その空間は、しぃんと耳が痛くなるほどの静寂に満ちていた。
――ここは。
瞬きの合間に、世界が切り替わった。
真っ白なカルデアの廊下から、ひたすら黒に塗りつぶされた得体の知れない空間へと。
ぱちり、と龍馬はもう一度瞬く。
今度は何も変わらなかった。
変わらず龍馬は一人よくわからない空間に佇んでいる。
「――お竜さん」
呼びかけた声は闇に呑まれるように空しく響いた。
返事はない。
気配もない。
普段であればなんとなく、それでも確かに感じられるお竜との繋がりが、今は何も感じられない。龍馬とお竜を繋ぐ霊力のパスがぷつりと切られてしまったかのような感覚だ。
これはまずいな、と眉根を小さく寄せる。
龍馬とお竜は二人で一つの霊基を満たしている。
龍馬という英霊の霊基にお竜の力がプラスされているのでなく、二人で一つ、なのだ。
その半身が欠けるということはすなわち純粋に戦力を半減されているようなものだ。
周囲に何か危険はないかと龍馬は注意深く周囲を見渡す。
がらんと、ただただに暗い。
見渡す限り、何もない。
てらりと光を弾く黒の床は艶やかで、床の質感だけがこの空間の果てのない広がりを龍馬に教えてくれている。
差し迫った危険はとなさそうだと判断して、それから龍馬は思案気に双眸を伏せる。
どうして、こんなことになったのか。
あまりにも世界の切り替わりが急すぎて、前後の記憶が妙に暈けている。
確か。
確か今日は。
龍馬は一日レイシフトの予定もなく、カルデアの中でのんびりと過ごしていたはずだ。
ライブラリで資料をあさり、それに飽きたら同じように暇を持て余している他の英霊たちに話を聞きに行ったりなどしていた。
そんな穏やかで実りある休日を過ごしていて――嗚呼、そうだ。
以蔵だ。
夕刻を少しばかり過ぎた頃合い、慌ただしくレイシフト組が戻ってきたのだ。
いつもよりも少しばかりピリピリとした空気を伴った帰還に何事かと周囲にいた職員に話を聞けば、本日マスターと共にレイシフトに出向いていた以蔵が、戦闘で酷い怪我を負ったのだとか、なんとか。
そんな騒ぎを、耳にしたのだ。
最初は、それほど心配はしていなかった。
子どものように苦痛を嫌う癖に、龍馬の幼馴染はこれまた子どものように無茶や無理を通したがる。レイシフト先での負傷も、そう珍しいことではない。
ただ、酷い怪我、と強調されたことが少し気になった。
カルデアに戻ってきたからには、カルデアから供給される魔力によって自己回復能力も促進される。カルデアへの帰還が叶っているのなら、それほど心配するようなことではないとわかってはいても、それでも気がかりで少し様子を見に行こうと思った。
そうだ。
様子を見に行こうと思ったのだ。
まず、龍馬は以蔵の部屋を訪ねた。
部屋は蛻の殻だった。
それならばとメディカルルームを訪ねてみた。
そこにも以蔵はいなかった。
食堂も訪れてみた。
そこにも以蔵はいなかった。
じんわりと、そこはかとない不安が腹の底によぎったのはそんなタイミングだった。
生前、龍馬は知らぬうちに一度以蔵を喪っている。
龍馬が何も知らないでいる間に以蔵は投獄され、拷問され、首を落とされた。
なんとなくそんなことを思い出して、ますます腹の底にたまる不安がどろりと粘度を増したようだった。
「お竜さん」
呼ぶ。
お竜であるのなら、この広いカルデアで以蔵を見つけるのもたやすいだろう。
そう思って助けを求めた龍馬の相棒は、いつものように「どうしてお竜さんがあのクソ雑魚ナメクジを探さなければいけないんだ!」と拗ねて見せるようなことはなかった。
見上げたお竜の横顔は、いつも以上にひやりとした空気を纏っていた。
このうつくしいひとは人間ではないのだ、と思い出させるような顔、と言えばいいのか。
ひととは違う理によって形作られる表情が、さらりと淡泊に告げたのだ。
「嗚呼、―――捕まったな」
なんて。
そして、「それはどういう、」と聞き返そうとした前に挟んだぱちりの瞬きで龍馬の世界は綺麗にくるりと反転した。
真っ白なカルデアの廊下から、どこまでも果て無く広がる真っ暗な空間へと。
そこから冒頭に繋がるのだ。
黒に閉ざされた世界の中、佇む龍馬だけがこの空間における異物であるかのようにただただ白い。
と、そこへ。
「あら、お客さんやないの。なぁんにもあらへんところやけど、ゆっくりしていかはって」
ころりと、柔らかな笑いを含んだ京言葉が突如龍馬の背後から響いた。
はっとして振り返った瞬間、くらりと地面が揺れる。
世界が唐突に龍馬の足元でずるりと滑ったような。
世界が揺れたのか龍馬が揺れたのか、その差はこのひたすらに暗い世界ではどこまでも曖昧だ。
「っ、」
蹈鞴を踏みそうになった足を踏ん張って、声のした方向を見据えたときにはもう様子は一転していた。
先ほどまで誰も、何もいなかったはずのその空間には二人の人間が表れていた。
否、人間といったら語弊がある。
龍馬たちはサーヴァントであり、人間ではない―――という意味ではなく。
たった今龍馬に声をかけた童女は正真正銘に人ではないのだ。
―――鬼。
童女のような柔らかで滑らかな肢体を煽情的な装束に包み、その上からふわりとしどけなく紫の着物を羽織った彼女の名前は酒呑童子。
日本でも有数の名のある鬼の一人だ。
そして、ぺたりと床に座った彼女の膝に頭を預けて眠っているような男こそが、先ほどからずっと龍馬が探していた岡田以蔵その人だった。
その二人の背を囲うように、ここが宴席であったのならば屏風でも並ぶのだろうという位置にはどういう仕組みか背丈の低い深い緑の木々がぽつりぽつりと枝葉を茂らせている。
「以蔵さん!」
「うふふふ、よぉく眠ってるさかい、起こしたら可哀そうや」
しい、と淡く色づいた唇に指をあてて見せる仕草までが艶めかしい。
童女のような清廉さと、酸いも甘いも噛み分けた遊女が如き婀娜が同居する不可思議な仕草だ。口元から降りた指先が、膝上でくうくうと身体を丸めて寝息をたてる以蔵の頬をするりと撫でる。
意識がないからなのか、普段よりも険の抜けた以蔵の寝顔は龍馬が不安になるほどに幼く、無防備で、それに対してその頭を膝に抱く鬼はどうにも不穏すぎた。
悦と興を好み、娯楽のためになら身を滅ぼすことすら厭わない。
それが龍馬の目の前にいる酒呑童子という鬼だ。
「うふふ、可愛いやろ? よう酔いがまわって気持ちよさそうに眠ってはる」
華奢で小さな子どもの指先が、女の仕草で以蔵の頬を撫でる。
それを見ながら、龍馬は内心不味いな、と冷静に考える。
相手はカルデアでもトップクラスのアサシンだ。
龍馬とは元より大変相性が悪い。
宝具でもあり、半身でもあるお竜と引き離されているともなればなおさらだ。
強引な手段では以蔵を彼女から引き離すことは難しいだろう。
「人斬りの旦那はんねえ」
ぽつりと酒呑が口を開く。
「今日のレイシフトで、うちを庇って大怪我したんよ」
「……ああ、騒ぎになっているのを聞いたよ」
「なんですのん、ほら、いるやろ、あのけったいな獣。獅子なんだか蛇なんだかようわからんの。あれにね、腕をほとんど食い千切られて」
「―――」
龍馬は視線を眠る以蔵へと下す。
たっぷりとした着物の袖の下に、腕らしき形が緩く浮かぶのにひそりと安堵の息を吐いた。
「それで、お礼に酒を? 以蔵さん、喜んだでしょう。お酒、好きだから」
「うふふふ、うちは鬼やけど、そこまで恩知らずやないわあ」
イケメンが相手ならいくらだって御馳走したいぐらいやもの、なんてころころと鈴を転がすような可憐な声音で鬼が笑う。嗤う。
「お礼にね、旦那はんを楽ぅにしてあげよおもて」
「楽、に」
それはいったいどういう意味なのかと龍馬が問うよりも先に、酒呑は引き寄せられるように以蔵へと顔を寄せた。
切れ上がった紅を目尻に乗せた薄墨色の双眸が、とろりと潤む。
「ほんま、ええ香りやわ。こんなの、そそられたって仕方ないと思わへん? 血ィと泥練りたくったような外道の匂いがぷんぷんしはるんやもの」
すん、と小さく鼻を鳴らして、酒呑は愛しくてたまらないとでも言うように眠る以蔵の頬に柔らかそうな子どもめいた頬を摺り寄せる。
女児が大人の男を慕う無邪気な仕草であるのに、それが龍馬には目の前で何か取り返しのつかないことが起きようとしているように見えて肝が冷える。
ぞわぞわと、背筋を冷たい悪寒が這い上がる。
「こんおひとはなあ、きっと鬼にもなれたと思うんよ。ここにな、立派な角をはやして」
すり、と華奢な指先が以蔵の額に触れる。
「人を斬って、斬って、斬って、ついでに人の五徳やら八徳やらも斬り捨てて、血と臓物と苦痛と慟哭を振りまいて欲しいものはぜぇんぶ手に入れて。首落とされても落ちた首で嗤って人を喰らうぐらいできたと思うんよ」
すりりと愛撫のように額を滑り落ちた指先が、以蔵の頸筋に落ちる。
襟巻をずりと引き下げて、露わになるのは男らしい喉仏のとがりの浮いた頸と、それをぐるりと一周巡る薄赤の線だ。
それを、桜貝を乗せたようなかわいらしい爪がかりと引っ掻く。
「なのに、どうしてやろね。こんおひとは外道の癖に悪辣に溺れきれずに苦しんではる。沈みきってしまえば楽やのにね?」
すい、と。
淡く紫がかったようにも見える酒呑の薄墨の双眸が龍馬を見た。
どこか悪意の覗く、強いいろが龍馬を見据える。
童女の姿をした鬼から向けられる圧に負けたように、ちきりと鯉口が鳴る。
その音に、初めて龍馬は自らが無意識のうちに腰の得物に手を伸ばしていたことに気づいた。
「ふふ。怖がらしてしもた? 乱暴はいけへんよ。こどもが怯えてしまうさかい」
「――こ、ども?」
彼女自身のことだろうか。
からからに乾いた声で、龍馬はかろうじて聞き返す。
ゆたりと鬼が笑う。嗤う。
「りょぉま」
か細く、小さく、呼ぶ声が横合いから響いた。
はじかれたようにそちらに顔を向ければ、見覚えのある子どもが背丈より幾分か高い木の影に隠れるように立っていた。
棒切れのように細い手足。
擦り切れて色の変わった着物。
日に焼けた健康的な肌に、まろい月色の双眸。
以蔵だ。
在りし日の、土佐で駆けまわっていたころの、幼い以蔵だ。
年の頃は5、6歳といったところだろうか。
小さく息を呑んで、龍馬は酒呑を振り返る。
そこには酒呑がにんまりと笑みを唇に浮かべて龍馬を見ているだけだ。
その膝で昏々と眠っていたはずの男は、嘘のように消え失せていた。
ということは、あの木陰に立つ子どもは、以蔵なのか。
本物の、以蔵なのか。
「以蔵、さん……?」
「りょぉまぁ」
子どもは、はらはらと泣いている。
ぼたぼたと涙を零して、それを拭いもせずに泣いている。
龍馬の記憶の中の以蔵は、こんな風に泣く子どもではなかった。
日ごろ龍馬のことを泣きみそ、と呼んでからかう以蔵は、基本的には泣かない子どもだった。
目に涙を浮かべることはあっても、悔し気にぎゅっと唇を引き絞り、涙を零すところを人に見せることを恥じる意地っ張りだった。
こんな風に絶望しきったような、諦念を滲ませた昏い眼で、はらはらと涙を零して泣くような子どもではなかった。
「りょまがな」
舌足らずな声が言う。
それを、少しだけ懐かしいと思った。
りょぉま、と甘えたような呼びかけとは別に、以蔵は誰かに龍馬の話をしようとするとき、龍馬のいないところでは「りょま」と音を短くして呼んでいたものだ。
龍馬本人のいるところではなかなか聞くことの出来なかったその音の連なりも、龍馬にとっては好ましいものだった。
大体において、誰かに龍馬の話をするときの以蔵は、どこか誇らし気に胸をはり、にこにこと笑っていてくれたから。
「りょまが、わしをおいていきゆう」
「ッ」
「わしが、ばかだからじゃ。わしはかしこくないき、りょまのやくにたてんがじゃ。だから、りょまはわしをおいていきゆう」
「以蔵さん、違う」
違うのだ。
そんな理由ではなかった。
龍馬が以蔵をおいて土佐を出たのはそんな理由ではなかった。
以蔵に非があったのではない。
龍馬が、連れていけなかったのだ。
剣の腕で名を上げることを目指す幼馴染を。
苦労して郷士の立場を買った以蔵の父親を見てきたからだ。
藩を出てしまえば、これまでに培ったものを擲つことになる。
ましてや、以蔵は岡田家の長男だ。
剣の腕の立つ長男にかける父親の期待がわかってしまっただけに、そんな以蔵を龍馬は土佐から引き離すことが出来なかった。
以蔵の人生を引き受ける覚悟がなかった。
龍馬自身、自分がどこに向かい、どこにたどり着くかもわからない旅路だった。
そんな危ういものに、大事な幼馴染を引き込むことが龍馬には出来なかったのだ。
ただそれだけの話だ。
龍馬が以蔵を選ばなかったとか、そういう話ではないのだ。
「違う、違うんだよ、以蔵さん」
繰り返す。
それなのに、以蔵はただ静かにぼたぼたと涙を落として泣く。
以蔵の抱える劣等感の根を直視してしまったような気がして、腹の底で焦燥がぐつぐつと煮詰まる。
「りょぉまあ」
か細い声が泣く。
今すぐにでも抱き寄せて、あやして、泣き止ませてやりたいのに、足が動かない。
呆然と立ち尽くす龍馬の視線の先で、はらりと赤が零れた。
ぼろぼろと泣きじゃくる子どもの涙がいつの間にか赤い花弁に代わっていた。
はらはらと花が散る。
赤い花弁がひらひらと床に散る。
そして、零れ落ちるように幼い以蔵の形はざあざあと花の残骸となって崩れた。
黒く艶やかな床の上に、赤の花びらだけが残る。
「ああ、散ってしもうたねえ」
残念そうな声が言う。
まるで花見酒だ。
艶やかで淑やかな鬼の童女は大きな杯をくぅと飲み干して、はぁ、と満足げな吐息を零した。
「以蔵さんは、どこにいる」
「いややわあ、怖い顔して。ふふ。心配せえへんでも大丈夫やよ? ほら、そこにおるやあらへんの」
すいと視線で誘われて、龍馬はそちらに目を向ける。
また、世界が変わっていた。
周囲を囲うように植わる木々は変わらない。
だがそれらに赤い花がついていた。
椿だ。
赤々とした椿が。
「―――」
眩暈が、する。
椿が何を象徴しているのかなんて、嫋やかな鬼の悪意を疑わなくとも簡単にわかってしまう。
そんな明々と咲き誇る椿の木陰に、膝をついておいおいと泣く男がいた。
「りょうま」
「以蔵さん」
「どいて、おまんはわしに人を斬るなち言うがじゃ」
嗚呼。
名前を呼んだきり、何も言えなくなる。
「わしにはそれしかできんのじゃ。わしの出来る唯一のことをどうかとりあげんとぉせ」
おんおんと男は泣く。
膝をつき、首を差し出すようにして男は哭く。
ぼたぼたと落ちる涙が床に沈む。
癖のある黒髪の隙間から、赤く走る傷が見える。
そんなつもりはなかったのだとは言葉にならなかった。
違うんだ。
違うんだよ、以蔵さん。
龍馬たちの時代、すでに刀に物を言わせる時代は終わろうとしていた。
武力ではなく、言葉でもって未来を切り拓く時代が来はじめていた。
そんな最中、龍馬が焦がれたあのうつくしい剣筋でもって人を斬るのは、とても危ういことのように龍馬には思えて仕方なかったのだ。
龍馬自身、暴力が苦手だというのは当然ある。
力づくで物事を思い通りに運ぼうという短慮を厭う傾向はある。
だがそれは幼馴染を嫌う理由にも、否定する理由にもならない。
だけど。
だけど。
以蔵は、あの時あの言葉を、どのように受け止めたのか。
龍馬が下した決断を、置いていかれた土佐で彼はどのように受け止めたのか。
受けとめさせて、しまったのか。
「かわいそやね。ほんに、かわいそう」
歌うように呟いて、するりと鬼が立ち上がる。
根が生えたように動けずにいる龍馬を後目に、鬼は泣き崩れる以蔵の傍らへと歩みを寄せた。
「こんおひとは人を殺めるのが一等上手なのに、一等認めてほしいおひとに認めてもらえへんかったのやね」
薄墨の、愉悦を含んだ双眸がちらりと龍馬を流し見る。
「あんたはんも酷い男やねえ。この子のこと、こぉんなにしてもうて。一等やぁらかいところにこぉんな深い傷残して。ほんま、顔のええ男は悪い男ばかりやわ。旦那はんも旦那はんよ? 外道の癖に、こんなまっとうな男に焦がれてしもて。そんなの、苦しいだけやないの。まっとうになんかなれへんのに」
柔く、聞き分けのない子どもに言い聞かすような声音は随分と甘い。
どことなく、その言葉に実感がこもっているように聞き取れたのは龍馬の気のせいだろうか。
生粋の鬼のように見えるこの童女にも、陽に焦がれ、闇に生きる己が身をもどかしく思ったような過去があるのだろうか。
「人を殺す腕をかわれて。それしかあらへんからって必死に縋って、人を斬って、斬って、斬って、斬り殺して、それでもあんたはんの言葉が忘れられなくて、どうしようもなくなって、自分を見限って、蔑んで、苦しんで。いっそ、鬼になれたら楽やのにねえ。鬼にもなれん、人にもなれん。可哀想な子や。哀れやわあ」
細い指先が、しとりと以蔵に触れる。
誘われるように、地に伏せられていた以蔵の顔が持ち上がる。
くぅと反る喉のラインに、細い指が滑りいく。
「やめてくれ」
訴える声音は震えていた。
「以蔵さんを、返してくれ」
無邪気な童女のような顔で、鬼が笑う。嗤う。
柔い指先が、以蔵のまろい額を撫でる。
人としての柔らかな外殻を撫でる。
「ごめんねえ」
欠片も悪いなんて思ってもいないような声音で鬼が謝る。
「うちもね、恩知らずになるわけにはいかへんやんか。助けてもろたお礼はちゃぁんとしないといけへんもんね? だからね。うちが」
ぜぇんぶ、忘れさせてあげるさかい。
甘い声音が、囁いて。
龍馬の目の前で、鬼の指がさわさわと擽った以蔵の喉が、その頸に走る朱色の線から綺麗にぱっくりと裂けていった。
ぼろぼろと赤い花弁が零れ落ちる。
艶やかにしとりと濡れた花弁が、ざあざあざあざあと以蔵の中から零れていく。
そんな光景に「ぁ」と自分で驚いたように、以蔵が小さく声をあげるのが聞こえた。
惑うように揺れた月の色をした双眸が、龍馬を見る。
「」
「」
「」
はくはく、と唇が動いて、音にならない三つの音を刻んだ。
音は聞こえなかった。
それでも。
りょうま、と呼ぶ声を確かに聴いた。
「以蔵さん!!!」
ようやく金縛りがとけたように動き出せるようになった足で地を蹴り、以蔵の元へと駆け寄る。手を、伸ばす。喉から吹きこぼれる花弁をなんとか留めようと思った。
龍馬の白い手套に包まれた指先が以蔵に届くように見えたその瞬間、ぽろりと以蔵の頭は赤い花弁に砕けて散った。
さらさら、はらはら、黒々とした床に花が散る。
それと同時に、ぽとり、ぽとりと周囲で赤々と咲いていたはずの椿が一斉に、落ちた。
しぃんと辺りは静かだ。
荒く掠れた龍馬の吐息だけが、響く。
影のように囲う木々に、赤々と咲く花はもうない。
以蔵も、もういない。
床には、血溜りのように赤の花弁だけが散っている。
龍馬は、また間に合わなかった。
ぎゅ、と白手套に包まれた指先を強く握りしめる。
「あんたはんは、やりなおしたいとは思わへんの?」
誘うように、鬼が言う。
「あの可哀想な旦那はんを、救ってやるつもりはあらへんの?」
救いたいか。
そう問われたならば、救いたいと言い切れるだけの想いが龍馬にはある。
長らく、悔やんできたのだ。
以蔵を土佐に残してきたことを。
以蔵を助けることが出来なかったことを。
以蔵を独りで逝かせてしまったことを。
もう少しだけでも、寄り添ってやることが出来たのではないかと。
目を閉じれば、以蔵の背中が瞼に浮かぶ。
龍馬の手を引いて歩く以蔵の背だ。
「僕、は」
時折振り返って、月の色をした眼を猫のように細めて以蔵が笑う。
青空の下、ずっと一緒だと信じていられた頃の話だ。
野山を駆け回り、共に叱られ、笑いあった。
あの頃をもう一度取り戻せるのならば、何を差し出したって惜しくないなんて柄にもないことを思ってしまう。
そういうわけにはいかないのだということは誰よりも一番よくわかっているはずなのに、甘やかな誘惑が心を犯す。
この無垢な童女のような顔をした鬼の話に乗ったら、何が起きるのだろう。
やり直すことができるのだろうか。
もう一度、以蔵に手を引いてもらえるのだろうか。
りょうま、と懐こく笑う子どもと、肩を並べて笑い合えるのだろうか。
「―――ぁ」
ふと。
そんな以蔵の顔に、あの日、自らの頸をすっぱと斬りおとしてしまった以蔵の面影が重なった。
龍馬の手の中で、首だけの以蔵がざまあみろと得意げに笑った。
カルデアの廊下を龍馬の手を引きながら歩いた以蔵が、もうせんで、と半泣きで頼んだ龍馬をへっと笑い飛ばした。
龍馬ァアアアアと怒りを込めて呼ばれる音を思い出した。
何じゃおまんか、とそっけなくあしらう声音を。
それでいてたまに、「りょぉま」と昔のように甘えて見せる声を。
「嗚呼」
声が、零れる。
龍馬自身が驚いてしまうほどに、柔い、慈しみに満ちた声だった。
「僕は、以蔵さんが好きなんだ」
静かに、言う。
「こんな風に見せつけられなくたって、僕が以蔵さんをとんでもなく傷つけてしまったってことはちゃあんとよくわかってる。後悔も、たくさんしてる」
でもね、と言葉を続けながら。
龍馬は静かに膝を折った。
愛しげに伏せた黒は、床に広がる赤の花弁に注がれる。
その花の海に、龍馬はゆるりと白手套に包まれた手を差し入れた。
花弁の海に腕が沈む。
「僕は、以蔵さんが好きなんだ」
そう。
龍馬は以蔵がすきなのだ。
深い傷を心に遺しながらも、それでも必死に立つ以蔵が。
心の一等やわいところに傷を負いながらも、少なくともその傷を負わせた者の一人ではあるだろう龍馬のことをついぞ斬れずにいる以蔵が。
嫌いじゃ、と言いながらも隣にいることを許してくれる以蔵が。
ずぶずぶと、腕が沈む。
何もなかったことにはしたくないと思ってしまった。
なんて酷い身勝手なのか。
傷つけておきながら、その傷ごと好きだなんて。
「以蔵さん」
呼ぶ。
柔らかな声音で、強請るように呼ぶ。
龍馬が甘えると、年下の幼馴染は仕方ないなあ、というような呆れた顔をして、それでもどこか嬉し気にその瞳を煌めかせた。
だから、龍馬は以蔵に甘えるのが好きだ。
甘やかしてくれる以蔵が、嬉しそうにするから。
「帰ろう? わしと一緒に帰っとぉせ」
ふ、と。
指先にぬくい体温が霞めた。
剣だこのある、見なくとも誰のものなのかよくわかる手だ。
指先がするりと絡み合って、握り返される。
それを強く捕まえて、龍馬はずるりと以蔵の身体を椿の海から掬い上げた。
「驚いた」
鬼の眼が、まぁるく円を描く。
「ようけ蕩けてたと思ったのやけど……妬けるわあ」
「以蔵さんは、強いお人だからね」
以蔵の心には傷がある。
不器用な以蔵は傷を負いながら生きて、その傷が原因で命を落とした。
人は死ねばそこで終わりだ。
死んだ木々が花実をつけることはない。
二度めの生を歩むように見える英霊にしたって、それは変わらない。
所詮は影だ。
生前の人格と技量を宿した亡霊に過ぎない。
成長はなく、記録は記録されたままに残り続ける。
何も残さず、何も変わらず、ただ目的のために召び出されるのが英霊というものだ。
けれど、それでも。
カルデアに召ばれた以蔵は、日々変わり続けている。
彼を小馬鹿にせず、彼を彼として認め、必要としてくれるマスターのために剣の腕を振るい、同様に召ばれた古今東西の英雄たちと言葉を交わし、前に進み続けている。
龍馬に対してもそうだ。
以蔵の霊基に刻まれた龍馬への憎しみは、きっと消えることはないだろう。
いつまでも燻り続け、いつかは炎となり、以蔵を呑むのかもしれない。
その時こそ、龍馬は以蔵に斬られることになるのだろう。
だがそれは今ではない。
憎悪と友情は不可思議なバランスで成立し、喧々と怒鳴りながらも以蔵は龍馬に幼馴染の距離感を許してくれている。
あの遠い過去の河原で斬首され、死んだ男を救うことはできない。
最期の瞬間あの男が抱いた憎しみや悔恨をなかったことにはできない。
それでも、龍馬の腕の中には今、健やかな寝息をたてる以蔵がいる。
眠っているからなのか、布越しに伝わる体温はいつもよりもほんのりと高い。
温かだ。
胸に顔を寄せれば、きっと鼓動すら響くだろう。
例え仮初に過ぎずとも、以蔵は今龍馬とともにいる。
座に還ればすべては記録に代わり、座に刻まれた以蔵はきっと変わらずに龍馬を憎み続けるだろう。
このひと時はなんの意味も持たず、ただ記録として残されて終わるだけだろう。
何も変えられないし、何も変わらない。
それでも、今この瞬間胸を満たす幸福がある。
伝えたい気持ちがあり、交わす笑みがある。
死してなお、実る何かが確かにここにはあるのだ。
「……、」
するりと、眠る以蔵の頸に白手套に包まれた指を這わせる。
頸を綺麗に一巡する薄赤の線は、龍馬を斬ることを拒んだ以蔵が自らの頸を刎ね飛ばすなんていう暴挙でもって異界を終わらせた際に上書きされた傷痕だ。
それを、龍馬はうつくしいと思う。
痛々しくも、以蔵の気風の現れた思い切りの良い太刀筋だと思う。
まっこと見事なもんちや、と自賛した言葉に今ならば頷ける。
祈るように、頭を垂れてく、と反った頸の痕に恭しく唇を寄せた。
それから、鬼を見る。
「それじゃあ、僕たちはこれでお暇させてもらおうかな」
そうして、龍馬は以蔵を抱いて踵を返した。
■□■
はらり、ひらひら。
どこからともなく散る赤い花弁を眺めながら、黒く滑らかな床にぺたりと座った鬼が笑う。嗤う。
「やだわぁ、自分の方がよっぽど鬼みたいな眼ェして」
くつくつ、鈴を転がすような可憐な声が笑う。
そうして、杯を満たす極上の酒をくぅと空けた。
■□■
ふと瞬いたら、龍馬はカルデアの廊下にいた。
腕には、しっかりと以蔵を抱いたままだ。
「リョーマ?」
訝し気に傍らのお竜が肩越しに龍馬の名前を呼んだ。
「なんだ、取り返してきたのか。素早いな。マジックみたいだったぞ。お竜さんが瞬きしている合間の早業だ」
「あれま、そんなもんだった?」
「そうだぞ」
随分と長くあの黒と赤の世界で過ごしたような気がしていたが、お竜に言わせればほんの瞬きの合間、ということらしい。
何でもありだなあ、と苦く笑って、龍馬はよいせと以蔵の身体を抱きなおす。
「ナメクジは寝てるのか?」
「うーん……どうだろ。酔いつぶれてるのかも」
顔を寄せると、以蔵の身体からはほんのりと酒精が漂う。
以蔵が飲んだからなのか、それともあの鬼の酒に漬けこまれでもしていたのか。
どちらもあり得そうだ。
「そうだ、お竜さん。ちょっと頼まれてくれるかい?」
「いいぞ? なんだ?」
「食堂に行って適当なお酒を二升ばかり取ってきて欲しいんだけど」
「なんだなんだ、イゾーと宴会か?」
「まあ、うん。そんなところかな」
ふふ、と龍馬は小さく笑う。
大体二升ぐらい。
それが適量というものだ。
■□■
くわああああ、と大きな欠伸をして以蔵の意識は浮上した。
ぼりぼりと頭をかきながら身体を起こす。
カルデアで以蔵に用意された部屋だ。
レイシフト先で酷い怪我を負ったのは覚えている。
それでもやることはやって、顔色の悪いマスターに連れられてカルデアに戻ってきて。
カルデアから供給される魔力によって傷の補修が済んだところで、本日のレイシフトで一緒だった酒呑に声をかけられたのだ。
庇ってくれたお礼に一献、なんて誘われれば断る理由もない。
あの鬼のお姫様が用意する酒は、毎回舌が蕩け落ちるほどに美味だ。
勧められるままに杯を重ねて――…そして気付いたら今である。
自力で部屋に戻ってこれた、ということはそれほど酷くは酔ってなかった、ということだろうか、なんて考えつつ視線を巡らせ、以蔵は厭そうに眉を寄せた。
何故だか、隣に龍馬が転がっている。
ぐうぐうと幸せそうな寝息に腹が立つ。
白の上着を脱いだ青のシャツ姿だ。
床には、ほとんど中身の残っていない一升瓶が二本、転がっていた。
「……わしは何をしちゅうんじゃ……」
呻きつつ、微かに痛む頭に手を押し当てる。
おそらく。
おそらくだが。
酔いつぶれた以蔵を、龍馬が回収するか押し付けられるかなりしたのだろう。
そして龍馬は以蔵を部屋まで送り届け、どちらが言いだしたのか――おそらく高確率で自分が絡んだのだろうな、という予感はある――以蔵の部屋で二次会を決め込んだのだ。
今までにも何度かあったパターンだ。
少し休めば酒が抜けて楽になるのが常ではあるのだが、今日はすっかり飲みすぎてしまったらしい。
未だ頭が重く、考えが上手くまとまらない。
もとよりよろしくはない頭だというのに、思考がちりぢりと逃げていく。
これはもう考えても無駄だと開き直って、以蔵はばふりとベッドに再び背を預けた。
とはいえ、このまま幼馴染の男相手に添い寝をするというのもぞっとしない。
「おい、龍馬ァ、起きんか」
げしりと蹴る。
さっさと追い出してしまおうと思ったわけなのだが、寝起きの悪い幼馴染に起きる気配はない。もぞ、もぞもぞと身じろいで布団の中へと消えていく。
「起きろ言いゆうんが聞こえんのか」
げし、げしげしげしげし。
さらに蹴りを重ねる。
この人の好さそうな幼馴染がなんだかんだちゃっかり壁側を陣取っていることにも腹が立つ。もしや、先日似たようなことがあった折に無理くりベッドから蹴り落として追い返したことを根に持っているのだろうか。
「あやかしいことばかり学びよって……」
げしり。
蹴りを入れた足に力をいれて、そのまま壁に押し付ける。
「痛い、いぞーさん、わしん腰骨がぐりぐり言うちょるから!」
「言わせてんじゃ阿呆」
さすがに寝ていられなくなったのか、哀れっぽい悲鳴があがる。
それをフンと笑い飛ばしてなおもごりごりぐりぐり壁に押し付けてやっていたのだが、くわあ、と欠伸が込み上げてきて、急に何かどうでもよくなってきてしまった。
つかれた。ねむい。
「おまん、起きたら覚悟せえよ……」
だとか眠たげに脅しつけて、以蔵はくるりと龍馬に背を向ける。
「いぞーさん」
もぞもぞ、と隣で寝がえりを打つ気配がした。
間延びして、ふにゃふにゃとした声が以蔵を呼ぶ。
「何じゃ」
「ふへへ。いぞーさん」
「だから何じゃ」
「いぞーさん」
こつんと背中に何かぬくいものが押し当てられる。
どうやら龍馬が以蔵の背に額を押し当てているらしいと察して、引っぺがしてやろうとも思ったが、強く香った酒精にはあ、と息を吐いて諦めた。
酔っ払いには何を言っても無駄だ。
仕方ないので好きにさせておくことにする。
「いぞーさん」
「しわい、さっさと寝ぇ。わしは寝るぞ」
「はぁい」
返事だけは良い子だった。
上機嫌な酔っぱらいに、以蔵は顰め面で息を吐き、目を閉じた。
どうにもこうにも、背中がぬくくて仕方がなかった。
■□■
何か、恐ろしい夢を見た気がした。
泣きながら目を覚ますと、男の腕がゆるりと以蔵を抱き寄せる。
とん、とん、とん、と柔く寝かしつけるように背を叩かれる。
「わしがおるき、なぁんも怖いことなんかありゃーせん。安心して寝ぇ」
低く柔らかな声音が囁く。
うん、と頷く。
えいこじゃ、と頭を撫でられる。
それが心地よくて、以蔵はまたすぅと寝入る。
だというのに、また怖い夢を見る。
心臓がばくばくと高鳴り、指先が冷える。
痛くて、怖くて、恐ろしい夢だ。
いや、記憶だ。
以蔵の生涯にて起きた厭なこと、怖いこと、そのすべてを辿るような恐ろしい追憶だ。
震える背を、男の腕が優しく撫でる。
大丈夫やき、と何度も言い聞かせてくれる。
「えいこ、えいこじゃ。以蔵さんはほんまにえいこじゃき、わしは大好きぜよ」
そうかあ、と思う。
この男が好きだと言ってくれるのなら、自分の屑みたいな生涯も、わりかし捨てたものではなかったのかもしれないなあ、なんて思う。
すんすんと鼻を鳴らして、男の懐に顔を埋める。
犬猫のように懐いて、丸くなる。
それでもやっぱり、以蔵は厭な夢を見る。
怖い夢を見る。
おいていかんで、と泣いた。
おいていかんよ、と抱いてくれた。
背をとんとんとん、と柔いリズムであやされる。
朝までの間、何度も何度も、以蔵は泣いて目を覚まして、そのたびに男はまるで以蔵の夢路を守ろうとでも言うかのように傍にいて、抱きしめて、好きだと告げて、背を撫でて、以蔵が寝付くのを見守ってくれていた。
しあわせなゆめだなあ、と思った。
■□■
のしりと肩のあたりが重くて、以蔵は唸って目を覚ました。
何故だかよくわからないが、龍馬の腕が以蔵の肩に乗っている。
「………なんじゃあ」
寝起きの掠れた声で呟いて、ぺいとその腕をつまんで放り投げた。
なんだか、妙な夢を見たような気がしている。
悪い夢だったのか、良い夢だったのか、今となっては境界は曖昧だ。
あんなにも感情を強く揺さぶった夢も、朝になればその輪郭を朝日に溶かされあっという間にあやふやなものになってしまう。
ふわあ、とあくびをして、以蔵は寝乱れた髪を一度解いて、手櫛でざっくり整えて結びなおす。
それからゆっくりとベッドから抜け出して時計を見た。
朝の6時。
いつもなら5時頃には目を覚ます以蔵にしては、寝坊した方だ。
顔を洗い、身支度を整える。
その間、死んだように眠る龍馬は一切起きる気配を見せなかった。
サーヴァントになっても寝起きの悪さは改善されることはなかったらしい。
「おい、龍馬ァ、起きんか、朝じゃき」
ゆさゆさと肩を揺さぶって起こしにかかる。
このまま放置してしまいたい気もしたが、自分がいない間も自室に龍馬がいる、というのはなんとも落ち着かない。
別段見られて困るものがあるというわけでもないのだが。
「んああー」
間の抜けた声が響く。
ゆっさゆっさと、首が抜けそうな勢いで揺さぶって初めて龍馬の瞼がうっすらと持ち上がった。とろんとした黒の双眸が以蔵を見る。
「おはよぉ、いぞーさん」
「おはようさん、すっと支度せえ、朝餉じゃ」
「……、僕、まだ眠いちや」
「起きんか」
腕を捕まえて、ずりっと布団の中から引きずりだす。
上身がベッドからはみ出て、そのまま重力に負けてずろんと床に向かって垂れる。
なんだかちょっと寝起きで斬られた事件現場っぽくなってしまった。
こちらは寝る前に髪を解いたのか、長い黒髪がだらりと逆さに床に伸びているのがますますそれっぽい。
「しゃんしゃん起きぃ」
垂れた黒髪を捕まえて、ぐいと持ち上げる。
いたい、と哀れっぽく呻くのをフンと笑い飛ばす。
それでももぞもぞ身じろいで、その体勢でもなんとか寝直せないかと寝汚い模索を始めたもので、以蔵は結局龍馬を力づくでベッドから引きずりだすことになった。
べしんと床に落ちて、渋々と龍馬は身体を起こす。
乱れたシャツのボタンを、のたのたと止め始める。
器用そうに見える長く綺麗な指先は存外に不器用だ。
放っておくとどれだけ時間がかかるのかわからないので、以蔵は渋々と龍馬の身支度を手伝うことにする。
龍馬とベッドの間に身体を割り込ませ、ベッドに腰かけ男の黒髪を手に掬う。
「以蔵さん、結ってくれゆうがか」
「しゃーなきじゃ」
ざくざくと指で髪を梳き、さくっとまとめて髪紐を結ぶ。
手癖で、少しばかり位置が高くなってしまったがまあ誤差の範囲だろう。
その間に龍馬の身支度も済んだようだった。
「以蔵さん、わしん手套どこいったか知らん?」
「喰った」
「あー……食べちゃったかあ」
わけのわからない会話を交わす。
もちろん食べたわけもないので、おそらく以蔵の部屋のどこかに転がっているのだろう。が、それを探す手間を惜しんで、龍馬はさっさと魔力で新しい手套を編んでしまうことにしたらしい。
残された手套の方は、そのうち魔力に分解されて消えることだろう。
それがいつになるかは、わからないが。
「今日の朝餉は何かなあ」
「わしは魚がえい」
「あー……良いね」
そんな他愛のない言葉を交わしながら、二人並んで部屋を出る。
「以蔵さん」
「何じゃ」
「わしなあ」
「おん」
「以蔵さんのこと、好きちや」
―――えいこ、えいこじゃ。以蔵さんはほんまにえいこじゃき、わしは大好きぜよ。
柔く、言い聞かす声音がふと以蔵の脳裏に蘇る。
寄せては返す波の音のように穏やかな声音に籠る真心の響きを、思い出す。
自然、眉間に皺が寄り、口がへの字になった。
そうでもしないと、何かとんでもなく酷い顔をしてしまいそうだったのだから仕方がない。
「……………………」
「以蔵さん?」
「わしは嫌いじゃ」
へ、と小馬鹿にするように笑って、以蔵は半眼で龍馬を見やる。
「特に、小賢しい男はのう」
じろりと睨めつけてやれば、「ええと?」と龍馬は白々しくすっとぼけて見せた。
「なんのこと?」
「そういうところちや。大っ嫌いじゃ」
「えええええ……」
以蔵は知っているのだ。
土佐の男は、龍馬や以蔵も含めて飲兵衛が多い。
酒が強くてなんぼの土地柄だ。
若造を酔い潰したがる性質の悪い年長者も多かった。
挑まれれば真向から受けて酔い潰されることも多かった以蔵と違って、龍馬は潰れたふりが大層上手だった。べろべろに酔ったふりをして、上手く決定的な失敗はやらかさずにやり過ごすのだ。
数々の酒の失敗を積み重ねてきた以蔵とは大違いだ。
大変ずるい男である。
そんな龍馬の、酔ったふりができる限界量がおおよそ二升だ。
そこまでなら、この男は耐えられる。
この男が酔い潰れたふりまでして以蔵の部屋に居座った理由を、この男はきっと言うつもりはないのだろうな、と思うとまた腹が立った。
じい、と以蔵は龍馬を睨む。
「な、なに」
「きらいじゃ」
怯みがちに腰が引けてる龍馬にそうもう一度呟いて、以蔵は足を早めて食堂へと向かう。
それでも、待ってよ以蔵さん、と情けない声音が追いかけてきたならば、きっと少しばかり歩調を緩めて待ってやったりもするのだ。
■□■
食堂にて、朝餉を選ぼうとカウンターに並んでいた以蔵の傍に、小柄な影がすすすと寄り添った。
「おはよぉさん」
「おう、おはようさん」
惜しみなく白い柔肌を晒し、紫の着物の裾を靡かせるのは酒呑だ。
早朝の白々としたカルデアの空気に相応しくない、怠惰な夜の気配を濃く漂わせる鬼の童女。
「昨夜はたぁぷり甘やかしてもろた?」
「……………」
思わず以蔵は半眼になる。
もしやしなくとも、己は酒に何か仕込まれたのでは、と気付いた瞬間である。
「うちのこと助けてくれはったお礼、気に入ってもらえたならよろしいのやけど」
ふふ、と愉しげに笑う酒呑の口元に浮かぶのは酷く蠱惑的な笑みだ。
その癖、酒呑の以蔵を見る目にはまるで子どもを見守る母のように優しい慈愛が透けているものだから、以蔵は言いかけた文句を呑み込むことになる。
が、続いた言葉には閉口した。
「あんたはんも、大変な男に惚れてしもうて」
惚れた。
誰が。
誰に。
以蔵はますます半眼になる。
顰め面もいいところだ。
「惚れちょらん」
「ふぅん? そやったら惚れられてる、の間違いやろか」
「あやかしいこと言いなや」
心底呆れ果てた何言ってんだこいつ、的な顔をしている以蔵に対して、酒呑は愉しそうに喉を鳴らして笑う。
それから、以蔵に向かってするりと手を伸ばした。
何も言われずとも意図を察して、何じゃ、と以蔵は酒呑に合わせて身を屈める。
それを言わずともわからせる鬼の傲慢と取るか、年長者に甘える童女の無垢さととるかは見るものによって変わるだろう。
屈んだ以蔵に向かって伸ばされた柔く、小さな白い掌が慈しむようにくしゃくしゃと癖のある髪を撫でた。
ふわりと微かに鼻先をかすめたのは甘い花の香だ。
どこかで嗅いだことのあるような。
「あんたはんは鬼やなくてひとの仔なんやから」
柔く、嗜める声音が続く。
「うちなんか庇っても、ええことあらへん。自分の身、大切にしい。うちは鬼やからね。腕が千切れようが首が取れようが構わへんのよ」
そんなの酒の肴にしかならへんもの、ところころと笑う。
幼い少女の姿をした鬼が、出来の悪い年少者を嗜めるような声音で言って、以蔵の髪を柔らかに梳き梳かす。
「忘れたらあかんよ」
「……おん」
そうやって柔く、柔く、甘やかに言い聞かせられれば、生涯反抗期を地で行く以蔵にしても素直に頷かざるを得ない。
「ええこね」
くしゃりとまた髪をかき撫でられて、するりと酒呑の手が引いていく。
その、タイミングだった。
「以蔵さん!」
鋭く、慌てたような警戒の滲んだ龍馬の声が響いた。
常とは異なる張りつめた響きに、何事かとざわざわ周囲もざわめく。
早足に以蔵の元へとやってくる龍馬の顔色はあまりよろしくはないし、普段はへらりと気の抜けた表情ばかりが浮かぶその顔は真剣そのものだ。
それを見て、以蔵はまた半眼になった。
「お姫さん、おまん、あいつに何しちゅう」
あいつのあげな顔そうそう見んぞこんわることしい、とぼやく以蔵に、酒呑はどこまでも愉しそうににぃこりと笑った。
「あんたはんはようよう無茶をしはるから、首輪の一つや二つ、嵌めてもろた方がええんちゃうかと思って」
白い指先が、するりと以蔵の頸元を撫でる。
ぞわりと甘い悪寒が背筋を滑って、以蔵は一歩後ろに逃げる。
そんな姿に酒呑はどこまで本気かわからぬ声音で、そそるわあ、なんて甘ったるく囁いて、それから人混みを抜けてアッと言う間にやってきた龍馬から逃げるようにするりと身を引いた。
ひらひらと紫の着物の裾を靡かせて、うつくしい蝶のように去っていく。
龍馬を刺激した自覚は重々あるようだった。
それを見送ってから、一つ息を吐いて以蔵は身体を起こした。
どうやら過剰反応だったららしい、ということに自分で気づいたのか、以蔵に向かって気遣わし気な目をむけつつもどう言葉をかけたものかと結局立ち尽くしている幼馴染相手に以蔵は呆れを含んだ眼を向ける。
図体は随分と成長した。
今では維新の英雄などというご立派な肩書まで持っている。
それでも、坂本龍馬という男は以蔵にとってはいつまでも手のかかる年上の幼馴染なのだ。
「龍馬」
「ええと、はい」
叱られる、と反射的に首を竦めて見せた龍馬に、ふは、と思わず以蔵の口元が笑みに緩んだ。その、無邪気な子どものような、かつて共に野山を走り回っていた頃を彷彿とする笑みに、ハッとしたように、龍馬の双眸が丸くなる。
それから、泣き出しそうに目元が垂れて、細くなって、龍馬も笑った。
「龍馬、そこの醤油取っとおせ」
「以蔵さん、野菜も食わんと」
「要らんち」
死してなおも実った甘い果実の名を、さいわいと呼ぼう。
