ドラマの撮影は進んでいく。
土佐を飛び出した『坂本龍馬』は様々な困難にぶつかりながらも、多くの人に出会い、学び、歴史を動かし、その物語を華やかに盛り上げていく。
それに反比例するかのように『岡田以蔵』の物語は暗く澱み、転がり落ちていく。
まずは師と慕う武市と連絡が取れなくなった。
反尊皇攘夷派の土佐藩元藩主の謹慎が解けたのを切っ掛けに、土佐では尊皇攘夷派の活動がじわじわと弾圧され始めていたのだ。
武市は活動を縮小し、窮地をやり過ごそうとした。
当然天誅どころでもなくなる。
その結果、活動を制限された『岡田以蔵』は時間を持て余し―――…酒や賭け事に溺れるようになった。
もとより以蔵は、決して薄情な男ではない。
情に細やかで、繊細なところのある男だ。
何もせずにただ待つことしかできない空白の時間は、以蔵に己の所業を考えさせるのには十分すぎるほどに静かだった。
きっと、その静寂に耐えられなかったのだろう。
人を斬ることで得る興奮の代わりに享楽に溺れて、以蔵は考えることをやめようとしたのだ。きっと。
手持ちの金はすぐになくなった。
元々決して羽振りが良かったわけでもないのだ。
無心して回っている内に、仲間たちからも距離を置かれるようになった。
気づいた時には周囲には誰もいなかった。
『岡田以蔵』は、ひとりだった。
身を持ち崩したから周囲に誰もいなくなったのか。
周りに親身になってくれるような人がいなかったからこそ、身を持ち崩したのか。
それこそ卵が先かニワトリが先かの命題だ。
いくら考えたところで、答えは出ない。
きっと、以蔵本人にだってわからないだろう。
そうしてひとりになって、『岡田以蔵』は自棄になったように強盗を繰り返し、最後には無宿人として捕らえられ、その癖身柄は土佐へと送られた。
その頃もう、『岡田以蔵』の名前は土佐の勤王党の中にはなかった。
ずっと薄々察していた通りお前なんか仲間ではなかったのだぞ、と突きつけられた形だ。それなのに、『岡田以蔵』は天誅の実行犯として手酷く拷問を受けた。
仲間などではないと突き放すのなら、いっそ本当に無関係なものとして扱ってくれたら良かったのに。仲間ではないと言いながらもそのしがらみが以蔵の足を捕らえ、ずぶずぶと地獄の底へと引きずりこんだのだ。
龍馬は、それを知識として知っていた。
かつて、人づてに聞いた。
そして英霊になったあと、聖杯から授けられた知識でもって知った。
後世に語り継がれた史書の形で、あるいは物語の形で、知った。
知っていたはずなのに、こうしてその物語を改めて演じてみるとどうしようもなくやりきれなくて辛くて仕方が無かった。
以蔵には、信念なんてなかった。
以蔵はただ好きなひとを、自分の信じたい人を、その人が信じたことを信じただけだった。だから、その手綱を失ってしまえばどうしていいのかわからなくなってしまって、途方にくれてしまうのは当然のことだ。
どうして、と恨めしく思う。
どうして武市は、ちゃんと以蔵の面倒を見てくれなかったのか。
龍馬は、土佐を出るときにちゃんと言ったのだ。
以蔵さんをよろしく頼むよ、と。
以蔵さんをお願いね、と。
ちゃんと、言ったのだ。
それなのに、以蔵はこんな結末を迎えてしまった。
「坂本さん、次のシーン入ります!」
「――――、」
「坂本さん?」
「……、ああ、うん。ごめんね、すぐに行くよ」
ぼんやりと台本を眺めていた龍馬は、スタッフの声にゆらりと顔を上げる。
その様は、特殊メイクや衣装も相まって幽鬼のようだ。
声をかけたスタッフが小さく息を呑んだのは、龍馬の双眸に宿る倦んだどろりとした昏い色合いが決して作りものではないということはわかったからだろう。
どことなく怯えを含んだ視線を向けられるのに、申し訳ないな、と思いながらも今の龍馬には外面を取り繕うだけの気力も、余裕もなかった。
龍馬の演じる『岡田以蔵』の物語は、佳境にさしかかっていた。
今や『岡田以蔵』は獄に繋がれ、日々拷問を受けている。
おどろおどろしく組み上げられた地下牢のセットは、本物と遜色ないほどにリアルだ。
ボロボロに汚れた薄い単衣に身を包み、龍馬はそのセットの中へと足を踏み入れる。
暗く、狭く、薄汚い牢獄だ。
龍馬の後を負うように、小道具を担当するスタッフが入ってくる。
龍馬を罪人のように縛り上げるためだ。
「坂本さん、痛かったら言ってくださいね」
「……うん」
床に座した状態で、龍馬は腕を背後に回す。
スタッフがその腕をとり、するすると丁寧に縄をかけていく。
見た目は荒縄のようでもあるが、触れてみると存外に柔らかい。
あくまでそれは小道具であり、演じる役者に怪我などさせぬように十分な注意が払われているのだ。龍馬の肌に触れる範囲の縄の表面にはたっぷりの油が吸わされており、肌の上を柔らかな縄が擽るように滑る様などはいっそ気持ち良いといっても良いほどだ。
ぐ、と少しだけ圧がかかる。
肩が少しだけ、引き攣れたように痛んだ。
「大丈夫ですか?」
「大丈夫だよ、ありがとう」
「身体、ゆっくり倒しますね」
「うん」
龍馬が身体を床に打ち付けたりしないように、ゆっくりと身体を倒される。
きっと、以蔵はこんな風に優しくされたりはしなかっただろう。
ちくちくと毛羽立ち、肌を擦り切れさせる荒縄で容赦なく縛られ、冷たい石床の上に乱暴に転がされたはずだ。
そう思うと『岡田以蔵』であるはずなのに、こんなにも柔らかな対応を受けていて良いのかという気持ちになって溜まらなくなる。
カメラを通してしまえば、ここは酷い地獄のように見えるだろう。
けれど、それはすべて偽物だ。
肉が裂け、血を流しているように見える龍馬の脚だって実際にはかすり傷一つ負ってはいないし、暗くじめじめと湿り、糞尿や腐臭が立ちこめているかのように見える薄暗い地下牢だって実際には酷く清潔なものだ。
ここにあるのはすべてが偽物だ。
けれど、それはいつかの昔には確かに本物だったのだ。
本物の地獄で、龍馬の幼馴染みは本物の苦痛に苛まれ、逝ったのだ。
「――――」
いぞうさん、と呼ぶ声は喉につかえて音にはならなかった。
冷たい床に、額を押しつける。
以蔵は、シーンが獄中に移ってからは見学に来なくなった。
龍馬も、以蔵の撮影を見に行けなくなった。
どんな顔をして、以蔵の演じる『坂本龍馬』が明るい空の下楽しそうに伸びやかに笑い、生き生きと人々と言葉を交わす様を見ろというのか。
龍馬は、否、『岡田以蔵』は暗い地下に捕らわれて拷問に苛まれているというのに。
例え以蔵が演じているのだとしても、快活な笑みを浮かべて夢に向かって邁進する『坂本龍馬』を今はどうしても見たくなかった。
それすらもが、勝手な感傷だ。
かつての何も知らずにいた自分を、思い出したくないのだ。
百年以上過ぎて、二度のやり直しを経てもなお、自己嫌悪に死にたくなる。
……死なないけれども。
むしろ死ねないからこそ、龍馬は苦しんだし、今も苦しいのだ。
以蔵のために何もしてやれなかった自分を責めて、死んでしまいたくなるような自己嫌悪に胸を塗りつぶされてもなお、坂本龍馬という男にはそれを抱えて前に進むだけの強さが備わっている。備わってしまっている。
だから今も自らにとっての鬼門めいた『拷問される岡田以蔵』なんていうのを演じてしまえるのだ。
もう少し弱い人間であったのなら、この役は自分には無理だと言って降りることだって出来ただろうに。
「本番始まりまーす!」
外から、スタッフのシーン開始を告げる声が響く。
煌々とスタジオ内を照らしていたライトがぱつんぱつんと消えていき、暗がりが落ちていく。
これより始まるのは、獄中にて『岡田以蔵』の心が折れる、龍馬にとっては一番辛いシーンだ。
しんしんと静まりかえって暗くなったセットの中に、ざり、と床を踏む足音が響く。
牢番たちの足音だ。
『岡田以蔵』はその足音から逃れるように狭い牢の中で身体を丸め、少しでも牢の入り口から身体を遠ざけようとする。
何度も搾木にかけられ、骨の砕けた脚をずるずると引きずるようにして上半身だけで逃げようとあがく『岡田以蔵』の足首を、無造作に檻の隙間から腕を突き出した牢番がぐいと掴む。ずるずると強く引き戻されて、『岡田以蔵』は苦痛にぐうぐうと呻いた。
「なあおい、以蔵よ。今日はおんしにえいもんを持ってきてやったぞ。ほら、受け取れ」
ひゅ、と何かが空をきる音がする。
べしゃりと音がして、床を這う龍馬の眼前に落ちたのは、床に落ちた衝撃で不格好にへしゃげた握り飯だった。
信じられない面持ちで、『岡田以蔵』は牢番を視線だけで見る。
こうして檻に捕らわれて以来、真っ当な食事を与えられた試しはない。
どれだけここにいるのか、日にちの感覚すら狂うほど気まぐれに、飢えて死なない程度に残飯のような食事を与えられる程度だ。
もう握り飯なんて、何年も見ていないような心地がした。
鼻先を、米の甘い香りが掠めていく。
『岡田以蔵』は、震える指先でぼろぼろと崩れる握り飯を拾う。
麦がいくらか混ぜこまれているようだったが、正真正銘の大部分は米だ。
『岡田以蔵』は、がつがつとむさぼるように口の中に握り飯を突っ込む。
ぼやぼやしていれば牢番に取られるかもしれないし、もっと酷いことをされるかもしれない。いつか助けが来るのだと信じ、そのときまで生き抜くためにも食べる必要があった。時々噎せ、咳き込みながらも口いっぱいに握り飯を頬張る。梅でも入っているかと思ったが、握り飯の中に入っていたのは甘辛く煮込まれた野菜だった。高菜か何かだろうか。独特の風味が鼻から抜ける。
「美味いか、以蔵」
うるさい、邪魔をするなと『岡田以蔵』は握り飯をがつがつと貪りながら牢番を睨みあげる。
そこで、ふひ、と牢番はなんとも厭らしい、悪意に充ちた笑みをその口元に浮かべて見せた。
「なあ、以蔵よ。おんし、知っちょったか。武市の弟がな、死んだらしいぞ」
びくり、と『岡田以蔵』は小さく肩を揺らした。
武市の弟ならば何度か見かけたこともあるし、簡単な言葉の一つや二つなどもかわしたことがあったかもしれない。
そして何より、『岡田以蔵』が苦痛に負けて牢番に売った名前の一つでもあった。
「…………おんしらが、殺したんやろう」
ガサガサに掠れた声で、『岡田以蔵』が言う。
その言葉がまるで面白い冗談ででもあったかのように、牢番はけらけらと笑って見せた。わざとらしく目元に浮いた涙を指先で拭って、告げる。
「阿呆。殺したんはわしらじゃあない。おんしの仲間じゃ」
「……わしの、仲間じゃと?」
「これ以上喋られたら困るちゆうてな。毒を喰わせて殺したち話じゃ」
「――――」
すう、と。
『岡田以蔵』の顔から色が失せる。
ぽろりと手にしていた握り飯が零れ落ちる。
「以蔵よ、おんしは仲間によっぽど慕われちょったんじゃのう。ほうれ、見てみい。おんしに握り飯を差し入れるだけで、こがあな金をよこしよった。美味いか? その握り飯は特別製やき、絶対に喰うてくれるなよなんち言いよったが。なあ。以蔵よ。美味いか。美味いよなあ?」
牢番の男が、牢番には似つかわしくない上等な布袋を手の中で上下して見せる。
ちゃりりちゃりり、と金の擦れる音が響く。
牢番の言葉とその音の意味を理解するより先に、かッと胃の腑が熱くなった。
こぷりと胃液が逆流する。
けぽ、と水気を帯びた空咳のような音と同時に、『岡田以蔵』はびしゃりと口から胃液混じりの握り飯の残骸が零れ落ちる。
喉が、ヒリヒリと痛む。
ぎゅるぎゅると蠕動する胃が激痛を訴える。
「あ、……、あ、あ……」
げぽり、がぽりと腹の中にあるものを吐き出しながら、『岡田以蔵』の目元からはぼろぼろと涙が零れた。
嗚咽とともに、びしゃびしゃと吐き出した胃液がぐっしょりと床を濡らす。
その握り飯に本当に毒が入っていたのかどうかはわからない。
あくまで、牢番の嘘だったのかもしれない。
それでもその牢番の言葉は『岡田以蔵』の心を折った。
なけなしの体力を使い果たしたように『岡田以蔵』はぐったりと冷たい石床に身体を横たえ、なおも込み上げる吐き気を殺すことが出来ずにひぐひぐと喉を鳴らして背を震わせる。そんな無様な様を見下ろして、牢番はにたにたと意地悪く笑っているようだった。
「なあ以蔵よ、全部話して楽になったらどうだ。おんし一人がこらえたってなんの意味もないことはもうよおくわかったろう」
そんな声音がどこか遠くで響く。
『岡田以蔵』はこんな苦境であっても、まだいつか誰かが助けにきてくれるのではないかと思っていた。
先生が。
仲間たちが。
『岡田以蔵』を助けにきてくれるのではないかと。
あの牢の戸の向こうに、『岡田以蔵』を助けにきた誰かの影がさすのではないかと。
ずっと、そんな夢想を捨てられずにいた。
けれど、もう駄目だ。
腹を内側から食い破られるような痛みが。
喉を焼くひりつく熱感が。
『岡田以蔵』に絶望を叩き付ける。
誰も、助けになどこないのだ。
誰も、『岡田以蔵』を迎えには来てくれないのだ。
「……、りょぉまあ」
小さく、その名を呼ぶ。
「どいて、来てくれんがじゃ、龍馬、龍馬、どいてわしを助けてくれんがじゃ、龍馬、龍馬、どいてわしを置いていった……!!」
血を吐くような声音が、獣のような慟哭が牢に響く。
師と仰いだひとも、仲間だったはずのものも、全部全部失って、最後の最後に『岡田以蔵』の胸に浮かんだのはその名前だった。
かつてはずっと一緒だった幼馴染み。
いつの間にか、『岡田以蔵』をおいていなくなってしまった男。
ああそうだ。
全部、あいつが悪い。
あいつがいなくなってから、すべておかしくなった。
だから、全部、坂本龍馬がわるい。
「恨むがぞ、龍馬……ッ、龍馬、殺しちゃる……っ、おまんなんぞ、わしが殺してやるきの……、龍馬、龍馬、龍馬ァ……!!!」
狂乱の態で怒鳴り散らす。
ついに気が狂ったのかと、気圧された牢番がフンと鼻を一つ鳴らしてその場を去る。
遠くなる足音を聞きながら、ひとり「岡田以蔵」は殺してやると毒づき、その口で助けとおせりょうま、とおんおんと泣き噎んだ。
「どいて、どいて」
ぐすぐすと啜り泣く。
ひくひくと喉を震わせ、子どものように泣きじゃくる。
小さく視線を持ち上げ、まるでそこに、うっすらと明かり取りから光りが差し込む牢の外にその人がいるかのように、掠れた声がか細く問いかけた。
「どいて、きてくれん…………」
りょうまあ、と縋るような声音が小さく、牢に響いた。
■ ■
泣きすぎて、瞼が熱い。
まだ、頭がぼんやりとする。
龍馬は楽屋で一人、四肢を投げ出すようにして座り込んでいた。
椅子ではなく、一段高く用意された畳間にて、背中を壁に預けて座りこんでいる。
未だ、『岡田以蔵』としての気持ちが抜けきらなくて、半ば茫然自失といった態だ。
撮影が終わった後、すぐさま駆けつけたスタッフたちに腕の縄を解かれ、口元の汚れを拭ってもらい、口を濯ぐための水を差し出された。
ありがとう、と返して口を濯ぎ終えた頃には乾いた柔らかなタオルが用意されていたし、酷使した喉を癒やすためにはハチミツをいれた甘酸っぱい暖かなレモネードを差し出されもした。襤褸を纏う肩には柔らかなタオルケットをかけられ、監督や脚本家には名演だと褒めそやされた。
牢番役の役者とも、何か挨拶を交わしたような気がする。
それなのに楽屋に戻ってきて、一人になったとたん急に気力が萎えてしまった。
なんだかすっかり疲れてしまって、何も考えられなくなってしまって、それでもなんとかメイクを落とし、着替えを済ませるところまでは頑張って、そこですっかり龍馬は力尽きてしまったのだ。
「あー……」
掠れた声で呻いて、ごちんと後頭部を壁にぶつける。
「どいて、きてくれん」
ぽつりと呟く。
それは、スタジオに見に来てくれなくなった以蔵に向けての言葉であったようにも響いたし、かつての何も知らずにのうのうと陽の下で笑っていた龍馬自身に向けた言葉でもあるようだった。
どいて、きてくれん。
どいて、行けんかった。
もし、知っていたらどうだろう。
あの時、以蔵が囚われていると知ったのならば。
拷問の責め苦を味わい、やがて刑に処されることになると聞かされていたならば、龍馬は何か行動に移すことができただろうか。
それともやはり自分にはどうにもできぬことだと諦め、以蔵の死を受け入れ、その死を悼み泣きこそすれど、その死を覆すだけの行動には出られぬままに終わったのだろうか。
それは、考えたってどうしようもないことだ。
すべてはもう終わったことだ。
百年以上前にすべては終わり、その本来ならばありえないはずの続きの上に今龍馬は立っている。
がちゃり、とドアが鳴る音がした。
ああ、ちゃんと顔を作らなければと思う。
俳優坂本龍馬としての顔をしなければと思う。
下手に心配をかけてしまう前に、大丈夫なように振る舞わなければと思うのに四肢はまるで自分のものではなくなってしまったかのように重かった。
だから結局龍馬はぼんやりと四肢を投げ出したままドアから顔を出した人物を見やって――…それが誰だかわかったとたん、これまでの気怠さが嘘のように口元に笑みを浮かべ、その人物を部屋に招くべく腰を浮かした。
「どうしたの、以蔵さん」
そう。
ひょこりと扉の隙間から顔を出したのは以蔵だった。
スタジオで撮影があるとは聞いていなかったので、何かのついでに寄ったのだろう。
龍馬はいつも通りの笑みを口元に浮かべて、以蔵の元へと歩み寄る。
「今日撮影なかったんじゃ」
ないの、と続けるより先に以蔵の手が龍馬の頬に触れた。
すり、と優しく撫でるように頬を掠めた指先がついと持ち上がって、未だ赤く腫れぼったい龍馬の瞼に柔く触れる。その優しい所作の齎すくすぐったさに龍馬が思わず目を閉じたところで、するりと頬に戻った指先に万力のような強さで頬を抓られた。
みちっと肉が鳴る音すら聞こえたような気がした。
「いたい!!! 以蔵さん痛い痛い痛い痛い痛い!」
思わず悲鳴を上げる。
それでもなおも以蔵は遠慮なしに龍馬の頬を抓りあげ、結局それは龍馬が涙目になるまで続けられた。
ようやく解放されて、龍馬はすんすんと哀れっぽく鼻を鳴らす。
「酷いよ以蔵さん……いきなりなんなの」
「フン」
真っ赤になった頬をさすさすとさする龍馬を睥睨して、以蔵は鼻を鳴らした。
「少しはマシな面になったの」
「…………」
ぐ、と龍馬は言葉に詰まる。
酷い顔をしている自覚はあった。
けれど、でもそんな顔を以蔵にだけは見せるわけにはいかなかった。
だって、それはあんまりにも勝手ではないか。
以蔵の過去を追体験して、それが辛くてこんなザマを晒しているなどと。
何も知らずに見殺しにしてしまった龍馬だって、以蔵の経験した地獄を形成した要因の一つであることに違いはないはずなのに。
その龍馬が、以蔵の過去の苦しみを思ってこうしてへこたれているなんていうのは、あんまりにも以蔵に悪いと思ったのだ。
だから、以蔵にだけは弱っているところを見せたくなかった。
己の身勝手さを、見られたくはなかった。
「わしはな、龍馬」
以蔵が一歩、前に出る。
押されるように龍馬は一歩後ろに下がり、以蔵の背後でばたりとドアが閉まった。
「おまんのその顔が一等嫌いじゃ」
「えええ……一応顔が良いことで売ってるのに」
「誤魔化しなや」
むぎゅ、と足を踏まれた。
これ以上は後ろに下がれない。
たったの一踏みで身体を縫い留められて、身をよじってさりげなく顔を逸らすことすらできなくなった。
だから龍馬は、叱られる子どものように目を伏せることしかできなくなってしまう。
「泣きみその癖に、変な芸を覚えよって」
「芸」
あまりの言われように復唱する。
「おまん、一度自分のツラ鏡で見てみい。酷いもんじゃ。死んだ魚の方がまだ見れたツラをしちゅうぞ」
「ひどい」
死んだ魚より酷いとの評価に、へにゃりと龍馬は眉尻を下げた。
泣くのを堪えるのも、自分の気持ちに蓋をして平常を装うのも、いつしか龍馬が覚えた処世術の一つだ。
抑止の英霊として過ごす中では、辛い決断を下すことも多かった。
百を救うために一を犠牲にすることを良しとしなければならないこともあった。
一の犠牲がいくら辛く、悲しいことだとしても、龍馬はその想いをやはり素直に受け止めることはできなかった。
一を犠牲にすることを決めたのは龍馬なのだ。
百を救うと決めたのも龍馬だ。
だから一を斬り捨てた龍馬には、一のために泣くことなど許されないと思ったのだ。
だから、悲しくても泣くことやめた。
それが、龍馬にできる亡くしたものを悼む術の一つでもあった。
それを、以蔵は好かんと斬り捨てる。
犠牲にされた一のひとりでもある以蔵が、誰でもない以蔵がそれを気に入らないと言う。
参ったなあ、とぼやく声が微かに震えた。
「あのね、以蔵さん」
「おん」
「ぼくね」
「おん」
「…………」
言いたいことはたくさんあった。
龍馬は、生前に為したことに後悔はない。
自分がしたことを悔やんではいない。
それは龍馬が為したことの先に今があるのだと思えばこそだ。
けれどそれでも、以蔵には死んでほしくなどなかったし、助けられるものなら助けたかったし、あんな酷い目になどあってはほしくなかったのだ。
ひく、と喉が震える。
ぎゅうと拳を強く握り固めて、
「……ごめんねえ、以蔵さん」
ぼろぼろと泣きながら、しゃくりあげながらどうにか言えたのはそんな短い言葉だけだった。みっともない泣き顔を晒しながら、言う。
自分の生きた道に未練はあれど、後悔はしていない龍馬に言える唯一の言葉だった。
一方の以蔵は、その、いつかの子ども時代によく見ていたのと変わらない泣き顔に、はー、と呆れたように深々と息を吐く。
全くこの坂本龍馬という男は、変なところで不器用極まりないのだ。
泣きたいなら泣けば良いし、以蔵がそれに腹を立てたのならば以蔵は以蔵で龍馬を殴るなり蹴るなりどつくなりする。
以蔵にはそれで十分だ。
泣く資格だとか、そんな難しいことは以蔵にはよくわからない。
ただ以蔵は、黒の双眸をどろりと濁らせ、感情が死にきったような顔で口元だけ笑って見せる幼馴染の顔が一等嫌いなのだ。
それならば素直に泣かれた方がまだマシだ。
ひょいと龍馬の足を踏んでいた足を退けて、以蔵はべそをかきながら立ち尽くす龍馬の脇をすり抜ける。
「…………」
その瞬間、置いていかれる子どものように龍馬が悲壮な顔をしたりなどしたものだから、つい笑ってしまいそうになった。
置いていったのはおまんの方じゃろう、なんて喉元まで込み上げた意地の悪い言葉を呑み込んで、以蔵はてきぱきとその場にあったタオルを濡らしてレンジに放り込み、蒸しタオルを作ってやる。
そして、ほかほかと湯気をたてるそれをべちりと龍馬の顔面にぶつけた。
「あつっ」
「いつまでべそかいてるつもりじゃ、ばあたれ」
ぽろりと落ちたタオルを手のひらで受け止めて、蒸しタオルと、以蔵との間で視線をうろうろと揺らした龍馬が、眉尻を情けなくへにゃりと下げる。
「……ありがとうね、以蔵さん」
「なんちゃあない」
「なんちゃあるよ」
あるのだ。
すごく、ある。
ぎゅ、と龍馬は手の中にある暖かな蒸しタオルを握る。
龍馬は、以蔵の過去を演じた。
『岡田以蔵』の苦しみや、辛さ、そして怨みを追体験した。
だからこそ、今目の前にいる以蔵が、龍馬に優しくしてくれるということがどれだけ凄いことなのかがわかるのだ。
以蔵が龍馬を赦したということが。
隣に立つことを、ともに笑い合うことを赦してくれたということがどれほど尊いことなのかが今の龍馬にはとてもよくわかるのだ。
だから、龍馬は一歩、前に出る。
強く握り固めていた拳を解いて、以蔵へと手を伸ばす。
ゆっくりと、以蔵に回避するだけの時間を与えて、それでも以蔵が避けなかったのでその肩に腕を回して、ゆっくりと抱き寄せる。
ぎゅう、と抱きしめた以蔵の身体からは生きた人間の熱と、鼓動が響いた。
「以蔵さん」
「なんじゃ」
「あのね」
「おん」
「好いちゅうよ」
「はあ???」
たとえ過去に救えなかったとしても。
助けられなかったけれど、それでも龍馬は以蔵が好きだった。
大事に思っていたのだ。
もしも以蔵が、龍馬にとってなんでもない存在だからこそ救われなかったのだと思っていたのだとしたら、それはちょっと辛い。
だから、言いたかった。
伝えたかった。
龍馬が『岡田以蔵』として感じた心細さや寂しさを、それがかつて以蔵が実際に体験したものであるのならそれを少しでも拭ってやりたいとも思ったのだ。
「…………」
以蔵は、なんでこのタイミングで龍馬がそんなことを言いだしたのかよくわからないという顔をしていたものの、それでもあやすように龍馬の背中をとんとんぽんぽんと撫でてくれた。
それだけでゆるゆると龍馬の口元は笑みの形に緩んでしまう。
好きな人に優しくしてもらえるというのは、なんとも良いものだ。
ついでにぐりすりと以蔵の肩に甘えるように額を懐かせていたら、ふと何かに気づいたように以蔵が口を開いた。
「おまん」
「ぅん?」
「ちっくと痩せたか」
「ああ、ちょっとね」
『岡田以蔵』を演じるのは龍馬が覚悟していたよりもしんどくて、特に『岡田以蔵』が身を持ち崩してからというものは食事も喉が通らないことが多かった。
少しばかり体重が落ちた自覚はあった。
まあ、獄中の『岡田以蔵』がもちもちつやつやしているよりは良いだろうとあまり気にしてはいなかったのだが。
「そういうところやぞ」
「え、何が」
「おまんは何かに夢中になるとぎっちり食べるのも寝るのも忘れゆう」
「いや今回のはそういうわけじゃ、」
「えいえい、飯行くがぞ」
ほら離せと背をぽんと叩いて促される。
以蔵の肩に回していた腕を解けば、龍馬が手にしたままだった蒸しタオルを奪われ、ぐいぐいと乱暴に顔を拭われた。少しばかり冷めた蒸しタオルの表面がぐしぐしと乱暴に龍馬の顔を擦っていく。
風呂にいれた後の犬猫でも拭うような所作だ。
「わぷ、」
「くひひ」
間の抜けた龍馬の悲鳴に、以蔵が笑う。
「ほれ、しゃんしゃん支度せえ」
「うん、ちょっと待ってて」
ばたばたと慌ただしく龍馬は帰る支度を整える。
私物を手持ちのカバンに突っ込み、軽く控室を片づけてから以蔵の隣に並ぶ。
以蔵は手ぶらだ。
おそらくスマホと財布ぐらいしか持っていないのではないだろうか。
仕事で来たとは思えない以蔵の身軽さに、龍馬は小首を傾げた。
「そういえば」
「なんじゃ」
「以蔵さん、なんでこっちに来てたの? 何か用があるんじゃ?」
「…………」
むぐりと以蔵が言葉に詰まったように黙り込んだ。
その沈黙が答えじみていた。
そうか。
以蔵は、龍馬のために来てくれたのか。
とはいえ、以蔵の独断だとは思えなかった。
以蔵はそこまで優しくはない。
いや、優しい男ではあるのだが、助けを求められるまでは様子を見ておこうという長男気質も持ち合わせている。
転んで泣いている子ども抱き起してやることだけが優しさではないことを知っているというかなんというか。
なので今回だって、きっと以蔵だけなら龍馬がいよいよまずいことになるか、助けを求めるかまでは放っておくつもりだったに違いない。
それならば。
「……監督?」
「……おん」
ふいと視線をそらしつつ以蔵が頷く。
参ったなあ、と小さく呟きながらも龍馬の口元はふにゃふにゃと緩んでしまった。
龍馬の様子がおかしいことは、すっかりバレバレだったらしい。
まあ、気づかれてはいるだろうな、とは思っていた。
けれど、龍馬が役者として問題なく演じていられている間はそこまで干渉をしてくることはないだろうと思っていたのだ。
以蔵と龍馬の間にある問題は、とても繊細で、とても捻くれている。
何せ、100年ものの愛憎だ。
だからきっと気にかけてはくれても口を挟むことはないだろうと思っていた。
目をかけてくれてはいるが、それはもっとビジネスライクな関係なのだと。
けれど、監督は龍馬を気にかけ、以蔵に働きかけてくれた。
「なんか、くすぐったいね」
「おん……」
二人で首を竦める。
少しだけ、カルデアでの日々を思い出した。
きっと、以蔵もそうなのではないだろうか。
謝っても許されないだけのことをしたのだからとただただ以蔵の怒りを受け入れるばかりだった龍馬と、そんな龍馬に苛立ちを募らせていた以蔵の間を取り持とうとしてくれた青年のことを思い出す。
「ふふふ」
「ふへへ」
二人して緩く照れた笑いを交わし合って。
それから。
きゅう、と思い出したように空腹を訴えて鳴いた腹を軽くさすって、龍馬は口を開いた。
「なんかおなかすいてきちゃった。以蔵さん、焼肉いかない?」
「えいぞ、食べ放題がえい」
「いいね、呑み放題もつけよう」
「えいな」
肩を並べて、焼肉食べ放題に向けて歩き始めたのだった。
■ ■
それはとても気持ちよく晴れた日のことだった。
真っ青な青空を見上げて、龍馬は双眸を細めた。
今日で、『岡田以蔵』は終わりを迎える。
龍馬にとっても、これが『岡田以蔵』を演る最後だ。
このシーンをもってして、龍馬はこのドラマにおけるクランクアップを迎える。
早朝のまだ人の少ない時間を選んだものの、ドラマの撮影があるという話は抜けてしまったのか周囲には疎らに野次馬の影がある。
そんな中に以蔵の姿を探してしまって、龍馬は小さく息を吐いた。
昨夜のことだ。
勇気を出して、龍馬は以蔵に言ったのだ。
『あの、以蔵さん』
『何じゃ、どいた』
『その……明日、で。ぼく、クランクアップするわけなんだけども』
『おん。知っちゅう』
『……ええと、その。見に来て、ほしいな、とか。その。……駄目かな』
『…………考えちょいたる』
以蔵は、駄目とは言わなかった。
厭だとは言わなかった。
だから少しだけ期待してしまった。
龍馬の演る『岡田以蔵』の最期を、以蔵が見届けてくれるんじゃないか、などと。
酷いことを言った自覚はある。
自分の死の再演を見てほしい、などと言われて気持ちの良い思いをするわけがない。
けれどそれでも、龍馬は以蔵には見てほしいな、と思ってしまったのだ。
坂本龍馬という男が演じる『岡田以蔵』の最期を、見届けて欲しいと思った。
それは龍馬の我儘だ。
我儘と知った上で、口にした。
聞き届けてくれるかどうかは以蔵任せではあるけれど、そうした我儘を言えるだけの信頼関係はあると思ったから、言ったのだ。
実際以蔵は、龍馬のその我儘を責めはしなかった。
別段怒りもしなければ、嘆きもしなかった。
ただ少しだけ考えるような顔をして、考えておいてやる、なんて答えに留めた。
だから、だろうか。
今ここに以蔵がいないことが、少しだけ寂しい。
「坂本さん、準備良いですか?」
「うん、良いよ」
スタッフからかけられた声に、龍馬はよいせと羽織っていたジャンバーを脱いだ。
その下から現れるのは、ボロボロに草臥れた単衣だ。
これから、『岡田以蔵』は河原にて処刑される。
先日と同じように、スタッフがやってきて手際よく龍馬を後ろ手に縛りあげていった。
ちらりと見た先では、『岡田以蔵』が裸足で歩かされることになる河原に危ないものがないかどうか、スタッフたちが目を皿のようにして最終チェックを行っているところだった。なんだかそんな光景に、小さな笑みが口元に浮かんでしまう。
「坂本さん?」
「や、皆優しいなあと思っちゃって」
「当たり前ですよ、坂本さんに怪我させるわけにはいかないですもん」
「ありがとうね」
そのスタッフも、何度も龍馬に縛られた腕が痛まないかと確認してくれる。
大丈夫だよ、と答えながらもやわりと龍馬は目を伏せる。
その優しさは、かつての以蔵には向けられなかったものだ。
そう思うと、こんな光景を以蔵に見せずに済んだのは良かったのかもしれないとも思った。
「撮影入りまあす!」
大きな声が河原に響く。
がやがやと移動する大勢の人々は、『岡田以蔵』の処刑を見に来た野次馬という設定のエキストラたちだ。
首切り役人役の男が龍馬の背後に付く。
「よろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
小声で挨拶を交わし合う。
これから処刑される男と、処刑する男の間に交わされるにしては随分とのんびりとしたやり取りだ。
カウントダウンが響いて、〆のようにカチンコが高らかに響く。
そのとたんに、背後にいた男の気配ががらりと変わった。
親しみやすい柔和さがごそりと削がれる。
荒々しく背を小突かれて、龍馬もまた満身創痍の『岡田以蔵』としてよたよたと河原を歩き始めた。
ここに至るまでに、『岡田以蔵』の足はすっかり駄目にされている。
あんなにも自由に地を駆け、鋭い踏み込みを可能とした『岡田以蔵』の足は今や骨を砕かれ、歩くのもやっとという態だ。否、本来ならば歩くことすら儘ならないほどに壊されてしまっている。
だから何度も転ぶ。
激痛に呻きながら転がる『岡田以蔵』を役人が無理やり引き起こし、引きずり、小突いて死地へと誘っていく。
周囲には野次馬役のエキストラたちが人垣を作っている。
恐ろしい人斬りがようやく死を迎えるのだと、口々に囁き合う。
まるで化け物が退治されるのを見届けようとするかのような嫌悪と恐怖、そして少しの憐憫の滲んだ眼差しが『岡田以蔵』に注がれる。
実際の以蔵も、こんな風に最期を迎えたのかと思えば、演技だけではない涙がぼたぼたと河原の石に落ちていった。
荒々しく突き飛ばされて、『岡田以蔵』は申し訳程度に敷かれた莚の上に膝をついた。
ここが、『岡田以蔵』の終着点だ。
後ろ手に縛りあげられているため、自然と前屈みの、首を差し出すような体勢になる。
後はもう、役人が首を斬り落とすのを待つだけだ。
ああ、そうだ。
龍馬は、ゆっくりと首を持ち上げる。
無理な姿勢にぎちりと肩が痛んだが、気にならなかった。
きっと、以蔵は最期に空を見た。
高く、澄んだ空を見た。
それはそうであってほしいという龍馬の願いだったのかもしれない。
薄汚れた莚が、以蔵の見た最期のものであってほしくはないという願望だったのかもしれない。
ざりと莚を踏みしめて、役人が龍馬の横に立つ。
いよいよ最後の時が近い。
死の恐怖にひぐひぐと子どものように泣きながら、それでも龍馬は『岡田以蔵』として意地のように顔をあげて空を見続けた。
そして、ひゅ、と。
刀を振り下ろす音がして。
カメラに映らぬ位置でタイミングを計っていたスタッフの合図に合わせて、龍馬はどうと莚の上に崩れ落ちる。
当然実際には首を斬りおとすわけにはいかないので、このあたりの映像はCGで加工するなり、アングルで工夫するなりの処理が行われるのだろう。
その、最中のことだ。
龍馬がうっすらと目を閉ざして莚に崩れるその瞬間。
あるはずのないものを見た。
いるはずのない男の姿を見た。
エキストラの向こう、ドラマの撮影を見に来たのだと思われる本物の野次馬の中に見覚えのある白の長躯がいた。
「………ッ、」
撮影中だということも忘れてはくりと息を呑む。
倒れる途中でなければ、声をあげてしまっていたかもしれない。
そのままその男に視線を奪われたまま、龍馬は受け身すら取り損ねてわりとリアルに顔面から筵に突っ込んだ。
カット、の声と、「わわわわ大丈夫ですか坂本さん!」なんて声と共に助け起こされるのはほとんど同時だった。
けれど、龍馬としてはそれどころではない。
打ち付けた顔面の痛みも何のそのだ。
今、確かに。
人垣の向こうに、いたのだ。
白の海軍服を身に纏う長躯が。
スタッフが縄を切ってくれるのを待つのももどかしく、龍馬は慌てて身体を起こす。
先ほどその男がいた場所を見ても、そこにはもうきゃあきゃあと歓声を上げる野次馬たちがいるばかりだ。
見間違いだったのだろうか。
幻覚だったのだろうか。
それともまさか、今更レイシフトの可能性が?
「いやいやそれはない。ないでしょ。ないよ」
だって、龍馬は覚えていない。
結末こそおぼろげであるものの、レイシフトした先のいつかの未来で『岡田以蔵』を演じるもう一人の自分なんていうものを見たならば絶対に覚えているはずだ。
そんなもの、忘れるはずがない。
ではやはり幻覚だったのだろうか。
幻覚の類だと思うしかないのだが、あんなはっきりと見える幻覚があって良いものだろうか。
おたおたおろおろと龍馬が周囲を見渡していれば。
背後から、ふくくくくといかにも堪えきれなくなったというような笑い声が響いた。
ばッと振り返る。
そこには見覚えのある白の海軍服に身を包んだ男が立っていた。
どこまでも澄みわたった青空の下、あんまりに真っ白な男はうっすらと幻想的な光を纏っているかのようにすら見える。
白の中折れ帽を緩く傾け顔を隠してはいるものの、その声を龍馬は知っていた。
いやというほど、知っている。
震える声で名前を呼ぶより先に、すいと帽子を下げて男がにんまりと笑った。
月の色をした双眸が、悪戯の成功した子どものように細くなる。
「わしがセイバー、坂本龍馬じゃ!」
「以蔵さん!」
そう。
以蔵だ。
かつての英霊としての『坂本龍馬』の装束に身を包んだ岡田以蔵が、それはそれはドヤ顔で仁王立ちをキメていた。
駆け寄ろうとしたところで、わしっと白手套に包まれた手のひらでアイアンクロー気味にストップをかけられた。
「あいたッ!?」
「阿呆、今のおまんに寄られたら服が汚れゆうろ」
「いた、いたた、でも以蔵さん、その格好、」
「おまんが見たいち言っちょったんじゃろうが」
「言ったけど!」
確かに言った。
けれど、まさか本当に着てくれるとは夢にも思っていなかったのだ。
それだけじゃない。
その格好で、『岡田以蔵』が最期を迎える現場に来てくれるだなんて。
以蔵が、ぱ、と龍馬の顔から手を話す。
真っ白だった白手套は龍馬の顔を彩っていた血糊やら黒ずんだ泥やらですっかり汚れてしまっている。その汚れをちらりと見て、以蔵はむぅと眉間に皺をよせながらも口を開いた。
「坂本龍馬ち男がな」
「うん」
「夢を見ゆうシーンがあるんじゃ」
あった。
台本なら龍馬も読んでいる。
「日本を守る海軍を編成して、それを指揮する、らあてこじゃんとふとい夢じゃ」
「うん」
ふくく、と以蔵が笑う。
不敵な、それでいて悪戯な子どものような顔で笑う。
「夢ならどんな格好をしちょってもえいろう。やき、こん衣装を用意して貰ったがじゃ。どうじゃ。驚いたかえ」
「おどろいた。息がつまって、死ぬかと思った。今も、どんな顔をしたら良いのか正直わかってない」
とつとつと、龍馬は素直に白状する。
複雑な感情がごうごうと龍馬の胸の中で渦巻いていて、その正体が自分でもよくわからない。今、坂本龍馬という男は一体どんな顔をしているのだろう。鏡があったら見てみたいものだと、龍馬は他人事のように思う。
それぐらい、感情の整理が追いついていないのだ。
以蔵に頼まれた衣装スタッフは、よほど張り切って仕事をしたのだろう。
腰から腿にかけてのホルスターまでばっちり再現されている。
「……それ、中は青いシャツ着てるの?」
「もちろんじゃ。おまんの部屋からちょろまかした」
「それ、ぼくのなの」
「おん」
まさかの私物泥棒だった。
多少の体格差があるもので、ぴったりの適正サイズにはならないだろうがほんのワンシーンだけの登場だ。それに、上着を脱ぐシーンもないともなれば誰も何も言うまい。
ぐつぐつと胸の中で荒ぶる感情を抱えたまま、龍馬は、ねえ、と呼びかける。
なんじゃ、と以蔵が応えてくれたから、その問いを口にした。
「どうして、見にきてくれたの」
以蔵は、『岡田以蔵』が落ちぶれてからのシーンを決して見に来ようとはしなかった。
監督に龍馬の様子がおかしいと言われ、控室まで会いにきてくれたときだって、撮影の済んだ後を選んでやってきた。
家でも、以蔵は龍馬の撮影風景については何も言わなかった。
だから龍馬も、以蔵の前ではその話題には触れなかった。
昨夜見にきてくれないか、と言ったのが最初で最後だ。
けれど、きっと以蔵は龍馬が我儘を口にするより先にそうするつもりでいたのだろう。
そうでなければ、衣装の用意が間に合うはずもない。
「おまんの」
ふ、と以蔵の表情が和らぐ。
月の色をした双眸が、こんなにも柔らかくなるのかというほどの色合いを湛える。
「おまんの、代わりじゃ」
するりと伸ばされた以蔵の指先が、むい、と龍馬の鼻をつまむ。
それほど痛くはないけれど、条件反射のようにいひゃいと龍馬が言えば、以蔵は泣き出しそうにへにゃりと眉尻を下げて、それでもどこか思い残しを清算したかのような晴れやかな顔でにっかりと笑った。
「えいか」
「うん」
「坂本龍馬はな」
「うん」
「ちゃあんと岡田以蔵の最期を見届けた」
「うん。うん」
ぶわ、と嗚咽がせぐりあげて鼻の奥がツンと痛んだ。
ぼろぼろと龍馬の涙腺が決壊して涙が零れ落ちる。
ぐずぐずと鼻を啜って泣く龍馬を以蔵はフンと鼻を鳴らしつつも、そのみっともない泣き顔を隠せるようにと白の中折れ帽を貸してくれた。
「……後で、衣装さんに怒られるよ」
今の龍馬は、ドロドロに汚されている。
ダメージ加工済みだ。
そんな龍馬の頭に乗せられた帽子は、きっと取り返しがつかないほどに汚れてしまっただろう。
以蔵はまた、鼻で笑う。
「なんちゃあない」
そうかなあ、と思って、きっとそうだなあと思ったので龍馬も帽子の影で泣きながら笑って頷いた。
きっと、それぐらいは些細な問題だ。
かつて、坂本龍馬は岡田以蔵を助けることができなかった。
その死を見届けることすら出来なかった。
全て終わった後に知らされて、多大な未練をその胸に飼うことになった。
かつて、岡田以蔵は坂本龍馬を恨んで死んだ。
助けてくれなかった裏切りものだと八つ当たりにも似た逆恨みを抱いたまま死んだ。
その事実は決して覆すことのできないものだし、覆してはいけない歴史だ。
けれど、これはささやかなドラマであり、カメラにすら映らない場面外の出来事だ。
そこでぐらい、坂本龍馬が岡田以蔵の死を見届けた、なんていう例外があったって構わないはずだ。
かつて見届けられなかったことを悔やんだ男と。
見届けられなかったことを恨んだ男の。
これは二人にとって、ささやかな過去の弔いだった。
■ ■
その日の打ち上げは盛大なものになった。
以蔵と龍馬に衣装を汚されたスタッフはぷんすかして見せたものの、監督のとりなしですぐにその怒りは解けた。
それだけ、以蔵の不意打ちは良いものを生んだのだ。
坂本龍馬演じる『岡田以蔵』は最期の瞬間。
諦めたように目を閉じかけたそこで、信じられぬ誰かに再会したように、驚いたように目を瞠り、少しだけその口の端に笑みを浮かべたのだ。
哀れな一生を終えた人斬りが、今わの際の幻影で誰に再会したのかは視聴者の想像に委ねられることになる。
皆が口々に龍馬の名演を褒め讃えた。
次々と酒を注がれ、杯を重ねていけばいくら酒豪といえど酔いも回るというものだ。
貸し切った居酒屋の片隅で勧められるままに杯を空けまくった龍馬と以蔵は、もはやべろべろと言っても過言ではなかった。
そろそろ切り上げる人は切り上げ、打ち上げ会場となった居酒屋の中にも人の数は随分と減ってきている。
そんな中で、立派な酔いどれと化した龍馬がべそりと泣き上戸で以蔵に絡んだ。
「りょうまあ」
「なんじゃあ」
龍馬が呼んだ相手は以蔵であって決して坂本龍馬ではないわけなのだが、以蔵も以蔵で随分と気持ちよく出来上がっていたのでナチュラルに返事を返す。
「どいて、きてくれざったんじゃあ」
龍馬のへろへろとした恨み言に、以蔵がぶふりと酒を噴く。
今宵のお前がそれを言うか大賞が決定した瞬間だった。
げほげほ、と気管に入った酒に噎せながら、以蔵は口元を拭う。
龍馬はといえば、わざとらしくすんすんと鼻を鳴らして可哀想あぴーるをしている。
「坂本龍馬はしょうまっこと酷い男ちや……」
「ほうな……」
「そこは否定してよ」
「唐突に戻るなや」
役に入りきれ役に、と文句を言う以蔵に、龍馬がふにゃふにゃと笑う。
それがおかしくて、以蔵もへらへらと笑った。
今日も酒が美味い。
噴き散らかしてしまった分を補うように、ぐいと以蔵は日本酒のグラスを空ける。
かッと喉を焼く強い酒精に満足げにほうと息を吐いたところで、以蔵の脳髄に何かひらめきの雷撃のようなものがピシャーンと落ちた。
ひらめいた。
ひらめいてしまった。
ことりと手にしていたグラスをテーブルに置く。
なんだなんだ、という顔をした龍馬に向けて、以蔵は精一杯のキメ顔を作った。
たぶんこんな角度だっただろう、というキメ角度をとる。
そしてキメ声で、厳かに言った。
「ごめんね、以蔵さん……」
ぶぴッ。
今度は龍馬が盛大に酒を噴いた。
よほど恥ずかしかったのか、普段は以蔵にどつかれる専門の龍馬の振り回した平手が以蔵の背中を襲う。
ばっちぃぃぃぃんッ、と酷く良い音がした。
酔っ払いの遠慮のなさでどつかれて、前のめりにつんのめった以蔵はごん、と額をテーブルにぶつける。
わりと大惨事だ。
もちろん以蔵も黙っているわけもない。
「痛いわばあたれ!!!!」
「以蔵さんはわしんこと斬ったろうが!! あいこじゃ!!」
「あいこになってたまるか!!」
ぎゃあぎゃあと怒鳴りあう二人に、何事だという視線が居酒屋の店員たちから向けられるわけだが、もはやこの二人の奇行にはすっかり慣れっこになっているスタッフたちだ。
ほっとけほっとけ、との生暖かい空気に、店員たちもそれぞれの仕事に戻っていく。
実際へろへろとプロレスに移行した酔っ払い二人だったが、すでに泥酔の域に達していたこともあってその組み合いは抱き合っているんだか技をかけあっているのかわからない緩慢具合だ。のったんのったんとしばらく組み合い、やがてそれに飽きたのか二人仲良く肩を寄せ合ってへらへらと笑いあった。
「いぞおさあん!」
「なんじゃあ!」
「たのしいねえ!」
「おう!」
ふへへ、ひひひ、と緩い笑い声が重なり合う。
スタッフが最後に見送ったのは、上機嫌に肩を組み、楽し気に歌いながら帰る二人の背中だった。
