵』になるためにはメイクやら、ヘアセットにやたら時間がかかるのである。
龍馬自身の地毛をまずはくすんだ色合いになるようにダメージ加工を施し、その後同じ色をしたエクステをあちこちにつけて長さを出していく。
それから地毛とよく馴染ませ、色合いを整え、ヘアジェルやムースを使い、艶のない、何日も風呂に入っていないような、手入れの行き届いていないパサつきや、毛束感を出していく。
仕上がる頃には、まさしく野良犬の毛並みめいた頭が仕上がっている。
同様にメイクもまた目の下にうっすらと隈を描き、肌の色合いのトーンを下げて目だけがギラギラと強調されるような、いかにも不健康そうな態だ。
やがて、鏡の前には龍馬であって龍馬ではない男が立っていた。
少し、背から力を抜いてだらりと腕を下げる。
ますます記憶の中にある以蔵に似る己の立ち姿に、やわりと息を吐いて龍馬は口元を覆う黒の薄布をぐいと引き上げた。
仕上げに饅頭笠を被れば完成だ。
控室を後にして、ひたひたと道を行く。
この格好をしている時は、つい自然と足音を殺してしまう。
なるべく以蔵の立ち振る舞いに近づけようと思うからだろう。
スタジオに入れば、先ほどまで龍馬が座っていた折り畳み椅子に今度は以蔵がのっしりと腰掛けている。
以蔵は龍馬に気づけば、ひくりと片眉を跳ね上げて見せた。
「どう? 以蔵さんぽい?」
「まあまあじゃな」
ふいと以蔵の視線がそれる。
そんな気のない仕草も、照れ隠しなのは十分に知っている。
「以蔵さんも僕の格好したら良いのに」
「しちょったろう」
以蔵の言葉に、龍馬はふふと悪戯っぽく双眸を笑みに撓める。
そっちじゃない方、なんて言えばその意味がすぐに分かったのか、以蔵はわかりやすく目を半眼にして阿呆とぼやく。
まあ、それもそうだ。
あんな服、現代においてどこで用意できるというのか。
それこそ衣装担当のスタッフに頼み込みでもしない限りなかなかお目にかかれないだろう。いつか龍馬がやらかしたような現地調達など、この平和な世界ではまず無理だ。
「以蔵さん、撮影入りまァす!」
「はあい!」
呼ぶ声に返事を返して、龍馬は意識を目の前のシーンへと集中するべく深呼吸を一つ。
自分は、『岡田以蔵』だ。
ついぞ理解者に恵まれることなく、道を踏み外した暗殺者。
息を吐くその合間にも龍馬の眼差しが冷えていく。
ゆるりと弧を描く背からもひたひた冷たい孤独と敵意が滲み出る。
それが、坂本龍馬が思い描くかつての『岡田以蔵』の姿だ。
京の都を震わせた天誅の名人、『岡田以蔵』だ。
「行くぜよ」
低く、呟いた声音も乾いてひび割れて響いた。
■ ■
龍馬の演じる『岡田以蔵』は見事なものだった。
夜の路地裏を再現したセットの中で、龍馬扮する人斬り『岡田以蔵』は静かに闇夜に溶け込むように佇んでいる。
闇の中、獲物を待ち構える双眸だけが破れ笠の奥でぎらついている。
そこに、少し離れたところにぼんやりと明かりが滲んだ。
今世においてほとんど見なくなった生きた炎の明かりだ。
和紙を貼った提灯の内側で、ゆらゆらと炎の陰影が踊る。
それが近づいてくるにつれて、ざくざくと砂利を踏む足音もやがて響き始めた。
その日のターゲットだ。
彼らが以蔵が待ち構える路地に足を踏み入れ、十分に近づいたところで、ぬらりと闇から抜け出すようにして『岡田以蔵』はターゲットの前に姿を現した。
逃げようとしてももう手遅れだ。
路地の反対側には、以蔵と似たような格好をした浪人が数人がかりで塞いでいる。
そちらに逃げても、そいつらに斬り伏せられるだけだ。
逃げ場がないことを悟ったのか、ひ、と怯えた声をあげた男の手からぽろりと提灯が零れ落ちる。地面に転がった拍子に火種が零れたのか、ちろちろと赤い炎の舌が和紙を舐め、白々としていた和紙が黒く縁取られて食い破られていく。
それはまるで男の末路を暗示しているかのようだった。
「おまんに恨みはないが―――」
低く、『岡田以蔵』が呟いた次の瞬間には、ざりと砂利を蹴って前に踏み込んでいる。
振るわれた太刀は見事に男の喉首の辺りを薙ぎ払い、男は苦悶の声を上げながら喉を押さえて仰け反る。そこにさらに踏み込み、『岡田以蔵』の鋭い突きが男の心の臓を見事に貫いた。
―――ように、見えた。
これは演技であり、決して本物ではない。
喉元を薙いだように見える剣筋も実際には薄紙一枚挟むような距離で薙がれただけに過ぎないし、今もその胸を貫いたように見えるのも角度によってそう見えるように振るわれただけだ。実際には受けた男の脇を通っただけだ。
それでも、龍馬の演じる殺陣からは本物の血が香るようだった。
事実、斬られ役の目に浮かぶのは本物の恐怖だ。
きっと、あの瞬間彼は本当に殺されるのではないかと一瞬でも錯覚してしまったのではないだろうか。
ふふん、と以蔵は満足げに顎先を撫でる。
なかなか見られるものに仕上がったではないか、とでも言いたげな顔だ。
そう。
本来の龍馬が振るう剣は北辰一刀流だ。
かつて免許皆伝にまで至ったその流派を、龍馬は今生でも修めている。
それはまあ、今生でおいて剣を振るう際に、どうして習ったこともない北辰一刀流が身についているのかとの違和感を抱かせないようにとのアリバイ作りめいた意味合いが強かったわけなのだが。
それでも、坂本龍馬という男が振るうのは今生でおいても北辰一刀流なのだ。
だが、今『岡田以蔵』が振るったのはそうではない。
北辰一刀流と異なるどころか、その他のどの流派とも重ならないただ殺すだけの剣だ。
様々な流派を学び、物にしながらも修めることはせず、ただただ効率的に人を仕留めることだけに特化した『岡田以蔵』の人斬りの為の剣だ。
それを、以蔵は龍馬に叩き込んだのである。
以蔵の目から見ればまだまだ甘いとしか言いようがないが、実際に人を斬るわけではないのだ。振りだと思えば、十分すぎるほどの仕上がりだ。
「やっぱりわしは剣の天才じゃの」
周囲に聞こえない程度に抑えた声音で、小さく呟く。
カメラに囲まれた薄暗がりの路地裏では、『岡田以蔵』がぴしゃりと刀にまとわりつく血を払い落とし、納刀せずにだらりと無造作に腕を下ろしていた。
地面に斃れた骸を醒めた目で見降ろし、
「――これも天誅じゃ」
ぽつりと呟く。
その声に、熱意はなかった。
ただ一仕事終えたような無味乾燥とした響きだけが籠っていた。
そんな声音に、以蔵は嗚呼、と息を吐く。
それもそうだった。
当たり前だ。
以蔵にはそんなものはなかった。
ただ、先生に言われたから斬っただけだ。
心の底から先生の思想を信じ、天誅だと信じて人を斬ったわけではなかった。
ただ、先生に言われたから。
だから天誅だという『岡田以蔵』の声音には実が伴っていない。
口癖のように天誅とうそぶいていながら、以蔵にはその言葉の意味すらよく分かってはいなかったように思う。
あえて言うなら、以蔵にとっての天は先生だった。
だから、先生の代わりに先生にとって邪魔な存在を消すことこそが天誅だったのだ。
嗚呼、けれど。
ぼんやりと眺める先で、セットが慌ただしく変更されていく。
スタッフたちの威勢の良い声音が飛び交い、めくるめく間に情景が変わっていく。
それはまるで夢か幻のようだった。
以蔵のかつての生を再現する、走馬燈のようだ。
カッと明るいライトがセットを照らす。
そこは民家の縁側のようだった。
『岡田以蔵』は刀を懐に抱きかかえるようにして縁側で背を丸くして座り込んでいる。
すすすす、と音がして襖が開く。
中から顔を出したのは、武市だ。
『岡田以蔵』が先生と、天と定めたその人だ。
おそらく、中では『岡田以蔵』が昨夜下した天誅についての話し合いが行われていたのだろう。自らの為したことについての話し合いでありながら、『岡田以蔵』は部屋に入ることを許されてはいなかった。
ただ飼い主を待つ犬のように部屋の外で刀を抱え、先生を守るための見張りなのだと自分に言い聞かせて通りかかるものを睨みつけてばかりいた。
思い出した心をざらりと冷やす疎外感に、以蔵はその光景を見ていられないような気持ちになった。
けれど、目を反らすことが出来なかった。
部屋から出てきた武市は、そこに座る『岡田以蔵』に気づくや否や、ひくりと、少しだけ目元を歪めた。
「―――」
素晴らしい演技だった。
ほんの少し、その目元に生まれた小さな歪みが、隠そうとして隠しきれなかった武市の『岡田以蔵』へ抱いている本音のすべてだった。
武市の目元に浮かんだのは恐怖に似ていた。
侮蔑に似ていた。
ただ少しの目元の表現だけで、武市役の役者はその複雑な感情を見事に表現していた。
だが、『岡田以蔵』はそれに気づかない。
自らが天と定めたひとの登場に子どものように無垢にぱあと表情を明るくし、「せんせえ!」と声をあげる。
やめろ、そんな顔をするなと言いたくなって以蔵は手のひらをぎゅうと握った。
「ようやったな、以蔵」
褒める声が聞こえる。
『岡田以蔵』は素直に喜ぶ。
はにかんだように口元をゆるゆるとえませ、目元に朱すらにじませ、まるで初恋のひとを前にしたおぼこい娘のように照れて見せる。
ばあたれ。
吐き捨てるように、小さく呟く。
よく聞け。
よくやったと褒める武市の声はどう聞いても上辺だけのものではないか。
薄っぺらいタテマエをぺろりと捲れば、その下には隠し切れない疎ましさが滲んでいるではないか。
よく見ろ。
お前を見下ろす武市の口元はあんなにも引き攣っているではないか。
どうして、気づかないのか。
―――どうして、気づかなかったのか。
以蔵は、深々と息を吐く。
頭が良くないとは自分でもわかっていた。
口癖のように「わしは頭がようないき」とは自分でも言っていた。
けれど、こうして改めて見せつけられると、自分の愚かさが厭になる。
あの時代においても、やはり武力でもって人を支配しようというのは過ちだったのだ。
如何に崇高な目的を掲げていたとしても、それを実現するために武力を用いるというのは良くないことだったのだ。
そのことに、以蔵だけが気づいていなかった。
先生は、武市は知っていた。
わかっていた。
あの人はそれが許されざる強硬手段だと知っていて、以蔵にさせたのだ。
だから、ああも疎ましげに以蔵を見る。
あのひとだって本当はあんなことをしたくはなくて、させたくはなかったのだ。
それでも、他に道はないと思いつめたからこそ、武市は以蔵を使った。
以蔵はそれを知らず、武市が以蔵を動かすために使った建前をまるっとそのまま飲み込んで、自らの頭で考えて消化することもせず、ただそれをそのまま自分のものとした。
だから、武市はあんな目で以蔵を見るのだ。
方便をまっすぐに信じて暴力を是をするおそろしい人斬りを、侮蔑と恐怖の混ざった目で見るのだ。
以蔵にはそれがわからない。
ただ、野生の獣じみた直観で武市に距離を置かれていることだけはわかってしまうからこそ、先生のために、先生に褒めてもらうためにとまた人を斬るのだ。
なんという、悪循環か。
「ウヘエ……」
今の以蔵にはそれがわかってしまうだけに思わず低く呻いてしまった。
カルデアで過ごした時が、与えられた二度めの機会が、ただ以蔵を人斬り包丁として使うだけでなく、優しく、真っ当に導いてくれた人たちがそのことを教えてくれた。
自分の頭で考えることを教えてくれた。
自らの意思を持つことを諦めなくても良いのだということを教えてくれた。
だから、今の以蔵は自分で考える。
考えた上で失敗することもあるが、それでも何も考えずに失敗したことにすら気づけずに終わるよりははるかにマシだからだ。
なんだか鈍痛を訴えてくるようなこめかみをぐりぐりと指先で揉んでいる間に、撮影は終わったようだった。
足音が近づいてくるのに気づいて、以蔵は顔を上げる。
人斬りの格好そのままに、龍馬がそこには立っていた。
おかしな話だ。
先ほどまでは過去の亡霊じみて以蔵にそっくりだったはずの男は、今はどう見ても坂本龍馬その人にしか見えない。
「どうじゃった?」
弾むような声音で問われる。
それはきっと、本来以蔵に仕込まれた『岡田以蔵』としての殺陣の成果を問うものだったのだろう。
褒めてほしがるような龍馬の声に、「まあまあじゃった」なんて返してやれば良いというのはわかっていたのに、思わずぽろりと以蔵の唇から零れ落ちたのは全く違う本音だった。
「……あいつ、首落ちて良かったんやないがか」
龍馬の双眸が丸くなる。
何を言われたのかわからないといった顔だ。
それから、ぎゅっと眉間に皺が寄ったと思った次の瞬間にはスパアアアンッ、とびっくりするほど良い音が周囲に高らかに響き渡っていた。
今度は以蔵がぽかんと目を丸くする番だった。
龍馬が、手にしていた台本で力いっぱい以蔵の頭をぶん殴ったのだ。
厚みのある台本とはいえ、紙の束で殴られても痛みは音の大きさほどはない。
けれど、驚いた。
龍馬の方から以蔵に手を上げるなんて、滅多にないことだ。
「なんじゃあ!」
「以蔵さんがあやかしいことを言いよるからじゃ!!」
驚きつつも、条件反射のように以蔵は怒鳴る。
考えるよりも先に迎撃に出るのはもう以蔵の習性のようなものだ。
それに対しても、龍馬は一歩も引かずに怒鳴り返してくる。
噛みつくようなその剣幕に若干以蔵は気圧される。
普段怒らない男が怒ると、妙な迫力があるのだ。
ただ事ではない様子に、周囲のスタッフたちにも緊張が走る。
日ごろであればそんな空気に誰よりも敏感で、場をとりなすことに秀でた男が今はただただ目に壮絶な怒りの色を滲ませて言葉を続ける。
「以蔵さんは、一生懸命だっただけじゃ!」
「ッ、落ち着き、そがな大声出しな」
周囲から向けられる気遣わしげな視線に、以蔵は折れたように仕方なく龍馬を宥めようと手を伸ばし、ぽんとその肩のあたりに触れるが。
「以蔵さんはなんもわかっちょらん!」
吠えるように怒鳴られ、ぱしりと手を振り払われればカッと怒りが込み上げる。
もともとそう気の長い方でもないのだ。
「わしのことじゃ、わしが一番わかっちゅう!!」
そうだ。
わかっているのだ。
わかっているからこそ、死んで良かったと思ってしまったのだ。
あのまま生き続けていたってつらいだけだ。
何故先生に認めてもらえないのか、何故真の意味では仲間に入れてもらえないのかもわからないまま誰かに認められようと見当違いな努力を続けて空虚に生き長らえるよりも、あそこで止めてもらえた方が良かったのだと思ってしまったのだ。
確かに以蔵の死はろくなものではなかった。
牢で味わった苦痛など、経験せずに済んだならそれが一番だ。
けれども、きっと以蔵は生き続けていたって幸せになどなれなかった。
満たされることなどなかった。
先生から見放されて、途方にくれて、他にどんな生き方ができたというのか。
だから、あそこで死んで良かったのだ。
自分では何がいけなかったのかすらわからずに、ただただ苦しんで自ら幕すら引けずに地べたを這いずり回るような人生を終わらせてもらえて、
「以蔵さんは!」
がしりと龍馬の手が以蔵の胸倉を掴む。
一体どれほどの力で握っているのか。
ぎゅ、と握り固められた男の拳には白く筋すら浮いている。
ぐいと引き寄せられて、そのまま頭から喰われそうな勢いで怒声を浴びせられた。
「確かに、以蔵さんがしたことは褒められたことじゃにゃあかもしれんよ、それでもな、以蔵さんはその時自分に出来ることを一生懸命やっちょったんじゃ!! 例えそれが間違いでも、以蔵さんは一生懸命じゃったんじゃ!!」
勢いに呑まれて、以蔵は泣きそうに顔を歪めて怒鳴る幼馴染を見上げる。
いつもへらへらと人のよさそうな笑みに顔を緩めてばかりいる男が、今は必死に、以蔵に「死んで良かった」なんて言葉を撤回させるために怒鳴り散らしている。
黒の双眸は、今にも泣きそうに潤み、顔は真っ赤だ。
それだけ、怒っている。
龍馬は、以蔵のために怒ってくれている。
「えいか、いくら以蔵さんでも、以蔵さんのことをわやにするようなこと言いゆうのはわしは絶対に許さんきな!」
その勢いに完全に呑まれてしまって、以蔵はこくんと小さく頷いた。
ゆるゆると以蔵の胸倉を掴んでいた龍馬の腕からも力が抜けていく。
獣じみてふーふーと息を吐く龍馬の目には知性の色が戻りつつあり、我に返ってみればなんてことをしたのかと反省するような、以蔵の怒りを買うことを恐れるような色がじわじわと滲み始めている。
上目遣いに以蔵を見て、それでも、龍馬は苦し気に言葉を吐きだした。
「もう、あがなこと言わんで。以蔵さんが、あんな終わりを迎えて良かったなんて」
「……………おん」
怒鳴りつけられて、相手の言い分を呑まされるなんて以蔵らしくはなかった。
いつだって何かを無理強いしようとする相手にはとことん反発するのが以蔵という男のあり方だった。
けれども、今目の前にいる男がらしくもなく怒鳴り散らしたのは以蔵のためなのだ。
客観的に見てしまえば、いくら龍馬が「一生懸命」なんて優しく綺麗に言い換えようとしたって、あの頃の以蔵がどうしようもなく愚かで何も見ようとすらしていなかったことはどうしようもなく事実だ。そんなことはこの賢い男にはとっくにわかっていおるはずなのに、以蔵本人ですら認める当然の末路を、この男だけが頑なに否定する。
あんな最期を迎えるべきではなかったと。
岡田以蔵にはあんな最期は相応しくないのだと。
「…………」
「……あの、その、以蔵、さん?」
好きなだけ怒鳴り散らして、おとなしくなった龍馬が俯き加減にそっと以蔵を呼ぶ。
叱られるのを待つ子どものような面持ちだ。
もしかしたら、殴り返されるのを待っているのかもしれない。
だから、殴る代わりに腕を伸ばして。
以蔵は、岡田以蔵のために怒ってくれた男の肩を抱き寄せて、ぽんぽん、とあやすようにその背を撫でてやった。
「以蔵さん……」
ふにゃりと龍馬の口元から安心したような呼気が漏れるのが聞こえる。
ぐりすりと額を以蔵の肩のあたりに擦りつける甘えた所作に、以蔵は仕方ないと息を吐いた。子どもの癇癪に勝てないように、以蔵はいつだってこの幼馴染に弱い。
「にゃあ、以蔵さん」
「なんじゃ」
「わしの以蔵さん、どうじゃった? 似ちょった?」
「知らん」
甘えて、調子にのって今ならば褒めてくれるのでは? みたいなノリで聞いてきた龍馬に、以蔵はスンとした声音で返す。
肩を抱き寄せてやっていた腕を解き、そっぽを向こうとした肩を今度は龍馬の腕が絡めとってぐいぐいと引き寄せてくる。
「にゃあ、以蔵さんってば」
「しわい、知らんちや」
おんぶお化けのように以蔵の背に張り付き、その肩にぐりすりと額を懐かせて褒め言葉を強請る龍馬を相手に以蔵はツーンと知らんぷりを貫く。
その微笑ましい様子に、周囲のスタッフたちはようやく安堵したように息を吐いた。
「岡田さん、坂本さん、次のシーンいけますか?」
少し離れたところから、声ががかかる。
次のシーンは、このドラマの中でも珍しい以蔵と龍馬の共演シーンだ。
以蔵の首に腕を絡めたまま、龍馬が口元に笑みを浮かべて軽口を叩く。
「いけるがか、以蔵さん」
「誰に聞いちょる」
以蔵もまた、へ、と口元に不敵な笑みを浮かべてそれに応じた。
■ ■
岡田以蔵と、坂本龍馬という役者は不思議だ。
二人ともどこかよく似た、独特の空気を持っている。
存在感があるのだ。
何かよくわからないが、「本物だ」と感じさせるようなオーラがあるとでもいえばいいのだろうか。
その二人は、私生活でも幼馴染だというだけあってとても仲が良い。
仲が良すぎて、どちらかの撮影中にどちらかが顔を出すと、互いに演技の仮面がぽろりと剥げ落ちてNGを連発してしまうなんていうこともザラだ。
それならばいっそ共演NGにするなり、そこまでしなくとも撮影中は必要以上の接触を避けてほしいなどと言い伝えれば良いだけの話でもあるのだが。
そうも言えない理由が現場にはあった。
「以蔵さん!」
「おまんは下がっちょれ、足手まといじゃ!」
朗々と二人の声が響く。
宵闇の落ちた京の街並みを再現したセットにて、『坂本龍馬』と『岡田以蔵』が背中合わせに刀を抜いている。
京を訪れた『坂本龍馬』が朝敵として新選組に襲われるのを、『岡田以蔵』が助けるというシーンだ。
ざっぱざっぱと、人の命をなんとも思わずに斬り捨てる『岡田以蔵』の姿に、『坂本龍馬』はかつての幼馴染こそが京の都を騒がせ、恐れられる人斬りなのだと気づくのだ。
数度の馬鹿らしいNG――それこそ目があっただけで二人でげらげらと笑いだしてしまうようなどうしようもないやつだ――を出した後。
ようやくエンジンが入ったかのように見せられる演技は、それまでの失態を全部チャラにできるほどに見事なものだった。
ばらばらと物陰から現れる浅葱のだんだらに身を包んだ男たち。
すっかり包囲されたというのに、二人の表情に諦めの色はない。
『岡田以蔵』はまるで獲物を前にした獣のように乾いた唇をぺろりと舐め、『坂本龍馬』の双眸にはここで死んでたまるかという強い意思が浮かんでいる。
作りものであることを忘れるような、本気の眼だった。
こんなものを見せられては、この二人の共演をNGにしようだなんてとてもじゃないが言いだせなくなる。
正当防衛だとは言えど人を殺すことに抵抗があるのか防戦に徹し、斬ったとしても峰打ちにするあたりに『坂本龍馬』という男の甘さが浮かび、それに対して愉し気に口角を釣り上げて襲い来る男たちを一刀のもとに斬り捨て血飛沫を浴びる『岡田以蔵』の狂気が対照的に描かる。
かつては幼馴染であった二人が今はもう道を違えてしまっているのだということがその対比によって浮かび上がるシーンだ。
そしてその一方で、かつて共に剣を学んだ二人であるからこそ、互いの手を知り尽くしているからこそ、哀しいほどに息があうのだということを見せつける難しいシーンでもあった。こんなにも互いのことを知り尽くし、こんなにも息を合わせて戦うことができるのに、二人の道は交わらず、二人がもうわかり合うことはないのだという絶望を象徴的に殺陣を通して視聴者にわからせるのだ。
幾度となく動線を交え、互いの位置を入れ替えながら四方八方から切りかかってくる新選組と斬り合う為、純粋に殺陣として見ても難易度は高い。
だがしかし、それをこの二人の役者は易々とこなして見せるのだ。
なんだかその佇まいには歴戦の猛者感が漂う。
まるで、こんな死地には慣れっこで。
今までにも幾度となく共闘で乗り越えてきたかのような。
何度かのリハーサルでも一度の失敗もなく行われてきた殺陣が、スムーズにセットの中で繰り広げられて行き――ハプニングが起きてしまったのはそのまま無事に殺陣が終わるのだと見守るスタッフたちが確信に至ったときだった。
まさしく、油断を突かれたような形だった。
ぶつりと『坂本龍馬』の草履の鼻緒が切れる。
がくん、と『坂本龍馬』の身体が前につんのめる。
本来の殺陣には組み込まれていない動きだ。
厭な緊張がぴりりと周囲に張り詰める。
殺陣というのは絶妙な距離感や繊細なまでに互いのタイミングを合わせることで行われるものだ。ほんの少しの番狂わせでも、それは本当の意味での命取りになる得る。
いくら偽物とはいえど、薄く細い金属で作られた模造刀に薙がれれば本当に斬られたのと同様の大怪我をしたとしてもおかしくないのだ。
「カ、」
監督がカット、と叫びかける。
その演技を仕切り直させるための声を途中で止めたのは一体何だったのだろう。
まだ終わってはいないというように戦意に燃えた『坂本龍馬』の眼光だったのか。
予定にない動きにはッとそちらを見た『岡田以蔵』眼に宿る強い色だったのか。
役者が演技を続けようとしているのなら、監督がそれを止めるわけにはいかない、と思ったのかどうかは定かではない。
その結果もしかしたら酷い惨事がおこるかもしれないということはわかった上で、それでも監督は叫びかけた声を呑んだ。
セットに向かって駆け寄りかけたスタッフたちも動きを止める。
本来ならば、正面から切りかかってくる男の刀を『坂本龍馬』が受け止め、払い、そこにまた横合いから別の男が斬りつけようとするのを割り込むようにして『岡田以蔵』が受けて防ぎ、そのまま刺突で殺す、というのがそこで行われる殺陣の構成だった。
けれど、『坂本龍馬』は間に合わない。
正面から斬りこんでくる男の刀を受け止めるまでには態勢が整わない。
ひ、と小さな悲鳴がスタジオのどこかから響く。
それを打ち消すように「龍馬ァ!」と吠える声が響いた。
腹の底までびりびりと響くような声音だ。
吠えながら、『岡田以蔵』は体勢を低くしたまま鋭く踏み込み、態勢を立て直せずにいる『坂本龍馬』の襟首を乱暴に鷲掴んでぐいと背後へと引き寄せ、それと同時に下から掬いあげるようにして上段から斬りかかってくる男の刀を受けた。
否、受けるだけでは終わらなかった。
それはいかほどの力を込めたものだったのか、がきいん、と甲高い金属音が鳴り響くと同時に、下から薙ぎ払われた男の手から弾かれた刀が吹っ飛んでがしゃんと壁に当たって耳障りな音を立てる。
『坂本龍馬』もまた守られるだけでは終わらなかった。
ちィ、と舌打ちを一つして、位置を入れ替えた『岡田以蔵』に向かって横合いから切りかかろうとした男の一撃を自らの刀で受け――そのままひゅ、と息を吐くと同時に踏み込んで本来なら『岡田以蔵』がやるはずだった刺突でもってその男を仕留めた。
二人が位置を入れ替えたというアドリブ以外は大筋には何も変化はなかった。
『坂本龍馬』は鼻緒の切れた草履を蹴り捨てて、再び本来の配置に戻り、『岡田以蔵』もまた当たり前のように元の位置へと戻る。
まさに阿吽の呼吸だった。
そうして何事もなかったかのように殺陣は本来の構成へと戻り、撮影は無事に終わったのだった。
■ ■
少し離れたところで、坂本龍馬と岡田以蔵が叱られる声が響いている。
斬られ役を務めた殺陣役者の先輩たちに懇々と無茶をするなとお小言を食らっているのである。
二人してでかい図体を丸め、おとなしくスタジオの片隅で正座させられている姿はちょっとばかり微笑ましい。
「でも、先輩たちなら合わせられると思ったんですよ」
「そんな言葉で騙されると思うなよ!?」
「でも実際合わせてくれたじゃないですか」
「結果よければすべてよしってわけじゃねえからな!」
ごにょごにょと言い訳する二人に呆れたように先輩役者が息を吐く。
とっくに先輩役者よりも名前を売り、実績も積んだ売れっ子俳優となった今でもこうして先輩を立てて大人しく叱られる辺りは可愛いと思わなくもないが、それはそれ、これはこれである。
いくら二人が息を合わせてアドリブで乗り切ろうとしたとしても、それで動揺した斬られ役が少しでもタイミングを外せばやはり危なかったのだ
そんな先輩役者は、本来『坂本龍馬』に向かって正面から斬りかかる予定だった新選組を演じていた男だ。監督からカットの声が入らなかったのと、即座にフォローに入った『岡田以蔵』の眼に浮かぶ強い色に呑まれたように予定通りのタイミングで予定通りに刀を振るったわけだったのだが。
例え監督からカットの声が入らずとも、NGを出してしまってでも、本来なら止めなければいけないはずのシーンだった。
ちょっとした油断や驕りが命取りになる仕事なのだ。
例え偽物であっても、凶器となりうる得物を振り回して殺し合いを演じる以上慎重すぎるに越したことはない。
だというのに、あの瞬間においては彼自身も自分で自分を止められなかった。
まるで本物の斬り合いじみた高揚感に突き動かされるままに刀を振るい、殺陣を終えていた。
今思えば、本当に怪我人が出てもおかしくない事態だったのだ。
「おおい、これ見てくれよ」
少し離れたところで監督が呑気な声を上げる。
そういえば、あそこでカットの声をあげなかった監督に対しても文句を言わねばならないのだった、ということを思い出して、先輩役者は口をへの字にしたまま呼ばれた先へと足を運ぶ。
その背後で、お説教されていた二人がようやく解放されたと言わんばかりに息を吐きながら正座していた足を崩したりなどしている。
「監督、監督もですよ。あんな危ないの、どうして止めなかったんですか」
「でもさ、ちょっとこれ見てよ。すごいから」
先輩役者の文句を右から左に聞き流しながら、監督はたった今撮ったばかりの映像を画面に映してずいと差し出してくる。
まったく、とぼやきながらも視線を落として。
「――……」
嗚呼、と思わず息を呑んでしまった。
画面の中では、先ほどのアドリブシーンが撮られたままの生々しさで再現されている。
ぶつりと草履の鼻緒が切れて『坂本龍馬』の身体が不安定につんのめる。
それを視線の端に捉えた瞬間、『岡田以蔵』の眼に浮かんだのはなんとしてでも幼馴染を助けなければならないという強い決意の色だった。
人を斬り殺すことを愉しみ、嗤っていた狂犬じみた男の双眸に理性と情の色が宿り、すぐさまに『坂本龍馬』を助けるために動きだす。
まさにそれとは対照的に、庇われた先で横合いから斬りかかる男に向ける『坂本龍馬』の眼に宿る壮絶な殺気ときたら!
快活に笑い、誰も傷つけたくはないと口にし、殺し合いの場においてもなるべく峰打ちで済ませようとしていた男が、自らの命が危険に晒されたギリギリのところで見せた敵意と殺意の色合いは目を惹きつけられてやまないほどに鮮やかだった。
生きたいと、ここで終わるわけにはいかないという強い希望は、一度他者に向ける殺意として反転したならばこうまでもおぞましい色になるものなのか。
それは凄まじいほどの対比だった。
咄嗟の瞬間に幼馴染への情を得た『岡田以蔵』と、敵への殺意をその双眸に燃やした『坂本龍馬』。
振り返る。
先輩役者の視線に、ぴゃっ、と足を崩していた二人が慌てて正座をし直すわけだが。
どうにも、これ以上の小言は出てきそうになかった。
